アナクサゴラスもまた、エンペドクレスとおなじように、エレア学派の基本的な前提を受けいれたうえで、世界の多と動、多様性、ならびに生成と消滅という課題にとり組んでいたものと思われる。「生成と消滅について、ギリシア人たちは正しく考えていない。なぜなら、どのような事物も生成することもなければ、消滅することもないのであって、存在している諸事物をもとに混合し、分離しているからである。だから、生成を混合するといい、消滅を分離すると呼ぶのが正しいだろう」(断片B十七)。断章のひとつがそう語っているとおりである。
エンペドクレスは死すべきものも生まれず、滅びないと考えた。だが一方では、ひとはひとを生み、羊は羊を産んで、植物のたねからはおなじ植物の芽が芽吹く。おなじものからおなじものが生じている。そればかりではない。「どのように、毛髪ではないものから毛髪が生じることがありうるのだろう。肉ではないものから肉が生じることがありうるのだろう」(B十)。アナクサゴラスが語りだす「すべてのものの種子(スペルマタ)」はそこで――アリストテレスそのひとが、それを「同質素」(ホモイオメレー)と呼びなおしたこともあって――、それ自体は(end49)同質的な、究極の元素のようにも理解されるけれども、アナクサゴラスの真意はおそらくそうではない。アナクサゴラスはゼノンの無限分割論をまちがいなく踏まえたうえで、最小のものなど存在しないと考えていたからである(B三)。
アナクサゴラスが展開していた思考は、エンペドクレスふうの思弁ではなく、ごく具体的な観察にもとづくものであったことだろう。たとえば、ひとは他の動物の肉を食べる。そのことでひとのからだは成長し、肉が増え、毛髪が伸びる。そうであるとするならば、動物の肉には、人間の肉や髪となるべきものが、なんらかのしかたで内在していたと考える余地がある。動物の肉にふくまれるその要素は植物から、植物のそれは大気と大地から採りこまれたものだろう。「全体(シュムパーン)のうちに、すべてのものがふくまれている」(B四)。
スペルマタもまた、それぞれにすべてのものをはらみ、ただし混合のおのおのの比において宿すがゆえに、どれひとつとしておなじものはなく、たがいにことなる、無限に微少なものとしてとらえられていたことと思われる。種子は同質的なのではなく異質的 [﹅3] であり、それぞれのしかたで全体を映している。それは生成もせず、消滅もしないから、つねに同一のものであり、存在しつづけるものなのである(B五)。
(熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波書店、二〇〇六年)、49~50)
- 一一時ちょうどの起床。水場に行ってきてから瞑想もおこなった。今日もさほどながくはなく、一五分少々だったのではないか。上階に行って、食事にはまたハムエッグを焼く。米にのせて黄身と醤油をまぜて食す。新聞からはいつもどおり国際面を。イスラエルの組閣の件について、きのうの夕刊につづき載っていた。ネタニヤフが退陣するみこみ、と。右派政党ヤミナがイェシュ・アティドを中心とした中道左派の連立にくわわることを表明したという。イスラエル国会の議席は一二〇で、リクードと宗教政党でたしか五七くらい、三月あたりにあった選挙後、最初はネタニヤフが組閣をこころみたのだがはたせず、第二党イェシュ・アティドの党首にうつり、期限が六月二日か三日にせまっていたところ、当初は合流を否定していたヤミナのベネットという党首が意をひるがえしたと。イェシュ・アティドと「青と白」ほかでこれも五七くらいあったはずで、ヤミナが六か七なので過半数にたっする。右派がこの連立にくわわることについて、ネタニヤフは「世紀の詐欺」だと糾弾したらしいが、ようやくひとまずはリクードの時代が終わりそうだ。だからといって、パレスチナのひとびとのあつかいがよくなるかというと、たいしてそうもならないだろうが。
- もうひとつ、香港で、天安門事件追悼のデモ行進をひとりで敢行した人間が逮捕されたという報があった。公安条例違反。無許可の集会に参加して他者を煽動した、というのが当局のいいぶんらしいのだが、ところが公安条例における「集会」の定義は三人以上の規模である。
- 食事をおえ、食器と風呂をあらって帰室。部屋にかえると、母親が布団を干しておいてくれたのだが、ふだん枕もとに置いてある本やノートや英和辞典がことごとく床におちて散らばっていたので、けっこう不快をおぼえた。先日もおなじことがあっておなじように不快をおぼえ、日記にもかきつけたところだ。ノートや辞書はともかく、本を粗末にすることはやめてほしい。ベランダのほうから下敷きの布を引っ張るようにしてとるので、そのときにおちるのだろうが、なぜひとのものを床におとしておいて、それをひろっておこうというかんがえにいたらないのだろうか? しかし言っても詮無いこと、じぶんで布団を干さないのがわるいのであって、これもおのれの不徳のなせることだ。それなので文句はいわずに茶をのんでコンピューターをまえにしているうちにすぐにわすれた。LINEで「(……)」の(……)の件に返信。そのあととりあえず一年前の日記のよみかえし。学校教育に日記を導入してなるべく毎日こどもらに文を書かせろ、などといっている。いまでもこれはやれば一定の効果はあるとふつうにおもっているが。塾で小中生と接するかぎり、いまの義務教育はもうそもそも、手書きであれタブレットであれ、文を書く時間や機会そのものがむかしとくらべるとかなりすくなくなっている印象なのだ。授業もだいたいプリントがつくられてあって、板書をする必要もないので。プリントで空欄になっているところを埋めればよいだけなのだ。その前後は、つまり文脈が、あまり気にされない。気にされたとしても、その範囲はみじかい。こちらのころでも、小学校はどうだったかわすれたが、すくなくとも中学校はまだ教師が黒板に書いたことを写すやりかたをとっていた気がするのだが。それはそれでつまらなかったり、面倒だったり、教師のまとめが下手くそだったり字が汚かったりすぐに消してしまって親切でなかったりとあるわけだが、なんだかんだいっても単純に文を書き写すというのは、やはり知らないうちに力にはなっていたのだとおもう。そもそも他人の文すらなぞれない人間が、じぶんの文など書けるはずがないではないか。文字と文を書く機会がなければ、そりゃたしかな言語能力など身につくわけがない。
(……)途中、こちらが国語のテストの問題を読んでいるのを見た彼は、国語全然できない、嫌い、だって作者の気持ちとかわからないし、と漏らす。学校の国語教育で「作者の気持ちを考えましょう」という式の教え方がなされるという話は一般に流通していてよく見かけるのだが、こちらの記憶では小中高時代にそんな授業を体験した覚えはない。「登場人物の心情を読み取りましょう」なら普通にあったと思うが。それで、そういう授業やってんの? と訊くと、何か文章を読んだときに自分が感じ取ったことを感想に書きましょうとか、美術の作品を見たときに作者がそこにこめた気持ちを考えましょうとか、そういうことを要求されるらしく、(……)くんとしては、そんなこと言われても何も感じないし、となるわけだ。まあまったく何も感じていないということはたぶんなくて、自分の感覚に対する即時再帰的な視線を持っていないということではないかと思うが、それを受けたこちらは、世の中にはそういう風潮があるんですよとにやにやしながらまず皮肉り、まあ、それはそんなに良くはないかもねと控えめに批判しておき、だってそんなのわかんないじゃんと彼に同意したあと、それよりそこに書いてあることそのものを見たほうが良いと思うよ、ここの表現めっちゃ良くね? とか、このキャラクターの行動好きだな、とか、と例示しつつ、テクスト論的な姿勢の第一歩への導きではないけれど、具体的な部分を見るようにと一応促しておいた。読書感想文は書けない。国語のテストでも毎回、文章を読んで感じた感想を書けみたいな問題が最後に出されるらしいのだが、それも書けないと言う。その言にも同様に、ここの言葉が良かった、好きだというところを見つけて、あとはなんで好きだと思ったのかその理由を書けば良いんじゃないと適当に助言しておいた。だいたい作者の気持ちだの読書感想文だの、そんなものはたいがいクソつまらないことにしかならないわけで、それよりは読んだ文章のなかで気になった箇所とか一番好きだった部分とかを書抜きする習慣を身につけさせたほうがよほど有意義かつ有益だとこちらは思う。高校の授業も「論理国語」と「文学国語」だったか忘れたけれど二つに分かれて選択制になるとかいう話で、そうすると若者の「文学離れ」がますます進むだの国語教育が貧困化するだのと嘆かれているけれど、こちらに言わせればそんなことはまるで本質的な問題ではないのであって、たた単純に子供たちも人々も、「論理」的な文章であれ「文学」的な文章であれ、言葉を読む量と文を書く量が少ないというだけのことに過ぎないと思う。簡単な話、なるべく毎日日記を書かせるという仕組みを学校教育に取り入れれば、それだけで人々の言語運用能力はいくらかましになるだろうとこちらは完全に確信している。内容は何でも良い。朝食べたものを列挙するだけでも良い。一日に一文だけでも良い。書くことが見つからなければ、教科書の文を適当に写すだけでも良い。とにかくなるべく毎日ノートをひらいて何らかの言葉をそこに書きつけるという時間を重ねさせることが重要なのだ。もちろんそんなことつまんねえ面倒臭えと思って書きたがらないやつもいるだろうし、そいつはそいつで良い。読み書きよりも大事なことはこの世にいくらでもあるのだから、そいつはそいつで好きなことをやれば良い。ただそういう営みを面白いと感じて、わざわざ促さずとも自発的に熱心に取り組む子供も一定数は絶対にいるはずで、日記制度を導入すれば、少なくともそういう子の言語運用能力や思考力をより有効に涵養することは可能になるだろう。子供たちが書いたものを教師がチェックするのが大変なのでたぶん現実に制度化はされないだろうが、何だったらチェックなんかしなくたって別に良いわけだし、鶴見俊輔とかが戦後にやっていたらしい(やってはいなかったかもしれないが)「生活綴り方運動」って要するにこれとだいたい同じことだと思う。もしこちらが学校教師だったら普通にこの制度を導入する。それで本当に自分自身の、例えば小学校六年間分の毎日の記録が文として残ることになったら、それはわりと悪くないことではないかと思うのだが。毎日書き、また確認するのはとても大変だということなら、せめて国語の授業で文章を読んだときに必ず書抜きをするという習慣くらいは身につけさせたほうが良いと思う。つまりは書抜きノートを作ってそこに引用を集積させるということで、小林康夫が大澤真幸と対談した『「知の技法」入門』(河出書房新社、二〇一四年)のなかで、引用ノートを作ってただ好きな箇所を手書きで写す、コメントも何もつけずに日付と引用文だけで良い、それを続けて一冊できあがればそれは最高の宝になりますよみたいなことを言っていた記憶があるけれど、その言にはこちらも普通に同意する。
(……)一応段落ごとの内容を確認して、読みながら各段落の役割を考えられると良いねとは言っておいたが、こちら自身は文章を読んでいるときにそんなことは少しも考えていない。だいたい受験制度的学校教育の国語などというものは上述したとおりクソみたいに退屈でつまらないのであって、作者の「思想」や「主張」はともかくとしても「気持ち」などは大抵の場合はどうでもよろしい。国語教育でするべきことは、そこに書いてある文章の意味の射程をできる限り理解させること、すなわち目の前の言語そのものに基づく姿勢を学ばせること、気になった箇所や好きな箇所を写させること、なるべく毎日何らかの文を書かせること、集約すればこの三点しかない。それに加えて、パラフレーズ及び要約の練習をさせても悪くはないだろうが、それは最終的にはどちらでも良い。この三点あるいは四点をきちんとやれば、読解力だの作文力だのは勝手につく。
- したも一年前の日記から。わかりやすいテーマだがわるくない。
SUICAを持ってこなかったので切符を久しぶりに買う。隣の券売機には軽薄そうな高校生のカップルがついていた。ホームへ行き、待合室の側壁脇で立って待ち、腕を前後に引っ張るなどして首や肩や背の筋を伸ばす。小学校の校庭からは子供の声が伝わってくる。停まっている待機電車に遮られてあちらの様子は見えないのだが、ブランコが後ろに大きく振れて最高点にまで達したそのときだけ、電車の上端を越えて子供の後頭部が視界に覗き、しばらくしてから電車が移動して校庭の景色があらわになると、乗る子供のいなくなったブランコだけがわずかに揺らいで人の名残を留めていた。(……)
- ミシェル・レリスの文もひかれていて、よかった。これもじつにおなじみのテーマというかんじだが。
雨が潤滑油なみの役目を果たし、それぞれのものをなめらかに軋みなくしかるべき場所におく機械のごとき働きをする、それが雷雨のあとの美しい光だ。そうした光のなかでなにもかもが鋸歯状に輝きを放ち、動きはないものの、なんとも暖かい色合になるので、いまにも爆発が起きるのではないかと思わせる眺めになっているのを眼にすると、なんと法外の歓び(その原因はささいな事柄であるにもかかわらず)を感じることだろう!
(ミシェル・レリス/谷昌親訳『オランピアの頸のリボン』人文書院、1999年、119)
- うえまではほぼこの当日に書いたもので、いまは六月四日なので、この日のこともだいたいわすれた。出勤までは布団をいれたり音読したり書見をしたり。勤務中のことは、まあまったくおぼえていないではないが、面倒臭いので割愛しよう。だいたい日記など、Twitterなみに一行でもよいわけだし、べつに億劫だったら書かなくたってよいのだ。帰路を(……)くんとともにする。裏道をあるいているとうしろから追いかけてきたので。ほんとうは生徒といっしょにかえるのは駄目なのだが、男子同士だからおおかた面倒なことにもならないだろうし、このばあいはべつによかろう。途中で白猫がいたので少時たわむれるなど。彼はスマートフォンをつねに片手にもちながら自転車を押してあるいている風情で、モンストだかわからんがゲームをやっているか、あるいは『五等分の花嫁』なんかの動画をながしているか、あるいはなにかしらの音楽をながしているかで、それでこちらのことばにたいする反応がなかったり遅かったりすることがあった。けっこうゲーム仲間みたいなひとがいるらしい。この帰路のあいだにも、なまえからして女子ではないかとおもったのだが(たしか「(……)」だか「(……)」みたいな名ではなかったか。男子の可能性もありそうだが)、いきなり電話をかけていっしょにゲームをやろうとしていたことがあった。それはおそらく学校やそのまわりの関係ではなく、ゲームをつうじて知り合ったオンラインの仲間なのかもしれないが、それでも仲間がいるようなので安堵する。こちらの家までついてこようとするので、さすがに自宅がバレるのはまずいだろうと遠回りしていると、(……)のまえまできたところで通りの対岸をやってきた自転車が(……)くんであり、ふたりは友人なので、そこで具合よくこちらは別れることになった。坂をおりたところの角にある自販機で炭酸のオレンジジュースを買って帰宅。
- あとは(……)さんのブログから以下の引用。
熊谷 綾屋さんと私が二〇〇八年に『発達障害当事者研究』を出したあと、この本のなかで書いたことをうまく説明してくれる理論を携えてきてくれた、ある一連の研究者たちがいらしたのです。まだ十分に私たちも汲み尽くせているかわからないんですが、その理論というのが、「予測符号化理論」、プレディクティヴコーディングセオリー Predictive Coding Theory というもので、精神活動に関する久しぶりのグランドセオリーです。
化学者であり物理学者であり生理学者であり、「ヘルムホルツの自由エネルギー」で知られるヘルムホルツという偉大な研究者がいます。そのヘルムホルツに影響を受けて精神現象のグランドセオリーを立ち上げたのがフロイトです。そのヘルムホルツ/フロイトの影響をさらに受けて、最近この「予測符号化理論」、あるいはさらにこれを含むかたちで「自由エネルギー原理」というものを提案して注目されているのがフリストンという研究者で、この三人は一つの系譜を形成しているのですけれども、このフリストンが統合失調症、自閉症、そして平均的な人、などさまざまな精神現象を「予測符号化」というフレームワークで理論化できるんじゃないかということを言っているそうなのです。さらに彼らはASD、自閉スペクトラム症に関してもなかなか大胆なことを言っているのですが、その仮説が、私たちの当事者研究の仮説ともかなり関わり合っているのです。そういえば二〇一八年の三月に、アメリカの『サイエンス』という雑誌のWebサイトのニュース欄に、われわれの当事者研究と予測符号化理論とを関連付けながら紹介した「Does autism arise because the brain is continually surprised?」という記事も紹介されました。ではこの予測符号化理論とはどのようなものなのかについて、概略を説明したいと思います。
人間の脳を一つの臓器と捉えたときに、その仕事はなんでしょう。心臓がポンプ機能のある臓器、肝臓は代謝の臓器、腸は消化の臓器。では脳はなんの臓器かというと、ヘルムホルツは「予測する臓器」、あるいは予測と密接に関係する「推論する臓器」、プレディクションマシーンあるいはインファレンスマシーンなのだと定式化したのです。*
さらにここからASD、自閉スペクトラム症の話になってくるのですが、予測誤差の許容度には個人差があるんだと。つまり、多少予測が外れても、私たちの脳みそはびっくりはしない。まあまあおおむねこの概念とかこのカテゴリーによってこの感覚は説明していいよね、というわけです。まったくイコールではないけれど、このあたりでいいんじゃない、と。つまり、あるレンジのなかに収まる予測誤差であれば、私たちの予測のモデルをアップデートするほどのことはないんだと判断できる。しかし、予測誤差があるレンジを超えると、これはまずいんじゃないかということになる。現状、私がもっている予測は質が低いんじゃないかと考える。そうすると、予測誤差をもっと減らせるように予測自体をアップデートするか、あるいは予測どおりになるように世界を支配するしかなくなるのだ、とフリストンは言います。予測のアップデートは「知覚」、世界の支配は「行動」で、予測誤差に対する私たちの脳の応答は二択なんです。
そして、予測誤差がある一定ラインを超えるともうスルーできなくなるというその閾値に個人差があるんだとフリストンは言い、この個人差を表すパラメーターでASDを表現できるのではないかというわけです。ASDでは、この閾値が低い、つまり少しでもエラーが発生すると、たいへんだ! というふうに感じやすい脳を持っている人たちなのではないか、というのが、「ASDの予測符号化理論」の要諦なんですね。で、これはもしかして「想像力」と深く関係しているのではないかと私は思っているのです。*
熊谷 そうですね。そして私は、序章で國分さんが教えてくださった〈この〉性の話ともつながる気がしているのです。予測誤差に敏感であるということは——フリストンの理論が正しいのであるならば、ASDの方はやはり予測誤差に敏感である、という言い方ができると思うのですが——、〈この〉性と密接に関わることなのだと思うのです。つまり私たちは、あ、これ知ってる、つまり前に経験したことがあるという事物を「予測可能なもの」であると考えるわけです。予測というのは、二回、三回と複数回経験していなければ、その定義どおり、不可能なわけですよね。別の言い方をするならば、ああこれは経験ずみで知っていることだというふうに目の前のものを解釈している、つまり「予測しきれた」、フリストンの言葉で言えば、 Explain away、「説明しつくした」というような状況で目の前のものを捉えているときというのは、カテゴライズ、つまり図式化している。それは〈この〉性とはもっとも遠い状態にあるといえるでしょう。
しかしエラーに敏感な人は、多くの人が「あ、これは前に経験ずみ」と思えることに対して、「これははじめてだ」と思うわけです。たとえばかつて同じような時間に同じ場所に身を置いて、同じような経験をしたことがあったとしても、ASDの人はそれを、初回のエピソードとして経験するのではないか。
綾屋さんも書いていらっしゃいますが、本人の頭のなかには、〈この〉性や一回性のエピソード記憶が氾濫している状態なのではないか。多数派は意味記憶といって、範疇化されたカテゴリーによって回収できるような、ある種色あせたというか、生々しさを失ったカテゴリーによって解釈できているものを、はじめてのエピソード記憶として鮮明に繰り返し経験するために、つねにエピソード記憶で頭のなかがパツパツなんだと。まさに〈この〉性の飽和ですね。〈この〉性が飽和することと予測誤差に敏感であるということは、表裏一体のことではないかと。
國分 それは表裏一体ですね。非常に興味深い論点だと思います。
僕の研究しているジル・ドゥルーズという哲学者が『差異と反復』という本のなかで、「反復」、つまり繰り返しについて、とてもおもしろいことを論じています。
例えば、鐘をカーン、カーン、カーンと叩いているとき、叩くほうもその音を聞くほうも、その音は反復しているのだと思いますよね。しかしドゥルーズいわく、じつはそうではない。その反復は鐘が打たれるたびに崩壊していっている。というのも、鐘は単に一回ずつ鳴っているだけであるからです。それが反復されていると思うためには、何かジャンプが必要です。現象としては一回鳴ってまた一回鳴っているだけである。けれども、それを受け取る主体のなかで何かジャンプがあって、それに反復を読み取る。ということは、主体の側でのそのような受け取りがなくなれば、鐘の反復は崩壊する。
これをさらに言い換えると、その反復の手前においては、カーン、カーンという一回ずつの鐘の音が〈この〉性をもって捉えられるということです。予測と〈この〉性はたしかに強い関係を持っています。反復しているぞと思った瞬間に、また鳴るぞ、また鳴るぞ、と予測が出てくる。音楽やリズムを楽しめるということともこれは関係しているでしょう。ただ、ドゥルーズもこれをジャンプとしてしか説明できなかった。不思議さがあるとしか説明できなかった。