2021/2/12, Fri.

 「真実は、固さのなかにある」とポーは言った(『ユリイカ』より)。したがって、固さに耐えられない者は、真実の倫理にたいして自分を閉ざしてしまう。言葉や命題や観念が〈固まって〉、固形状態へ、〈ステレオタイプ〉の状態へと移行するやいなや、彼はそれを手放すのだ(ギリシア語の〈ステレオス〉とは〈固い〉という意味である)。
 (石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、74; 「真実と固さ(Verité et consistence)」)



  • 一一時半の離床。今日は晴れ晴れしい天気ではない。白く曇っており、太陽も見えないではないがそのなかに閉じこめられて威力がとぼしい。上階へ行くと午後から晴れるらしいと母親が言ったが、そんな気配もなかったし、実際、陽射しの様相はそれ以降さほど変わらなかった。鍋的なスープとおじやで食事。新聞の国際面からタイのことを読んだはず。コロナウイルスの拡大でひかえられていた抗議活動だが、ここで運動の主唱者というか呼びかけ人みたいなひとに有罪判決がくだされたか何かあり、それをきっかけにまたいくらかおこなわれたということだったと思う。なぜか記憶があまり確かでないが。
  • 家事のルーティンを済ませると帰室し、Notionを用意して今日も真っ先に音読。「英語」を一時間。Thelonious Monk『Solo Monk』を流して。悪くはないが、とりたてた印象も残っていない。そんなに集中した感じもない。やや散漫だった気がする。読むスピードがはやくなりがち。そんなに丁寧に読まなくても良いが、あまり急がず、粗雑にならないようにはしたい。
  • 音読を終えたあとはちょっと体操し、それから上階に行って米を磨いだり洗濯物を入れたりした。もどるとベッドでだらだらしながら脚をマッサージする。どうも時間を使いすぎてしまったが、おかげで脚はかなり楽にはなった。四時前で切りとして食事へ。豆腐と即席の味噌汁。新聞はこのときはコロナウイルス用の病床確保策について見た。墨田区では墨東病院というのが重症患者を受け入れる指定の機関なのだが、回復して感染性も低くなった患者を回せる場所が見つからない。また、それだと、中軽症の患者を受け入れるほかの病院も、重症化したときに墨東病院に移せないから、リスクの高い患者を受け入れるのに二の足を踏む。それで保健所と区が協力し、墨東病院で回復した患者を一般病院の病床に移せるように交渉し、手はずを整えたとのこと。区内の七病院だったかが受け入れに同意し、区は今後一年間、二床以上を確保することを条件に一〇〇〇万円の補助金を給付する。それで病床がうまく回るようになり、以前は一日一〇人くらいの入院待ちがあったところ、一月二八日以降はゼロが続いているという話。
  • 皿を洗って片づけると帰室し、今日のことをここまで記述。
  • それから歯磨きなどしたのち、出発までの残り時間でまた音読をすることに。今度は「記憶」。腰や脚や脇腹や肋の付近などを揉みながら二〇分。そうして数分だけ柔軟をおこなった。ベッド上で胎児のポーズを取ったりコブラのポーズで腰の背面を伸ばしたりする。数分だけであってもやればやはり肉はやわらぐ。それから音楽を消してスーツ姿に着替えた。上階に行き、仏間から靴下を取って足に身につけさせると、行ってくると父親に告げて玄関へ。戸棚からマスクを一枚取ってコートのポケットに入れておき、トイレで小便を捨ててから靴べらを用いて革靴を履き、玄関の姿見を前に立ってマスクをつけた。左右のバランスが変にならないよう調節しながら、鼻に当たる上辺のちょうど真ん中をちょっと折って、隙間をすくなくすると出発。
  • この夕方もわりと寒かった。冷気が服の内のからだまで届いてきて、肌が、明確に震えるとまではいかないが、ちょっと揺らぐ感じがあった。曇りのために空は大してあかるくもないが、大気に暮れの暗さも青さもまだ混ざってこない。しずかに乾いた無調の午後五時。公営住宅の前まで来ると、道の先を何かゴミ袋らしきものを提げて歩いていく姿があり、どうも(……)さんらしい。どうするのかと思っていると、角の自販機の脇から木の間に入っていき、フェンスの向こう側でガサガサものを捨てはじめたので不法投棄かと一瞬疑ったが、宅の前にかかったところで視線を右に振れば通路の入り口に竹箒が寝かされているのが見えたので、掃除して集めた葉などを捨てたらしいと判断された。十字路で坂に曲がるところでちょうど相手が出てくるタイミングに当たったので、挨拶をかけ、息を切らしながらごく低い段差の上に乗ってちょっと揺らぐようにしているのに、気をつけてくださいと小さく笑いながら送って坂を上りだすと、あちらからもおなじ言が返ってきた。はい、と背後に受けて足をすすめる。
  • 坂道では歩調をやや落として丹念なように踏んでいった。左のガードレールの向こう側は林であり、斜面下には沢が通っているが、ガードレール付近の木がいくらか伐られたようで、一見して樹網の薄くなってすっきりしている場所が見られたし、伐られた断面をさらしている木もいくつかあった。たしかに母親が昨日だか一昨日だか、伐ったらしいと言っていたおぼえがある。
  • 最寄り駅に着くとベンチに腰掛け、脚の、膝の横あたりをちょっと揉んだ。以前から思っていたのだけれど、しゃがんだり合蹠をしたりして脚をたたむように曲げると、左脚の膝のまわりが少々痛むというか、筋が固まるような感覚があって、たたんでいた脚を伸ばすとしばらく引っかかってぎこちないような感触になるのだ。たぶんそれは膝の、主に側面か、裏にあたる部分、いわゆるひかがみ周辺が和らいでいないということではないかと思うのだが。普通に歩く分には何も問題はないが、坂道をゆっくり上っている途中、脚の動き方や感覚を見ていたところ、たしかにかすかながら引っかかりや摩擦をおぼえないでもない。左脚は中学生のときにいわゆるオスグッドになって以来膝の骨が右よりも大きく突出しているので、それも関係あるのかもしれない。それにしても、あらためて脚の駆動に意識を寄せながら歩いてみると、普段まったく気にせずに何の支障もなく動かしているけれど、これはやはり若いということなんだろうなと思う。というか、歳を取るとこれがうまくいかなくなるんだろうなということを、なぜだかわからないが納得する心があった。やはりこういう動きをするための筋肉が、どうしたって衰えてくるのだろう、と。
  • 電車はすぐにやってきたのでマッサージの時間はさほど続かず、乗ると着席して瞑目。しばらく待って(……)に到着し、降りてホームを行く。なんとなく自販機で売っている細長いパッケージの小さなポテトチップスを買いたいような気がし、買おうかどうしようかと思いながら当該の自販機が近くなると足がそちらに向いたので、それにしたがって機械の前に立ち、二品購入した。うすしお味とコンソメパンチを買ったつもりだったのだけれど、ひとつ目に買ったうすしお味が、帰ってから見るとキムチ鍋風味とかいう品だった。どうもどちらも赤いパッケージだったのでまちがえたらしい。迂闊だ。こちらはキムチをあまり好まない。鍋で食えばわりと美味いが。したがって、この夜に食べたこの品も大して好みの味ではなかった。
  • 駅を出て職場に行き、勤務。(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • 一〇時過ぎに退勤。電車で最寄りへ。なぜかわからないが、行きの夕方よりも帰りの夜のほうが寒さを感じなかった。昔からわりとそうで、やはり一応、多少は動き、また喋ってくるのでからだが温まるのだろうか。出発のすこし前に摂取したエネルギーが勤務を通して熱に変換された、というタイミングなのかもしれない。それで冷気に追い立てられず、ゆったり帰った。木の間の坂道に空気の流れも音もない。なんの気配も生じない。ガードレールのそばで伐られた木のいびつにまるい断面が街灯のなかにさらされており、左の頭上にならぶ木立の向こうには空が見え、その灰色に木の影とはっきり区別されるくらいのあかるさはあるが、雲がかかっているのも明瞭にわかる。平らな道に出ると、今現在の自分のからだの感覚から離れず密着するようにして、けっこう現在に集中するようにして歩く調子におのずとなった。公営住宅の棟の脇からひらいて見通されるながめに、近間の家は影と化しており、おなじく黒ひといろの純粋さに塗りこめられて還元された木々の壁と、実際にはかなりの距離をはさんでいるはずだが空間を越えて融合し、その彼方に市街のマンションが灯すオレンジ色の点光群や、川向こうの地がちらほらいだいている白や赤の明かりたちがつつましく覗く。(……)さんの宅の前にかかると、道の左の、雑多な草に覆われている上り斜面から、ガサガサ音が立つ。鳥か何かいるようだが、むろんまったく見えず、ほかに気配のない夜道で音ばかりがとらえられる。鳴り方からしてあまり大きなからだではない、鳥か小動物のたぐいだと思われた。
  • 帰宅するといつもどおり手を洗ったり着替えたりしたのち、休息。NotionをひらくとOfflineの表示が出て、二月の記事が三日分までしかあらわれなかった。ホームページにアクセスしてもつながらない。こちらの回線の問題かとも思ったが、ほかのページは問題なく見られる。どうなっているのかと情報をしばらく探り、Twitterの公式アカウントみたいなところを見ると、それが何を意味するのかこちらにはわからないのだがDNS issueとやらに対処しているところだ、というような知らせが投稿されていたので、じきに直るだろうと落としてだらだらした。
  • その後、もう零時も間近になってから食事。夕刊もしくは朝刊から何を読んだのかおぼえていない。いや、思い出した。まずひとつ、大江健三郎が自筆原稿一万枚以上を東大に寄託するという話があった。「死者の奢り」の、あれは冒頭なのかわからないが有名な部分で、以前(……)くんも会合のときに読んでくれた、死者たちは水槽のなかでうんぬんかんぬん、みたいな記述は、最初は主語が「彼らは」だったのを「死者たちは」に直しているということがわかるらしい。草稿研究に大いに役立つだろうと。もうひとつには、二面の「にほんご」とかいうシリーズに乗代雄介が取り上げられていた。「旅する練習」は女子高生だったかが年上のよくわからん男性と利根川沿いを茨城県に向かって歩くみたいな筋立てらしく、それは実際にみずからが何度か徒歩行をした経験をもとに書いたと言う。いいなあ、と思う。俺もそういう、長距離歩行をしてそのときに見聞きしたものや思ったことなどを全部盛りこんだ小説書きたいわ、と。ただ、こちらの場合は日々の文章で多少それをやって満足してしまっているところがあるので、小説にするならもっとべつのやり方や要素が必要になる気がする。乗代雄介は一〇代の頃からずっと気に入った文章気になった文言などを手書きでノートに写す習慣を持っていることで話題になっている、と書かれてあった。書き写しの力はまちがいない。こちらは手書きまでは行けず、コンピューターとキーボードだが、こちらが多少なりとも文章を書けるようになったのはまちがいなく読んだ本の書抜きを習慣化したからである。これは(……)さんがやっているというのを、当時遭遇したばかりだった「(……)」を読んで知り、真似したものだが。いや、そうではなかったか? それ以前、大学時代から、多少はやっていたような気もする。ただいずれにせよ本格化したのは読み書きをはじめてからだ。文章を書く能力をつけたいと思うひとにとってやるべきことは本質的には二つしかない。毎日ひとの文を読んで自分の文を書くことと、他人の文章のうちで気になった言葉を写すことだけだ。
  • 母親は炬燵に入ってメルカリを見つつもうとうとしていたはず。食後は入浴。風呂に入りながら、もしくはそのすこし前からだったか、あるいは帰路を歩いている途中にすでに思っていたような気もするが、やはり日々の文章以外に、作品としての言葉をかたちづくらなければならないと思う。端的に言って、仕事をしなければならない。夕刊で大江健三郎についての記事を読んだり、乗代雄介を取り上げた記事を読んだりしたことも影響しているのだろうが、結局のところこちらはまだ作品としての言葉をいままでちっとも書いてきていないわけだ。日々の文章は日々の文章でやりたいことだし、これを続けるというのはいまのところこちらの生におけるベース事項だが、それをはなれた言葉のつらなりも生み出していきたいという気持ちは明確にある。これは所詮は記録であって、作品ではない。作品と呼ばれるに値するテクストとはなんなのか、よくわからないし、作品をつくることと記録を続けることのあいだに序列をもうけようという気もないのだけれど、自分の感覚として、日々の文章を作品と言うことができないのは確かだ。昔は作品としての日記を書きたいとか、この文章を自分の第一の作品にしたいとか思っていたような記憶があるが、そういう気持ちはいまはない。記録は記録だ。つまるところ、二〇一三年から合間一年中断をはさみながら、基本的には毎日かならずなんらかの文を綴ってきたけれど、それはそれだけのことで、俺はまだやるべきことを何もやっていないぞと思ったのだった。べつにやるべきことをかならずやらなければならないとも、それに多大の労力を捧げなければならないとも思わないが。日々の文章をはなれた言葉のつらなりと言ってべつになんでも良いのだけれど、小説はいますぐ書きたいという気にはなぜかなっていない。それよりもどちらかと言えばまず詩をいくつかつくってみたい気持ちのほうが強く、あるいはTo The Lighthouseを翻訳しなければという気持ちのほうがまさっている。さしあたりは詩と翻訳の二つを仕事として引き受け、なるべくそちらのほうに向かっていくようにしたい。
  • 風呂を出たあとは、たしかだいぶ疲労感があったのだったと思う。それで休身している。二時を越えると、疲労を押して日々の記述に。前日分をさっと仕上げ、この日のことを五〇分綴った。するともう三時半前に至ったので、コンピューターを落とし、新本史斉/F・ヒンターエーダー=エムデ訳『ローベルト・ヴァルザー作品集 1 タンナー兄弟姉妹』(鳥影社、二〇一〇年)をほんのすこしだけ読んで就寝。