2021/3/6, Sat.

 映画『オペラは踊る』は、まさにテクストの宝庫だ。なんらかの批評的論証をおこなうときに、カーニバル的テクストの狂った仕掛けが大騒ぎを始めるという喩えが必要になったら、この映画こそが提供してくれることであろう。大型客船の船室、破かれる契約書、ラストシーンの書き割りの大騒動など。これらの(ほかにもあるが、とくにこれらの)場面のそれぞれが、「テクスト」によってなされる論理的転覆を象徴するものとなっている。そして、これらの象徴がすばらしいのは、結局は、それが喜劇だからである。笑いが、最終的には、演技による証明を、証明するという属性から解放するのである。隠喩や表象や象徴を、詩への偏愛から解き放つもの、そしてそれらに論理を転覆させる力があると明示するもの、それは〈突飛さ〉である。フーリエが、いかなるレトリックの作法も無視して例の列挙のなかに入れることのできた、あの「そそっかしさ」である(『サド、フーリエロヨラ』を参照)。したがって、隠喩の論理的な未来はギャグとなるであろう。
 (石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、109; 「象徴、ギャグ(L'emblème, le gag)」)



  • 一一時頃には覚めていたのだが、なかなか起きられず、正午に。夜も明けて六時二〇分に至ってから寝たのだから当然のことだ。むしろ、よく正午で起床することができたと思うくらいだ。今日はすくなくとも四時前には消灯したい。
  • かなり空気が温かいような感触だった。上階へ。両親とも不在。お好み焼きがつくられてあったが手をつけず、性懲りもなく卵を焼くことに。ハムはないので冷凍のこま切れになった豚肉を使う。米は残りすくなかったので全部丼に盛り、焼いた肉と卵をその上に。卓に移って醬油を混ぜながら食す。新聞では橋本五郎神崎繁について書いていた。読売新聞の書評委員として交流があったらしい。二〇一六年に亡くなったとあって、この記事を読んでいるあいだはどうとも思わなかったが、いま考えると、もうそんなに経っているのかと思った。神崎繁が亡くなってすぐだったか、あるいは一年か二年くらい経っていたかもしれないが、図書館にあった彼の著作を読んだことがある。タイトルをおぼえていないのだけれどギリシアまでさかのぼり、またヴィダル=ナケなど引きつつ記憶の問題を扱ったりしていたような記憶。ヴィダル=ナケという名前はそこではじめて知り、引かれていた『記憶の暗殺者たち』をその後(……)書店で入手することになる。わりと綺麗な表紙の本で、なんとかの政治学、みたいな題ではなかったか? なんとかの部分には、なんか「抗争」みたいな意味の語が入っていたような気がする。この本も当時は難しくてよくわからなかったのだが、いま読めばまた違うだろう。橋本五郎の文は、去年だか、わりと最近出たらしい神崎繁のエッセイ集を取り上げて、河野與一『学問の曲がり角』にも似て、哲学方面の知見を盛りこみながらも平易で楽しい日常生活についての本だ、みたいなことを言っていた。その後、昨年「図書」に載せられた神崎氏の連れ合いの記事を読んでも、氏の人柄や生活がしのばれて思わず彼女に電話をかけた、という話。
  • くだんの神崎繁の著作は、『内乱の政治哲学 忘却と制圧』(講談社、2017年)だった。
  • 食器を洗って風呂も洗うと帰室。Notionを準備し、一時直前から音読。「英語」。おおよそ一時間で499番から531番まで。ひどく夜ふかししたわりになぜか心身は落ち着いている感じがあり、力を抜いてゆっくり読むことができた印象。二時を越えてトイレに行くと母親が帰ってきていた。洗濯物を入れるようだと思っていたが、このときには薄いけれど陽射しが出てきており、まだ出しておく様子だったのでまかせて帰還。「記憶」のほうも二〇分だけ読んだのち、なんとなく兄の部屋の本棚を片づける気になった。積み本を置くスペースが自室になくなってきた現状、兄の部屋にあるどうでも良いような本をどかして、そこにこちらの蔵書をいくらか移そうと前から目論んでいたのだ。それであらかじめもらっておいたいらない段ボール箱に棚から取った本をおさめていく。そうすると四つくらい区画が空いたので、自室から書を持ってきてうつしていった。持ってきたのは買って袋に入れたまま放置していたものや、床の上に積んであったものたちである。袋に入っているとタイトルの文字すら目に入れる機会がなくなるから、買った本を忘れてしまい、したがって読書の選択肢のなかにも浮かんでこないので良くないと前々から思っていたのだ。床に積んであるものも、一応見えないこともないがおおむね同様。物理的に本を持っているのが良いのは、ふとしたときにその姿が目に入ることで記憶され、ほかのときに思い浮かんだり、興味がつながったりすることだ。電子データではそういう把握の仕方はたぶんやりづらいはず。そういうわけで本を一冊ずつ取り上げ、ティッシュで埃を払いながら棚に置いていくが、当然そのうちに鼻がムズムズしてくしゃみが出はじめたので、いったん中断してマスクを取りに行き、鼻腔を防護してからまた続けた。本の置き方は、縦向きに立てるのではなくて横向きに寝かせるのが基本で、スペースの奥に単行本、手前に文庫本を積む。そうすれば文庫の脇から奥の背表紙が一部見え、わざわざ手前を動かさなくとも奥に何があるかわかるというわけだ。それでけっこううつし、おかげで自室の床の上に本が積まれている、という状態を解消することができた。すばらしい。埃がたくさん出現したので掃除機をかけてひとまずOK。兄の部屋の棚には不要なものがたくさん詰まっており、まだ半分も奪っておらず、まだまだ占領できるので、またそのうちにやりたい。
  • その後、アコギをいじって主にAブルースを適当にやったのち、四時四〇分からベッドで休身。その前、片づけを終えて自室にもどってきたときに、携帯を見ると(……)くんから久しぶりにメールが入っていた。こちらからも連絡しようしようとたびたび思っていたのだが、なかなか意思を実行にうつすことができずにいたのでありがたい。読書会をオンラインで再開するか、そうでなくとも近況を聞きたいと思っていたのだけれど、メールによれば昨日付けで退職したと言い、それというのも強迫神経症のたぐいになってしまい、文章を読んでも意味が容易に取れなくなったために業務ができなくなったから、ということだった。鬱症状期のこちらとおなじではないか。その場で返信。本人も自分で言っていたが、こちらからもゆっくり休んでくれ、とかけておき、精神疾患においては基本的には義務から離れた時間を取ることがまず重要だと思うと言っておいた。症状や精神状態がどのくらいの感じなのかわからないが、話ができるようならしたい。それなので、気持ちが向くようだったら良いときに誘いをくれと締めておく。
  • その後、ベッドでウィリアム・フォークナ―/藤平育子訳『アブサロム、アブサロム!(上)』(岩波文庫、二〇一一年)。翻訳が、悪いということは全然ないのだが、こまかいところで主述の対応とか助詞などが完全でないところが見られ、こなれていないように感じられる瞬間もあって、ほんのすこしだけ引っかかる。とはいえ、ダッシュとか括弧を使って長くなることが多いので、フォークナーの原文ももしかしたら多少乱れているのかもしれないが。副詞句のたぐいが完全に適切とは思えない箇所にあるというか、修飾先からちょっとはなれた位置に挿入されているようなこともあって、これここより次の句のあとに持ってきたほうがつながりが良いのに、などと思うことがありもしたが、これはなるべく英語で提示されたままの順序で訳そうとしているということなのかもしれない。五時一六分まで読んで上階へ。
  • 母親は麻婆豆腐の素を使って白菜や肉を炒めている。こちらは小松菜を絞って切り分け、それからアイロン掛け。シャツやズボンやエプロン。(……)の祖母の手術が成功したという話があった。いや、手術成功はたしか昨日だかおとといにすでに知らされていて、このときには退院するという話があったのだったか。くわえて、癌も見つかったらしいという情報もあったのだが、どこかと訊いてもわからず、母親の情報はいつも不正確である。癌を取り除くたぐいの手術は年齢やからだの状態をかんがみるにもはやできないので、そのままにすることになりそうだということだ。投薬をするのか否かはわからないが。となるとたぶんそれほど長くはないはずで、母親など、もう九〇だからしょうがないよねえ、よくがんばったよといつもの言を口にする。こちらとしても特にかなしみをおぼえず、ただ死までの時間がなるべく良いものになってくれればというだけだ。亡くなるまでに最低でも一度は顔を見ておきたい。
  • 米がまだ炊けなかったので、いったん帰室。ふたたびベッドでフォークナーを読む。三〇分少々。それで夕食へ。麻婆豆腐風炒め物を米の上に。その他味噌汁やお好み焼きなど。夕刊は文化面に、宇野重規が最近の民主主義についての新書三冊を紹介していた。山本圭と三浦瑠麗と、あとひとりなんと言ったか忘れたが初見の名前。山本圭中公新書の『現代民主主義』というやつで、主に二〇世紀以降の議論を取り扱っていると。著者が評価するのはさまざまなアイデンティティ集団や社会内成員間の討議を重視するいわゆる闘技的民主主義だというが、このひとはたしかラクラウとムフの訳者だったはずなのでそれはそうなるだろう。いわゆる左派ポピュリズムについての本も数年前に出しており、その際東浩紀が、いまさらこんな動向を評価しても仕方がないだろう、そういうネグリマルチチュードの方法論がうまく行かずに、空疎で抽象的な内容なしの「連帯」として終わったことは自分が『ゲンロン0』に書いたとおりだ、というようなことをどこかで言っていたのを記憶している。Twitterだったか? 三浦瑠麗のやつはこれもたしか中公新書で、『日本の分断』とかいう題だったはず。日本にはもっと「分断」が必要だと劈頭から挑発的な主張をしているらしいが、宇野重規の要約によれば、日本社会は政治的立場の差が比較的小さくてわりと安定しているけれど、それはひるがえせば政権交代を起こすようなダイナミズムが生まれにくく、政治が停滞しがちだというようなことを述べている模様。だから、「分断」とまでは行かず、もっと活発な政治的競争とかイデオロギー的討論とかをもとめ、重視する考えということではないか。「分断」と言ったって、アメリカみたいになってストリートでの暴力的な衝突とかdomestic terrorismが多発するようになったらまずいだろうし、三浦瑠麗だってたぶんそれは望んでいないだろう。最後のひとのやつは岩波新書で、「民主主義」ではなくて「デモクラシー」という語をタイトルに使っていた。空井護、みたいな著者名だったような気がする。中身としても、「デモクラシー」はそもそもデモス(民衆)の支配という意味だから「イズム」ではないわけで、したがって「民主主義」とは違う、とか、わかりやすくも根本的な問題を取り上げているらしく、だから宇野重規は、帯の紹介文にはこれで知識がすっきりと整理される、みたいなことが書かれてあったけれどむしろ読者は良い意味での困惑を得ることになるだろう、と評価していた。
  • 食器を片づけて茶を用意すると帰室。ボールを踏みながら下の記事を読んだ。

まだ底冷えのする3月12日の深夜、クルド人たちを含む多くの人々が品川の東京入国管理局で警官らと対峙していた。

収容者の命に関わる問題が生じているので、東京入管前にすぐに集まってくれという呼びかけがあったからだ。

東京入管に収容中のクルド人難民申請者、チョラク・メメットさん(38)が12日に極度の体調不良となり病院での診察を訴えたにもかかわらず、家族と支援者が呼んだ救急車が、医師資格を持たない入管職員の勝手な判断で、2度も追い返されるという事件が起きていた。これに対する抗議が、50人ほどの有志らによって、入管前で夜通し行われたのである。

この救急搬送拒否事件と抗議行動がSNS上で話題となったことで、翌13日の国会質疑において国民民主党源馬謙太郎議員と日本共産党藤野保史衆院議員が取り上げ、事件発生から30時間後になってやっとメメットさんは病院に運ばれ、脱水症状だと診断された。

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全国の入管内では収容者に対する非人道的扱いが起き続けてきた。東京入管では2017年6月、虫垂炎の手術をしたばかりのトルコ人男性収容者が患部の痛みを訴えていたにもかかわらず、約1ヵ月もの間診療を受けさせなかった事件もあった。

2018年4月には、茨城県牛久市にある東日本入国管理センターに収容されていたインド人男性のディパク・クマルさん(当時32)が、9カ月にもわたる長期収容の末、自殺した。

難民認定申請中に在留資格を失って収監されたクマルさんの死を受けて、牛久入管では被収容者約70人がハンガーストライキを、その他の入管収容施設内でも処遇をめぐり抗議が行われた。2007年以降、全国の入管施設内で死亡した収容者の人数は13人におよぶ。

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戦前、日本の入国管理は、警視庁や各都道府県の特別高等警察特高)と同様に内務省が所管しており、警察行政の一環として入国管理が行われていた。

1945年の敗戦にともない、占領軍によって内務省は解体された。それにともない特高警察も解体されたものの、おもに大日本帝国内での市民だった朝鮮人や外国籍の者たち、そして共産主義者らを取り締まっていた官僚たちの多くが公職追放を免れたことで、戦後の初期から出入国管理業務に携わる部署の一員として引き続き雇用されることとなった。

これについて国際法学者の故大沼保昭は、敗戦直後の占領期に出入国管理体制に携わった人々からのインタビュー調査を行っている。

調査の結果、入管業務従事者とその周辺のかなりの部分が旧特高関係者で占められており、とりわけ在日朝鮮人らに対する強い偏見や差別観をもち、入管業務対象者に対してはつねに公安的な発想で接していたことが、明らかとなったという [1: 大沼保昭単一民族社会の神話を超えて』東信堂、1986年、30頁、260頁] 。

戦後初期の入管担当者に聞き取りをした故大沼の表現を借りれば、旧大日本帝国の植民地下にあった在日韓国・朝鮮人、台湾人に対する管理と差別意識がそのまま「外国人と日本国民の間に差別があるのは当然」という形で正当化され、また悪名高い戦前の特高警察が主要な担い手であったことから「戦前の感覚」が存在して、引き継がれたというのである [2: 大沼、同上、265頁] 。

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実際に国際社会のなかで難民の定義がしっかりと定まりパラダイム転換が起きたのは、1951年に国連全権会議において各国に採択された「難民の地位に関する条約」、いわゆる「難民条約」においてである。

同条約では、第二次大戦後も引き続き発生する難民に対して、人権と基本的自由を保障し、難民の地位に関する従来の国際協定等を修正・統合した。これとともに、適用範囲と保護の拡大をするために難民と無国籍者の地位を定めており、今日まで難民一般の概念を規定する基本線となっている。

難民条約の定義によれば、難民とはまず

「人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有する」

がゆえに、

「国籍国の外にいる者であって、その国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まないもの」

である [3: 外務省人道支援室『難民条約』、外務省国内広報課、2004年、35頁] 。

社会的マイノリティであるがゆえ、ないしは政治的な迫害事件の結果として、常居所であったはずの国の外にいる無国籍者に対して、難民条約は開かれている。

この基底となっているのは、1948年に国連総会で承認された世界人権宣言である。

同宣言の第2条1項は「すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる」とあり、同項の原則が難民条約の前文でも改めて確認されている。

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戦後の難民をめぐる我が国の難民受け入れ状況はどうだろうか。

過去には難民に対して大きく門戸を開いた時期があった。1970年代後半にアメリカの失策であったヴェトナム戦争終結にともない、ヴェトナム、ラオスカンボジアインドシナ三国から逃れた「ボート・ピープル」と呼ばれる人々を約1万1千人受け入れたことがある。

だが、我が国は長年のあいだ1951年の難民条約にも未加盟で、政治難民もふくめて対応できていなかったこともあり、国際世論の非難の的となってきた。我が国が難民条約を批准したのは1981年になってからのことである。

その後2010年度からの3年間で、「第三国定住」プログラムを、アジアで初めて90名のミャンマー難民に対して行うようになった。これは、一時的に他国へに避難しているものの本国への帰還が難しく、第三国で定住することが唯一の安全かつ実行可能な解決策である場合に難民を受け入れるプログラムだ。

その結果、2010年には1202人だった難民申請数は、アラブの春と2015年の難民危機に関連して毎年前年度比で50%近く伸び、2017年には1万9629人(難民認定数は20人、難民とは認定しなかったものの人道的な配慮を理由に在留を認めた者が45人)にまで増加した [4: 法務省入国管理局「平成29年における難民認定者数等について」、2018年3月23日。2019年3月27日閲覧] 。

続く2018年の申請者数は1万493人(そのうち難民としての認定数は42人、難民とは認定しなかったものの人道的な配慮を理由に在留を認めた外国人が40人)となった [5: 法務省入国管理局「平成30年における難民認定者数等について」、2019年3月27日。2019年3月27日閲覧] 。

申請者数が減少した理由は、2018年1月以降、入管がその相当数が就労目的の「濫用・誤用的」な申請であるとして、申請者の在留や就労を制限するといった、申請数を抑制するための措置を強化したためである。

このように入管法上の難民認定手続きの姿勢は、ボート・ピープル受け入れ時に偽装難民がいたことからも受け入れに消極的なものとなっており、難民は保護するよりも管理するという姿勢のほうが強い [6: 警察庁『平成2年警察白書 特集-外国人労働者の急増と警察の対応-』、 1990年、9頁] 。

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もちろん条約難民として認定されれば、難民条約に基づき在留資格と公共サービスを利用できるが、不認定の場合には人道的配慮などによる一定の不十分な保護しか与えられないのが現状だ。

その結果、再申請のための在留資格は得ても、就労許可や国民健康保険などの公共サービスが受けられないケースも多くある。

日本語学習の機会は難民認定者を主な対象としており、申請者は日本語を学ぶ機会が制限されている。

場合によっては数ヶ月から数年かかる申請結果を待つ間、罹患時には医療費を自費負担し、そののち支援機関による払い戻しを待たなければならない。就労許可が下りなければ収入を得られず、医療へのアクセスは事実上絶たれてしまう。

  • その後、James Balmont, "'Gekimation': Japan takes a post-Ghibli leap into another dimension"(2021/1/18, Mon.)(https://www.theguardian.com/film/2021/jan/18/gekimation-ujicha-japanese-animation(https://www.theguardian.com/film/2021/jan/18/gekimation-ujicha-japanese-animation))もすこしだけ。そうして今日のことを書き出し、The Doobie Brothers『Minute By Minute』を聞きながら八時半過ぎまで記すと中断して、「記憶」をふたたび読んだ。BGMはEaglesHotel California』。「記憶」記事は英文メディアからの引用が続き、日本語が全然出てこない。九時過ぎまで音読して風呂に入ろうと思ったのだが、階段を上っている途中で居間にいる母親が入るよと言うので了承して先をゆずり、食後にいただいた白玉(母親が職場に持っていくとかでつくったものの余り)が入っていた容器を洗うとねぐらにもどってきて、再度今日のことをここまで綴った。一〇時直前。スツール椅子の高さを一番高くしたのだが、このほうが打鍵しているときの姿勢が楽になるような気がする。背があまり凝り固まってこないような。
  • 入浴に行った。風呂の湯のなかでは静止。しばらく、たぶん一〇分には至らないくらいのあいだ静止すると浴槽を出て、冷水を腰から下に浴びせ、湯のなかにもどってまた温まりながら静止する、ということをくり返す。停まって目をつぶっていると、まなうらにイメージが湧いてくるというか、普通に目をつぶったときに視界が完璧に一律に黒で塗り込められているのではなく、そのなかに多少の夾雑物というか、かすかな色味の細片みたいなものが見ようと思えば見えなくもなく、それと黒がある種モザイク状みたいになりながら闇を構成している、というのはたぶん誰でもそうだと思う。その色味の感じが、場所によって、たとえば太陽光を正面から顔に受けているときなど、ほかの場合とは変わるというのも容易に理解されるだろう。瞑想実践者のまなうらにおいてはこの色片がもっと活発に蠢動し、気体的にうごめいてはっきり見えるようになって、これをそちらの方面では「丹光」と言ったりするらしい。ここにスピリチュアルで超自然的な要素は何もなく、たぶんある種の脳波とか脳内物質とかが発生しているしるしなのではないかとこちらは考えているのだけれど、その黒い影と色味とが織りなす曖昧模糊として液状的な混沌のかたちの一部が風景などのイメージに見えてくるというか、単なる黒と色の断片なのだけれど、そこに同時に、自動的に淡いイメージが重ねられ、二重化されて見えてくるような感じ。こういうときの意識というのは、現実にたしかにとどまってはいるものの、同時にそちらのイメージの世界にも半分入っている感じがあり、その点でも二重化されている。要するに、起きたまま夢を見ているような感じ。そういう言い方は感覚としてよくわかる。もうすこし夢のほうにすすむと、断片的なイメージだけでなく、物語的場面の展開がはじまったりもして、こうなると実際に寝ているときの夢とさほど違いはない。ただそういう場合、目をひらくと、どういう物語やイメージだったかというのはだいたいいつも完全に忘れてしまう。精神状態がもっと深まるとたぶんもっとイメージがはっきり実在的に見えるようになると思われ、そういうときの状態はきっとヤクをキメたときとおなじような感じなのだろう。瞑想者のなかには瞑想中に仏とか神のようなイメージが目の前にあらわれて、超越的存在が顕現したと言って興奮し狂喜するひとがいるらしいが、それも浮かされた脳が生み出した幻覚だろう。おそらくは呼吸をもうすこしいじって操作すればこちらもそういう領分にいけるのではないかという気もするが、べつにそちらに行きたいわけではない。こちらにとっては能動性を殺して何もせず停止するというのが瞑想の定義だ。したがって、呼吸操作など無用かつ余計である。
  • 最初のうちはそういう感じでイメージとたわむれたり、あと換気扇の音を聞いたりしていたが、後半では詩篇めいたものが思い浮かぶようになっていた。幽霊がそこらじゅうにいて友だちになる話など。ともあれ静止するのは良い。やはり一日のなかでいくらかはそういう時間を取らなければ。そうでないと時間が減速しない。しばらく静止すれば心身もあきらかに落ち着き、しずまり、統合的にまとまる。とりわけ風呂のなかでやるのは気持ちが良くて良い。ずっとできる。
  • 出てもどると、一一時半から二日の記事。零時をまわって完成。その後ベッドで休息。長くだらだらした。二時半前からまた活動。熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波書店、二〇〇六年)を書き抜きしたあと、三日の記事を書きすすめる。このときRadiohead『Pablo Honey』を流したのだけれど、冒頭の"You"とかあらためて聞いてみると普通に格好良い。"Creep"に代表されるように、このファーストではたぶんうじうじしたネガティヴな感じのことを主にうたっていると思うのだけれど、そのわりに音楽性にはけっこうキャッチーなあかるさがある。
  • 三時半まで書いて中断。そのあとまたしばらくだらけて、四時一三分に消灯。寝る前にも静止しようと思って暗いなかで瞑想したが、九分しか続かず。四時二三分に就床。