2021/1/26, Tue.

 彼は、自分自身のいかなる〈イメージ〉にも耐えられないし、名づけられることを苦痛に感じている。理想的な人間関係というのはイメージのないことだと彼は思っている。つまり、親しいあいだでは、たがいに〈形容詞〉をなくすことである。形容詞をもちいて語りあう関係は、イメージの側に、支配や死の側にあるのだ。
 (石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、47~48; 「形容詞(L'adjectif)」)



  • 九時前から何度か覚めていた。九時に鳴るよう仕掛けておいたアラームでより明確に覚醒。しかしなかなかからだを起こすことはできず、日光の助けも借りつつまぶたと闘いながらしばらくゴロゴロして、九時四〇分で起床した。一〇時半から(……)と通話することになっていたので、今日はこのように普段よりはやく眠りを離れたのだ。上階に行って食事。昨日のキムチ鍋みたいなスープに入れて煮込んだうどんを食す。新聞からは文化面の、芥川賞直木賞の選考について書いた記事を読んだ。それで知ったのだが、芥川賞は最初、宇佐美りん「推し、燃ゆ」と乗代雄介「旅する練習」が投票で残ったのだと言う。再度の投票で前者が「絶対的な差」で、だったか、島田雅彦が述べたという文言を忘れたが、ともかく「推し、燃ゆ」のほうが多くの支持を獲得して受賞に決まったらしい。一見するとポップというか軽い題材の作品だが、ファンの心理だか自意識だかを描く言葉が鮮やかで力のこもったものだった、みたいな感じの島田雅彦の評言も記されてあった。乗代雄介「旅する練習」のほうは、自由に移動することのできないコロナウイルス蔓延下で読むと、日常的な身のまわりの世界を真摯にながめたこの作品も、一種、癒やしというか救いを感じさせる瞬間があった、みたいな、正確な文言を忘れてしまったのでたぶん全然違うと思うのだが、そんなような評価が述べられていた。
  • 食事を終えると下階に帰り、Notionを準備。そうしているうちに一〇時半に達して(……)からZOOMのURLが送られてきたので、隣室に移動し、IDとパスワードを打ちこんで接続。そうして零時過ぎまで通話したが、このあいだのことはあとで書こう。話題は、小説のこと、検針の仕事のこと、塾の仕事のことなど。最後にギター。
  • 最初のほうに、最近はどんなものを読んでいるのかという問いがあったので、ポール・ド・マンなどという名前を出してもなあと思い、なんか小難しい、文学理論みたいなものといったんこたえたあとで、最近だと『白鯨』というのも読んだと言った。(……)は、『白鯨』の名を知っていた。子どもの頃に、映画を見たことがあるらしい。旧約聖書から人物名が取られているのだと言い、イシュメールとエイハブの名を出すと、(……)は、アブラハムかとこたえたが、しかしエイハブはエイハブでそのまま聖書内にいたはずだ。こちらはなぜか、その勘違いを訂正しなかった。どういう話なんだっけと訊かれて、おおまかに説明をした。まあ多少変な感じの小説で、最初はイシュメールっていう語り手がそのまま主人公で、海に行こうっつって捕鯨船に乗るんだけど、海に出てからは自分のことをほとんど語らなくなって、捕鯨船の仕事とか鯨についてとか、船員たちの様子とか、そういうことばっかりずーっと話してんのよ、で、物語の一番大きな枠組みとしては、エイハブが昔、脚を奪われた白鯨に復讐するっていうのがあって、最後はその白鯨と闘って、イシュメール以外は全員死ぬっていう、というような感じだ。全員死ぬの? イシュメールはどうやって生き残ったの? という疑問が続いたので、闘いのときには本船から小型ボートに乗り換えて鯨の近くまでいくわけだけど、それで鯨の攻撃を受けて船の外に弾き飛ばされちゃうのね、ほかのひとはボートにもどることができたんだけど、イシュメールだけはもどれなくて、それでずっと海面に浮かびながら闘いの一部始終を見てたっていう設定、と解説した。
  • 『白鯨』を離れて小説一般にも話は及び、日本だと梶井基次郎というひとが好きだと言った。ついでに、(……)さんっていたじゃん、と高校時代のクラスメイトの名を出し、彼女、大学で文学部にいて、梶井基次郎読んだっていつかの同窓会で言ってて、ちょっと話したおぼえがある、と些細なことを付け足しておいた。日本のそういう昔の作家はもうだいたい読んだって感じ? と訊かれたので、いや全然、なんかやっぱり海外のほうに行っちゃうし……まあ海外も大して読んでないけど、でも日本は全然だね、とこたえる。芥川とかも一冊も読んでないし……国語で「羅生門」読んだのが最後だわ、と。そこから思い出したのだったか忘れたが、(……)が、なんか、なんかの死体を見てどうのこうのみたいなのなかったっけ、と曖昧に想起したので、それは「城の崎にて」だなとこたえる。宿の家先で、蜂の死骸を見て、なんか、まあ、雑な言い方だけど、しみじみする、みたいなやつでしょ? と。あれは志賀直哉という人間の有名な作で、私小説のひとつの手本みたいなものとされているのだと註釈した。このときにはすでに、「私小説」というワードが出てきていて、手短な説明もしたあとだったのだ。
  • こちらの仕事とあちらの仕事の話でどちらが先だったかわからない。この朝の会話は、なぜかあまりこちらは口火を切る気にならず、だいたい(……)が質問をしてきてそれにこちらがこたえる構図だったのだが、彼がやっているガスおよび水道検針の仕事にかんしてはこちらから話題を振った。開始が何時と言っていたか忘れたが、慣れてきてはやくなれば三時くらいに終わると言う。何時までに終わらせなければならないということもない。ただ、一定期間中にこれだけの件数をやってくれというノルマはある。で、どれくらいもらえるのかと訊いてみると、計算方式は社外秘だというが、だいたい一件四〇円くらいになるという。それで一日、最初のうちだったら多くて一五〇件くらい。だから単純に計算して、六〇〇〇円ということだ。(……)などはもうわりと慣れているから、頑張って三〇〇件くらいやる日もあって、そうすると一二〇〇〇円。九時からと考えて午後三時までの六時間で一二〇〇〇円も稼げるのだったら、普通にわりが良いなと思った。ただ、上限は決まっているから、それだけで生きていくのは難しいだろうとのこと。そりゃそうだと思うが、それでもサブの収入としてやるのは普通にありのような気がした。何より、だいたい外を歩いているだけ済み、比較的単純で、ひとりの時間が多く、他人とあまり言語と意味と力を交わさなくて済みそうなのが良い。ときに文句をつけられたり、漏水を客に知らせ会社に報告したりと、面倒臭いときはあるようだが。あと、当然ながら雨の日などはなかなか大変だという。メーターも家によっては見つかりにくいし、雨が降ると調べにくい場所にあったりもするので、(……)は、雨の予報の日の前日にそういう家だけあらかじめ済ませてしまう、というテクニックも身につけているらしい。話している途中で(……)は、あ、やる? と誘ってきたが、いますぐではないにしてもいずれひとつの収入源にするのは良いかもしれない。ちょうどいま、人員を募集しているとか。ただ、メーターシステムなど今後なくなるのでは? という気もして、将来性があるのか怪しそうだが。
  • こちらの塾の仕事についても多少話した。人間教育的なことはやらないんだよねと問われたので、まあ仕事としては、受験に受からせるということに要約されるだろうとこたえた。だが、そういう、人格面の涵養というか、受験勉強以外の要素がすこしも生じないではないし、だいたい、受験勉強を教えるだけなんてつまらんでしょ、と続ける。と言って、何か立派な考えなどを伝達しようという気もないが、ただ、勉強だけを教えるにしても、生徒と個人的に仲良くなるというか、信頼関係みたいなものを多少はつくらなければ、やっぱりやりづらい。それに、小中高、つまり一〇代の子どもたちにとって、年上の人間からきちんと受け止められたか、あるいは受け止められなかったかというのは、そのくらいの年頃だとやっぱりけっこう大きいと思うんだよね、だからまあ、一応、ひとりひとりを個人としてきちんと受け止めるだけは受け止めるようにはしたい、と思ってはいる、単純に、クソみたいな人間の例にはなりたくない、模範ではないにしても、一例にはなるわけだから、と話してこちらは笑う。だからと言って立派な振る舞いをしているわけではないが、まあ些細なことだけど、ひとつひとつの身振りとかに多少気をつけてはいるよ、言い方とかさ、ここのページをやれって言うより、このページをやってくださいって言うほうが、まあいいでしょ? あと、ものを置くときに乱暴に置かないとかね、大きな音を立てないとか、そういうひとつのことでまあ印象違ってくるでしょ、と。ただこれは、こちら個人の性分によるところが大きいのだろうと思う。それでこのときは、こちらは昔はかなり気の弱い、臆病な子どもだったから、乱暴な振舞いをされたり粗雑な言葉をかけられたり大きな音を出されたりしたときは、たぶんかなりビビっていたと思う、それで自分ではそういうことをしたくないと思うようになったんではないか、と思いつきで適当なことを話したけれど、実際どうかわからない。そういった身振りや振舞い方に注意しはじめたのも、せいぜいここ数年のことだし。しかし志向としては昔から、そういうものは持ってはいたのだろう。そういう志向がだんだんと極まって、最近ではついに主体もしくは存在としての消失にユートピア的な安息幻想をいだくようになったわけだ。
  • 他者にとって自分が人間存在の一例となる、という意識や自覚は、あまり一般的にはいだかれないものなのだろうか?
  • 最後に(……)がギターで一曲弾いていいかと言うので了解した。たしか広島に布教関連の講演をしに行ったときに、瀬戸内の海に接してつくった曲だと言っていたが、けっこうのびのびとしており、歌詞はあまり聞き取れなかったけれど風景も入っていて、悪くなかった。それでこちらも、じゃあお返しにブルースをちょっとだけやるかということで、ケースにしまってあったアコギを取り出し、Aブルースをすこしだけ適当にやって、そうして通話は終了となった。
  • 一年前の日記からは、精神分析方面の考察が引かれており、以下はそのうちの一部。

われわれはわれわれに固有の「スタンプ」を言語化=対象化することによって、そのスタンプの可変性を確保することができる。注意しなければならないのは、主体にとって可能なのはあくまでも「可変性の確保」にすぎないのであり、それをみずからの手で直接「変更」することは決してできないという点である。では、そのような「変更」はいったいどのようにしてもたらされるのか? 「偶然」によってというほかないだろう。「スタンプ」によって強いられるのはあくまでも構図に過ぎない。構図は同じでも役者は、時と場所は、文脈は、環境は、その都度異なる。そして、コントロール不可能なその「異なりよう」こそが「偶然」にほかならない(その意味で、この「偶然」は「他者」といいかえることもできる)。

  • 重要なのは、「注意しなければならないのは、主体にとって可能なのはあくまでも「可変性の確保」にすぎないのであり、それをみずからの手で直接「変更」することは決してできないという点である」の一文。そして、その後に続く「偶然」の定式(「構図は同じでも役者は、時と場所は、文脈は、環境は、その都度異なる。そして、コントロール不可能なその「異なりよう」こそが「偶然」にほかならない」)は、ある時期以降のロラン・バルトの言葉で言えば、これが「テクスト」である。『ロラン・バルトによるロラン・バルト』のなかでは、テクストとは、しかじかの作品がテクストである、と言えるようなものではなく、どの作品にも幾許かのテクストが含まれている、という風に言うべき語だ、みたいなことが述べられていた。
  • 以下がその典拠。また、「映画『オペラは踊る』は、まさにテクストの宝庫だ」という一言もある(109; 「象徴、ギャグ(L'emblème, le gag)」)。

 〈プチブルジョワ〉。この述語は、いかなる主語にも張り付いてしまう可能性がある。この災難をだれも逃れられない(当然だ。本だけでなくフランス文化全体がそれを経由しているのだから)。労働者にも、管理職、教師、反体制学生、活動家、友人のXやYにも、そしてわたしにも、もちろん〈ある程度のプチブルジョワ的なところがある〉のだ。これは質量 - 部分冠詞である。ところで、可動性があって、突然に心をかき乱すという同じ性格をみせる別の対象語があり、理論的な言説のなかでは、たんなる部分冠詞のように存在している。それは「テクスト」である。しかじかの作品は「テクスト」であるとは言えないが、作品のなかには〈ある程度の「テクスト」がある〉ということだけは言える。このように〈テクスト〉と〈プチブルジョワ〉は、後者は有害で、前者は胸躍るものであるものの、どちらもおなじひとつの汎用的実質のかたちをとっている。両者とも、おなじ言説機能をもっているのだ。何にでも汎用できる価値操作子という機能を。
 (石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、216~217; 「部分冠詞(Partitif)」)

  • たしかロラン・バルトは、どこかで「回心」の体験を語っていて、モロッコの「ワジ」(すなわち水無川)の地帯を散歩しているときに、そういう、場所はいままで複数回歩いた空間とおなじだけれど、その空間を構成する微細な諸要素(おそらく、空気の質感とか、鳥の鳴き声とか)は過去のいつとも異なっているという感覚に強く撃たれ、これこそが「テクスト」なのだと心身において実感したことがあったらしいのだけれど、こちらの典拠は忘れてしまっていまはわからない。たしか講義録のどれかのなかで触れられていたような気もするし、より詳しくは『偶景』か『テクストの出口』か忘れたが、そのあたりの解説に引かれていたような気もしないでもない。上に記した「偶然」=差異的特殊性(唯一性・固有性)=「テクスト」概念の理解は、その記憶にもとづいている。その「回心」を機に、バルトのなかで何かが変わったのだったと思うが、その時期がいつだったのかも、その体験が彼の思考や言説にどういう作用をしたのかということも忘れてしまった。というか、「回心」エピソードを読んだ時点ではよく理解していなかったと思う。いま臆測で適当に考えるなら、いわゆる文学の科学というか、普遍記号論的な夢を放棄して、ニーチェなどの考え方を取り入れつつ「テクストの快楽」のほうに向かっていくにあたってのひとつの起因となった、ということだろうか、と思うが。
  • (……)さんのブログに話をもどすと、中国の学生たちの作文が載せられていたのだけれど、これが読んでみるとところどころでけっこう面白い。あるひとは嫌いな男性のことを述べるのに「舔狗」という中国の言葉を紹介していたが、その手短な説明が「痴漢のように尊厳なく女子を口説く男性」とされていて、この言い方は面白かった。「痴漢のように尊厳なく(女子を口説く)」。このひとの文章の最後は、「小さい時から今まで多くのこのような男子学生に出会ったことがあって、だから私は今とても男性が嫌いで、甚だしきに至っては男性に対して恐れと感じて、後で私を求める人がないことを望む」となっていたが、いきなり「甚だしきに至っては」なんていう固い言い方が出てくるのもトーンがそこだけ転調して面白く、ちょっと笑えて、なぜか好ましい。ここだけ翻訳アプリなどを利用して出てきた言葉遣いをそのままはめこんでいるということなのだろうか。「甚だしきに至っては」、良いじゃないか。自分でも使いたいくらいだ。
  • べつのひとの文のなかでは、カップルにかんして、「喋喋喃喃」という言い方があり、これは中国語か? と思ったのだけれど、普通に日本語の四字熟語としてあるようだ。検索すると福沢諭吉が『福翁自伝』で使っている例が出てくる。「小声で親しげに話し合うさま。また、男女がむつまじく語り合うさま」のことで、字面からしてイチャイチャしているということだろうと意味はわかったが、「喃」の字が使われているのが良いなと思った。「喃」の字からは「喃語」が連想されるわけで、喃語というのは赤ん坊がはっきりとした言語を獲得する前の、曖昧に崩れている発語のことだから、そういう赤ん坊のイメージとか、赤ん坊に対して周囲の人間が投げかけるいわゆる「赤ちゃん言葉」の連想とか、発語における輪郭の不明瞭さとかの意味が重なり合って、懇ろな恋人たちがいちゃついているときの甘ったるいうざったさがよく表現できる。たしかこれとおなじひとの文章だったはずだが、「このような行為は竹を全部使っても書き尽くせない」という比喩もあり、これはすばらしい。中国語にある表現なのだろうか? 日本でも一般に使われるのだろうか? こちらははじめて見た。たぶん、昔、竹の幹を利用して行政文書をつくっていたような時代があって、その名残りということなのではないか。要するに木簡のことだ。日本だと木簡はたぶん主には奈良、行って平安あたりだろうから、中国も唐とかそれ以前とかは竹を紙代わりに使っていたのではないか。竹林に生え揃っている無数の竹の幹のすべてを活用したとしても書き尽くせない、というのは良い表現だ。
  • あと、一月七日分のタイトルになっていた「なけなしの詩片を財布の中に入れ繰り出す先で唖になるのだ」は格好良い。
  • 二時頃までブログを読み、上階へ。炒飯とメロンパンをいただく。今日、昼前に、「(……)」という葬祭業者が来て、互助会に入る云々の話をしたらしいのだが、結局入らなかったとのこと。新聞からは、米国がバイデン政権になって、アフガニスタンにおけるタリバンとの和平協議を見直す意向、との話題。ブリンケンとか言ったと思うが、国務長官候補のひとが、上院での指名承認会か何かで和平について問われて、タリバンはいまだにアル・カーイダとのつながりを保っており、信用して良いとは思わない、と発言したと言う。これはけっこう強い言い方ではないか。タリバンに対して、お前らは信用できない、と言っているわけだから。実際タリバンはいまもテロ的事件を起こしてアフガニスタンで人を殺しているらしいのだが、彼らが大手を振って米国を非難し、反発し、和平から離れる材料をあたえてしまいかねないのではないか。駐留米軍の完全撤収(今年の四月には完了する予定だったらしい)も見直すという話で、アフガニスタン政府からすれば歓迎のようだが、タリバン側にしてみればそれももちろん反発材料になるし、約束が違うじゃないかという非難は当然発生するだろう。
  • 食後、米がなくなっていたのでもう新しく磨いでおいた。くわえて風呂洗い。そして緑茶を持って帰室。飲みながら今日のことをまず書き出した。BGMはなんとなく、U2『The Joshua Tree』。しかし、もうBGMとして音楽を流してもあんまりしょうがねえなというか、やっぱりちゃんと停まってじっと聞かなきゃ全然面白くねえなという感じはしている。歌があるロック/ポップスはわりとBGMでもいける気はするのだが、それでもやはり、うーん、という感じ。ここまで記すと四時一五分になった。二四日から記事を完成できていないので、今日はそれらを仕上げて現在に追いつきたい。あとは音読や書抜き。
  • その後のことは特におぼえていない(いまは一月三〇日の午前二時)。いつもどおり、生を記し、読書としてはポール・ド・マン/宮﨑裕助・木内久美子訳『盲目と洞察 現代批評の修辞学における試論』(月曜社、二〇一二年/叢書・エクリチュールの冒険)を読んだ。音読は「記憶」のほうを四〇分弱。英語のリーディングとして下の記事。さらにその下はこの日のうちに綴っておいたもの。

White supremacists present the gravest terror threat to the United States, according to a draft report from the Department of Homeland Security.

Two later draft versions of the same document — all of which were reviewed by POLITICO — describe the threat from white supremacists in slightly different language. But all three drafts describe the threat from white supremacists as the deadliest domestic terror threat facing the U.S., listed above the immediate danger from foreign terrorist groups.

“Foreign terrorist organizations will continue to call for Homeland attacks but probably will remain constrained in their ability to direct such plots over the next year,” all three documents say.

Russia “probably will be the primary covert foreign influence actor and purveyor of disinformation and misinformation in the Homeland,” the documents also say.

Former acting DHS Sec. Kevin McAleenan last year directed the department to start producing annual homeland threat assessments. POLITICO reviewed three drafts of this year’s report — titled DHS’s State of the Homeland Threat Assessment 2020 — all of which were produced in August. Ben Wittes, the editor in chief of the national security site Lawfare, obtained the documents and shared them with POLITICO. The first such assessment has not been released publicly, and a DHS spokesperson declined to comment on “allegedly leaked documents,” and on when the document will be made public.

None of the drafts POLITICO reviewed referred to a threat from Antifa, the loose cohort of militant left-leaning agitators who senior Trump administration officials have described as domestic terrorists. Two of the drafts refer to extremists trying to exploit the “social grievances” driving lawful protests.

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The earliest draft has the strongest language on the threat from white supremacists, in an introductory section labeled “Key Takeaways.”

“Lone offenders and small cells of individuals motivated by a diverse array of social, ideological, and personal factors will pose the primary terrorist threat to the United States,” the draft reads. “Among these groups, we assess that white supremacist extremists – who increasingly are networking with likeminded persons abroad – will pose the most persistent and lethal threat.”

The “Key Takeaways” section of the next two drafts calls “Domestic Violent Extremists” the “most persistent and lethal threat,” rather than specifically naming white supremacists.

The document discusses white supremacists in greater detail when introducing the section titled “The Terrorist Threat to the Homeland.” Once again, language in the earliest draft is slightly stronger than the language in the subsequent drafts. The earliest draft introduces the threat from terrorism this way:

“We judge that ideologically-motivated lone offenders and small groups will pose the greatest terrorist threat to the Homeland through 2021, with white supremacist extremists presenting the most lethal threat,” it reads.

The next two drafts refer to “Domestic Violent Extremists” –– rather than “white supremacist extremists” –– as “the most persistent and lethal threat.” All three drafts contain the following sentence further down in the same section: “Among DVEs [Domestic Violent Extremists], we judge that white supremacist extremists (WSEs) will remain the most persistent and lethal threat in the Homeland through 2021.”

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The second two drafts, meanwhile, allude to violent agitators who have been present at nationwide protests against racism and police brutality.

“Violent extremists almost certainly will continue their efforts to exploit public fears associated with COVID-19 and social grievances driving lawful protests to incite violence, intimidate targets, and promote their violent extremist ideologies,” the second and third drafts reviewed by POLITICO say. “Simple tactics – such as vehicle ramming, small arms, edged weapons, arson, and rudimentary improvised explosive devices – probably will be most common.”

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All three documents note that 2019 was the most deadly year for domestic violent extremists since the Oklahoma City Bombing in 1995.

“Among DVE [domestic violent extremist] actors, WSEs [white supremacist extremists] conducted half of all lethal attacks (8 of 16), resulting in the majority of deaths (39 of 48),” the drafts read.

The assessment comes as DHS has faced scrutiny for its response to increasingly violent domestic extremism during the Trump era. Top DHS officials have spent years grappling with how to do more to combat the threat, and long chafed at what they called disinterest from the White House. Two former top DHS political appointees [told POLITICO last month](https://www.politico.com/news/2020/08/26/trump-domestic-extemism-homeland-security-401926) that White House national security officials shied away from addressing the problem and didn’t want to refer to killings by right-wing extremists as domestic terrorism.

But two former DHS chiefs both tried to make the burgeoning threat a priority for the department. As DHS secretary, Kirstjen Nielsen pushed then-national security adviser John Bolton to make domestic terrorism a focus of the administration’s counterterrorism strategy. And then-acting Sec. Kevin McAleenan also worked to highlight the threat, lobbying Congress to spend more on efforts to prevent radicalization.

  • 入浴中も考えたし、そのすこし前からそういう気というか思念が湧いていたのだが、こちらの日々の文章はまず何よりも記録であるということを再確認した。記録的欲望に動かされているもの。ただ、あまり記録的欲望を強大化させすぎて、すべてを記録するということになると、また営みが立ち行かなくなるので警戒しなければならないが。というか、書きぶりとしてはべつに殊更頑張る必要はなく、自然に、急がずに、しずかに記していくことをいままでどおり心がければ良いのだけれど、そういう点に思考が立ちもどったということはつまり、やはりまだ油断するとうまく書こうというか、構成的・構築的欲望のほうが頭をもたげてくるということ、それを感じているということだろう。いまももうけっこう簡単な書き方になってはいると思うのだけれど、もっと楽に、操作性をすくなく、ただ書きたい。そういうことだと思う。文の構築をあまり考えず、おぼえていること思い出すことをひとつひとつ、凝らずに言語化していくこと。記録と言って、この日々の記録に明確な目的はない。自分が読み返すためとか、おぼえておきたいことを印象づけるためとか、そういう側面がまったくないわけではないものの、基本的には、記録をしたいから記録をするという感じだ。何を記録するのか。何の記録なのか。そう考えるとやはり、存在の記録だということになるだろうか。この「存在」というのは、こちらの存在のことでもあるが、それだけではない。というか、本当は、メインとしてはこちらではなくてそれ以外の存在にしたいのだ。何かがそこにあった(ある)ということ、何かのものやことが生起した(生起する)ということを、やはり記録したいのだろう。以前、ひたすらにものが存在していることのみを指し示し続ける小説を書けないかと思いついて日記に記したことがあったが、むしろ、それは小説というより、この日々の文章をこのまま書きつないでいけば、もっとそういう風になっていくのかもしれないと思った。ともかくも、あったことを、これが、このことがあったということを記録するということ。そういう意識を、べつに殊更に持たなくても良いのだが、しかし忘れていたというか、まるで念頭に置いていなかったなと思う。そして、記録はよりささやかな、どうでも良い、些末なものにまで及ぶのが望ましい。ただ、先述のように、あまりそれを追究しすぎても大変なので、書きたくないことや書くのが面倒臭いと思ったことは書かない。それは人間である以上、仕方がないだろう。
  • こちらにとって書くとは、まず何よりも記録するという意味なのだということ。日記とは日々を記すことであり、その記すとは、記録の意である。そういう意味で、つまり生を記すという語源的な意味での、bio-graphyに立ち返ること。
  • 書くというおこない、デスクに就いてコンピューターのキーボードに触れ、文字を打ちこむという時間から、能動性をできる限り縮減したい。ただ流れにしたがう、という感じになりたい。ありがちな、いかにも「東洋的」なイメージだが。しかしそういう感覚やそういう言い分はわりとわかるようになってきた気もする。
  • 風呂のなかでは、シャワーを使うと、それを壁にある掛け具というのか、置くための小器具みたいなところにもどすわけだけれど、そうするとシャワーヘッドから水が漏れて、ぽたぽた垂れる音が長く続く。それを聞くと、二種類の打音が混じっていて、たぶんひとつは浴槽の縁に落ちる音で、もうひとつはちょうどそこに置かれていた中性洗剤「エマール」のボトルに当たる音だったのだと思う。ほか、こちらが浴槽の縁に置いた腕の、さらにそこから外にはみ出した肘からときおり水滴が落ちてマットに着地する音もあるし、その他なんなのかよくわからない、くちゃっ、とかぴちゃっ、という感じの、行儀の悪い人間が口を閉じずにものを食べるときに発される口内の音の一単位みたいな短い水音もたまに混ざってくる。
  • 風呂から出て部屋にもどってきたあと、gmailを覗いてみると(……)さんからメールが来ていて、noteのURLが記されてあったので飛んでみると、以下の文章が載せられていた。ノヴァーリス『靑い花』阪本越郞譯(昭和二十二年発行 蒼樹社)らしい。それで歯を磨きながら読んでみたのだが、これがなんだか良いなと思われた。ノヴァーリスはまだ一冊も読んだことがない。まあ典型的なロマン主義というイメージだし、下の文を読んでみてもそういう感触だが、こちらの感性はロマン主義とはおそらくわりと相性が良い。最初の段落が一番良いように思う。訳も、古いものだがうまく流れていて、きちんとした良い仕事をしていると思う。二段落目以降の話はたしかギリシャ神話が典拠で、こちらの記憶では、この吟遊詩人を乗せて逃がした海の生物とは、イルカだったはずだ。ロラン・バルトがやはり『ロラン・バルトによるロラン・バルト』のなかのどこかでこの伝説を引いていたような記憶がある。しかし、定かではない。

昔は自然が今よりももつと生き生きとして感動が深かつたのにちがいない。今では動物には感じられないで、人間だけが特に感じたり樂しんだりしている、あの自然の作用というものも、昔は生命のない物をも動かしたとみえます。藝術家だけが今ではとても信じられないような、お伽噺みたいな事柄をつくりだしたり實現したりするのです。太古の時代には、今のギリシャの或る地方では、旅行者が土地の人々からきいた傳說によると、不思議な樂器を奏する詩人がいたということです。その珍妙な音で森のかくれた生命や樹の幹の中にいる精を目ざましたり、荒れた土地では枯れた草木の種を感動させて、花園をつくりだしたというのです。亂暴な動物もその樂器の音で馴らせるし、野蠻人にも秩序と風習とをおぼえさせて、よい趣味や平穩な藝術を生ませるようにしたり、また激流を變えてしづかな流れにしたり、固死している岩石を踊らせて規則にかなつた舞踊をさせたというのです。詩人たちは預言者であると同時に祭司でもあり、立法者であると同時に醫者でもあつたのですね。彼等の魔術によつて超人間の力が得られたので、彼等は未來の祕密を敎えたり、あらゆる物の調和だの自然の組立だの、また數字の祕密だの、生物の中にある內的な效能や治癒力だのを啓示したというのです。傳說によると、その詩人たちがあらわれて以來、亂雜に混亂していたありとあらゆるものが、はじめて自然のいろいろな音響となり、その特殊な共感と秩序を得て來たのでした。ただそこに不思議なことには、そういう完全な人間がいたという美しい跡が今日の記念にのこつてはいるものの、彼等の藝術か、それとも自然界の美しい情緖か、いづれかが失われてしまつていることです。
こういう時代に、一人のすぐれた詩人というよりも音樂家——口というものは動く耳だし答える耳なのだから、口と耳とが關係のあるように、音樂と詩とは關係していると思われますが——というべき人が海を越えて外國へ渡ろうとしたのでした。その音樂家は美しい寶石やお禮に贈られた高價な品々をどつさりもつていました。彼は海岸に一艘の船があるのをみつけました。船の船頭はきめた船賃で彼の行きたいところへ彼を渡してやると約束したのでした。ところが、彼の持つている金銀財寶をみると、急に船頭達はそれがほしくてたまらなくなつて、この音樂家を途中で海へ投げ入れて、その持ちものを山分けしようぢやないかと相談をした。ちようど海のまん中にきたとき、彼等は音樂家に襲いかかつて、海中へ投げこむから覺悟しろといいました。で、音樂家は彼のもつている財寶の總てを身の代にあげるから、命ばかりは救けてくれといい、もしもどうしてもきかれないなら大難が起るかもしれないぞと預言しました。しかし何といつても彼等の心をひるがえすことはできません。というのは、音樂家の命を助けたら、いつかは、この惡事を暴露するかもしれないと懸念したからです。彼等の決心の動かないのを見てとるや、音樂家はせめて死ぬまえに彼の最後の一曲を彈かせてくれとたのみました。そうすれば、彼の地味な木製の樂器を抱いて、彼等の目の前で自分から海へ飛びこむからと、そういいました。船頭たちは、もしも彼の魔法の歌をきいたら、心がやさしくなつて、後悔するようになるかもしれないということは、よくわかつているので、この最後のねがいをきいてやるにしても、歌つているあいだは耳をふさいで聞かないようにしていよう、そうすれば彼等のたくらみもやりとげることができようと、考えるのでした。で、その通りにやつてみることにしました。ところが詩人はかぎりなく哀傷をさそう、すばらしい歌をうたいはじめると、船もろとも共鳴して、波も歌えば、太陽も星もともに空に顏を出し、靑い潮の中からは、魚や海の怪獸の群が躍りながらあらわれて出てきました。ただ船頭たちだけは、耳をしつかりとふさいで、むつとして立つたまま、歌の終るのを待つていました。まもなく歌は終りました。
そこで歌い手は、はればれとした面もちで、ふしぎな樂器をかかえて、暗い水底目がけて飛び込んだのでした。ところが、彼がかがやく波にふれるかふれないうちに、歌の御禮をする怪獸が彼の下に浮び上がつて、その廣い背中に彼をのせて、彼のめざす岸邊に着きました。そうして、その岸の蘆のあいだに彼をそつとおろしてくれました。詩人はこの救い手のためによろこびの歌をうたい、お禮をいつて立ち去りました。やがて彼はたつたひとり海岸に行つて、あの失つた財寶のことを嘆きながら、美しい調べを奏しました。その財寶というのは、彼の幸福な時代の記念として、また愛のかたみ、感謝のしるしとして、彼にとつては値うちのあるものでありました。彼がそうして歌つているあいだに、突然海の怪獸があらわれて波を分けてやつてきました。その怪物は腮から、あの掠奪された品々を砂の上に落しました。あの時、船頭たちは、詩人が海へ飛びこんだあとで、さつそく彼の遺した財產の分配をはじめたのでしたが、仲間のあいだに喧嘩が起つて、たがいに殺し合うあらそいとなり、しまいに大部分の者が命を失つたのでした。あとに殘つた少數の者だけでは、船を御することができず、間もなく暗礁に乘り上げて、船は裂けて沈んでしまつたのです。命からがら助つた者も、何にも持たずに、みじめな姿で陸へはい上がったのでした。それで、美しい歌をきかせてもらつた御禮に、海の怪獸たちは、力を合せて海に沈んだ財寶をさがし出し、もとの持ち主にもつてきたのでありました。

  • 訳者の阪本越郎というひとは初見の名だが、検索するとWikipedia記事がつくられており、姻戚関係が紹介されていた。良い家系というか、いわゆる「いいとこの出」のようだ。「作家・詩人の高見順は異母弟」、「小説家の永井荷風[1][3]と外交官の永井松三は従兄。狂言師野村萬斎は孫(娘で詩人の阪本若葉子の長男」とのこと。
  • (……)さんのブログを覗いて、(……)さんがたいそう久しぶりにブログを更新しているということを知ったので、アクセスして読む。世の中への呪詛がいくらか吐露されていたものの、目標も示されていたし、一応元気でやっているようで良かった。それでせっかくなので、たしかもう零時を越えたあとだったと思うが、メールを送っておいた。鯖にあたって吐き気と蕁麻疹に襲われていると言うので、今日はもう休んでくれと言いつつ、久々に通話でもと誘っておいた。それ以後、昨日今日(というのは、二八日・二九日)とメールを送ってきてくれたのだが、うまくタイミングが合わず、通話を果たせず。なんでも、明日から旅行に行くらしい。いまって、東京発の旅行は可能なのだろうか? 一応、禁止されているわけではないので、行こうと思えば行けるのか。旅行と言って行き先がどこなのかわからないが、とにかく気をつけて行ってきてほしい。

     *

ポール・ド・マン/宮﨑裕助・木内久美子訳『盲目と洞察 現代批評の修辞学における試論』(月曜社、二〇一二年/叢書・エクリチュールの冒険)

第Ⅱ章「アメリカのニュークリティシズムにおける形式と意図」

  • 44~45: 「ここ数十年間の主要な批評のアプローチは、それがアメリカの批評であろうが(end44)ヨーロッパの批評であろうが、また狙いとするものが形式であろうが歴史であろうが、すべて暗黙の前提に基づいていた」
  • → 43: 「文学への文体論的なアプローチと歴史的なアプローチとの違い(……)」「ヨーロッパ最良の諸著のいくつかのなかで達成されていた、文学的形式に対する真正な感覚と歴史的知識とのバランス(……)」
  • 45: 「この [文学の] 自律性に対する異論が、いまやふたたび成功を収めつつある。現代フランスの構造主義は、社会科学(とくに人類学と言語学)から引き出された方法のパターンを文学研究に適用している」
  • 45: 「この [自律性という] 立場がアメリカのフォルマリストたちに十分理解されていたのかどうかはまったく定かではない」
  • 48~49: 「「椅子」という対象のもろもろの知覚をきわめて厳密に記述したとしても、この対象を定義する潜在的な行為――座るためにあるということ――との相関関係のなかでそれらの諸知覚を組織しなければ、その記述は無意味なものにとどまるだろう。座るという潜在的な行為は、その対象にとって構成的な役(end48)割を担っている。これがなければ、その対象は全体として理解されることができないだろう」
  • 51: 「構造的な志向性は、その結果たる対象の構成要素のあいだの関係をくまなく規定するけれども、構造化の行為に携わる人格にみられる特定の精神状態と構造化される対象との関係は、まったく偶然的なものである。椅子の構造はすべての構成要素にわたって、座るためにあるという事実によって規定されているけれども、その部品を組み立てている職人の精神状態にはけっして依存しない」
  • 51: ノースロップ・フライ『批評の解剖』: 「詩的言語は同語反復的におのれ自身であるから、つまりは完全に自律的であって、外的な指示対象をもたない(……)」
  • → 44~45: 「ここ数十年間の主要な批評のアプローチは、それがアメリカの批評であろうが(end44)ヨーロッパの批評であろうが、また狙いとするものが形式であろうが歴史であろうが、すべて暗黙の前提に基づいていた。すなわち、文学とは精神の自律的な活動であり、世界内存在の紛れもない一様態であるということ、したがって当の世界内存在それ自身の目的と志向とによって理解されるべきだということである」
  • 54: 「アメリカのテクスト解釈や「クロース・リーディング〔精読〕」には完成された技法があり、それによって文学表現のディテールやニュアンスを非常に精緻にとらえることが可能になっている。そこではテクストが「形式」として研究される。つまり、いかなる構成的な部分も孤立・分離しえないような配置関係として研究されるのである」
  • 55: 「また、ジョルジュ・プーレも『円環の変貌』でコールリッジの形式感覚について述べながら、形式が「われわれの意志の明示的な行為」から生ずること、この意志が「みずからの法と独自の形式とを詩的宇宙 [ユニヴェール] に課している」ことを強調している。つまり詩的想像力の構造的な力は、自然との類比関係に基づいているのではなく、むしろ志向的なのである」
  • 56: 「こうした統一性――これは実際のところ半循環性である――は、詩のテクストそれ自体にではなく、むしろ当のテクストを解釈するという行為に存しているのではないだろうか。ここでわれわれが見いだしている「形式」と呼ばれる循環は、自然的事物とテクストとの類比関係から生じてくるのではなく、むしろ [レオ・] シュピッツァーが言及していた解釈学的循環を構成している。この循環の歴史はガダマーの『真理と方法』で追跡されているし、その存在論的意義はハイデガーの『存在と時間』の基礎となっている」
  • 57: 「ある意図を解釈するということは、それを了解するということでしかありえない。存在する現実に新たな一連の諸関係が付け加えられるのではなく、すでにそこにあった [﹅9] 諸関係が、たんに(自然の出来事のように)それ自体としてではなく、われわれに対して [﹅8] 存在することとして開示されつつあるのである」
  • 58: ハイデガー存在と時間』上巻(細谷貞雄訳、ちくま学芸文庫、一九九四年、三二九―三三一頁)より: 「決定的に重要なことは、循環のなかから抜け出すことではなく、正しい仕方でそのなかに入り込むことである」
  • 70: 『ハイデッガー全集4――ヘルダーリンの詩作の解明』(濵田恂子ほか訳、創文社、一九九七年)、「第二版 序」(四頁)より: 「詩の内実のためには、詩の解明などは、あってもなくてもよいようなものになるように心掛けなければならない。あらゆる解釈の最後の歩み、しかも一番困難な歩みは、純粋に存立する詩に直面して、その解明とともに消滅することである」
  • 58~59: 「究極的には、理想的な註釈であれば、おのれ自身をも余分なものとし、もっぱらテクスト自身がみずからを十全に開示するにまかせるであろう。しかし言うま(end58)でもなく、そのような理想的な註釈は、そのものとしてはけっして存在しえない」
  • 60: 「(……)われわれが想起すべきことは、形式とは完成途上にあるプロセス以外のなにものでもないということだ。完成された形式は、言語の感覚的ないし意味論的な次元と合致しうるような作品の具体的側面として実在することなどありえない。それは、解釈者の問いかけに答えるなかで作品がみずからを開示するとき、解釈者の精神のなかで構成されるものなのだ。しかし作品と解釈者との対話に終わりはない。解釈学的了解は、本質的につねに遅れているものである。なにかを了解するとは、すでにそれを知っていたということを自覚することであるけれども、それと同時に、この隠された知の秘密に直面することでもあるからだ」
  • 62: 「構造主義においては、志向的要因の欠如は、有機的世界と言語との議論の余地ある同一視の結果ではなく、むしろ構成的主体の抑圧によるのである」
  • 64: 「文学は充溢を成すのではなく、実在から意図を分かつ空虚に発する。この空虚が顕わにされ、つまりは実存論的投企の非本来性が顕わにされた後でのみ、想像力は羽ばたくことができる。実存の神(end64)話から脱却するところで文学は始まる。批評家がこの予備的な段階にとどまる必要などない。批評的な観点からすれば、作家の現実的および歴史的実存について考えることは時間の無駄である。このような退行的段階が顕わにしうるのは、書き始めるときに作家自身が十分自覚している空虚にすぎない」