2021/1/27, Wed.

 ソシュールが嫌悪していたもの、それは(記号の)〈恣意性〉だった。彼のほうはというと、嫌悪しているのは〈類似性〉である。「類似にもとづく」芸術(映画や写真)や、「類似にもとづく」方法(たとえばアカデミックな批評)は、信用できなくなっている。なぜか。類似は「自然」の効果をもたらすからだ。すなわち、「自然なもの」を真実の源に作りあげてしまうのである。そして類似の呪いをさらに強くするのは、それが抑制できないという点である(「レキショ」を参照)。ひとつのかたちが目に入るやいなや、それはなにかに似て〈いなければならない〉のだ。人間は、「類似」つまり「自然」を強いられている。それゆえ、画家や作家たちはそれから逃れようと努力する。どのようにか。相反する二つのものの過剰によってである。あるいはこう言ったほうがよければ、〈類似〉を嘲弄へと変える二つの〈皮肉〉によってである。見せつけがましく〈陳腐な〉敬意をよそおってみせるか(そのときに救われるのはまさに「コピー」なのだが)、あるいは真似られている対象を〈規則正しく〉――原理にしたがって――歪めてしまうか(それが「アナモルフォーズ」だ。『批評と真実』を参照のこと)である。
 (石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、49; 「類似という悪魔(Le démon de l'analogie)」)



  • 一一時一〇分頃にはっきりと目を覚ました。それ以前の覚醒の記憶はない。目覚めの感触は悪くなかった。混濁感がなく、二度寝におちいる懸念もなく、意識が明瞭でまぶたも軽かったが、布団の下でしばらくゴロゴロしながらからだをやわらげ、一一時三八分に起き上がった。屈伸をくり返しやって脚をほぐしてから水場へ。顔を洗い、うがいをして、用を足してからもどって瞑想。首のまわりの筋が凝り固まっていた。眠りを通過するとだいたい首が固化しているのだが、もしかすると枕が合っていないのかもしれない。就眠前と起床後に、頭を左右に転がして筋をやわらげたほうが良いだろう。瞑想自体の感覚は悪くない。昨日は全体的に書見をよくして、書見をよくするということはそれだけベッドで脹脛を揉んだりからだをほぐしたりしているということなので、また就床前にも一時間、読書の時間を取ったので、そのおかげで肉体が全般的に軽く、わりとほぐれており、呼吸をするのにひっかかりがなく、自然とかすかなものになって、はじめからけっこうしずかな心身だった。ただ、座っている最中にも首や肩のまわりの筋がちょっと痛んだ。あと、デスクに就いて打鍵をしていると、一時間くらい経った時点で背がこわばってくるのをどうにかしたい。猫背にはなっておらず、姿勢を保つようにしているのだけれど、やはり長く椅子に座っているとどうしても背面がこごってくるようだ。
  • 瞑想後、臥位になって頭を転がしておいた。それでけっこう首の筋は楽に。天気は、目覚めた時点では太陽が雲にとらわれていたのだが、このときは青さが覗いて陽射しが澄明だった。とはいえ完全な晴れといかず、雲混じりのどっちつかずの空で、一時二〇分現在ではまた、あかるさを残しながらも白っぽい空気になっている。
  • 居間に上がると、母親は勤務へ。野菜炒めや昨日の味噌汁などで食事。新聞からは中国の少数民族政策とイスラエルのワクチン摂取について読んだが、今日はあまり余裕がないので詳述は追って。食後はいつもどおり皿と風呂を洗う。比較的しずかに動けている感。やはり肉体全体をやわらげておくと、おのずとそうなることができる。
  • Woolf会は一〇時半からの参加にさせてもらうことにした。会の前に風呂を済ませておきたいからだ。今日は三時半頃には労働に向かわなければならない。で、いま一時二〇分過ぎなので、あと二時間ほどしか猶予がない。からだをやわらげ調えるのと、音読とに時間を使いたいので、日記を書いている余裕もあまりない。明日が休日なので、そちらの自分にまかせることにしよう。
  • 現在一月三〇日の午後一一時。日課記録を参照するに、この日は一時半から三時前までポール・ド・マン/宮﨑裕助・木内久美子訳『盲目と洞察 現代批評の修辞学における試論』(月曜社、二〇一二年/叢書・エクリチュールの冒険)を読んでいる。その後すこしだけ調身してから「記憶」を音読。それでもう時間が尽きた。本の読み方をアップデートした。読み方というか、メモの取り方を。書抜きをしたいと思う記述の範囲をのちのちわかるように、それ用のノートにページおよび行番号をメモしておくのはこれまでどおり。ほか、いままでは読書ノートとして、書き抜くほどではないけれど気になったという箇所を同様にページおよび行番号でメモし、場合によっては部分的に文言も書きつけていたのだが、こちらのやり方を変えることにした。手書きで文言を引いたり、ときに分析や思いついたことを書きつけておくのが面倒臭いので、読書のあいだは手帳に日ごとの項目をつくって、あらゆる意味で気になった箇所のページおよび行番号をメモしておき、その日の読書で気になった部分はすべて日記に写しておく、という方針に。で、その気になった箇所のなかで、さらに正式に書き抜いておきたいというものにかんしては、前後もふくめて書抜き用のノートに範囲を記しておく、と。ただ、これはこれで当然打鍵して写すのにかなりの手間がかかって大変で、日記がいま現在時に追いついていないのもそれが寄与しているところが大きいのだけれど、ひとまずこの方針で続けてみるつもりではある。
  • 勤務へ出発。時間がいつもよりはやいこともあって、空気はゆるく、風が流れても冷たさはふくまれていなかった。公営住宅横を行きながら、なぜこんなあかるい日に労働に出向かなければならないのかと面倒臭さの感が立ち、勤務になど行かず、光を浴びて風を吸っていたいなと思った。坂道に折れる十字路の角では緑の木々が光に触れられて、葉の集合のいたるところにきらめきをつくりだしており、透けるようにあかるくなった緑のなかでそれが風とともにふるふる震動する。蝶が無数にとまって安らいでいるような光点の様相。いままで何度も思い浮かべてきた、なじみのイメージ。
  • 坂を上って駅に入ると、階段を上るあいだ太陽が西空からほぼ水平に、横薙ぎにまぶしさを送りつけてくる。北の丘の足もとにもまだ日向がひろがっていて、そこに建っている一軒の庭先に吊るされた洗濯物も穏やかさのなかにつつまれている。ピンクやオレンジや青など、けっこう強い色の衣服が見られた。
  • 勤務。(……)
  • (……)帰路のことは忘れた。帰って自室に行くと、服を替え、(……)くんの小説を半分ほど読みつつ足裏を刺激してから食事へ。母親が風呂に入っていて、Woolf会までに入れるか怪しいなと思ったが、一〇時一五分頃に出てきたので、こちらも短く湯を浴びた。本当はもっと長く浸かりたいが、仕方がない。そうして下階に下りて、隣室に移動してZOOMに参加。
  • この日は第一部第四章の途中の二段落。Lily BriscoeとWilliam Bankesが連れ立って庭をぶらぶら行き、垣根の切れ目から海が見える場所まで行って風景をながめているところ。訳すのはけっこう難しいような文章になっていると思う。They came there regularly every eveningからはじまる一段落目の、"First, the pulse of colour flooded the bay with blue, and the heart expanded with it and the body swam, only the next instant to be checked and chilled by the prickly blackness on the ruffled waves. Then, up behind the great black rock, almost every evening spurted irregularly, so that one had to watch for it and it was a delight when it came, a fountain of white water;"の箇所について長く話し合われた。このなかにふくまれている"the prickly blackness"と、その次の文のはじめに出てくる"the great black rock"がおなじものなのか否か、という点についてである。こちらは岩波文庫の訳で違和感なく理解していたので、波のうねりのなかに、角度や陰影の関係で黒さがうかがわれるのだろうと思っていたのだけれど、"the great black rock"の"the"が前を受けているのだとしたら、たしかにつながっているようにも思えないでもない。波の黒さとはべつに岩が登場するとしたら、aを使うのではないかと思うのだけれど、違うのだろうか? しかし、二人は毎晩ここに来ているとあるので、もうその岩のことは知っていると思われるので、それでtheを使っているのだろうか? 冠詞のニュアンスがいつまで経ってもつかめない。もうひとつ気になるのは、the prickly blackness on the ruffled wavesのonである。(……)さんや(……)さんは、高く突き出した岩のもとに波がくり返し寄せて打ちつけ、あるいは通り過ぎていく様子をあらわしているとイメージしたようなのだが、onだと、波が移動するのに伴ってこのblacknessもその上に乗って移動するような意味合いになるのではないか。波の上に貼りついている、もしくは映っているようなニュアンスを指しているのではないかと思うのだが。二人が立っている場所は湾全体を一望にながめることのできるような位置で、もしかすると多少の高さから風景を見下ろすような感じになっているのかもしれないが、いずれにしても水のひろがりの上に岩が突き出していたら最初からそれはそれとして見えているはずだし、動かずに固定しているはずなので、そういう情景をprickly blackness on the ruffled wavesとは言わないような気がする。こちらとしては水の色、もしくはそこからイメージされた心象を言っているという理解を取るが、しかし(……)くんがその場で各版を確認してくれたところでは、これを岩と取っている訳も半分くらいあって、プロの翻訳者のあいだでも解釈がわかれているとわかった。いずれにしても、訳語決定の際には、blacknessとして岩と明言されてはいないわけなので、それを踏まえた訳にするのが順当だと思う。
  • もうひとつ、取り上げられたのは、(……)さんが訳してきてくれた二段落目の最後、"and instead of merriment felt come over them some sadness ― because the thing was completed partly, and partly because distant views seem to outlast by a million years (Lily thought) the gazer and to be communing already with a sky which beholds an earth entirely at rest."の部分である。岩波文庫はここを、二人が物悲しさをおぼえたのは、ひとつには物事が完成・完結してしまったせいで、もうひとつには……という風に訳している。つまり、partlyをbecauseにかかるものととらえているのだけれど、こちらはそれで納得しながらも、一度目のpartlyの語順からすると、「部分的に完成した(部分的にしか完成しなかった)」と読むのが自然だよなあと思っていた。その場合、二度目のpartly becauseは、ひとつには~~のため、ではなくて、なぜ部分的なのかと言うと~~という意味合いになるはずだ。そう考えながらも、前後の意味のつながり方がよくわからなくて、岩波文庫のとらえ方で理解していたのだけれど、(……)さんもこちらとおなじ疑問を持ったようであり、また(……)くんは、部分的に完成した説を取っていたようだ。とはいえ、彼も最初は論理のつながりがよくわからないようで考えていたのだけれど、わかった、こうじゃないかと言うのを聞くに、湾のながめが絵画として完全には完成しきらないのは、その風景がすでに空と対話をしていて、つまり時々刻々と生成変容していてひとつのかたちにとどまらないからではないか、完成したと思った途端にもうそのかたちが崩れ、変成していくということを言っているのではないか、という話だった。そうとらえるとたしかにわりとわかるような気はするのだが、こちらにおいてこの説はいまだ完全に腑に落ちきってはいない。そもそも、"distant views seem(……)to be communing already with a sky which beholds an earth entirely at rest"というのがどういうことなのかもいまいちよくわからないのだけれど、ここのdistant viewsは、直接的には、あるいはすくなくとも主には、この直前で二人が目を移したthe dunes far awayを指しているはずなので、それを考慮に入れて考えなければならないはず。また、こまかいところだが、"entirely at rest"がearthにかかっているのか否かという点も疑問だ。各訳は一様にearthにつなげて考えているらしいのだが、be communingにかかっている可能性もあるのではないか。岩波文庫はそのあたりどちらとも決めきれないということなのか、「やがてすっかり静まった大地を見下ろすはずの天空と、すでに静かに対話を始めているような気配がある」という訳になっている。つまり、at restをan earthにもbe communingにもつなげたような訳になっている。
  • 本篇後は雑談など。Twitterで来る「クソリプ」や、狂気を感じさせるような崩れた日本語の使用者についてなど。そういう流れからだったのか、ドナルド・トランプおよびQAnon支持者や陰謀論者についての話があった。というのも、(……)さんが会ったひとのなかに、実際にそういうひとがいたのだと言う。米大統領選の前の時期で、友人か知人らと複数で食事に行ったなかにそういう男性がひとりいて、たぶん(……)さんはそのひとにはそのときはじめて会ったのだと思う。(……)だから、そういう政治的な事柄を話せる相手、すなわち自分は真実を知っているのだということを示せる相手をもとめていたのだろう、と。話の途中でこちらは、やはり実存的な、承認の問題がかかわっているのだろうかと思って、そうなんですかねと問うていたのだが、それにこたえて(……)さんのそういう印象の報告があったのだ。それでこちらは、BBCで読んだChristian Piccioliniについての記事(Natasha Lipman, "Christian Picciolini: The neo-Nazi who became an anti-Nazi"(2020/12/5)(https://www.bbc.com/news/stories-54526345(https://www.bbc.com/news/stories-54526345)))をチャット欄に貼り、のちほど簡易的に説明・紹介しておいた。Christian Piccioliniはここで、過激思想に染まってそういう方面の団体に入るひとびとにおいて、思想の内容やイデオロギーは本質的な問題ではない、それは彼らの怒りが着火されるための最後のひと押しを提供するにすぎず、より本質的な問題は、アイデンティティや実存的空虚や不安であると述べていた。これを貼ったところ、(……)さんがこたえて、Aram Roston, "Proud Boys leader Enrique Tarrio was an FBI informant"(2021/1/27, Wed.)(https://www.theguardian.com/us-news/2021/jan/27/proud-boys-leader-enrique-tarrio-fbi-informant(https://www.theguardian.com/us-news/2021/jan/27/proud-boys-leader-enrique-tarrio-fbi-informant))という、最新ほやほやのGuardianの記事を貼ってくれて、Proud BoysのリーダーがFBIの情報提供者だったというタイトルを見た瞬間にマジかよと驚いたのだけれど、(……)さんは、たまたまさっき見かけただけで、「大喜利」みたいな感じで貼っただけですと言っていた。しかしありがたい。これは読む。
  • (……)
  • あと、(……)さんが、(……)さんがTwitterで募集を見つけてきた字幕翻訳の仕事に応募するために英文の履歴書をつくったということで、みんな読んでみてアドバイスがあったらしてくださいと(……)くんが呼びかけた。読んでみたところ、英語で履歴書書くってなるとこんな感じなんだ、と思ったが、特に変な箇所は見当たらないように思われた。あちらとしては、いままで手掛けてきた過去作品とか見られれば見たいのではないかと思って、データやURLなどあったら添えておいたほうが良いのではと言ったが、そもそもこちらはいままで生きてきてチェーンの寿司店と塾のアルバイトしか労働を経験していない世間知らずなわけで、そんなやつが就職活動にかんして助言とかお笑い草でしかないだろう。二時に至ったところで、今日はほかのひとびとよりも先に退出した。その後はポール・ド・マンを読むなどして、三時二〇分に消灯・就寝。
  • あと、この日、はてなのアカウントにログインした際、人気の記事を紹介するページみたいなものが表示されるわけだけれど、そこに「ネットの音楽オタクが選んだ2020年のベストアルバム 50→1」という記事があり、ちょっと覗いてみたところ全然知らないものもたくさん含まれているようだったので、メモしておいた。しかし、はてなブログはリンクを貼るとたしか向こうのブログに通知が行ってしまうはずなので、URLは付さない。

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ポール・ド・マン/宮﨑裕助・木内久美子訳『盲目と洞察 現代批評の修辞学における試論』(月曜社、二〇一二年/叢書・エクリチュールの冒険)

第Ⅲ章「ルートヴィヒ・ビンスヴァンガーと自己の昇華」

  • 77: 「それどころか反対に、そのプロセス [芸術における自己成就] において自己は、はっきりと具体的で正当な属性を剝奪され、ただちによりいっそう潜伏的な非本来性の諸形態にさらされることになるのである。ビンスヴァンガーが拡大 [﹅2] や成就という言い方をする代わりにまずもってわれわれに考察するよう強いるのは、文学活動に従(end77)事するさいに主体に生ずる、収縮 [コントラクション] であり、縮減 [リダクション] にほかならない」
  • 78: Ludwig Binswanger, Hendrik Ibsen und das Problem der Selbstrealisation in der Kunst (Heidelberg: L. Schneider, 1949), pp. 21-2: 「芸術作品は、あらゆる存在者の全体的な開示を表しており、それも、必然的に解放的な芸術形式においてそうするのである」
  • 78~79: 「形式の完全性はその起源においても、それが展開された後の段階においても、当の形式を構成する人格の成就から生じてくるわけではないのである。作者の人格たる個人的自己と、作品のなかで全体性にまでいたる自己との違いが具体的に明らかになってくるのは、それらの分岐するそれぞれの運命においてである。その分岐は偶発的な事故ではなく、芸術作品をそれとして構成する当のものにほかならない。芸術は、この分岐に淵源し、(end78)またこの分岐によって生ずるのである」
  • 79: ジェルジ・ルカーチ「美学における主体 - 客体関係」(一九一七年)の内容解説: 「作品の構造は「窓のないモナド(eine fensterlose Monade)」としての作品の記述に要約される。この概念が、孤立性の観念を全体性の観念に結びつけるのである。一方において作品は、それ自身のために、またそれ自身によって存在する実体であり、他の実体との関係に参入しうるいかなる内的可能性も欠いている。たとえ他の実体がそれ自体同じ美的な種類のものであったとしてもそうであることには変わりはない。他方において作品は、ひとつの宇宙である。すなわち、孤立することで完璧に自己充足している」
  • 80: 同上: 「芸術作品の特性を規定している超越論的原理は、構成的自己の志向のうちに存している。というのもこの志向は、自己を自己自身の内在性へと縮減 = 還元し、自己を自己として直接に経験する可能性(Erlebbarkeit)に接近しえないすべてのものを除去しようとするからである」
  • 80: 同上: 「しかし、この主観 = 主体がその主観的性質において、十全かつ排他的な仕方で首尾よく一貫し続けることのできる唯一の方途は、ひとつの虚構的実体の制作に集中することによって、つまり、主体が自身をひとつの形式のうちに投影 = 投企することによってである」
  • 81: 同上: 「経験的自己が包容しうるかぎりを取り入れて自己自身を世界の現前へと開放しようと努めるのに対し、美的自己が目指す全体化とは、ルカーチの用語に即して言えば、縮減的だが自己内在性において自己自身の始源的な志向と「同質的」な全体化の様態である」
  • 82: 同上: 「しかし他方、芸術家は、形式を成し遂げることでのみ、自分自身のうちに持ち込んだ純粋な主観性への欲求に対して客観的な相関物を発見しうるのだということがわかっている」
  • 82: 同上: 「作品は、到達不可能な目標を目指す企てとならねばならなくなるのであり、その部分的な成功は「当の作品が生まれてくるまさにその瞬間になされた放棄」というかたちをとることになる。作品とは、マラルメ的な意味における誇張法 [イペルボール] であって、そこで要請されているのは、主体が、自分自身の欲望とはけっして合致することのありえない投企的行為のなかで自己忘却することなのである」
  • 83: オスカー・ベッカー「美の儚さと芸術家の冒険性について」(一九二九年)にて: 「ルカーチの「同質的縮減」から生まれる新たな自己は、いまや自分自身の運命の真理を開示することができる自己、そうして自分自身の存在様態を正しく解釈することができる自己として理解されることになる」
  • → 81: 「経験的自己が包容しうるかぎりを取り入れて自己自身を世界の現前へと開放しようと努めるのに対し、美的自己が目指す全体化とは、ルカーチの用語に即して言えば、縮減的だが自己内在性において自己自身の始源的な志向と「同質的」な全体化の様態である」
  • 83~84: 「ベッカーはこの危険な冒険を、新たな時間性の経験という観点から、もはや日常的存在の頽落した時間性ではない時間において存在しよ(end83)うとする試みとして描き出している。芸術家はあたかも本来的な時間性を維持することが可能であるかのように、みずからの作品の未来へと自己自身を投企するのだが、同時にまたこのことが不可能であり、純然たる賭け [﹅2] であるということを彼は知っている」
  • 84: 「ベッカーは、美的意識のアンビヴァレントな身分を二つの時間経験のあいだを揺れ動くあり方によって特徴づけている。すなわちその二つの時間の経験とは、つねに疎遠さと欺瞞のなかへ逆戻りしてしまう日常的存在の時間性と、みずからの真の存在様態について明瞭に自覚したままであるような別の時間性である。ベッカーはこうした時間性の混淆を指して、被担性〔Getragenheit : 担われてあること〕、「運ばれる存在」と呼んでいる」
  • 84: 「ビンスヴァンガーは、歴史的および日常的な時間の外へ跳び出そうとする衝迫を、まず否定的な観点で理解する。この衝迫は、自身の事実性のなかに幽閉された自己がさいなまれるという苦悩と圧迫の気分のうちに現れてくるのである」
  • 85: シャルル・ボードレール「旅」(『ボードレール全詩集Ⅰ』阿部良雄訳、ちくま文庫、二九一頁): 「風変わりな運命ではある、目標はところを移し、/どこにもないのだから、どこにでもありうる!/その期待はけっして倦むことを知らぬ人間が、/休息を見いだすため、いつも狂人のように駆けるという運命!」
  • 85~86: 「ひとり追い詰められたこの幽閉感情を知る人間のみが、精神に接近する活路を見いだし、ほかならぬ魂の国にしか存在しない類いの静謐さを切望することができるのだ、とホフマンスタールは [『友の書』で] 述(end85)べている」
  • 86: 「しかし、芸術家の魂の儚さと結びつく類いの危うさが生ずるのは、もっぱら存在の水準 [レヴェル] そのものが根底的な変化を被る場合なのである。芸術家が自己拡大と自己発展を経てまったく異なった種類の自己を獲得するようになる変容は、ビンスヴァンガーによって、登山と下山のメタファーにおいて描き出されている。距たりの現象学は、活動的人間が行動するには好都合だが、それに対して高さと深さの現象学がとって代わる。平野と海の水平的な風景が山岳の垂直的な風景になるというわけだ」
  • 86~87: 「詩的超越の儚さは、直接行動の相対的な確かさとは対照的に、高みの感情と結びついた不安によって表される。放浪者や船乗りの往来は意志に基づいて制御された行動だが、登山者に対し外的な力が強いる落下の可能性は、垂直の空間においてのみ存在する。同様のことが、眩暈や堕落のよ(end86)うな、落下と密接に関連した経験についても当てはまる。こうした表現が述べているのもまた、死が、行動的生活の経験においてより、垂直性の経験においていっそう根底的な仕方で現前するのだということである」
  • 87: 「自分自身の想像力によって高みへと運ばれるがままになろうと望む人間は、依然として別の危険にも脅かされている。それは、自分自身の限界を超えて、もはや自分が降りられなくなるような場所に昇ってしまうという危険である。ビンスヴァンガーはこの状態のことを、登山家にも精神病理学の症状にも使われうる用語で、Verstiegenheit〔のぼり違い = のぼせ上がり〕の状態と呼ぶ」
  • 88: 「最終段階では、ビンスヴァンガーの関心は、作品の非人称的な真理よりは、詩的人格の諸問題の方に狙いを定めているように思われる。実際、自己の縮減にかんする研究は、詩的気質と結びつく特定のタイプの虚偽意識の記述に行き着くことになる」
  • 88~89: 「作者は、作品を創出するま(end88)さにその行為によってそうした虚偽意識に陥るのだとみなされている」
  • 90: 「ビンスヴァンガーが詩人の原初的な不安を、追い詰められた幽閉状態として語り、詩人の存在覚醒を時間的な窮境として解明するとき、その奥深さは明らかに最良のものである。このことはたとえ「落下」についてのビンスヴァンガーの記述が、彼好みの空間的メタファーに含まれた疑似的な類推にとらわれているがために具体性の欺瞞的な印象をもたらしており、ルカーチハイデガー、ベッカーといった先行者ほどは実質的でないままであるとしても変わりはない。〈上方への落下〉がきわめて示唆に富むのも、それが、芸術的創出を自由意志と恩寵の逆説的な組み合わせへと変える、そうしたアンビヴァレンスを指し示しているからである」
  • 91~92: 「現代批評のいくつかの困難は、存在論的な還元 = 縮減の不毛な世界を、生き生きとした経験の富(end91)のために見放してしまいがちな傾向へとさかのぼって突き止めることができる。批評行為は、作品中で語る超越論的なタイプの自己のために人格的で個人的な自己を忘却することを含意しているからこそ範例的な価値を獲得しうるのである。それは充実や調和ではなく、むしろ精神の禁欲主義 [アセティシズム] であって、それも存在論的な洞察へと通じうる禁欲主義である」
  • 92: 「今世紀の文芸批評の貢献は、経験的自己と存在論的自己とのこの決定的な区別を打ち立てたことにある」