2021/1/7, Thu.

 (……)私にとって化学は形の定まらない雲のような未来の潜在力、私の未来を黒い渦巻きになって覆い、炎のきらめきで裂け目をのぞかせるような雲、シナイ山を覆い隠したような雲だった。私はモーセのようにその雲から、私の律法を、自分自身や周囲や世界を律する秩序を待ち望んでいた。私は慎しみのない貪欲さで本を呑みこみ続けていたが、本には飽き飽きしていて、至高の真理に通ずる新たな鍵を探し求めていた。そうした鍵は存在するに違いなく、しかも私たちや世界をそこなう何か恐ろしい陰謀のために、学校からは決して得られないと私は信じこんでいた。学校で私は与えられる何トンもの概念を勤勉に消化してはいたが、私の血管は熱くならなかった。私は春にふくらむつぼみや、花崗岩の中にきらめく雲母や、自分自身の手を見て、心の中で叫んでいた。「これも理解してやる、みな分かってやる、だが彼らが望むのとは違ったやり方で。近道を見つけてやる、鍵を開ける道具を作ってやる、扉をこじ開けてやる」 私たちのまわりのものすべてが謎で、謎解きを迫ってくる時に、存在や認識についての論議を聞くのは、気疲れと嫌悪感を催させた。古びた木の机、窓ガラスや屋根の向こうに輝く太陽、六月の大気中をあてもなく飛んでゆく冠毛。そうだ、哲学者や世界中の軍隊が総がかりでも、この蚊さえ創造することができなかったのだ。いや、理解することさえできなかった。これこそ恥辱であり、嫌悪の的だった。他の道を探す必要があった。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『周期律――元素追想』(工作舎、一九九二年)、38~39; 「2 水素」)



  • 数日ぶりに正午前まで寝坊。八時間を費やした。年始の山場を越えたので、これで当分はどうにでもなる。しかし緊急事態宣言も発出されたようだし、オンライン授業も増えるかもしれない。オンラインは面倒臭いので以前のときはやらなかったし、今回もやりたくないのだけれど、さすがに受験が間近に迫っているとなるとやらないわけにもいかないだろう。それに社会は教える人がこちらともうひとりくらいしかいない。
  • 用を足してきてから瞑想。一一時五八分から一二時一九分まで二〇分。とにかく心身をしずかにしていく、それが瞑想である。今回はわりと無動にできた。呼吸の音も自分の耳にすら聞こえないほどのかすかさにしたし、からだにすこしの動きもなくて背が服にこすれる感触すらない時間もそこそこつくれた。難題なのは唾である。唾というか、こちらの場合は喉の奥に薄い痰みたいなものがけっこう湧くので、それをどうしても飲みこんでしまうし、飲みこまないわけにいかないのだけれど、そのときはやはりわりと大きな動きが生まれる。目を開けて二〇分しか経っていなかったのはやはりちょっと意外というか、体感だともうすこしいっていたような感じだ。だいたい二〇分座ればからだの感覚はかなりまとまるような具合の心身になってきている。
  • 上階へ。天麩羅と素麺の煮込み。新聞を読む。香港で民主派議員ら五三人が一斉に逮捕されたとの記事。昨日の夕刊でも見たが、そのときは五二人だった。民主派議員のリーダー的な人や、「雨傘運動」を提唱した香港大学の載なんとかという(元?)准教授がふくまれていると。蘋果日報をはじめとしてメディアにも捜査の手がおよんでいる。今回逮捕された人々にかんしては、昨年七月の予備選実施が問題視されたのではないかということ。そして彼らはおそらく次の立法会選挙には出馬を認められないだろうから、香港の議会から民主派は一掃され、親中派が覇権を握るということになるのだろう。
  • ジョージア州の上院選挙の報も。民主党が一議席取ったらしい。たしか牧師の、なんとかウィットマーという人だったと思う(Gretchen Whitmerとおなじ姓だと思った記憶がある)。もう一議席は未確定。州のなかでも地方にあたる町では共和党支持者の白人層が力を持ち、大都市アトランタでは黒人などの人々がけっこうな勢力を占めているようだ。アトランタは人口五〇万人のうち半分が、全部黒人だったか忘れたが、非白人だと書かれていたと思う。地方のほうのなんとかいう町(ドールストンみたいな名前だった気がする)の投票者の声を拾ったなかに、ドナルド・トランプは史上誰よりも多くの業績を成し遂げた大統領だ、と熱烈に称賛しているものがあり、その人はまた、自分が共和党に投票するのはこの国を社会主義国家にしようとする民主党の企みを防ぐためだ、みたいなことを言っていたのだけれど、アメリカにおけるこの社会主義アレルギーというのはいったいなんなのだろう。ひとつにはソ連との対峙の歴史から来ていることはまちがいないのだろうけれど、たとえばこの人がこう口にするときの「社会主義」がどういうものとして考えられ、イメージされ、とらえられているのかがこちらにはよくわからない。ソ連的独裁を想定しているのか? 個々人の自由、および経済的自由競争を制限し収奪する体制のことを言っているのだろうか。
  • ついでに思い出したのだけれど、昨日の新聞にもジョージア州の動向については伝えられていて、そこでも市井の人の声が多少載せられていたのだが、彼らの言うことを記述した文(かならずしも直接話法ではないが)の述語がだいたい「信じる」になっていたのだ。ドナルド・トランプが言っている不正選挙の主張を信じる、QAnon的陰謀論を信じる、「Q」が米軍幹部であるという説を信じる、したがって彼は民主党に大打撃をあたえる策略を計画しているはずである、とそういった調子だ。政治言論が、判断とか推測とか思考とかではなく、「信」の問題になっているのだ。で、それは、この人たちが積極的にこの「信」を選び取ったというよりは、既存の政治空間や枠組みがもうまったく信じられなくなったという、不信の裏返しとしての信であるわけだろう。不信と懐疑に追いやられて安定せずにさまよう主体の不安を癒やすよりどころとして、ドナルド・トランプとかQAnonとかが具合良く出現してきたのではないのか。だから熱狂するのではないか。既存の物事に対する懐疑は皆持っていて、それ自体は何も問題ないと思うのだけれど、懐疑を懐疑としてそのままにしておき、宙吊りの状態にとどまったままでいるというのは、やはり難しいことなのだろう。懐疑をなんらかの信に解消しなければ、確固たる足場を得てそれにすがらなければ、やはり人は生きづらい。他者から見れば、ドナルド・トランプやQAnon支持者における懐疑から信への解消の仕方はかなり反動的で、飛躍が相当大きいように見えるのだけれど、本人たちにしてみれば、不安定な空間の持続のなかでやっと見つけた安住的なよりどころなのではないか。もしそうだとすれば、それは主体の存在的アイデンティティと強固に結びついているものだから、彼らはそれに執着する。それを脅かそうとして批判や意見を向けてくる他者に対しては、熱烈に反発し、敵意をいだく。批判や意見が論理や言語として正論か否か、適切か否か、確実か否か、などは関係ない。自分の信が崩れることは自分自身のすくなくとも大きな部分が崩れることであり、それは主体の危機だから、彼らはなんとしてでもそれを防ごうとする。彼らの信を疑わしくするものはすべて敵であり、彼ら自身を削り取り収奪しようとする盗っ人である。だから彼らは、選挙が「盗まれている」と口にするのではないか。そして思うのだけれど、この先の世で現在の米国や世界の歴史的評価がどうなるか、もちろんわからないが、たとえばドナルド・トランプが大統領だった時期は、あれはまるで馬鹿げた一時的逸脱だった、気狂いじみた愚行だったという回顧的評価が確定的となったときに、彼らはいったいどうなるんだろうなと思う。そうなったとしても、みずからの信をかたく守りつづける人ももちろんいるだろう。しかしそこでもし、彼ら自身にとっても現在の信が疑わしくなり、あの頃の自分はおかしかったな、という風になったら、またそのとき世界的な規模でもって虚無が深まりはしないだろうかという気がする。
  • 食後は皿と風呂を洗って下階へ。コンピューターを用意し、歯を磨いてからここまで記述すると二時半。天気が良いので散歩に出たい気もあったが、それよりも音読などをしたい。あと日記作成。ただすでにからだが、とりわけ背の下部が疲れているので、やはり調身が最優先だ。
  • ベッドで休みながら翌日の授業の予習。(……)大学の英語過去問。BBCのStoriesの文章が使われていた。二〇二〇年度と二〇一九年度の途中まで確認すると、音読。三時四〇分から五時まで。「英語」を。今日はダンベルを持たず、手首や指を伸ばしたり、足首を持って後ろで引っ張り上げたり、首や後頭部を指圧したりしながら。五時を超えると食事の支度へ。米を磨ぎ(冷水で右手が痺れ、凍えて痛む)、タマネギ二個と鶏肉のササミのソテー。ものを切るというのも、いざ意識してやってみると難しいものだ。まず姿勢がつかめない。右利きなので、右足をちょっと後ろに引いたほうが包丁をまな板に対してまっすぐ置けるのだろうが、足を引くというより、半身みたいになって横から切るようなポーズになってしまう。包丁をものに切り入れるときも、まっすぐにうまく差しこめているとは思えない。ササミを切るときの感触はちょっと良かった。肉にやや粘り(ねばねばとした感じ、ではない)があって弾力的であり、やわらかく、特殊な餅を思わせる感じ。
  • 炒めると米が炊けるまで待たなければならなかったので、下階にもどって英文記事を読んだ。日記にメモしてあったエマニュエル・マクロン関連のもの。

Macron, France’s president since 2017, could be pitted against far-right politician Marine Le Pen at the polls in 2022.

He said foreign media did not understand the concept of “laïcité” – secularism, or the separation between church and state.

“There is a sort of misunderstanding about what the European model is, and the French model in particular,” Macron said. “American society used to be segregationist before it moved to a multiculturalist model, which is essentially about coexistence of different ethnicities and religions next to one another.”

Macron described the French model as “universalist, not multiculturalist”. He said: “In our society, I don’t care whether someone is Black, yellow or white, whether they are Catholic or Muslim. A person is first and foremost a citizen.”

At the start of October, Macron announced a series of measures to combat “radical Islamism”, including placing greater control over mosques and the requirement that imams are trained and certified in France. Some English-language newspapers have been critical of Macron.

On Thursday, Amnesty International criticized the president and his government, saying they had “doubled down on their perpetual smear campaign against French Muslims, and launched their own attack on freedom of expression”.

In a report, the charity pointed to the conviction in 2019 of two men who burned an effigy of Macron at a protest, and suggested Muslims did not enjoy the same freedoms as others in France.

“While the right to express opinion or views that may be perceived as offending religious beliefs is strenuously defended,” the report said, “Muslims’ freedoms of expression and religion usually receive scant attention in France under the disguise of Republican universalism.

More than 250 people have died in terror attacks in France since 2015, the most in any Western country. Mr. Macron, a centrist modernizer who has been a bulwark against Europe’s Trumpian right-wing populism, said the English-language — and particularly, American — media were imposing their own values on a different society.

In particular, he argued that the foreign media failed to understand “laïcité,” which translates as “secularism” — an active separation of church and state dating back to the early 20th century, when the state wrested control of the school system from the Catholic Church. The subject has become an increasing focus this year, with the approach of the 2022 election in which Mr. Macron appears likely to face the far-right leader Marine Le Pen. Mr. Macron didn’t initially campaign on changing the country’s approach to its Muslim minority, but in a major [speech](https://www.diplomatie.gouv.fr/en/coming-to-france/france-facts/secularism-and-religious-freedom-in-france-63815/article/fight-against-separatism-the-republic-in-action-speech-by-emmanuel-macron) in early October denouncing “Islamist separatism,” he promised action against everything from the foreign training of imams to “imposing menus that accommodate religious restrictions in cafeterias.” He also [called](https://www.nytimes.com/2020/11/09/world/europe/france-austria-terrorist-attacks-marcon-kurz.html) for remaking the religion itself into “an Islam of the Enlightenment.” His tough-talking interior minister, meanwhile, [is using](https://www.nytimes.com/2020/09/04/world/europe/france-ensauvagement-far-right-racism.html) the inflammatory language of the far right.

     *

Some French grievances with the U.S. media are familiar from the U.S. culture wars — complaints about short-lived headlines and glib tweets by journalists. But their larger claim is that, after the attacks, English and American outlets immediately focused on failures in France’s policy toward Muslims rather than on the global terror threat. Mr. Macron was particularly enraged by a Financial Times opinion article on Nov. 3, “Macron’s war on Islamic separatism only divides France further,” which argued that he was alienating a Muslim majority that also hates terrorism. The article said he was attacking “Islamic separatism” when, in fact, he had used the word “Islamist.” Mr. Macron’s critics say he conflates religious observance and extremism, and the high-profile misquote — of his attempt to distinguish between the religion of Islam and the ideology of Islamism — infuriated him.

“I hate being pictured with words which are not mine,” Mr. Macron told me, and after a wave of complaints from readers and an angry call from Mr. Macron’s office, The Financial Times took the article off the internet — something a spokeswoman, Kristina Eriksson, said she couldn’t recall the publication ever having done before. The next day, the newspaper published a [letter](https://www.ft.com/content/8e459097-4b9a-4e04-a344-4262488e7754) from Mr. Macron attacking the deleted article.

In late October, Politico Europe also deleted an op-ed article, “[The dangerous French religion of secularism](https://www.fr24news.com/a/2020/10/the-dangerous-french-religion-of-secularism-politico.html),” that it had solicited from a French sociologist. The piece set off a firestorm from critics who said the writer was blaming the victims of terrorism. But the hasty deletion prompted the author to [complain](https://orientxxi.info/magazine/le-debat-censure,4262) of “outright censorship.” Politico Europe’s editor in chief, Stephen Brown, said that the article’s timing after the attack was inappropriate, but that he had apologized to the author for taking it down without explanation. He didn’t cite any specific errors. It was also the first time, he said, that Politico had ever taken down an opinion article.

But French complaints go beyond those opinion articles and to careful journalism that questions government policy. A skeptical Washington Post [analysis](https://www.washingtonpost.com/outlook/macron-france-reform-islam-paty/2020/10/23/f1a0232c-148b-11eb-bc10-40b25382f1be_story.html) from its Paris correspondent, James McAuley, “Instead of fighting systemic racism, France wants to ‘reform Islam,’” drew heated objections for its raised eyebrow at the idea that “instead of addressing the alienation of French Muslims,” the French government “aims to influence the practice of a 1,400-year-old faith.” The New York Times [drew](https://www.nytimes.com/2020/11/09/world/europe/france-austria-terrorist-attacks-marcon-kurz.html?searchResultPosition=1) a contrast between Mr. Macron’s ideological response and the Austrian chancellor’s more “conciliatory” address after a terror attack, and [noted](https://www.nytimes.com/2020/11/06/world/europe/france-attacks-beheading-terrorism.html?searchResultPosition=3) that the isolated young men carrying out attacks don’t neatly fit into the government’s focus on extremist networks. In the Times opinion pages, an op-ed [asked](https://www.nytimes.com/2020/10/31/opinion/france-terrorism-muslims.html?searchResultPosition=4) bluntly, “Is France Fueling Muslim Terrorism by Trying to Prevent It?”

     *

As any observer of American politics knows, it can be hard to untangle theatrical outrage and Twitter screaming matches from real differences in values. Mr. Macron argues that there are big questions at the heart of the matter.

“There is a sort of misunderstanding about what the European model is, and the French model in particular,” he said. “American society used to be segregationist before it moved to a multiculturalist model, which is essentially about coexistence of different ethnicities and religions next to one another.”

“Our model is universalist, not multiculturalist,” he said, outlining France’s longstanding insistence that its citizens not be categorized by identity. “In our society, I don’t care whether someone is Black, yellow or white, whether they are Catholic or Muslim, a person is first and foremost a citizen.”

Some of the coverage Mr. Macron complains about reflects a genuine difference of values. The French roll their eyes at America’s demonstrative Christianity. And Mr. Macron’s talk of head scarves and menus, along with the interior minister’s [complaints](https://www.politico.eu/article/gerald-darmanin-france-complaint-religious-food-aisles-sparks-criticism/) about Halal food in supermarkets, clashes with the American emphasis on religious tolerance and the free expression protected by the First Amendment.

Such abstract ideological distinctions can seem distant from the everyday lives of France’s large ethnic minorities, who complain of police abuse, residential segregation and discrimination in the workplace. Mr. Macron’s October speech also acknowledged, unusually for a French leader, the role that the French government’s “ghettoization” of Muslims in the suburbs of Paris and other cities played in creating generations of alienated young Muslims. And some of the coverage that has most offended the French has simply reflected the views of Black and Muslim French people who don’t see the world the way French elites want them to.

Picking fights with American media is also an old sport in France, and it can be hard to know when talk of cultural differences is real and when it is intended to wave away uncomfortable realities. And reactionary French commentators have gone further than Mr. Macron in attacking the U.S. media, drawing energy from the American culture wars. A flame-throwing article in the French magazine [Marianne](https://www.marianne.net/societe/medias/apres-les-attentats-islamistes-en-france-la-presse-americaine-fait-le-proces-de-la-laicite) blasted U.S. coverage, with an adapted English version [in Tablet](https://www.tabletmag.com/sections/news/articles/caroline-fourest-liberalism-france) adding an American flourish by denouncing “simplistic woke morality plays.”

But the ideological gaps between French and American points of view can be deceptive. The French commentariat has also harped on the #metoo movement as an example of runaway American ideology. Pascal Bruckner, the well-known public intellectual, called the sexual abuse case against Roman Polanski “neo-feminist McCarthyism.” But perhaps the most prominent American journalism in France this year came from The Times’s Norimitsu Onishi, who [played](https://www.nytimes.com/2020/01/07/world/europe/france-pedophilia-gabriel-matzneff.html?searchResultPosition=29) a central role in forcing France to grapple with the well-known pedophilia of a famous writer, Gabriel Matzneff. A recent [profile](https://larevuedesmedias.ina.fr/bureau-new-york-times-paris-enquete-matzneff-attentat) in a French news site described Mr. Onishi and others as “kicking the anthill just by naming things” that had previously gone unspoken. Mr. Matzneff is now facing charges.

  • 夕食中のことは特に印象に残っていない。新聞を読んだと思うが、このとき読んだ米連邦議会での騒動については、今日(一月八日)の日記にすでに記した。部屋にもどると上の記事を読み、ついでに下の記事も読んだ。ここで引いた部分に典型的な、「~だが」「~したが」をずっとつらねていくやり方というのは、こちら自身はやはりどうしてもやりづらく、避けてしまうところがある。金井美恵子という人は、この記事を読んでみても、たぶんこれは小説作品などよりよほど手を抜いてというか、力を抜いて楽に書いているのではないかと思うのだけれど、それでも特有の感じというのはちょっとある。小説にせよ、こういう時事的なエッセイの類にせよ、どういう風に書いているのかな、というのがちょっと気にはなる。たしかこの人は、推敲をして文章を減らして整えていくのではなく、むしろどんどん書き足して分量を増やしてしまう、ということを以前聞いたおぼえがあるのだけれど、やはりあまり切り詰めて固め、完全につくりあげていくという感じではないのだろうか。

 11月からの3月までの通院の間に、新型コロナウイルスの感染がこれ程の規模になるとは、もちろん想像もつかなかったのだが、11月から通院して2月の定期的なCT検査に行った時は、横浜港に停泊中の大型クルーズ船で乗客乗員の10人に感染が確認された後だったが、それから2週間もたたない24日には、政府の専門家会議が「これから一~二週間が拡大に進むか収束できるかの瀬戸際」という見解を発表し、28日には北海道知事が道民に週末の外出自粛を要請したのだが、2月にはタクシー運転手の屋形船での新年会で感染者が出たのも、テレビのワイド・ショーレベルでの話題の一つで、後、4月10日には、天皇・皇后に流行中の感染症について進講することになる「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議副座長を務める尾身茂・地域医療機能推進機構理事長」は、いかにも気の利かない、実直だからこそ表現力に欠けているのだと言わんばかりの拙い言葉づかいで、屋形船やライブハウスの、人々が密集した空間が感染を広める、と不器用な説明をし、現在の日本はどういう状況なのかという記者たちの質問に対して「ぎりぎり持ちこたえている状態」と答えたのだったが、昔から使われているこの病状の説明用語が、いったい、「持ちこたえている」の主体は誰というか何なのか、まったく訳がわからないのだ。
 現在ではどうか知らないが、昔、重症の病人について、そういう言い方をしていたし、「この山を持ちこたえてくれたら」といったような言い方を、60年以上前、実際にというわけではなく映画や芝居や小説の中で耳にしたことを思い出し、そこで医者と患者の家族たちとの間で取り沙汰されていた病気は、ガンとか心臓病とか生活習慣病とかではなく、感染症だったのかもしれないと思ったのだったが、後になって、ということは、3月28日、首相が記者会見で、水面下で実際は感染がもっと広がっているのではないかという質問に、そういうことはない、死者の数は多くないし、「現状の感染状況には「ぎりぎり持ちこたえている」と従来の見解を繰り返した。」(東京新聞4月3日)という記事を読んで、おそまきながら、爆発的な拡大にはなっていない、という意味だったのかと思ったのだが、「進講」を受けた「両陛下」が、現場で働く医療関係者へのねぎらいの言葉を繰り返し「国民が一丸とならなければならないのですね」と語ったと話す「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議副座長を務める尾身茂・地域医療機能推進機構理事長」と、その長い肩書きを念入りに、つい書いてみたくなる人物が言いたかった「ぎりぎり持ちこたえている」は、現場でウイルスと闘う医療関係者たちの状況だったのかもしれないと思いあたったが、むろん、メディアの記者たち(と読者と視聴者)が知りたかったのは、「ぎりぎり持ちこたえている」といった、少し前に使われた言い方で言えばエモい [・・・] 言い方ではなく、何がどうなっているのか、私たちはどうすればいいのかという明確な事実だろう。尾身茂は4月1日朝日新聞のインタビューに答えて「新型コロナウイルスが1年後に地球上から完全になくなっているとは考えにくい」と言い「いまできることは、みなが心を一つに、感染を広げない努力をすることだ」と語るのだが、私たちはいくらなんでも、「両陛下」のような素直さで「国民が一丸とならなければならないのですね」などと答えはしない。それに、上皇夫妻用語にも「国民が一丸となって」というナマな [・・・] 言い方はなかったはずだから、これは戦前の医者を連想させる尾身的用語なのかもしれない。

  • それから、八時前からまた音読。「記憶」。「英語」と「記憶」でだいたいそれぞれ一時間くらいできれば悪くないだろう。ただ、「記憶」は日本語の文が多く、なぜだかわからないのだが日本語の文を音読していると、「英語」よりもはやく飽きてしまう感じがあって、それでこのときも一時間まで至れず、三〇分ほどで切り上げることになった。英語にもっと馴染んで、もう音読して語彙を習得しなくても良いだろうというレベルにまで達することができれば、もっぱら「記憶」のみをガシガシ読んでいき、あるいはまたべつの言語の記事をつくって今度はそちらを身につけていくということになるだろう。
  • 今日「記憶」から読んだなかには、フィリップ・ソレルス『ステュディオ』中に引かれていたヘルダーリンの手紙の文言があって、ここははじめて読んだときからかなり好きである。『ヘルダーリン全集』はたしか河出から四巻のものが、けっこう古くて六〇年代か七〇年代くらいに出ていて、こちらはそれの四巻目、論文と書簡の巻を持っていて、下記の引用部にあたる箇所もこの全集には入っているのだけれど、以前覗いた際には『ステュディオ』内のこの訳のほうが全然良いと思った記憶がある。

 一七九九年七月に、ヘルダーリンは彼より二歳年下の妹ヘンリケにあてて書く、
 「それにしてもひとにはそれぞれそのひとなりの喜びがあるわけで、だれがいったいそれを完全に軽蔑することができるだろうか? ぼくの喜びは現在のところ晴天、明るい太陽それに緑の大地なんかだ……もしぼくがいつか灰色の髪の毛を持つ一人の子供になるとしても、きっと春と朝と夕暮れの光とは毎日、まだいくらかはぼくを若返らせてくれることだろう、ぼくがこれで最後なのだと感じ、自由な風にさらされてすわりに行く、そしてそこから立ち去って――永遠の若さへと向かうそのときまで!」
 (フィリップ・ソレルス/齋藤豊訳『ステュディオ』水声社(フィクションの楽しみ)、二〇〇九年(Philippe Sollers, "Studio", Gallimard, 1997)、252)

  • あと、岩田宏の「神田神保町」の冒頭と最終連を読んだのだが、「やさしい人はおしなべてうつむき/信じる人は魔法使のさびしい目つき」の二行にあらためてびっくりし、この二行はマジですごいなとビビった。入るタイミングも、そのあとで一人称「おれ」に転換するのも嵌まっている。「やさしい人はおしなべてうつむき」もかなり良いし、好きかどうかで言ったらこちらのほうが好きかもしれないが(一時期ブログのタイトルにもしていた)、しかしとりわけ「信じる人は魔法使のさびしい目つき」はマジですごい。完璧な語のつらなりだと思う。

 神保町の
 交差点のたそがれに
 頸までおぼれて
 二十五歳の若い失業者の
 目がおもむろに見えなくなる
 やさしい人はおしなべてうつむき
 信じる人は魔法使のさびしい目つき
 おれはこの街をこわしたいと思い
 こわれたのはあのひとの心だった
 あのひとのからだを抱きしめて
 この街を抱きしめたつもりだった
 五十二カ月昔なら
 あのひとは聖橋から一ツ橋まで
 巨大なからだを横たえていたのに
 頸のうしろで茶色のレコードが廻りだす
 あんなにのろく
 あんなに涙声
 知ってる ありゃあ死んだ女の声だ
 ふりむけば
 誰も見えやしねえんだ。
 (『岩田宏詩集』思潮社(現代詩文庫3)、一九六八年、24~25; 「神田神保町」)

  • その後入浴。入浴しながら短歌をいくつか作成。一番上のものは一月二日か三日くらいの朝につくって忘れていたものだし、二つ目のものも三日前くらいに大方できていたものだが。冬晴れ以降のものは風呂のなかでゼロからつくった。

 週末は狂気の歴史へ参入しダンスフロアで信仰を知る

 産道をもどって母の卵子まで届けにいくよ死者の啓示を

 冬晴れの空が奪ったあのひとのこころの音を見つけるために

 海鳴りのなかにまたたく去りびとの声を拾って風に流して

 雪原に遊ぶ動物おれもまた死後はああして色になりたい

 吐血した夜の手を刺す朝雪がしずけさの意味をおしえてくれる

 風だけが問いを知ってる不確かなものを絶滅させた世界で

  • 帰室して日記。五日と六日。零時まで。五日は終わって投稿した。疲労したのでベッドで休みつつ、授業の予習。「(……)」国語から古文を引用した文章の章、すなわち都立高校入試本番の大問五にあたるところを読んだのだけれど、どれもけっこう面白いというか悪くない文章が選ばれていて、けっこう良いじゃんと思った。出典をメモしておくと、尾崎左永子「古典いろは随想」、石毛直道「日本の食文化史――旧石器時代から現代まで」、高階秀爾田中優子山口昌男「橋と象徴」。尾崎左永子石毛直道田中優子は初見の名前。田中優子という人は法政大学の総長を二〇一四年からやっているらしい。「橋と象徴」の初出は、おそらく『日本の美学28 特集・橋 つなぐもの、わけるもの」(ぺりかん社、一九九八年)のようだ。インターネットで出てきたデータを見ると、ほかに寄稿者のなかに淺沼圭司の名がある。この人はたしかロラン・バルトニーチェを絡めた本を出していて、何年も前に買って以来ずっと積んであったはず。
  • なぜか疲労感が濃かった。それで予習の終盤では臥位のまま目を閉じてちょっと休んだ。本当はそこでもう眠ってしまうのが良いのだと思うが。しかしその後ふたたび六日の日記を記し、二時半に完成させて投稿してから消灯。すこしだけ柔軟をして、瞑想はできそうになかったのでそのまま就寝。
  • どこかでメルヴィルを読むべきだった。やはり読書の本線は毎日すすめていきたい。あとは書抜きもしなければまずいし、調身の時間を寝る前にしか取れなかったのもあまりよろしくはなかった。活動よりも心身を調えることを先にしたほうがたぶん良いのだと思う。ウェブ記事を読めたのと音読をできたのは良い。あとは音楽を聞くことと、(……)や(……)くんにメールも送りたいところ。