2021/4/12, Mon.

 彼が好んで用いる言葉は、しばしば対立関係によって一対になっている。対になった二つの言葉のうち、彼はひとつに賛成で、もうひとつに反対だ。たとえば、〈生産/生産物〉、〈構造化/構造〉、〈小説的なもの/小説〉、〈体系的なもの/体系〉、〈詩的なもの/詩〉、〈透かし模様の/空気のような〉、〈模写/類似〉、〈剽窃/模作〉、〈形象化/表象化〉、〈占有/所有〉、〈言表行為/言表〉、〈ざわめき/雑音〉、〈模型/図面〉、〈価値転覆/異議〉、〈間テクスト/コンテクスト〉、〈エロティック化/エロティック〉、など。(……)
 (石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、191; 「価値 - 語(Mot-valeur)」)



  • 一〇時頃に定かな覚醒。その前にも覚めていたが。窓外に声が生まれて、(……)さんがやって来て父親と話しているのを認知した。(……)さんは、何かの種かあるいは道具か買いに行きたいらしく、乗せていってくれないかと頼み、父親も了承していた。(……)さんはここまでたぶん普通に車で来ているのではないかと思うのだが、乗せていってほしいというのは場所がわからないということだろうか。農協かカインズかと父親は言っていたが、どちらに行ったのかは知らない。あるいはもしかしたら、車ではなくて電車で通っているのか? あまりありそうでもないが。父親が植木に水をやるのを終えるまでのあいだ、二人はトマトは難しいんですよね、なかなかうまくできなくて、とかなんとか話していた。わりと仲が良い様子。
  • こめかみやら何やらを揉んで、こちらは一一時一〇分に離床した。今日はだいぶ温かい。天気も良く、寝床にも久しぶりに濁りや混じり気のない陽射しが入ってきていた。水場に行ってきてから瞑想。一一時一九分から四五分まで、長めにできた。起き抜けだと脚がまだ固いので多少やりづらいが。やはりなるべく多く、一日のなかで瞑想する時間を取ったほうが心身がまとまって良いのではないかという気がする。あまりやりすぎてもまずいだろうが。だが瞑想とは言い条、要するにただじっとして休んでいるだけなので、べつに大丈夫か?
  • 上階へ。昨日の肉とネギの炒め物や大根の味噌汁で食事。今日は朝刊が休みなので日曜日の分をまた見る。書評欄入り口の重田園江の紹介を、昨日はきちんと読まなかったので読む。映画にかかわる本を紹介するとあり、イ・チャンドンの『バーニング』の原作になった村上春樹の「納屋を焼く」が入った短編集や、おそらくその村上春樹が元ネタというか参照源にしたのだろうがフォークナー「納屋を焼く」が入っている短編集がまず挙げられていた。次に、なんとかハーバートというひとのSFである『DUNE 砂の惑星』というやつ。これはチリの監督ホドロフスキーが(どうもデヴィッド・リンチと一緒に?)映画化しようとしたのだが、頓挫したと言う。その際の制作過程がドキュメンタリーになっているらしく、商業性度外視でとにかく撮りたいものを撮るんだというホドロフスキーの熱情にあてられる、とのこと。オーソン・ウェルズサルバドール・ダリミック・ジャガー出演、ピンク・フロイドが音楽担当、という計画だったらしい。いま調べてみると、ホドロフスキーとリンチが一緒にやったのではなく、もともと一九七三年にホドロフスキーがやろうとしたのだけれど頓挫して、そのあと一九八四年にリンチが映像化したのだ。これは失敗に終わり、「ホドロフスキーは小躍りして喜んだ」と記事中、書影の下に書いてあった意味がよくわからなかったのだけれど、そういうことだったのだ。原作は、「映像化を拒むほどの傑作」とあったのでちょっと気になる。ハヤカワ文庫から出ている。最後にアンドレ・バザンオーソン・ウェルズ』。バザンは名前だけは知っている。映画批評家としてはかなり初期のひとではなかったか。「被写角深度」なるものを論じて熱弁を奮っているとかいうから、形式面や技術面に大いに注目するひとなのだろう。
  • 食器を洗い、風呂も。父親帰宅。浴槽を擦り、鏡もついでにこすっておき、出て、茶を用意して帰室。昨日今日とさっそく書いて一時前。今日は三時台には出る。徒歩なら三時過ぎくらい、電車なら三時半過ぎくらい。天気が良いので歩きたい気がするが。
  • ベッドで脚を揉みながらウィリアム・フォークナ―/藤平育子訳『アブサロム、アブサロム!(下)』(岩波文庫、二〇一二年)を読んだ。けっこう進む。347くらいまで行って、あと四〇ページほどで終幕。物語も佳境というか、ヘンリーとボンの関係、前者による後者殺害の真相があきらかになりつつあり、劇的ダイナミズムが醸し出されている。ヘンリーは一八六一年のクリスマスに父サトペンからボンが彼の息子、すなわちヘンリー自身の兄だということを知らされる。で、ヘンリーはそれを本当だと理解しながらも、信じないと言って出奔する。それまでヘンリーはボンをまさしく兄のごとく慕っており、妹ジュディスと結婚してもらうつもりでいた。ところがそうなると近親相姦になってしまう。彼の受けてきた教育や育った文化的環境からして近親相姦は許されないので、それでヘンリーは悩み、考える時間をくれと言って先延ばしにしているうちに南北戦争がはじまる。一方のボンのほうはと言えば、当人がジュディスに対して明確な愛情を抱いているかと言えばそうでもなく、ただ復讐のためにジュディスと結婚することを考えている。復讐と言ってもそれはサトペンに捨てられた母親にとっての意味合いとおなじではない。つまり母親の恨みを晴らすかたちでそうしようとするのではなく、彼にとってはただ、サトペンが自分を息子だと認めるようななんらかの言葉や合図をまったくもらえなかったことが引っかかりなのだ。何か一言だけでも、言伝てでもくれれば、俺はサトペンにもヘンリーにもジュディスにも二度と近づかないと自分から申し出たのに、と彼は明言している。だからそれを「復讐」という語で言うには大きすぎるかもしれないし、ボン当人も自分がジュディスと結婚しようとすることを「復讐」という言葉では言い表していなかったはず。ただ結果としては、母親が望んでいるだろうことと一致する選択をボンはすることになるわけだ。ボンがジュディスと結婚することがサトペンに対する復讐になりうるのは、サトペンの野望が、訳者の各章紹介中の説明によれば、「白人男子継嗣による子孫をもうけ、幾世代も続く王朝」を建設することだからだ。そのあたり完全にあきらかには説明されていないようにも思うが、サトペンはその計画を自分の「構想 [デザイン] 」と呼んでいる。ともあれヘンリーとボンの二人は連れ立って南北戦争に従軍し、戦争末期の退却のなかでヘンリーは近親相姦への禁忌感情を克服し、ボンとジュディスの結婚を認めることになる。ところがそれもつかの間、大佐として連隊(ヘンリーたちの部隊もそこに合流していた)を率いていたサトペンに呼ばれて行ってみると、ボンに黒人の血が混ざっているという事実を明かされる。この点は予想通りでちょっとわかりやすすぎる感はあるが、それは良い。近親相姦は許すにいたったヘンリーも、人種混淆 [ミセジネーション] は我慢できない。しかし、ボンはサトペンが何の一言も自分によこさなかったという点にこだわり、おそらくはその一事のみを理由として、ジュディスと結婚する意志を固める。ヘンリーはそれに反対するが、ボンの意志はひるがえることがない。これがヘンリーが最終的に、サトペン家の門前でボンを殺害することになった事情である。アメリカ南部という世界に刻みこまれ、その地域が総体として背負っている「黒人」という集団的スティグマのようなもの、その呪いの悲劇性がもっとも顕著にあらわれ、集約されているのが、「――あなたは僕の兄さんなんです」「――いや、そうじゃない。俺は君の妹と寝ようとしている黒人 [ニガー] なんだよ。君が止めなければね、ヘンリー」という二人のやりとりである。
  • 二時四〇分くらいまで、けっこう長く読んだ。上階へ行き、先ほどの余り物を温めて持ち帰り、食事。そうして皿を洗ってくると身支度。歯磨きをしたり、スーツに着替えたり。そうすると三時を越えてしまって徒歩だと余裕のない時刻に達してしまうので、電車で行くことに。出発前にまた瞑想をすることにした。八分ほど、短く座る。それから今日のことをすこしだけ書き足して出発。
  • コートは着ないが寒くはない。ポケットに両手を突っこみ、手ぶらで鷹揚に歩いていく。風が強かった。右の斜面上の林が絶えず揺らされて、海岸に寄せる波の響きを降らしてくる。振り向いて見上げれば、緑の枝葉が粉のようにして空のなかでうねっている。公団の小公園の桜に花柄か何かの薄紅はまだあるが花弁の白はほぼひとつもなくなって立ち消え、葉っぱの緑がみずみずしくあかるんでいる。坂へ。ここでも風が盛り、樹々は乱れて、圧迫するかのような、ちょっと不安を惹起しそうなくらいの激しい響きがまわりを包囲し、空間を支配して、その音の壁と梢の向こうから、まだ空の下端まで間があって大きくふくらみひらいている純白の太陽が、おそらく薄雲と混ざりながらも意に介さずに光を送りとどけてくる。上って駅へ。階段の上まで行ってホームに向きを変えると、北の丘が視界に入り、丘の麓、林に一番近いところにある一軒は、今どき珍しくというか、昔からそこにあるはずなので珍しくもないが、縁側が設けられている昭和風の家で、その前、軒の下に洗濯物がまだ横一線で吊るされている。ホームに下りて先のほうに行き、日なたのなかで止まった。右方に黒い長髪のひと。(……)にちょっと似ているように見えたが、咳きこんだときの声色からするとたぶん男性のようだった。そのひとはなぜかこちらが止まってちょっとすると、場所を離れて階段のほうに戻っていき、そちらのほうから乗っていた。陽射しが思ったよりも熱かったとかそういう理由だろうか。
  • 乗車して扉際で待つ。降りて駅を抜け、職場へ。労働。(……)
  • (……)
  • (……)
  • それで結局九時半過ぎまで残ってしまい、ようやく退勤。徒歩。黙々と行く。夕方くらいには肌寒さを感じたのだけれど、帰路になるとむしろそうでもない。風はときおりあるが。裏道の途中で空気の動きが絶えて死んだときがあり、そうすると非常にしずかで、そのなかを行くに空間と大気とのあいだに親しみめいたくつろぎが生まれるというか、夜でひとけがないとはいえ外なので一応公的な場所ではあるのだけれど、なんか私室にいるのとあんまり変わらないなという感じの質感だった。むしろ、私室にいるときよりも自由ですらある。自室にいるとどうしたって何かしらのことをやってしまうわけだから。歩行というのは歩行以外に何もする必要がなくなるからすばらしい。
  • 帰宅。両手とマスクを消毒し、くわえて手を洗い、うがいをして、休息。フォークナーをまた読んだ。いよいよ終盤。あと二〇ページくらいで終わる。クエンティンがローザ・コールドフィールドとサトペンの屋敷に侵入するあたり。たぶん年老いたヘンリーが八〇を越えたくらいのクライティに匿われてそこにいる、ということだと思うのだが。零時前に食事へ。飯を支度していると母親が、『コーヒーをいかがですか』っていう漫画知ってる? と聞いてくるので知らないとこたえる。そのドラマがいまテレビに映っているものらしい。飯を食いながらちょっと見たり聞いたりした感じでは実にありきたりないわゆる「ワナビー」の物語、という感じ。若い女性がいて、美術の専門学校に通って画家だかなんだか目指していたようで、しかしなかなかうまく行かず、ところが自分よりものを学んでもいないし実力も大してないと思われる同級生女子がそこそこ有名らしいアートディレクター的なひとと懇意にしていて、ベタベタしている様子を見るにいわゆる枕営業というかそれで気に入られているのではないかという噂や疑いが立ち、なんだそういうからくりだったのかと思って自分もそのディレクターに接近しようとするがうまく行かず、死にたくなって腐っていく、みたいな感じ。いかにも典型的だが、まあ実際こういうことって、ここまでわかりやすくはないにせよ業界に多くあるのだろうなと思う。それにしてもこのドラマは、その女性の復活というか再出発を動かなくなっていたコーヒーメーカーの再生に重ね合わせていたり、その女性が口にする、芸術家の才能みたいな事柄の評価にしても、ウニだのトロだのという寿司ネタのたとえになっていたり、なんか比喩がなんかなあ、という感じ。珈琲屋を称してその女性を励ます主演らしき男性の雰囲気とか佇まいとか調子はわりと好みというか、格好良いひとだなとは思うが。なんという俳優なのか、見たことはあるのだが名を知らない。
  • その後、入浴。済ませると一時前。もどって"Robert Walser Turned Small Lives Into Incredible Fiction: An excerpt from 'Walks with Walser,' a revealing new book about the legendary Swiss writer."(2017/4/1)(https://www.vice.com/en/article/yp9kjm/robert-walser-turned-small-lives-into-incredible-fiction(https://www.vice.com/en/article/yp9kjm/robert-walser-turned-small-lives-into-incredible-fiction))を読む。四月八日だかにも途中まで読んでいたが。Carl Seeligの、Walks with Walserの英訳からの抜粋。けっこう知らん語彙があって読むのにそこそこ骨が折れる。それなので今日も途中まで。「I: "Shall we look at the Hölderlin plaque they put up last year?" Robert waves off this idea: "No, no, let us not bother with such placard nonsense! How repugnant are things that make a show of reverence. And by the way, Hölderlin's was only one of many human fates to play out here. A famous person must not cause one to forget the unfamous."」というあたりなど、たしかにヴァルザーだなという感じ。"A famous person must not cause one to forget the unfamous"。姉のLisaがもう死にそうだから最後に会いに来てほしいと(Seeligを通じて)頼んだのをヴァルザーが躊躇なく即座に拒否するところも載っている。

It's now close to noon. During the hike I finally tell to Robert (it has been on the tip of my tongue for a while but I wanted to wait for a psychologically opportune moment, so as not to upset him) that his sister Lisa, who lies fatally ill in a Bern hospital, had expressed the wish that he and I might come and visit her one last time. He refuses immediately: "Eh, more of this to-do! I neither may nor wish to travel to Bern again, after being thrown out, so to speak. It's a point of honor. I have been staked down in Herisau and I have my daily duties here, which I do not wish to neglect. Only not to attract attention, not to disturb the order of the asylum! That I cannot allow myself… Anyway: sentimental requests leave me cold. Am I not also sick? Do I not also need my rest? In such cases it is best to remain all on one's own. Nor did I want it otherwise when I was admitted to the hospital. In such situations simple people like us must behave as quietly as possible. And now I'm supposed to 'trot off' with you to Bern, of all things? I would embarrass myself in front of you! We'd stand there like two idiots with poor Lisa, maybe we'd even make her cry. No, no, as fond as I am of her, we mustn't give in to such feminine fripperies! It is for us simply to take walks together, don't you think?" I: "But things are bad with Lisa, very bad. Perhaps you'll never see her again…!" Robert: "Well then by God, we'll never see each other again. Such is human fate. I too will have to die alone one day. I'm sorry about Lisa, of course. She was a wonderful sister to me. But her sense of family borders on the pathological, the immature." Later: "We Walsers are all so excessively fragile and hung up on family ties. Haven't you ever noticed: childless couples—and we Walsers are all childless—usually remain somewhat childlike themselves. A person (at least a healthy one) grows up when he cares about other people. Cares give his life depth. Childlessness in our family is a typical symptom of overrefinement, which is also expressed, among other ways, in maximum sensitivity."(……)

  • そのあと七日のことを書いたり、この日のことを加筆したり、ウェブを見たりしたのち、四時八分に消灯。瞑想を試みるが、数分しか保たれず、一四分に臥位になった。