2021/5/21, Fri.

 アナクシマンドロスはまた、このアペイロンを「神的なもの」と呼んでいたとつたえられる。その間の消息に触れた、アリストテレスの説明には、哲学的にすこし興味ぶかいところがある。そのことばをふくむ前後を引用しておく。

だがまた、かれらのすべてがこのようにアペイロンをアルケーとして立てたのは、相当の理由あってのことである。というのは、アペイロンがまったく無駄であることはありえず、またそのはたらきはアルケーとして以外にはありえないからである。すべてのものはそれ自身がアルケーであるか、あるいはアルケーから生じたものであるかのいずれかであるが、アペイロンにはアルケー〔はじまり〕はないからだ。〔もしあるとすれば〕アペイロンに限界があるということになる。
 けれどもさらにまた、アペイロンは、ある種のアルケーであるがゆえに不生にして不滅であるからである。というのは、生成したものは必然的におわりをもち、また消滅には、すべてその終局があるからだ。それゆえに、私たちの言うように、アペイロンにはそれの(end12)アルケー〔はじまり〕はなく、むしろそれ自身が他のものたちのアルケー〔原理〕なのであり、これが「すべてを包括して、すべてを統御する」とも思われたのである。〔中略〕そして、このアペイロンが神的なものである。というのも、あたかも、アナクシマンドロスがそう言い、またそのように自然について語る者の多くも言っているように、それが不死であり不滅である〔ように思われる〕からである。(『自然学』第三巻第四章)

 かぎりがなく、不死であり不滅であるものについては、のちにべつのかたちで、エレア学派が語りはじめることになるだろう。アナクシマンドロスの直接の後継者であるアナクシメネスは、師が「無限なもの」と呼んだものを、もう一度あらためて「アエール」(空気)あるいは「プネウマ」というかたちでとらえかえすことになる。アナクシメネスにとってアルケー(principium; causa)となるものは、「無限な空気」である。ことのなりゆきをキリスト教徒の立場から見ると、こうなるだろう。「かれは神々を否定もしなければ黙殺もしなかった。が、かれの考えでは、神々によって空気がつくられたのではなく、神々が、空気から生じたのである」(アウグスティヌス神の国』第八巻第二章)。(……)
 (熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波書店、二〇〇六年)、12~13)



  • 一〇時五七分の起床。一〇時半かそのくらいにはさめており、例によってあたまをころがして首をよくのばした。こめかみまわりももんでおく。天気は白い曇天。水場に行ってきてから今日は瞑想もおこなう。窓外で鳥が無数に鳴き声をあつめてちらしている。一一時六分から二一分くらいまですわり、上階へ。カレーのにおいがただよっている。米をいま炊いている途中だと母親。あとでチンゲンサイを茹でておいてくれというので了承。父親は山梨に行ったらしく、母親がカレーをつくっておいてくれたので、あとはチンゲンサイを茹でてなにかサラダでもこしらえればよいだろう。サラダといって、大根をスライスして生のまま食べる程度のじつに簡易なものだが。
  • 米が炊きあがるまで待たなければならないので、いちど下階にもどっててきとうにウェブをみる。(……)さんからメールが、このときはいっていたのだったかあとだったかわすれたがはいっており、直前ですまないが面談同席のお願いをわすれていたとあって日程もしるされていたので了承。最初は明日の午後二時から。
  • 正午ごろになって食事をとりにいく。カレー。母親は仕事にむかった。新聞を読みつつ食べる。米国がイスラエルにたいして停戦への圧力をつよくしているとのこと。バイデンが一九日にネタニヤフと電話したらしいが、これが今回の件がはじまっていらい四回目で、停戦の要求もしくはうながしをさらに強い言い方にしたらしい。ネタニヤフはそれをうけても作戦を継続すると電話後に表明したらしいが、イスラエルとしてはハマスの戦闘力をなるべく削いで終わりたいというあたまがあるのだろうとのこと。ただ軍内部からはあと数日で作戦は終了するだろうとのみこみが出ているようだし、ハマス側も幹部のひとりがエジプトの停戦案をうけいれて数日内に終わるだろうと言っているようなので、たぶんそろそろひとくぎりにはなる。たたかいと爆弾の応酬が停まるのはひとまずよいことだが、ガザ地区と西岸の苦境はなにもかわらず、どころかもしかするとさらにひどくなってつづくわけで、それはちっともよくはない。今回の件でパレスチナ側がえられたものといって、なにもないのではないか。多数の建物が破壊され、そのなかにはことによると医療施設もふくまれていたかもしれず、また人間が死んだだけではないか。死者はイスラエル側が一三人、パレスチナ側で二三〇人とでていた。
  • 洗い物と風呂洗いをすませて帰室。茶をのんでから下。

 そういった過酷さに、ツイッターではなく、奴隷だった黒人たちは現在でも各地の街頭で「黒人の命を軽くみるな」(*: 音楽批評家のピーター・バラカンはBlack Lives Matterを、黒人の命も [﹅] (あるいはは [﹅] )大切、ではなくこのように訳した。)という抗議を示威するのだが、その一方私たちの国の芸能界では、新アルバム『存在理由』をリリースしたばかりのさだまさしが新聞のインタヴューに答えて、スピーチ・ライターの原稿を読みあげる安倍首相の発言だと言われても不思議ではない、美しく正しい日本を語る。
 「日本という国は、緊急事態宣言を出しても、欧米や中国のような強制力がないですよね。これ、人権が守られているってこと、自由の証しだと思うんです。自粛で感染拡大を抑えられるんだという、日本人の秩序を世界に見せたいですよね。これは自由を守るための闘いなんです [「自粛で」以下﹅] 。」(東京新聞5月10日)自分の発言や歌が世間への影響力を持っていると信じきっている者特有の自信にあふれた厚顔な無感覚である。

  • いったんきって、dbClifford『Recyclable』をながして手と足の爪を切った。すこしばかりやすってなめらかにしておくと、その後ベッドにころがってこの「重箱の隅から」の記事をまたよみつづける。

 「昭和史再訪」 [朝日新聞ʼ13〔平成25〕年12月14日] の記事を書いている記者は、もっと若いのかもしれないが、それでも当時の資料に多少目を通し、インタビューもして、ルポライター五島勉祥伝社編集者の企画で、雑多な資料を集めて2カ月で「ペラペラっと書いた」ということを記事にしている。もちろん、『ノストラダムスの大予言』 [1973年] を読んでみればというより読まなくても、それがトンデモ本であることは自明のことだったはずだ、と当時を知る者としては思うのだが、しかし、当時、終末ブームというか、終末論ブームがあったことは確かで、折からの地震予知ブームと重なった小松左京の『日本沈没』の映画化が「空前の大ヒット」だったと記者は書いているし、そうしたエンタメ系とは趣を異にする左翼・インテリ系とも称すべき作家たちが同人だった季刊雑誌『終末から』(筑摩書房)も刊行されたのだが、70年の終末論ブーム [﹅6] は、田中角栄の『日本列島改造論』(72年)に水をさされつつ、二度のオイル・ショックを経て80年代のバブルの中に消えていったと言うべきだろう。野坂昭如井上ひさし小田実埴谷雄高らが常連執筆者だった『終末から』は、82年に岩波書店から『岩波ブックレットNo.1 反核』として上梓された署名宣言「核戦争の危機を訴える文学者の声明」を境に、当時流行した文化人類学的知的文化人を再集合させた『へるめす』に姿を変え、筑摩書房の路線は『逃走論』(浅田彰、84年)や映画雑誌『リュミエール』(85年創刊)へと一時変更されるのだが、それはそれとして、朝日の記者が書いているように「70年代前半は東西冷戦のまっただ中」と言えるだろうか。72年の宗教的対立と植民地問題がからみあった北アイルランドの「血の日曜日」事件や、ミュンヘン五輪の「黒い九月」事件は後々まで続くが、72年にはニクソンの訪中、75年はベトナム戦争サイゴン政権の無条件降伏で終わり、80年にはポーランドで労組の「連帯」が結成され、やがて東西ドイツの統一、91年のソ連崩壊へとつながる兆候が色濃くなる時代と言うべきだろう。

 つい何カ月か前、テレビの天気予報(生活情報とも疑似科学的教養とも、無難なエンターテインメントとも言える)で、積乱雲のかたまりがいくつも重なってできる鉄床(かなとこ)雲の現象を視聴者の投稿写真で紹介していて、それは核爆発で生じるキノコ雲の形に似ているのだが、それで思い出したのが半世紀以上前、60年代前半の『美術手帖』に、アメリカの現代美術の紹介者であった前衛美術批評家が、芸術家の幻視者的能力について触れ、ヴィクトル・ユゴーの、今にして思えば鉄床雲に違いないデッサンを(多分、オディロン・ルドンの版画やポーの『大ガラス』やフローベールの『聖アントワーヌの誘惑』について触れ書いた文章だったろう)、ユゴーが核爆発を幻視的に予言していたのではないかと書いていたのを思い出した。ノストラダムス研究室主宰者によれば「70年代の日本は科学の進歩と迷信がまだ混然一体の時代」だったのだが、それはそれとしてこの場合、前衛美術批評家は雲の種類など知らない無知を根拠に、幻視者の見た予言的映像と思い込んで、大小説家の予言能力に魅惑されたのだったが、アートに「予言の力」があると上擦(うわず)って考えるのは今日の「現代アート」の状況においても変わってはいない。略して「ヨコトリ」と呼ばれる美術展「ヨコハマトリエンナーレ」について朝日新聞編集委員(大西若人)は「現代美術展で、企画内容や出品作品がコロナ禍や人種差別問題といった世界の「今」を、事前に見通していたのではないかと話題になっている」ことを踏まえて「現代アートには、「予言力」があるのだろうか」と書く(9月8日朝日新聞)のだが、これには五島勉の死によって思いおこされたノストラダムスが影を落としているかもしれないと、つい考え込んでしまう。「未来を察知したかのような言葉や表現。アートには予言力があると考えてよいのだろうか」と編集委員は思い、「ヨコトリの組織委員会副委員長を務める蔵屋美香横浜美術館長」が「ある討論の場」で「指摘した」言葉を引用する。「アーティストは、日常に埋もれた『しるし』を見つけて形を生み出すことで、現在を解釈し未来を占う、シャーマンのような存在かもしれない」。アーティストたちの、あまり深いとは思えない発言と作品の説明の後に編集委員は教訓を読み取った [﹅8] とでもいった調子で結論を書く。「アーティストたちは注意深く、日常の中で埋もれたものや見過ごされたものを見つめたり、角度を変えて見たり、過去に学んだりすることを通じて表現するため、結果的に未来の予言に映ること」があり「逆にいえば、私たち自身がこうした態度を身につけたとき、彼らの表現は予言には見えなくなるはずだ」。
 こうした態度 [﹅6] というのは、態度 [﹅2] というのもやけに雑な言い方だが何もアーティスト特有のものでも、ましてシャーマン [﹅5] のものでもなく、いわば歴史感覚と日常感覚をもって思考する常識的な人間の生き方ではと言うべきだろう。とは言え、たとえば2016年、アメリカを中心とした国際チームが初めて重力波を直接観測して「アインシュタインの残した宿題に決着をつけた」ことを報じる記事(毎日新聞2016年2月13日)に付された子ども向け(?)の解説コラム(「質問なるほドリ」)は、「重力波があることを100年前から予言していたアインシュタインって、どんな人?」「他にはどんな予言をしたの?」という素朴な質問に科学環境部の記者が「彼の予言」を説明するスタイルになっているのだが、アインシュタインの仮説だった理論が、なぜ予言と呼ばれるのか。私たちとしては、2013年のノストラダムス研究室主宰者の「70年代の日本は科学の進歩と迷信がまだ混然一体の時代でした」というのはもっと後年までだという気にさせられるというものである。

     *

 小説のような観念的物語にとらわれた作家(に必ずしもかぎらないのだが、私見によれば物語 [﹅2] を製造するアーチストたちであろうか)ではない人々の語る率直で冷静な言葉に、私は共感する。
 去年、設計事務所を解体した建築家の鈴木了二のインタビュー(「ローカル/ソシアル/異端」『GA JAPAN165』’20年7-8月)である。「無理矢理アゲている感じが露骨」な東京から久しぶりにいなくなる予定だったのに「コロナが来て」、「自分が籠もるつもりだったのに、世界が籠もってしまったわけ(笑)」で「人がいなくなった東京を、夕方、散歩する範囲で歩き回った」と鈴木の話すことは、予言とか河童とは関係なくあくまで具体的である。夢想する小説家とくらべる必要などないのだが、鈴木了二は人気(ひとけ)のない渋谷を散歩してカメラのシャッターを切り、「今が福島の時と違うのは、起きている事態がどの程度のことか、参照項がないから世界中で誰もわからないこと。みんな自分で考えて、ものを言わないといけないし、間違いもあるから翌日には修正する必要も出てくる」と語るのだが、無人の都市と福島を結びつけて語る言葉に、ここでようやく出会ったと言ってよいだろう。おびえと自足から発せられた非常時の予言の言葉 [﹅9] ではなく――。

  • そのあとちょっとだけ覗いた「予言について③」の冒頭には、「日本語では、と言うより辞書上の解釈では「予言」と「預言」は区別されていることを、恥ずかしいことに [﹅8] (と、本気で思っているわけではないが)つい先日はじめて知ったのだ」とあって、「恥ずかしいことに」といちおう韜晦して謙遜をよそおっておきながらわざわざ「と、本気で思っているわけではないが」とすぐさまつけたしてしまうそのふてぶてしさにわらってしまった。
  • 三時すぎくらいで尿意が満ちてトイレにいき、それを機に立って音読。なぜかJeff Beck『Blow By Blow』をながした。よみながら耳にしただけなのできちんとしていないが、"Cause We've Ended As Lovers"の名高いプレイはたしかに格好良いというか、流れ方とかチョーキングのニュアンスとか大したものだなとおもった。むかしコピーして多少弾けるようになったおぼえがある。半音でハンマリングとプリングをやりながらクロマチックでずっとおりていくところが有名だが、そういういくらかトリッキーなところより、単純にチョーキングをからめたロック的基礎フレーズがやはりよく弾けている。音読のかたわら、今日はダンベルをもたずに背面に手をのばして背骨のまわりをもんだりしていた。肩の付近も。もむ動作は手がうごくから読むほうにあまり意識がむかなくなるのだが。
  • そのあとここまで今日のことをしるして四時二〇分。

 さて、人のいなくなった都市空間というか、「緊急事態宣言下のまち」は、いわば新世代のジャーナリズムの好奇心をきわめて自然に刺激するのかもしれず、私の狭い知見のスペースには、同じような発想で『東京人』(8月号)の特集「緊急事態宣言下のまち」で何人かの書き手たちが東京の町を散歩する報告 [﹅6] を書く。写真集『新型コロナ――見えない恐怖が世界を変えた』(クレヴィス)はコロナ下における「世界50カ国の街と、人々の暮らしの変貌を、210点余の写真で一望する」のだが、それらの写真はテレビのワイド・ショーやニュース番組で一時期は毎日のように紹介されていた世界の映像と重なる既視感をにじませたおなじみの報道写真にすぎないのだが、ウィルスを見えない恐怖 [﹅6] と言うのであれば、津波に押し流されて瓦礫となった廃墟と、はるかに上回る恐怖であろう放射能汚染にさらされてまったく人気のなくなった町――牛や駝鳥は取り残され、たとえば生協の雑誌に「放射能のせいで耳のないウサギが生まれた」というような記事が載ったりした恐怖 [﹅2] ――の映像 [﹅3] を、新聞やテレビの画像として何度も眼にした時から、まだ十年にもなっていないのだ。多分、予言的世界観に未来の展望を見る人々は、確かに見た(もちろん、映像 [﹅2] にすぎないのだが)はずのことさえ、奇妙なことに忘れて未来の映像の予感 [﹅8] にうつつを抜かしてしまうらしい。

     *

 コロナのパンデミックによってヨーロッパで最初に都市封鎖がおこなわれたのがイタリアの都市だったせいで、ロッセリーニを含めて何本かのイタリア映画を思い出すことになったのだが、それについて書く前に、テレビの画面に何度も映し出されたイタリアの都市部の広場を囲むようにして建てられた新旧の石造りを含めた高層住宅に住む人々が、同じ時間にテラスや窓辺で医療従事者に感謝と尊敬の気持ちを伝える拍手を送るという出来事に触れておきたい。拍手や歌声が広場を囲む建物の壁に反響して大きな重層的な音となり、よく言われることだが、西洋の都市における広場の持つ意味を改めて考えた者も少なくなかったはずである。
 しかるに、というオヤジっぽい言葉が思わず出てしまうのだが、医療従事者に感謝の意を表すためと言うより、それを名目に、日本の防衛大臣は何をしたか?
 首都の上空に爆音をたてて自衛隊の五機のブルー・インパルスを飛ばし、都下の市民たちは、無料(ただ)の航空ショー(オリンピックの開会式には飛んだであろう)を見せてもらった気になって、医療従事者ではなく、自衛隊ジェット機に拍手を送ったのだった。

 「今回のコロナは、全世界的に平等に降りかかり、階層も関係なく命の危機にさらされ、そのリスクに全体でどう向き合っていくかという問題」としての「平等」なのだと語る中島岳志のインタビュー記事 [ʼ20年5月20日朝日新聞] と同じ日の紙面に、パリ郊外の移民の多い地区 [セーヌ・サン・ドニ県] での、コロナ死者数が「不平等が感染拡大を助長したと指摘されている」という記事が載っていることを、前回引用したのだが、言うまでもないことではあるけれど、ウイルス自身には平等も不平等もありはしないが、ウイルスの引きおこす結果としての病気には不平等と差別がつきまとう。
 中島のインタビューでの発言の載った前後の新聞報道では、アテネ郊外のシリア難民キャンプの劣悪な衛生状態から感染拡大の危機が伝えられ(もっとも、その後を伝える記事は載っていないが)、20年4月12日の朝日新聞には、アメリカの様々な州で、黒人やヒスパニックといったマイノリティーの死亡率の高さが明らかになっているという記事が載っている。ワシントン・ポストの分析によると「黒人が多数を占める郡は白人が多数の郡に比べ、感染率が3倍、死亡率は約6倍」で、「背景にあるのは、社会的格差と言われてい」て、「普段から医療が十分ではなく、貧富が原因となる糖尿病や心臓病、ぜんそくなどの基礎疾患を持っている割合が多」く、ブルッキングス研究所のレイ研究員は「彼らが不摂生というわけではない。身の回りに健康でいるための資源が不十分なのだ」とコメントし、在ニューヨークと在ワシントンの記者は、そうした状況には「職業も関係する」と続け「米国はマイノリティーがバス運転手や食料品店の店員、ビルの管理人など、社会を支える「必要不可欠な職業」に就いている割合が高い」という。
 5月5日の記事では、いつの頃からか訳語を作らず「エッセンシャル・ワーカー」と呼ばれるようになった職業に就く黒人たちは「「休めない」黒人たち」と呼ばれて「首都死者の8割」であることが見出しで示されていたし、にせ札を使用した容疑で警察に拘束され首を押さえつけられて窒息死した黒人の事件から端を発したブラック・ライブズ・マター運動には、警官による圧殺だけではなく、当然、コロナの感染死に黒人の割合が突出していることが含まれてもいたはずだし、同じ頃、ワールド・カップの元コートジボワール代表でチェルシーで活躍していた頃は好きになれなかったタイプの選手だったドログバと、元カメルーン代表でバルサの選手だったエトーは、フランスの医師のコロナワクチンの治験はアフリカでやるべきではないか、という発言に対して「アフリカの人々をモルモットのように扱うな」「ふざけるな。アフリカはおまえらの遊び場じゃない」と猛烈に抗議している。フランスのテレビ番組でパリの病院の医師が、挑発的な発言が許されるなら、とことわりつきで「一部のエイズ研究における売春婦を例に挙げ、新型コロナウイルス対策が進んでいない地域でワクチンの治験を進めるべきだ」と発言し、別の医師も同調したという小さな記事の切り抜き(東京新聞なのだが、日付が書いていない。おそらく20年4月だろう。記事には、’14年のブラジルW杯で、日本代表選手にドリブルを邪魔されているドログバのカラー写真が載っている。W杯などではなく、もっとちゃんとしたプロ同士の競りあいの写真を選べよ!と、言いたい)を読んでも、コロナが「全世界的に平等に降りかかり、階層も関係なく命の危機にさらされ」る病気とは思えないではないか。

  • 金井美恵子のコラムをまたよみ、五時過ぎで上階へ。母親にいわれたとおりチンゲンサイをゆでる。一枚ずつ葉をはがしていき、洗い桶にいれて水にさらす。はがした葉の内側にあたるほうの下端のほうに土らしき黒いものがほんのすこしだけ付着しているものがおおかったので、一枚ずつ指でこすってあらいおとしておく。そうしてフライパンに沸かした湯に投入。あと大根とニンジンとキュウリを洗い桶にスライスするだけの簡易なサラダ。途中でチンゲンサイをザルにあげ、水洗いしておき、スライスがおわったのち、ちいさめに切り分けてパックにいれ、醤油とマヨネーズとからしであえた。それでもうやることは終了。外のポストから夕刊をとってきて、そのまま食事にはいったはず。カレーがあったので。あと前日にこしらえた肉の炒めものものこっていたのでそれもいただいた。夕刊はイスラエルハマスの停戦をつたえていたのと、あと少年法改正案が可決される見込みというのと、米国でアジア系へのヘイトクライムを防止するための法案がバイデンの署名によって成立したという報があったはず。少年法改正案というのは、じきに成人が一八歳になるらしいのだが、一八歳と一九歳は特殊少年みたいなくくりで少年とおなじあつかいにはせず、かといって成人とおなじあつかいにもしない、みたいなかたちになるよう。たしか家裁から検察へおくる犯罪の範囲が拡大されていままではひとを殺したものだけだったのが禁錮一年以上とかになって、強盗とか放火とかもおくれるようになり、かつ、起訴されたあとは実名での報道も許可される、というはなしだったとおもう。
  • 食事をおえてかたづけたあとは下の記事をよんだらしい。

Harry Spiro was eight years old when World War Two began in 1939. He was the only member of his family to survive the Holocaust.

(……)

Harry spoke with his grandson Stephen Moses about what life was like during the holocaust and how he feels more than 70 years on.

     *

Harry is from the Polish town of Piotrkow, which in October 1939 became the first ghetto set up by the Nazis in Poland.

(……)

Harry recalls: "I remember the first announcement they made saying every Jew had to wear an armband with a yellow star of David and in it was written 'Jew'. It didn't mean much to me.

"Next they put out notices saying any Jew who would step outside will be shot."

     *

"The soldiers were patrolling the streets with their dogs. The dogs were trained to get the Jew. You didn't have to do anything - if you were two or three people standing or talking the orders would be given - get the Jew.

"Very often they would do it for their own enjoyment and I would think it was very strange the Germans were laughing and terrorising us kids.

"They did it to put fear in the community and they certainly succeeded," Harry tells his grandson, Stephen.

"Within a few weeks they rounded up some lawyers, doctors and community leaders. In total about 25 people and the Germans shot them.

"There was no reason or explanation. Very few people saw [it happening] but you saw the dead bodies.

"They didn't bury the dead right away, that was very disturbing. People were asking, 'Why?' but nobody had the answer.

"We accepted it. The people accepted it. You couldn't do nothing about it, but you kept on."

     *

Harry believes his survival was down to luck. He was brought to a number of concentration camps including Rehmsdorf and Theresienstadt.

"On a daily basis, whenever I'd go in the wash room you always had bodies on the floor. Very often, I saw a body laying on the floor who didn't finish their ration of bread. I felt it was my lucky day - I got hold of [the bread] and ate it.

"I never felt ashamed of it or sorry for the guy that was dead. This was on a daily basis and it was really bad."

     *

Towards the end of the war Harry went on what is known as a 'death march' from Rehmsdorf camp to Theresienstadt.

"They got hold of us all and we had to start walking," he says.

The German soldiers, with their Jewish prisoners, were trying to outrun the Russians, who were trying to free the Jewish captives.

"Sometimes you got a potato and a coffee or something hot and you'd start marching. People on that march died purely and simply from starvation or being shot."

German soldiers killed people who were too slow to keep up with the march.

"We arrived with 270 of us out of 3,000, the rest were killed or had died. It must have been just outside the camp, I remember my head going around and I fainted and I don't remember at all what happened to me."

     *

"I know we were liberated and I was in a hospital and a friend of mine came looking for me. he said, 'Come on let's go out and play in a square, the Russians have liberated us.'

"The first thing I did with my friend, we went to the gate of the concentration camp and we said to the Russians outside that we'd like to go into town.

"He said we'd notice a lot of captured Germans that were being marched to wherever and he [gave us] permission to do whatever to the Germans for 24 hours."

Harry didn't want revenge on the people who had made his life, as he calls it "hell on earth".

Instead he says: "The only thing I was interested in, and so was my friend, was to stop the Germans, open their rucksack and take out whatever was edible.

"I took out only the chocolate."

  • そういえば、朝刊に、『ベルセルク』の作者(たしか三浦建太郎といったか)の訃報が載っていたのをおもいだした。
  • ほかにこの日のことで印象にのこっていることといってさしてないのだけれど、書抜きをできたのがよかったのと、Brandon Ambrosino, "How and why did religion evolve?"(2019/4/19)(https://www.bbc.com/future/article/20190418-how-and-why-did-religion-evolve(https://www.bbc.com/future/article/20190418-how-and-why-did-religion-evolve))をすこしだけよんだのと、深夜にFISHMANS『98.12.28 男達の別れ』をきいたことくらいか。FISHMANSはひさしぶりにきいたがやはりすごく、佐藤伸治があの声とうたいかたで成立してしまったというのはやはりすごいなとおもった。ほとんど奇跡的ではないかとすらおもうのだが。あの声と歌でもって成立する音楽を発見したというのと、なおかつそれがこのうえないものになっているというのが。柏原譲のベースもすばらしく、茂木欣一はそんなに派手ではないけれど、このひとたちはたぶんだいたいなにやってもくずれないんだろうなとおもった。ベースがはいってくるタイミングとかにそれをかんじる。ここからはじまるの? という。あと微妙にノリをずらすというか、譜割りには表出されないだろうこまかな前後の揺動みたいなことを柏原譲はよくやっているので。
  • FISHMANSをきいた時点でたしか二時すぎくらいだったとおもうのだが、そこから歯をみがいたのち、短歌をひさしぶりにかんがえた。日記いがいになにかしらのことばを生産する時間をやはりとらねばというわけで、翻訳か詩作かなのだが、なんかどっちも面倒くさかったので、ちいさな形式にするかと。しかし時間をつくったわりにできたのは「炎とは生誕未満の比喩だからあなたも溶ける意味の輪廻へ」というものだけで、そんなによいものでもない。とはいえじっと集中してことばをさぐる時間をとれたことじたいはよいことだ。三時ちょうどに消灯して、いぜんメモしておいた詩案をひとつあたまのなかにいじりながら就寝。