2021/3/7, Sun.

 わたしは〈発信者〉社会に生きている(わたし自身も発信者のひとりだ)。わたしが出会う人や、わたしに手紙をよこす人それぞれが、本やテクスト、報告書、パンフレット、抗議文、劇場や展覧会の招待状などを送りつけてくる。書いたり生みだしたりする楽しみが、いたるところから押し寄せてくるのだ。だが、その回路は商業的になっているので、自由な産出のほうは閉塞して、空転し、抑制がきかないようになっている。ほとんどの場合、テクストや芸能は求められていないところへ向かってゆく。そして不幸なことに、出会うのは「知人」であって、友人ではなく、ましてや仕事仲間でもない。その結果、エクリチュールのこの集団的射精と言うべきものは、自由な社会(金銭を経由することなく悦楽が広まってゆくような社会)という〈ユートピア的な〉情景を見ることができるはずなのに、現在は悲惨な状況になってしまっている。
 (石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、110; 「発信者社会(une société d'emetteurs)」)



  • 一一時半に起床。こめかみを揉んでから起き上がった。今日の天気は曇りで、暗くはないが陽射しらしい陽射しはなし。水場に行って用を足してくると、もどって瞑想。最近は起床時の瞑想をサボっていたが、やはり毎日やったほうが良い。一日のなかで静止する時間を取らないと、時間の速度がはやくなってしまう。一一時四一分から五九分まで。よろしい感覚。心身の感じとしてはもうかなりまとまっているしけっこう長く座ったのではないか、というところで目をひらいたのだけれど、やはり二〇分も経っていない。電気ストーブが温風を吐き出す音をそれそのままで、何のイメージにも意味にも変換せず、ただの即物的な物理音として持続的に耳をかたむけることができるようになっている。それを聞いていると落ち着くということもないし、なにかを感じるということもない。単なる知覚のみの無意味さ。ただそれが続く。
  • 上階へ。母親が唐揚げをやるところだと言うので、ちょっと待つことに。ジャージに着替える。今日は風がない様子。南の窓外に見える(……)さんの家の魚の幟も身を浮かべず縦にだらりと垂れ下がっているし、右手のベランダを画すガラス戸に映る洗濯物の色もほとんど動かない。屈伸をしたり、前後左右に開脚をしたりして脚を伸ばしながら待つ。父親が帰宅した。そろそろ食おうと台所に入ると、母親がこれ見ててと言うのでフライパンの唐揚げを管理し、大根の葉の炒め物など用意しながら揚げて皿に取った。卓に移って食事。新聞は中国やミャンマーなど気になる記事はいくつもあったが、とりあえず書評を読む。欄の入り口ではノンフィクションライターの橋本倫史が武田百合子のロシアに行ったときの日記を紹介している。われわれは普段、知らず知らずのうちに平仄を合わせて世界を見、認識し、かたちづくっているが、武田百合子のこの日記はそんなことがまったく考えられておらず、辻褄の合わないことも平気でそのまま書かれていてすばらしい、というような話。平仄や辻褄を合わせるというのは、物語化している、体系化している、別種の物事をつなげて統合的に構成し、ひとつの明解なかたちを要約的に仮構しようとする、ということだろう。人間は誰もそういう精神作用から逃れることはできないが、それによる問題や危険もさまざまある。しかしそういう日記についての評言を見ると、自分の日々の書き物も一応形式としては日記のものを取っているわけだけれど、そのわりにいかにも日記的な断片性が弱く、剝き身のそっけなさみたいなものがないかもしれないなと思った。色々つなげてこまごまと説明してしまいがちだし。武田百合子的なことはべつに狙ってやるものではないと思うし、自分としてもそれをことさらやりたいわけでないのでかまわないが。それにそろそろ、この文章をどのように書くべきかというような戦略性もあまり自分のなかで問題ではなくなってきている。「日記」という語で呼ぶこともしなくなったし。感覚として「日記」という言い方がなんだかそぐわなくなってきたから。最近は「日々の書き物」と言うことが多い。
  • 書評欄本面には中島隆博が、僧侶の本を紹介していた。東日本大震災以後、移動式の「カフェ・ド・モンク」だったか、そういう場をもうけているひとらしく、被災者などの話を聞いて生と死への向き合い方をともに探ったりするようなもののよう。道元が言っていたという四字熟語が冒頭に引かれており、なんといったか忘れたが、要するに瓦礫や石などにも仏心、仏性が宿るという考え方で、その精神をまさしく実践しているのではないか、というような評価。本のなかの印象的なエピソードとして、「地蔵」の話が紹介されていた。災害で夫を失った女性が地蔵をつくったのだがどこかしっくりこないでいたところ、僧侶が眼鏡の線を足すと女性はそこに亡き夫の顔を見て人目をはばからず泣き出した、という話。これは小説だ。
  • この本はいま検索したところ、金田諦應『東日本大震災: 3.11生と死のはざまで』というもの。春秋社。道元の四字熟語はたぶん「牆壁瓦礫」というもの。「しょうへきがりゃく」と読むらしい。
  • テレビは『のど自慢』。ひとが歌をうたうということは良いことだ。下手だろうがうまかろうが、みっともなかろうが格好良かろうが、つまらん音楽だろうがすばらしい曲だろうがそんなことはどうでも良い。人間が歌をうたい、またうたえるということは前提として絶対的に良いことである。自由という概念の意味とはひとが歌をうたえるということにほかならない。ひとに歌をうたうことを許さない国家はこの世に存在する価値がない。全体主義体制が完全無欠なまでに疑いなく愚劣である理由はそこに集約される。
  • 父親の分もまとめて食器を洗い、そうして風呂洗い。出ると茶を用意。急須に湯をそそいで茶が浸潤されるあいだ、開脚しながら待ったが、そのときは『のど自慢』の最後で島津亜矢が"眦"という曲をうたっていた。スコーン、と実にまっすぐ、きれいで厚みのある声が伸びるし、男ぶりというか、歌詞がそういう、いかにも男らしい男の讃歌みたいなやつだったのだが、声をちょっと太くゆがめてざらつきを出すあたりなども危なげなくて、演歌のひとはさすがにうまいなあと思った。
  • 帰室。Notionを準備し、茶を飲みながら、またボールを踏みつつウェブを見る。昨日途中まで読んだJames Balmont, "'Gekimation': Japan takes a post-Ghibli leap into another dimension"(2021/1/18, Mon.)(https://www.theguardian.com/film/2021/jan/18/gekimation-ujicha-japanese-animation(https://www.theguardian.com/film/2021/jan/18/gekimation-ujicha-japanese-animation))を読み終えておいた。そうして一時四四分から、コンピューターをデスクにもどして音読。「英語」。532から549までで四五分ほど。まあ悪くはない。もっと静止的にやりたいはやりたいが。それから上階のトイレに行った。排便して出るとうがいもして、「ユースキン」を手に塗っておく。すると母親が、かゆいの、荒れてるのとか訊いてくるので、荒れてるってほどでもないがとこたえる。主に左手の指の付け根などが一部、ちょっとカサカサしているだけのことだが、「ユースキン」を毎日ちょっと塗っておくとなんだかんだ肌がなめらかになるので良い。
  • 部屋にもどると今日のことを記述。なぜか"More Than Words"のことを思い出しており、それでExtremeが聞きたいような気がしたので、『Extreme Ⅱ - Pornograffiti』をAmazon Musicで流した。昔そんなにたくさん聞いたわけでもないが、"Decadence Dance"とか"Get The Funk Out"は有名だったしよくおぼえている。いかにも汗が飛び散る系の暑苦しいハードロック(ファンク・メタルとか呼ばれていたはずだが)で、タイトル曲の#8 "Pornograffiti"の冒頭で「セックス!」と大声で叫ぶあたりそれがよくあらわれていて昔も笑っていたが、最初の"Decadence Dance"などいま聞いてみてもギターの動き方は普通に格好良いと思う。Nuno Bettencourtはうまい。Gary Cheroneの歌は暑苦しいことこの上ないが。あと、いま聞いていて、#9 "When I First Kiss You"というのが、ウッドベースなど使ってピアノを主にし、ギターも用いずややジャズ風味を取り入れたアーバン・バラードみたいなやつで、こんな曲やってたのかと思った。全然記憶になかった。さらに、#11 "He-man Woman Hater"というのも、冒頭でNuno Bettencourtがクリックだけをバックにしてめちゃくちゃテクニカルな速弾きをしばらくやっているが、これも有名だったような気がする。『ヤングギター』誌とかが取り上げていたのではないか?
  • 三時半過ぎまでで今日のことを現在時に追いつけた。それから昨日のことも記して、四時で記事を完成。そうして調身に入った。BGMとして、なぜか思い出して、くるり『ワルツを踊れ』を流す。#2 "ブレーメン"が実にキャッチーで、きれいなポップスだなあと思う。#3"ジュビリー"も同様に良い香りのキャッチーな曲だけれど、こちらとしてはやはり"ブレーメン"。ちょっと口ずさみながら柔軟をおこなう。筋を伸ばそうとするというよりは、軽く負荷をかけた姿勢を取ってただじっとからだの動きを止めればそれで良いという方法論に立ちかえった。だから、柔軟というか、瞑想の拡張版みたいな感じ。そういう意味での調身。調身というのはたしかもともと禅宗の言葉だったと思うが。調身して調息すればおのずと調心される、とかいう話だったはず。椅子に就いて打鍵していると肩甲骨のあいだあたりの背が張ってきて長く作業できないということを最近たまに書きつけていたが、背をほぐすのには、単純に、両手を頭上に向けてまっすぐ伸ばし上げた状態で静止するのが一番良いのではないかと思った。要するに、ごくごく端的な背伸び。合蹠ほか基本の四種も久しぶりにやったが、これもきっと、毎日きちんと丹念に続けていけば、全般的なからだの柔らかさとか基礎的な状態とかが変わってくるだろう。
  • 柔軟しているうちにほぼ一時間が経って五時にいたったので、上階へ。トイレで用を足す。近ごろは心に余裕があるときは、用を足したあと、ついでに便器を多少掃除しておく。放尿したあとトイレットペーパーで拭くというのはいつもやっているのだけれど、それにくわえて、汚れが目につくところをすこしだけ、洗剤を紙に吹いてこすっておくという感じ。毎回そういう習慣にしてすこしずつ掃除しておけば、おのずからきれいな状態が保てるだろうという目論見。思うに、掃除のコツってそういうことなのではないか。気づいたときとか使ったときとかに、その都度すこしだけやるという習慣をつくるということなんではないか。あまりきちんとやろうとせず、気の向く範囲ですこしだけやるのが良い。
  • そうして台所へ。唐揚げと炒め物が残っているし、父親は会合に行っていて食い物が出るとかいうことなので、そんなに何かつくる必要もないだろうと母親。それで、味噌汁だけこしらえることに。久しぶりにラジカセで小沢健二『刹那』を流した。鍋に湯を沸かしておき、タマネギを四分の三切って投入。調味料をくわえて煮えるのを待つ。そのあいだは洗い物をしたり、歌を口ずさんだり、開脚をしたりしていたはず。タマネギが柔らかくなると味噌を溶かす。このあいだ母親が買ってきた西京味噌と、(……)の祖母が昔つくった味噌とを混ぜる。色味はわりと良い感じになったのだが、しかしあとで食べたところでは、味が薄くてぱっとしないできだった。味噌を入れたあと、溶き卵も投入しておいて完成。それから、冷蔵庫のなかにしまわれてやたら冷えたほうれん草を絞って切る。そのあいだ、母親が、父親が掃除の仕事を辞めることにしたという話を報告してくる。完全に辞めるのか、週一くらいにペースを落とすのかは不透明だが、やはりからだが続かないということらしい。母親はそれについて、だから言ったのに、やめておけばいいって、いつも腰が痛いって言ってるんだから、事務仕事とかのほうが良かったのに、などと口にして、それを聞きながらこちらは苛立つ。当人の自由だと思われることについて、そういう風に外からガタガタ口出しする言葉を耳にすると、こちらはわりと無条件で苛立つ。余計な世話だと思うし、どうでも良いと思う。父親が新たな仕事をしようと思い、からだも痛いから続くかどうか不明ではあったが、とりあえず掃除の仕事をやってみようと考え、実際に何日か働いてみた、そうしたらやはり肉体的に厳しいなということがわかったので辞めることにした。この流れのどこに問題があるのかわからない。父親はみずからの意志でそういう行動を選択し、選択の結果として理解されたことにもとづいてふたたび選択したのであって、そこにはなにひとつおかしな事態も、他人からうだうだ言われるような事柄もふくまれていない。色々試してみれば良いではないか。またべつの職場を見つけて行ってみれば良いではないか。なぜ当人の意志と行動を尊重せず、だからやめておけば良かったのに、などと賢しらなことを偉そうに口にできるというのか。それこそが愚劣さだと思う。そこにこちらは苛立ちを禁じえない。なおかつ、それを口にする母親の語調がいかにも愚痴っぽいトーンだったので、それもおそらく相乗効果を生んでいたのだろう。それで正直、いますぐ口を動かすのをやめて黙れと言いたい気持ちだったが、それを実際に口にするほどのつつしみのなさは回避できたので良かった。
  • 飯の支度を終えると下階に帰り、ギターをもてあそんだ。例によってAブルース。まあわりと流れるようにはなってきているか。そして今日はついに似非ブルースで遊んでいるだけではなくて、曲を弾き語れるようにコピーしておこうという心になり、Bob Dylanが一九七五年のThe Rolling Thunder Revue Concertでやっている"Mr. Tambourine Man"のコードを調べることにした。昔、何か曲を耳コピするときは「聞々ハヤえもん」というソフトを使っていたので、それをまたダウンロード。ショートカットキーの設定で、スペースで再生/一時停止、矢印キーで三秒戻る、を設定できるので、やりやすい。Bob Dylanを選んだのはまさしくこれがアコギ一本での弾き語りだったため。アウトロでブルースハープを吹いてはいるが。弾き語りでない曲を一本にアレンジするのは難しいし面倒臭いし知見も足りないので、まずはもともとアコギ一本でやっている音源を真似るところからはじめて経験値を貯めていくべきではないかという頭。弾き語りでなくてもギターがふくまれているやつとか、あるいは歌でなくてもインストとか、ジャズのソロとか、色々コピーして、そうしてゆくゆくは好きな曲をなんでも一本で弾きながらうたえるようになるというのが理想。Tuck & Pattiみたいなこととかやりたいが、あそこまで行くのは無理だろう。あんなにできたらもうそれで食っていける。ともかくそういうわけで"Mr. Tambourine Man"を聞いたが、コード進行は簡単なのですぐに取れた。このライブ版のキーはCで、たぶんスタジオ版の原曲とは違うと思う。メロディの流れもけっこう変えているし。それで進行を理解し、しばらく練習。本当はピックを使うべきなのだろうが、面倒臭いので手で弾く。しかしリズムがあまりきちんとはまらない。長く弾いて、うまく流れるようにならなければならない。そこに歌も乗せなければいけないわけだし。
  • しかし真面目な練習というものにもはや馴染まない身で、すぐに適当にブルースを弾きたくなって横道にそれてしまう。そうこうしているうちに七時にいたったので切り。LINEにアクセスする。今日、本当は「(……)」のメンバーで通話をする予定だったのだが、書き物もまだ数日分終えていない現状だし、今日は自分のことを優先させてもらおうと思ったのだ。それでその旨頼むと、(……)からすぐに了承が来たので礼を言い、食事へ行った。(……)が久しぶりにちょっと通話に顔見せしたらしかったので、言葉を交わしておきたかったが。
  • 唐揚げの残りや味噌汁などで夕食を取る。かたわら、国際ニュースを読む。ミャンマー情勢をめぐって安保理がオンラインの緊急会合をひらき、米英は国軍を非難する議長声明を出したいと提案したものの、中露が反対してうまくいかないとのこと。議長声明は特に拘束力はないが、原則的に全会一致が望ましいと言う。香港にかんしては、当地の親中派の代表格で、全人代の常務委員だかもつとめている譚耀なんとかというひとが、例の「愛国者」であることを立法会議員への立候補条件にするという改革について述べたと。もちろん歓迎的に肯定したわけだが、具体的にどういう文言があったか忘れてしまった。何か印象に残る言葉があったような気もするのだが。中国関連ではもうひとつ、習近平全人代内モンゴル自治区の代表団分科会に出席し、標準中国語教育を推進するよう述べたという報もあった。去年あたりからそういう動きが高まって、内モンゴルでは反対が起こったがおさえられ、反対派のSNSグループが閉鎖されたりもしているということだし、二〇一七年以来、チベット新疆ウイグル自治区ではもう標準中国語教科書になっているとのこと。
  • 食器を片づけると茶を持って帰室。八時から三日のことを書いた。力を抜いて、かるく、あまり詳しく記さずに仕上げる。そうすると九時前だったので風呂へ。父親が帰ってくる前にさっさと入ってしまったほうが良かろうと。風呂のなかでは相変わらず瞑想的に静止する。たぶん脚の毛をはなれて浮かび上がってくる微小な気泡だと思うのだけれど、脇腹のあたりにぷつぷつ触れる感覚があってくすぐったい。しばらく停まっては出て脚に水を浴び、もどってまた停まるというプロセスを何度かくり返した。目をつぶっているあいだ、時計が秒を打ったり、シャワーヘッドから漏れる水滴が落ちてこまかく響いたりする物音を聞く。それらの組み合わせのタイミング、交錯の仕方が不規則で、聞いていると意外と音楽みたいでけっこう面白いのだけれど、こういう物音を人間は普段、全然しっかり聞いてはいないということがよくわかるなと思った。音そのものを聞くということはないというか、何かの音を耳にしたとき、だいたいそれは自動的にこれの音だと分類されて、理解される。聴取と同時に、そういうふるい分けははたらいており、音が耳に入っているということを意識していなくてもそうである。いま耳にしている物音はたいていの場合、それまでの経験から容易に理解され、分類可能な空気振動なので、自覚の有無にかかわらず、世界の秩序はおのずから安定的に保たれている。そういう自動分類が機能しないような音を耳にした場合は、安心できず、違和感が生じるはずだ。つまるところ、感覚とか知覚というものも先験的に概念と意味に侵入されているのだな、と思ったのだった(概念と意味に「侵入されている」とか「汚染されている」とかいう言い方がよくされるが、それは意味以前の世界、もしくは意味の彼方へ向かおうとする根源への回帰に純粋性と真実を見る一種のユートピア思想だろう)。それで安心しているので、われわれは、音そのものを聞こうとするということが基本的にはないし、たぶん聞けないのだと。そうは言っても耳をかたむければ概念的要約に馴染みきらない音の質感、ロラン・バルトの言葉で言ってまさしく「声のきめ」がそこそこ感じられるもので、それはわりと楽しい。
  • 一〇時前に風呂を上がって、自室に帰るとまた書き物をすすめた。適当に、気楽にみじかく書いてさっさと仕上げ、三月三日から六日分まで今日で片づけることに成功。よろしい。今日のこともそのまま書き足していたが、零時を越えるとさすがにからだが疲れてきていたので、中断してベッドに逃げた。ところがそれで、その後ひたすら臥位のまま怠けつづけてしまい、四時半までだらだらしていた。しまったと言わざるをえない。これは良くなかった。やはりベッドにコンピューターを持ちこむのはやめたほうが良いかもしれない。基本的に、寝床は書見の場にしたほうが。まあべつに怠けたいなら怠ければ良いのだけれど。四時三七分から瞑想。明かりを消して部屋を暗くするから意識が曖昧になって保たないのだなと思ったので、今日は電灯をつけたままでおこなった。そうするとたしかにそこまで眠くはならない。ただ、もうけっこうやっただろうと思って目をひらくと、一二分しか経っていなかった。やはり疲労のために、じっと座っているにもいつもより負担が大きいということなのだろう。四時五〇分に消灯・就寝。