目的論的自然観はそれ自体、自然と人為(技術)をむすぶこころみである。アリストテレスにあって、問題は、もうひとつの局面であらわれる。制作とは区別される「行為」(プラクシス)の場面、つまりはたらきの目的をその外部(制作にとっての作品)にもつのではなく、はたらきそれ自体こそが目的であるような現場である。その場面で注目されるのは、「習慣」(ヘクシス)であり、「人柄」(エートス)にほかならない。なぜ習慣、人柄なのか。病者がそれを望めば健康を取りもどすことができるわけではないように、「不正なひとでも、欲しさえすれば、不正なひとであることを止めて、正しいひとになれるわけではない」(『ニコマコス倫理学』第三巻第五章)からである。アリストテレスは、おもしろい例を挙げている(同、第二巻第一章)。(end110)
たとえば石は、自然によって下方に運動するものであって、だれかが石を一万回も上方に放りなげつづけ習慣づけようとしても、上方に運動するように習慣づけることはできないだろう。おなじように、火を下方に運動するよう習慣づけることもできないし、そのほかなんであれ、自然によって或るありかたに生まれついているものを、それとことなるように習慣づけることはできないだろう。それゆえ、さまざまな徳がひとのうちにそなわってくるのは自然によるのでも、自然に反するのでもなく、自然によってこれを受容するように生まれついている私たちが、習慣によってこの素質を完成することによるのである。
徳はたしかに、自然に [ピュセイ] そなわることはない。徳は、むしろ一種の習慣であって、しかも自然に反することはなく、かえって人間の本性 [ピュシス] にもとづいて獲得され、やがて第二の自然 [﹅5] と化するようなもの、住みか [エートス] のように自然となるもの、人柄 [エートス] なのである。徳とは(アリストテレス自身がとらえたソクラテスの主張とはことなり)たんなる知ではない。けれども、アリストテレスは他方、「幸福」は最高の徳によって生まれる活動であり、その活動とは神的なものの「観想」であるともいう(第十巻第七章)。――プラトンにあっては、「神に似ること」が、人間の最高の知恵であった(『テアイテトス』一七六a―d)。アリストテレスはここで、師の立場へと回帰したのだろうか。(……)
(熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波書店、二〇〇六年)、110~111; 第7章「自然のロゴス すべての人間は、生まれつき知ることを欲する ――アリストテレス」)
- いま一八日にはいってしばらくしたところだが、この日のことは一文字も書いていなかったし、とうぜんよくもおぼえていない。さいきんわりとなまけがちで、この月曜日もけっこうなまけていたようで読み物など「ことば」と「知識」の音読しかしていない。あとはふつうに労働だった。往路の天気があまりよくなく空の灰色と雲のこごりぐあいからして風はなかったとはいえ雨の気配をおぼえたのだけれど、たしかけっきょく降らなかったのではなかったか。坂の途中で(……)さんに遭遇したのがこの日である。ときおり出くわす老人で、もう九〇は越えているのだがなかなか元気で、落ち葉を掃いたりしているのをおりおり見かける。風貌としては、麻雀漫画の『哲也』に出てくるゴミ拾いの神保神父にそこそこ似ている。この日は道の途中に立って実ったビワを枝についたままで持っており、それはすぐ頭上の木から採ったものらしかった。このひととはなすと難儀するのは耳が聞こえないことで、こちらのことばがぜんぜんつうじないのだけれどあちらはそれを意に介さずに問うてきたりいろいろ語ったりするのだ。この日もビワの木について、何十年かまえに植えて、さいしょはあっちにあったんだけれど移して、とか、道に出ちゃうとたいへんでね、(役所かどこかが?)切れとか言ってくるんだけど、とか言っていた。こちらをこちらという個体として認知しているのか、それともここをとおる若い男はみんなそうだとおもっているのか、あたまはまだ大丈夫そうなのでたぶんいちおう前者だとおもうのだが、会うたびに、したの水道局につとめているひとかという趣旨の質問をよこしてみせる。よく知らないのだが、川のすぐうえになにかそういう方面の建物があるのだ。
- 勤務中のことで印象深いことといってとりたててよみがえってこない。(……)
- (……)