2021/4/24, Sat.

 このような矛盾をあなたはどのように説明するのか、どのように黙認できるのか。哲学的には、あなたは唯物論者のように見える(この言葉があまりにも古めかしく聞こえなければ、であるが)。倫理的には、あなたは分裂している。すなわち、身体にかんしては快楽主義者であるが、暴力にかんしてはむしろ仏教徒であろう。あなたは信仰を好まないが、儀式のことは少しなつかしく思っている、など。あなたは、さまざまな反応でできた寄せ木細工だ。あなたには〈自分が最初にした〉という何かがあるのだろうか。
 (石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、215; 「分割された人間か(La personne divisée?)」)



  • 一一時二二分の離床。いつもどおり。覚醒自体はもっとはやい時刻からあるのだが。今日はホラー的な夢を見た。よくおぼえていないのだが、なかなか怖かったはず。殺されるような、そこまで行かなくとも亡霊かゾンビみたいなもののたぐいに攻撃されるような場面もあったはず。
  • 水場に行って、うがいなどしてきてから瞑想。一五分くらいは座ったか? 一一時三二分くらいからはじめて、五〇分くらいに解いた気がする。感触は普通によろしい。それから上階へ行くと、いま米を炊いていてあと一〇分くらいだと言う。ジャージに着替えて屈伸をくり返し、脚の筋をいくらか和らげたあと、髪を梳かしたり、先に風呂を洗ってしまったり。米が炊けるとケンタッキーフライドチキンを加熱して、味噌汁などとともに食事。かとうかず子という女優らしきひとが各地をぶらつく番組がテレビには映っていて、新聞の国際面でロシアがウクライナ国境から兵を撤収させたという記事を見つけながらも、なぜかそのテレビのほうをながめてしまった。番組のあいだのCMでAppleのAirpadなんとかみたいな製品(それがどういったものなのかこちらはまったく知らないのだが)の広告が流れて、これは最近何度か見聞きしているが、なんだかんだ言ってもApple社のCMの音楽っていつもわりと格好良いなと思った。かとうかず子秋葉原を訪れて、WORKAHOLICという完全予約制のワークチェア専門店を覗いていた。完全予約制で、このときは休日で入り口の扉も鍵がかかっていたのだが、頼んですこし見せてもらうことに。しかしこういう番組って、事前に根回しというか、了承を得ておくものではないのだろうか? この番組にかんしては全部ぶっつけ本番なのだろうか。どちらでも良いが、店は海外のメーカーから取り寄せたさまざまなワークチェアが七〇かそこらずらりと取り揃えられており、「チェアコンシェルジュ」なる肩書きで呼ばれる椅子の専門家的な人間が個々人に合わせて最適な椅子を選んでくれると言う。かとうかず子は女優だから、なんかちょっとリラックスしながら台本とか本が読めるような椅子は、と聞いて、それに応じて紹介されたのが、足置きが出てくるとともに、書見台がついているものだった。書見台はもちろんきちんと押さえもついていて、本だけでなくノートパソコンくらいならぴったり取りつけることができる。高いのだろうと思っていたところが一〇万そこそこだったから、まあ高いは高いがたまげるほどではない。べつにこちらはいまのところ作業用の椅子を必要としていないが。もう読むのも書くのも大方ベッドで済ませるし。
  • 食器を洗って、風呂は先ほど洗っておいたので、茶を仕立てて帰室。Notionを準備。Thelonious Monk『Solo Monk』を流して『金井美恵子エッセイ・コレクション[1964 - 2013] 3 小説を読む、ことばを書く』(平凡社、二〇一三年)を読む。読了。一九日に読みはじめて今日二四日に終えたから、そして今日読んだのは二〇ページほどだから、実質ほぼ五日で五〇〇ページほどの単行本を読んでいるわけで、なかなか読んでいる。まあべつにはやさとか量とかもうどうでも良いわけだが。ただ最近は、どんどんガツガツ読む感じにはなっている。それで金井美恵子を読了したあともすぐに次の本を読みだそうと思い、何にしようかなと思って自室だけでなく隣の兄の部屋に置いてある本も見に行って、文学関連が続いているからそろそろ歴史とかパレスチナについての本とか読もうかなとも思ったのだけれど、また、ファーブル昆虫記とかシュナックの『蝶の生活』とかもちょっと気になりはしたのだけれど、結局自室にもどったあと、ベンヤミンを読むかという気になった。ちくま学芸文庫の『ベンヤミン・コレクション』全七巻を数年前にもう全部入手済みで、一巻だけ昔、(……)さんと二人で読書会というか、本を読んできて会って駄弁ることをやっていた頃に読んだのだけれど、この一巻は何を言っているのかだいたいわからなかった。こちらがこのとき読もうかなと思ったのはベンヤミンの批評とか思想的な文というよりは、エッセイというか、それも作家とかについて論を書いてあるものではなく、紀行とか体験を綴るようなたぐいのもので、すなわち「記憶への旅」と題された三巻で、この巻には「都市の肖像」と題されたシリーズなどが入っていて、哲学的論述文というよりはたぶん文学的エッセイの色合いが強いらしいと前々から見てあった。一応ほかの巻も見てみると、六巻目の、「断片の力」という副題だったか、ともかく六巻目が物語とか創作的な方面の文を集めており、七巻目も「〈私〉記から超〈私〉記へ」とかいうサブタイトルだったからそれにふさわしく日記など入っていたはずで、日記はかなり気になるのだけれどまあ当初の方針通り三巻を読むかというわけで読みはじめた。ところで金井美恵子のほうはといえば、この巻はあまり毒舌ぶりがあらわれた文章がなかったなと昨日だか一昨日に書いたが、それは普通に、尊敬していたり交流があったり偏愛していたりする作家や本について書いた文を集めた巻だったからで、だから考えてみれば当然のことで、最後のほうの、深沢七郎『風流夢譚』を紹介しつつ短歌界隈の一部の言語使用を批判するやつとか、島田雅彦が二〇〇〇年だか二〇〇二年あたりによくわからんが当時は皇太子妃だった雅子妃を連想させるような皇室女性と恋愛するみたいな、だから言ってみればおそらく「不敬文学」と呼ばれるようなたぐいの小説を書いて発表しようとしたときに、右翼団体とかからの圧力というか脅しか何かあったのか出版を差し止めたらしいのだけれど、そのときに出された彼の声明的な文章をさんざ腐すみたいなやつとかは普通に生き生きと毒舌を吐いていた。深沢七郎『風流夢譚』にかんしては「『風流夢譚』事件」とか呼ばれている事件がこの小説が出された当時の六〇年および六一年にあったらしく、中央公論社社長の邸宅に右翼的一少年(たしか一八歳とあったか?)が襲撃をかけて、社長は不在だったのだがお手伝いの女性と婦人が殺傷されたということがあったらしく、また大江健三郎の『セブンティーン』もしくは『政治少年死す』もだいたいその頃で、これは全然知らなかったのだけれどどうも当時社会党浅沼稲次郎を殺した少年だか青年だかをモデルにしたというか、その事件を取り入れて書いたものらしく、それもまた右翼の脅迫を受けたのだろうが、そういうこともあってその六〇年付近以来文学界では皇室批判とか天皇風刺とかがタブーになっているという事情があるようだ。『風流夢譚』も夢の話らしいのだが、それは革命の夢で、天皇とか皇后、皇太子らが首を切られてその頭がスッテンコロコロと転がるみたいな描写があるらしく(擬音が正確にどんなものだったか忘れてしまったが)、くわえてそのなかの皇族もしくは天皇の詠む和歌がまるで無内容なものとして風刺されているらしく、だからまあ右派の憤激を買うのは当然と言えば当然だったのだろう。で、ベンヤミンのほうはといえばこれはなかなかなんとも言えないというか、ほかにあまり読んだことがないような感触をおぼえる種類のエッセイで、と言っても一応、イメージも混ざったアフォリズムの気味がそこそこ濃い文学的断章、というような感じか? いま36まで読んでいて、最初の「アゲシラウス・サンタンデル」を通過し、二つ目の「一方通行路」に入っているが。この「一方通行路」はみすず書房からも出ていたはず。「大人の本棚」という名前のシリーズだったか忘れたが、それとはべつだったような気もするが(と書いて思い出したのだが、たしか「始まりの本」ではなかったか? 「大人の本棚」は岩田宏の「アネコルイク村へ」みたいな、あるいは「アネクルイコ村」だったかわからんのだが、なんかよくわからん名前の村についてのエッセイだか紀行文だかとか、あとバーネットの小説とか、あとJ・M・シングの『アラン島』だかを含んだシリーズだったと思う)、あの石原吉郎の『望郷と海』とかカルロ・ギンズブルグの『チーズとうじ虫』とかアーレントアウグスティヌス論だったかが入っている、色合いにしても本の手触りにしても柔らかい感じのシリーズの一冊でたしか出ていたのではなかったか?
  • 三時にいたったところで、今日も労働だからそんなに余裕綽々という感じではないのだけれど、まあ出勤前にアイロン掛けくらいはしておこうと思って上階へ行き、アイロン掛けをおこなう。アイロンをかけるべきものがやたらたくさんあって大変なのだけれど、自分のワイシャツも溜まっていたのだけれど、自分のワイシャツはまあ明日の休日に片付ければ良いだろうと思って両親の服を先に処理していく。そのあいだ母親は仏間のほうで洗濯物をたたむか何かしているらしく、音楽を聞いているようで音痴で下手くそな歌声とも言い難いような歌声がケツメイシの"さくら"を口ずさむのがときおり聞かれる。天気は、めちゃくちゃ晴れているわけでないがまあまあ良く、窓外に雲もあるがあかるさはあって、気温も高くてアイロンを操っていると暑くなるのでジャージの上を脱いで半袖の真っ黒な肌着の格好になった。今日の日記も書きたかったので三時半で切り、今日の勤務に着ていく用のワイシャツ一枚だけは処理したのだが、それを持って下階にもどってきて、ここまで今日のことを記せばいまは四時一八分になっている。
  • 上階に行って豆腐と魚肉ソーセージを持ってきて出勤前の簡素な食事。食べながら(……)さんのブログを読む。二〇〇万ある貯金のうち一〇〇万を暗号通貨にぶちこんで一種の博打をするとあり、この一〇〇万はもう捨てたものとみなして、〇円か一億円くらいかになるまで放置しておくというので、なるほどなあ、そういうのもあるのだなあと思った。暗号通貨とか、株とか、そういう投資とか資産運用とか、まったく興味が湧かないのだが、たしかに神の配剤で万が一一億円得られたら、こちらや(……)さんのような人種はたぶんそれでもう一生どうにかなるんではないか。そう思うとそういう博打をするのも悪くなさそう。まあこちらはいまのところはそもそも博打できるほどの元手すらないが。
  • 食後、二〇日のビデオレターのことを短く書き足し、食器を上階へ。母親はテーブルに就き、アイロン台を前にしつつ、音楽を聞きつつメルカリか何か見ている様子。六時前の電車で行くと言っても聞こえない模様。久しぶりに見た、ここのところ見られなかったと言っていたが、そうか? 靴下を持ってもどると着替え。しかしその前に、『Thelonious Alone In San Francisco』をバックにちょっと柔軟というか、腕を後ろに伸ばして背をやわらげたり、直上にかかげて背伸びしたり、開脚して前かがみになったまま止まる、ということなどをやってからだをすこしだけ温めて、そのあと着替え。五時半直前。
  • 出発へ。上階へ行って便所。排便。そうしてマスクをつけ、やや余裕を持って出た。もう六時前なのだがずいぶんあかるい。南の山はもうさすがに光の色というほどのものを受けてもいないが、それでもしかし黄色味がかったような色合いではあり、けっこうあかるい。あたりもまだ暮れておらず、空は淡い雲が蛇の蠕動のようにゆるく波打ちながら幾筋も引かれて混ざっているものの、その青さはすっきりとしていてまだ昼間のものに近い。十字路から坂道へ。鳥がしきりにさえずっている。音の泡立ちからしてツバメだろう。昨日だか一昨日だか、職場のそばでも電線にとまって鳴いているのを見かけた。坂の入り口に入るとすぐ頭上が(……)さんの宅の段上の縁にあたるのだが、そこにツツジが綺麗に咲いていた。淡いピンク色というか、ピンクというには淡すぎるような、ある種の貝殻の色というか。坂道を黙々とひとりでゆっくり上っていると、前方から下りてきた女性があり、一度見てすこし歩き、もう一度顔を上げると(……)だった。あちらも気づいていてとまっていたので見交わし、挨拶を交わす。(……)それで別れ。実際けっこう時間がやばそうだったので急ぎ、最寄り駅の階段通路に入る頃にはもう電車の入線がはじまっていたのでここでもがんばり、電車が停まって車掌が出てきて発車ベルを押そうというくらいでホームに入れたのですぐ手近の一番端の口に余儀なく乗ったが、乗ってこちらの身が入り切らないくらいですでにドアが閉まったのであやうく背中が挟まれるかという調子で、あぶねえなと思った。土曜日なので山に行ってきた者らが多く、座席は空いていないし扉際も空いていないので仕方なく吊り革につかまり、息を整える。整えるというか、目を閉じて自然にからだの熱がおさまるのを待つ。
  • 降りる。ホーム上もいま乗ってきた電車から吐き出されたひとびとで混み合っており、端の隙間をすすんでいく。階段通路を行くあいだ、あとホームでもそうだったが、高校生の姿を多く見た。駅を出て職場へ。(……)
  • (……)
  • (……)
  • この日もあと、特段のことはなかったはず。特段でないことはその日のうちに書かないとどうしたって忘れてしまう。