2021/4/14, Wed.

 自然なものという幻想は、たえず告発されている(『現代社会の神話』でも、『モードの体系』でもそうだ。『S/Z』においてすら、デノテーションは言語活動の「自然」に転じると語られている)。自然なものとは、物質の「自然」の属性とはまったくちがう。それを口実にして、社会的多数派が身を飾りたてるものである。自然なものとは、ひとつの合法性である。それゆえ、その自然なものの下にある掟を、すなわちブレヒトの言葉によると「規則の下にある悪弊」を明らかにする批評が必要になってくる。
 そのような批評をすることになった理由は、R・B自身の少数派的な境遇のなかに見ることができる。彼はつねに、なんらかの少数派、なんらかの周辺部に――社会、言葉づかい、欲望、職業、そしてかつては宗教さえもの少数派に――属していた(幼いカトリック教徒たちの多いクラスのなかで、プロテスタントであることに無関心ではいられなかった)。全然つらい状況ではなかったが、しかし社会における存在全体をすこしばかり特徴づけているのだ。すなわち、フランスにおいては、カトリックであり、結婚していて、良い免状をもっていることがどれほど〈自然〉なことか、と感じない人がいるだろうか。公共的適合性のこの一覧表をすこしでも満たしていないものがあると、社会の寝床(end194)とでも呼びうるものの小さな折り皺のようになるのである。
 この「自然なもの」にたいして、わたしは二つの方法で逆らうことができる。ひとつは、わたしのいないところで、わたしの意志に反して作られた権利にたいしては、法学者のように主張することである(〈わたしにも、権利はありますよ……〉と)。もうひとつは、前衛という違反行為によって多数派の「掟」を荒らすことである。だが彼は、二つの拒否方法のまじわるところに奇妙にとどまっているように見える。彼には、違反行為に加担する気持ちと、個人主義的な気質があるからだ。そのことから、合理的でありつづける反 - 「自然」の哲学が生まれて、その哲学にとっては〈記号〉が理想的な対象となっている。というのは、記号によって、恣意的なものを告発したり、そして/あるいは称賛したりすることが可能になるからだし、また、いつの日かコードを消し去るのだと愛惜とともに想像しながらコードを楽しむことも可能だからである。わたしは、ときどきは〈アウトサイダー〉になったりする人のように、そのときの気分によって――同化するか、あるいは距離をおくか――、重くるしい社会性のなかに入ったり、あるいはそこから出たり、できるのである。
 (石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、194~195; 「自然なもの(Le naturel)」)



  • 一〇時四五分頃に意識が立ち戻った。何かしらの夢を見ていたはずだが、忘却。こめかみや腹や腰を揉んで、一一時七分に離床した。水場へ行き、顔をよく洗い、水を飲んでうがいもする。もどるといつもどおり瞑想。はじめたのが何分だったか見なかったが、瞑想を何分間やろうがどうだって良いし、たぶん一五分頃だったのではないか。ウグイスの声を窓外に聞く。座っているうちに小学生が下校するという放送が聞こえてきて、それで一一時半になったことが知れた。そこを切りとして立ち上がり、上階へ。母親はラーメンをつくると言う。ラーメンと言っても即席の、手軽なものだが。こちらはハムエッグを焼くことに。それで母親が麺を茹でるのをちょっと待ち、そのあとからフライパンで調理。前晩の豚汁とともに運んで食事。新聞は原発の処理水放出の話題が引き続き。放出、とか排出、と言われているので、やはりタンク貯蔵施設から直接海に流す、というかたちのようだ。国際面を見ると、イランがSNSで女性を装ったアカウントをつくってイスラエルのビジネスマンをおびき出して誘拐しようとしている、とイスラエル側が言っているとかいう話題。おとといくらいにイラン中部のナタンツというところにある核施設がテロ攻撃を受けて停電したとかいう報があったが、それはエルサレム・ポストなどによればイスラエルモサドがやったという話のようだし、このときもちょうどテレビのニュースで、イスラエルの船が攻撃を受けたとかいう事件が取り上げられていて、この航行船に対する攻撃というのはここ一か月か二か月くらい、イラン側もイスラエル側もやられているらしく、双方それで相手側を非難しており、だから両国の緊張関係は急激に高まりつつある、というところだろう。ほか、イスラーム諸国でラマダーンのためにふたたびの感染拡大が懸念されるという記事。エジプトは昨年はラマダーンの礼拝を禁止したらしいのだが、今年は一日八〇〇人くらいの感染者数にとどまっているので規制を緩くしたと。ラマダーンは装飾品などで消費も増えるので、経済効果を優先したということらしい。ただ、PCR検査が普及していないだけで、実際の感染者数は何倍にも上るだろうという声もあるようだし、礼拝参加者はマスクをつけていないひともけっこういて、話を聞くとコロナ禍はもう終わったと言っているひともいるので、また拡大するのではないかと。トルコはいまかなり拡大していて、一日の感染者数は五万人を越えているらしい。また、ワクチン接種がラマダーン的に違反なのか否か、つまり断食を破ることにならないのか否かが曖昧で、そのために接種をためらうひともけっこういる様子。
  • 父親が線路向こうの(……)さんというひとの家に行ってきたらしいのだが、そこで、(……)さんが亡くなったという情報を得てきたらしい。この(……)さんというひとは、奥さんのほうだったら、たぶんこちらも何度か話したことがある、祖母と交流のあったわりと賑やかなタイプの婦人だろう。最寄り駅の階段で出くわして、そのてっぺんあたりでちょっと話したことがあるのをおぼえている。よくあちらがこちらのことを同定できたものだが。たしかそのちょっと前に彼岸だか命日だかなんだかで仏壇を拝みに来て、そのとき顔を合わせたのでおぼえていた、という経緯ではなかったか? ただ亡くなったのが奥さんのほうなのか旦那さんのほうなのかはっきりせず、そもそも旦那さんはまだ生きているのか、もう死んだのか、どこか病院にでも入っているのか、そのあたりが両親にもはっきりしないようなありさまである。
  • 食器を母親のものもまとめて洗い、風呂も洗う。母親は洗面所で出勤前に歯を磨きながらなんとかもごもご言っている。出るとポットに湯がなかったので水を足しておいていったん下階へ。母親が自室で支度しているようだったので、財布を持ってそこに行き、食費にでも使ってくれと言って一万円をあげた。たかだか一万円程度では大したことにはならないが、それでもまあないよりはマシだろう。以前はわりと毎月ほんのわずかに金を払っていた時期もあったのだけれど、鬱症状で死んで以来途絶えていたので、また余裕のあるときにはあげるようにしたい。
  • 部屋にもどって昨日のことを書き、完成させて投稿。そうして茶を用意しに行く。父親は飯を終えたまま椅子にもたれとどまっていて、テレビはNHK連続テレビ小説がはじまるところで、ということはしたがって時刻は一二時四五分付近であり、主題歌が流れているのに合わせて父親は椅子の背もたれの柱を右手で曖昧に叩いてリズムを取っていたが、そのリズムはきちんと合ったものではなく諸所でずれ、そもそも合わせる気がないような、あまり意識された行動ではないようだった。緑茶を仕立て、ついでにトイレに行って腹を軽くしてから下階に帰り、今日のことをここまで記述。一時一六分。三時には出なければならない。夜はWoolf会。
  • 出勤まで飛ぶ。三時四五分頃に出た。傘を持つ。出る直前に、窓がいくらか鳴っていたので。このときは止まっていたのだが、すぐにまた降りがはじまり、変移のペースがはやい雨だった。まわりの建物が音を立てるなかを行く。風はややあったはずだが寒くはなく、ちょうどよく涼しくて、湿り気をはらんでやわらかい空気が心地良いくらいだった。淡い清涼さ。坂に入るとガードレールの向こうにシャガがたくさん生えて、白さというか雲が全体に溶けこんで希釈された空みたいな色を点じている。ガードレールは緑色だが、汚れており、上端の線の途中がちょっとへこんでいる箇所もあってくたびれた様子。木の下の路面は隅まで濡れたあとが残って黒く沈んでいるが、これはいま降った雨のものではないからこちらが寝ていた午前中にもたぶん降ったのだろう。葉や木の屑がよく落ちている。左側、下り斜面の草木のなかに鳥が二匹、影のようにして見えて、見定めようとしたところがあっという間に飛んで場所を移り、どこに行ったのかまったく見えなくなってしまった。
  • 勤務中のことは大しておぼえていない。(……)雨降りで徒歩も面倒臭かったので駅に入り、ベンチでメモ書きをして、電車が来て乗るとここでは瞑目して休んだ。
  • 帰宅すると休み、飯を食ってWoolf会。翻訳の番は(……)くん。Mr Bankes liked her for bidding him(……)からはじまる段落を途中まで。(……)くんはけっこう苦戦したようだ。かたちを取れていない箇所がややあった。とりわけ難しかったのは、"Suddenly, as if the movement of his hand had released it, the load of her accumulated impressions of him tilted up, and down poured in a ponderous avalanche all she felt about him."のところか。最初こちらは、the load of her accumulated impressions of him poured all she felt about him、と取っていたのだが、つまり、inの修飾句が挟まってall以下がpourの目的語だと思っていたのだが、どうもこれは倒置でall以下は主語ではないかと話のなかで判明した。というのも、そのあと、"That was one sensation."という一言を置いた次に、"Then up rose in a fume the essence of his being."という一文があるからで、ここと対句になっていると見なせばそう理解される。おそらくそちらが正解だろう。
  • イギリス詩は8番の、Thomas Nashe, "Spring"というやつ。牧歌的な、楽しげな春の様子を伝えるもので、賑やかな感じでそこそこ悪くない。鳥の声を模した擬声語の一行がくり返し出てきて妙な感じ。(……)くんが今日は疲れているからはやく終わろうと言って短いものを探していたのでこれはどうかと提案したのだったが、しかし結局そのあと雑談がまたけっこう続き、二時を過ぎたのだったか過ぎなかったのだったか。話はだいたい映画のことだった気がする。(……)くんと(……)さんがエドワード・ヤンの『ヤンヤン 夏の思い出』を見てきたと言い、(……)さんも先日見に行ったと言う。(……)くんは寝てしまったと言うのだが、(……)さんいわく、でもあれなら寝るのも良くないですか、とのことだ。(……)くんは映画館で映画を見るというのがあまり得意ではないらしく、一席に二時間も三時間も押しこめられるのが疲れるし、からだの座りがなかなか定まらなくてもぞもぞ動いてしまうと言う。それはまあわかる。エドワード・ヤンという映画監督は、その名前と、あと『クーリンチェ少年殺人事件』という作品がひところ随分話題になっていたなということしか知らないのだが、台湾のひとで、ただ(……)さんによれば台湾映画というとやはりホウ・シャオシェンのほうがもともと代表的で実際すごいのだけれど、最近はエドワード・ヤンがわりともてはやされるようになってきている、とのこと。ホウ・シャオシェン蓮實重彦が天才だと言っていることしか知らない。YouTubeに上がっていたイベントの対談抜粋みたいな動画で、この、犬がとても良くてですね、ここでこの犬を呼びこんでしまうというのが、やはり天才なんではないかと、みたいなことを蓮實重彦が言っているのを見たことがある。あと、北野武について本人も招いて語るみたいなイベントの動画もニコニコ動画にあったはずで、そこにもたしかホウ・シャオシェンがいた気がするのだが、そこでなんか近所の家の庭に忍びこんで何かの木の上に上ってリンゴか何か食いながらあたりを見下ろしていたときの記憶、みたいな幼少期のエピソードを語っていた気がする。これはおなじソースではないかもしれないが、(……)さんもブログに載せていたはず。たぶんホウ・シャオシェンの話だったと思うのだけれど、もしかしたら違うひとだったかもしれない。
  • ヤンヤン 夏の思い出』がどういう映画なのか、具体的な内容の話はあまり出なかったので結局良くわかっていないのだけれど、(……)さんにも見てもらいたいみたいなことを(……)さんが言っていたような気もする。実際こちらも(……)さんであれ誰であれ、映画館に連れて行ってもらって映画というものを色々見てみたいなという心はあって、このWoolf会はなぜか映画が好きで詳しいひとがやたらと集まっていて頼もしいのだけれど、そのなかでも(……)さんは大学にいた頃は研究していた身だからやはり詳しいだろうというわけで、もうすこし安全に動けるようになったら映画連れて行ってくださいと何度か伝えているし、この会の皆で見に行こうということも口にされている。いずれにせよこちらは歓迎である。映画をマジで見つけない人種で、映画館というものにもたぶん生きてきて一〇回くらいしか行ったことがないと思う。だからメジャーでない作品を流しているたぐいの映画施設とかちっとも知らない。大学時代にもっと行っておけば良かったと思うが、周囲にそういう友人もいなかったし、パニック障害でもあったし仕方がない。ホウ・シャオシェン一気上映みたいなのが新宿のK's Cinemaというところだったか、そこで今月末くらいからやるらしく、地図を見ればディスクユニオンのそばだったので、そこそこ通ったことのある場所なのだが、こんなところにあったのかと思った。まったく知らなかったし、目に留まったこともない。人間がいかに己の興味や常識の範囲内のことしか目に映していないかということがわかる。あとこれは先週だったと思うのだが、岩波ホールジョージア映画をやると(……)さんや(……)さんが紹介してくれたのだった。『ペトルーニャに祝福を』というやつで、しかし違った、これはジョージアグルジア)の映画ではなく、マケドニア出身の監督のものだった。原題が格好良くて、"God Exists, Her Name Is Petrunya"。ジョージア映画というのも一ジャンルというかカテゴリーとしてわりとあるようで、(……)さんが言うには岩波ホールのなかのひとにそっちの映画が好きで流すように尽力しているひとがいるらしい。この日のことに話をもどすと、(……)くんが、Aretha Franklinの映画がやると教えてくれて、検索したところなんとかいう会場で七二年だったか忘れたがやったライブの映像らしい。音自体は音源として出ているよう。『Amazing Grace』というやつだ。それの映像が発掘されたかなにかだと思う。情報を見ればギターがCornell Dupree、ベースがChuck RaineyでドラムがBernard Purdieだというから、この時代のソウル周りではもっとも代表的で最強みたいなメンツである。King Curtisのバンドをしたがえたフィルモアのときもたしかだいたい同じではなかったか? ベースが違った気がするが。で、それを見に行きましょうかと(……)くんが言うので行きましょうと二つ返事でこたえておいた。
  • あとは『エヴァンゲリオン』の話で、(……)さんと(……)さんによればいまやっている完結篇みたいなやつは、なんかあまり釈然としないというか、結局ゲンドウの幼稚な考えにシンジが付き合わされただけじゃん、みたいなことになっているというのだが、こちらは『エヴァンゲリオン』シリーズをひとつも見たことがないのでよくわからない。ゲンドウというのは碇シンジの父親だったはずで、なんかデスクの向こうで重々しげに肘をつきながら両手を組み合わせている、というイメージしかない。『エヴァンゲリオン』シリーズは、これは以前(……)くんが言っていたことだが、作品それぞれが並行世界というかべつの可能性みたいな感じになっているらしく、そのあいだの対応とか相違とか、おのおのの世界での物語の帰趨とか、そういう考察がひとびとによってたくましくなされているらしい。惣流・アスカ・ラングレーというあの元祖ツンデレみたいなキャラクターがいるけれど、彼女がシリーズ中のどこかで死んでいるというか偽物になっている、みたいな説もあるらしい。あと、(……)さんが言っていたことには、今回の完結篇の物語というのは、碇シンジが結局「胸の大きくていい女」を選んだ、という結末になっているとか。「胸の大きくていい女」というのは(……)さん自身の言葉ではなく、作中のたしか式波なんとかいうキャラクターが自分で自分のことをそういう風に言っているらしいのだが、アスカでもレイでもなく彼女を選んだ、ということなのだろうか? そうだとしてその選択がどういう意味を持っているのかこちらにはむろんわからんのだが。(……)さんの感想としては、やはり女性からすると女性の映し方が気になるというか、女性キャラクターの脚のほうから入っていって肢体を舐めるように映していくみたいなカットがあるようなのだが、そういうところなど、お前ら、これ好きやろ? 結局こういうの好きやろ? みたいなアピールを作り手側からされている気がして、なんかみんなそういうのに乗せられすぎじゃない? と思ったとか。それで言ったら少年漫画とかアニメのたぐいとか全部アウトですよねと(……)くんが言ったが、それは実際そうだろう。ただそのなかで、最近のなんとかいう漫画は、まだそのあたり頑張ろうとしている感じが窺えると彼が言ったものがひとつあったのだけれど、なんだったか、『呪術廻戦』のことだったか? 漫画におけるいわゆるラッキースケベのたぐいって一体いつからあるのか、たとえばそれを歴史的に調べる研究なども面白そうだし、大切なことでもあろうし、たぶんもうやっているひとはいるのだろうが、ことによると手塚からすでにあったりするのだろうか? 『ドラえもん』にはもうあるわけだけれど。しずかちゃんが風呂に入っているところに偶然つながってしまう、みたいなあれがそうだろう。ラッキースケベが最初に導入された漫画はなんなのか、またそこでそういう要素が入れられた理由はなんなのか、またそれがその後少年漫画のお約束として制度的に普及していき固定化されたのはなぜなのか、どういう趨勢が働いていたのか、とそのあたりのテーマはわりと重要なことだろう。