2021/6/11, Fri.

 まず、自然とはなんであるかが考えなおされなければならない。「自然によって」(ピュセイ)存在するものとそれ以外のものを区別し、前者の原理(アルケー)をあきらかにしなければならないはずである。アリストテレスは、つぎのように説いている。

存在するもののうちの、或るものは自然によって存在し、他の或るものはその他の原因によって存在する。自然によって存在するものたちは、動物とその諸部分、植物や、単純な物体、たとえば、土、火、空気、水などである。(中略)これらはすべて、自然によってで(end102)はなくつくられたものにくらべて、あきらかにことなっている。なぜなら、自然によって存在するものたちは、それぞれ、みずからの運動と停止の原理をもっているからである。その或るものは、場所的な意味での運動と停止であり、或るものは量の増大と減少の意味でのそれであり、或るものは性質の変化という意味でのそれである。これに対して、寝台や衣服、その他この種のなにものであれ、それが寝台とか衣服といったなまえで呼ばれているそのかぎり、すなわち技術によって存在するものであるかぎりでは、それ自身のうちに、変化へのどのような自然的傾向ももたない。(『自然学』第二巻第一章)

 存在者が自然的な存在者と、制作された存在者に二分され、後者との区別で自然的な存在者が規定される。たとえば、人間はみずから歩行するが、寝台がじぶんで移動することはない。トカゲは切れた尻尾を再生させるが、破れた衣服がみずから修復することはありえない。植物はおのずと生長し、枯死するけれども、建造物がさらにじぶんで階をかさねることはない。――機械であるなら、自動的にはたらくといわれるかもしれない。とはいえ機械をそのようにつくり上げたのは人間であり、機械を動かしはじめるのも人間である。原理という意味でも、はじまりという意味でも、アルケーは人間のうちにある。
 それでも、アンティフォンが指摘していたように、寝台からさらに芽吹き、やがてまた木と(end103)なることもあるではないか(同)。「寝台」というなまえで呼ばれているかぎりでの、つまり、寝台として役だつものであるかぎりでの寝台から、芽が生まれるわけではない。寝台から芽が出るのは、寝台としての寝台のはたらきではないのである。あるいは、ベルクソンが説くように、年を経て家々が古びて、街が私とともに年老いることもある。けれども、家にツタが絡みつき、街が風雨にさらされて古色を帯びるのも、それ自身、むしろ自然過程に依存している。およそ「人間は人間から生まれるけれども、寝台が寝台から生まれることはない」(同)。技術はたしかに、一方では自然がなしとげることはないことがらを達成する。とはいえ、そこでも「技術が自然を模倣する」のであって、逆ではない(第二巻第八章、七章)。――労働するとき、人間は自然のふるまいにしたがい、素材のかたちを変えるだけである。素材にかたちを与える労働にあって利用されるものも、自然力にほかならない。のちにマルクスがそう書いたとき、アリストテレスの発想が念頭にあったことはまちがいない。
 (熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波書店、二〇〇六年)、102~104; 第7章「自然のロゴス すべての人間は、生まれつき知ることを欲する ――アリストテレス」)



  • 一〇時台後半にめざめ。寝床にいるあいだは空が白かったが、ひかりの感触もあり、気温は高くて大気に熱がこもっており、その後いくらか陽射しが露出する時間もあった。臥位のままこめかみや腰まわりや背を揉んでから、一一時一五分にいたっておきあがった。部屋を抜け、洗面所でうがいをし、トイレで黄色い尿をからだから排出したのち、ベッドにもどって枕にこしかけ、瞑想をおこなった。一一時二五分から四二分くらいまで。まあまあ。おきぬけだと背がまだかためだから、姿勢を保つのにすこし苦労する感があった。
  • 上階へいき、母親にあいさつしてジャージを履く。洗面所にはいってドライヤーをつかい、髪を梳かす。いなり寿司や、ズッキーニや鶏肉を入れたトマトソース煮をつくっておいてくれたので、それをいただく。新聞をめくって国際面を見ながらものを口にはこんで摂取する。ニュースはまず、中国で反外国制裁法というものが成立したとあった。米欧が人権関連で制裁を課してくるのに対抗措置を取るための法とのこと。この法の全人代での審議はかくされていたようで、四月からはじまっていたようなのだが、数日前になってようやく官製メディアで報道されたという。もうひとつには、米国のシリーズを読んだ。きょうもバイデン政権のインフラ政策について述べたもので、二月に米国では大寒波があり、冬でも温暖なはずのテキサス州でも停電が起こったり水道管が凍って破裂したりしたらしいところ、気候変動への対策が必要とおもわれバイデンはそれを推進しようとこころみているのだが、例によって共和党が反対していると。バイデンが計画しているインフラ整備は二兆ドルの規模。大寒波を受けても共和党は、クリーンエネルギーへの依存がむしろ惨事をひきおこしたと主張しており、テキサス州の知事は共和党のグレッグ・アボットなのだが、いわく、風力発電の設備が凍ってつかえなくなったからだと。そんな調子で惨事の原因を解明するための州議会での議論もあまりうまく行かず、対策法案もふたつが可決されたのみで、民主党の議員からは、あの冬の嵐を受けても共和党は気候変動対策法案を審議しようとすらしなかった、という嘆きの声がきかれていた。共和党は基本的には自由市場主義のかたむきがつよいので、気候変動対策で経済を規制したりするのには消極的で、全米五〇州のうちいまは二七州が共和党の知事でありバイデンの行く手にふさがる障害なので、前途多難、というはなし。テキサス州では電力も自由競争で、一〇〇社以上の電気業者があり、ひとびとはそこからじぶんで好きな会社をえらぶらしいのだが、冬の寒波のさいには電気料金が爆発的に値上げして、あるひとのところには、二月一日から一九日までの期間で一二七万円分もの請求がとどいたと。それで集団訴訟が起きているらしい。
  • 風呂をあらいながら、めのまえの具体的なことをひとつずつきちんとやるのがやはり大事だなとおもった。
  • コンピューターを用意し、ウェブを見たあと、一時まえから日記。きのうの分をすぐにしあげ、今日のことをここまでつづると一時半直前。きょうも三時台後半には労働に発たねばならず、帰りも一〇時半くらいにはなるだろう。
  • 洗濯物をとりこみにいった。上階にあがったついでにトイレにもいったが、玄関にでるとそとで、林の木々が風の音を雨に変換しつづけているのがきこえる。じっさいきょうは風が盛んで、ベランダに出てからも林は泡立つように鳴りつづけているし、もちろん涼気が肌や髪にも寄せてくる。このときは薄陽があり、ベランダの南側の端には白い日なたが走っていた。とはいえ空は晴れ晴れしくはなく、汚くにごるわけではないが各所の雲の湧泉におうじて水色が全体的に稀釈されて衰弱している。洗濯物をなかに入れると、柵に取りつけられてあった毛布などはたたんでソファのうえに置いておき、タオルなどもたたんで洗面所にはこんでおいた。
  • ベッドで下半身をほぐしながら三宅誰男『双生』(自主出版、二〇二一年)を読んだ。いま103あたりまでいったが、クソおもしろい。『囀りとつまずき』はやや特殊な作品だったが、こんかいはガチガチの正統派と言って良いのではないか。分身譚というものをぜんぜん読んだことがないのでわからないとはいえ、いっぽうと他方の地位が入れ替わるという展開じたいはたぶんオーソドックスなのだろうけれど、そういう「譚」としての、つまり物語としてのおもしろさもあるし、これからどうなるのかなとおもう。入れ替わりじたいはオーソドックスだとしても、そこまでのみちすじのつけかた、経路のととのえかたがきわめてていねいで、作品のどこをとってもとにかくこのうえなくていねいに書かれつくられているというそのことに感動する。
  • 「入れ替わり」と書いてしまったけれど、むしろ「後追い」とでもいうべきだったか。
  • 書見は三時すぎまで。とちゅう、山梨から帰ってきた父親が植木に水をやっている音がきこえていた。階をあがって、ふたつのこっていたいなり寿司のいっぽうを立ったまま食し、すぐにもどる。歯磨きやきがえをするともう三時半だから猶予はとぼしい。きょうのことをすこしだけかきたして、三時四〇分ごろに上階へいき、マスクをつけて出発した。風はまだつよく吹きさかっており、林の木立ちははげしくかきみだされて大ぶりにあえぎざわめきを降らせていて、おおげさだが台風が接近しているかのようだなとおもった。空では白さが勢力を増して水色は消えたわけでないが隠れがちで、全体にくもりに傾斜し薄日向もない。公営住宅まえをいきながらみおろすと、棟の壁の二辺に接した角にあつまるアジサイがおおきくあざやかになって、毬かチアダンスのボンボンのおもむきだった。紫がかすかに混ざったようなピンクの群れに左右をかこまれたそのあいだに、はっきりしない青さをはらんだ水彩淡色の一団がいた。坂道に折れるまえ、足もとの道端にちいさな葉のかけらのような、鈍い褐色の蝶か蛾が寝ていたが、とおりかかると浮きあがって、短時ついてくるようにして身のまわりをおどっていた。木の間の坂の終盤では左右の脇におびただしく群れ重なって縁なしている薄黄色い竹の葉が、色といい乾きといいかたちの保たれかたといいあきらかにあたらしく降ったものなので、竹秋ってこんなにながかったかとおもった。坂をのぼりきって街道に出、横断歩道を待っているあいだ、鳥がどこかから飛び立って路上の宙を横切りあまり波打つことはなくしかしこまかくふるえてすこし曲がりながらわたっていくさまに、ならいの反射のようにして風に吹き飛ばされる木の葉をさいしょはおもったものの、木の葉というよりはおおきな木の実か、投擲された木片のようだなと軌跡のたしかさにおもいなおした。
  • 職場に行って勤務。(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • それで一〇時すぎに退勤。電車で帰路へ。最寄り駅でコーラのボトルを買って帰る。木々にかこまれて暗い坂道を下りてぬけると、平らな道の前方に淡いひとかげがあり、右手に荷物を提げて重みのためにややかしいだようなその姿勢はおそらく(……)さんだろう。煙草の残り香も香ったし。
  • 帰ると母親は入浴中だった。手洗いとうがいをして階段を下りると父親はそこの室におり、ただいまと向けた先のその顔が赤いので酒を飲んだらしい。自室にたどりつくと服を脱いで休息。一一時すぎで食事に行った。父親が買ってきたものだとおもうが、ケンタッキーフライドチキンなど。そのほかにもサラダやトマトソース煮などあまっていた品々がたくさんあって、豪勢で豊富な夕食となった。米が釜にのこっていたさいごのぶぶんなので水気がなくかたまりかけていたのが惜しかったが。新聞は一面の、国民投票法が成立との記事くらいしか読まなかったとおもう。三年がかりでようやく成立と。二〇一八年に自民公明維新の会が提出して以来、立憲民主党などがCM規制の議論をもとめて反対していたのだが、成立後三年以内にそういった規制まわりの検討をして必要な措置を講ずるという付則を自民が飲んで、それで立憲も賛成にまわって可決という経緯。ただ、またうやむやになるか、議論がなされたとして通り一遍のものになりそうな気もするが。CM規制がなされなければ、資金力のある自民党がテレビをもちいて大々的なキャンペーンを張ることができるから、周知の面で与党が圧倒的に有利なわけである。九条改憲の是非じたいは措くとしても、柄谷行人など憲法の無意識などといってフロイトを援用しながら非武装原則の九条をあらためることを日本人はおそれているから改憲はできない、やってみるがいい、みたいなことを言っているらしいが(当該の岩波新書を読んでいないので不正確な認識だが)、ネット右翼も増えて極右の動向も高まり、日本会議が国会に跳梁跋扈している現在、ことによったらふつうにすっと改憲してしまうのではないかという気もするのだが。
  • 食事を終えるあたりで、母親が『達×達』という番組をうつしだした。分野のちがう達人同士が対談する趣向のものらしく、このときは辻本なんとかいうダンサーのひとと、松浦美穂という美容師のひと。こういうのはけっこうおもしろいので多少ストレッチをしながらちょっとながめたが、といってそんなに印象深い場面はのこっていない。皿をあらってその後入浴。静止したり、からだを束子でこすったり、こめかみや肩まわりを揉んだり。意外とこのころになるとすずしくて、ほとんど冷めたようにぬるくなって水位もひくい湯で換気扇もついていると、肌にたよりないようだった。出ると帰室。買ってきたコーラを飲みつつウェブを見て時間をすごした。勤務後の夜はさっさと横になって休みながらものを読むが吉と先日日記にも手帳にもしるしていたのだけれど、いざその時間がおとずれてみるとそうする気にならないというか、その言を裏切るかのように、俺の行動をさだめるちからはおまえにはないと過去のじぶんにあらがうかのように、日記を書こうという気持ちが起こっており、しかしからだがこごっているからまず肉をほぐそうとおもって、Faith Hill, "They Tried to Start a Church Without God. For a While, It Worked."(2019/7/21)(https://www.theatlantic.com/ideas/archive/2019/07/secular-churches-rethink-their-sales-pitch/594109/(https://www.theatlantic.com/ideas/archive/2019/07/secular-churches-rethink-their-sales-pitch/594109/))を読みながら太ももとかふくらはぎとか、腰とか背とか各所を揉んだ。Faith Hillというなまえは歌手のものとして知っているのだが、このひとはたぶんそれとおなじ人物ではない。文章は平易で、内容もべつにさほど印象的な箇所はない。Sunday Assembleyという、教会の集会の非宗教者バージョンみたいなこころみがあって、神への信仰が導入されないだけで歌をうたったり談笑したり講演を聞いたり飯を食ったりというのは変わらず、発足当初は人気をあつめてうまくいっていたのだが、だんだん超越レベルなしで会を存続させることのむずかしさがあきらかになってきて、いま(二〇一九年時点ですでに)各地の会の数が半減くらいして苦しくなっている、というはなし。教会はさすがに二〇〇〇年来つづいているわけで会を存続させるためのさまざまなテクニックを持っているし、なにしろ宗教的感情を媒介にしたものだからみんなわりと熱心にボランティア的業務をひきうけて存続するが、この無宗教バージョンはそこにあつまることだけが目的で、いつ来ても良いし自由に好きなように過ごして良いというわけで成員にしごとを課すこともなく、そうするとたとえば会場設営とか講演者の誘致とか一部のひとだけでやることになるからまわらなくなるし、また寄付もとれないわけだから資金面においても維持できなくなる、というような報告である。やはり、成員を集団に帰属させ、そのなかでの位置づけを意欲をあたえて寄与させるような超越レベル、something biggerがなければ共同体はつづきづらく、ただそこに来て楽しく過ごすというだけのことだと継続しにくいし、世俗的な人間が日曜朝に過ごす場所やもよおしとしての選択肢はほかにもいくらでもあるのだから、その競争に負けてしまうと。
  • そのあときょうのことをすこし書いてから、たしか三時四〇分に消灯したはず。