2021/6/22, Tue.

 感覚的なものへの疑いということであれば、エレア学派にそのみなもとがある。じっさい、パルメニデスは感覚にしたがう道を思いなし(ドクサ)の途であるとし(本書、三三頁)、古代原子論者たちは、これに応えて、色や味は、たんなるノモスであると主張したのであった(同、五三頁)。プロタゴラスは、これに対して、感覚と存在とを同一視したけれども、これをなかば継承したゴルギアスの所論は、セクストスが報告しているように、ひろい意味での古代懐疑論におけるひとつの極点である(六一頁以下参照)。じぶんは知者ではなく愛知者であると語ったソクラテスの方法は、エレンコスにそのあらわれを見るとおり(七一頁以下)、むしろ果てなき探究のみちゆきであった。懐疑主義(scepticism)という立場がその語に由来する、ギリシア語スケプシスは、考察あるいは探究という意味である。知をもとめつづけて、おわることのないいとなみが哲学であるならば、懐疑とは哲学することの別名にひとしい。(end136)
 プラトンは「驚き」(タイウマゼイン)こそが、哲学のはじまりであると語った。「じつにその驚きの情こそが、知を愛しもとめる者の情なんだ。哲学のはじまりは、そのほかにはないのだよ」(『テアイテトス』一五五d)。驚きは、ごく身近で、ささいなことがらからはじまって、やがては遥かに大きな事象におよぶ(アリストテレス形而上学』第一巻第二章)。驚きから探究が、つまりはスケプシスあるいは懐疑が開始されるのである。
 (熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波書店、二〇〇六年)、136~137; 第9章「古代の懐疑論 懐疑主義とは、現象と思考を対置する能力である ――メガラ派、アカデメイア派、ピュロン主義」)



  • 一〇時半ごろに覚醒。きょうはそこそこのあかるさだったが、正午を越えたいまは曇りに寄っている。肩まわりや腰など揉み、ふくらはぎもマッサージしてから一一時をまわって離床。水場に行ってきてから、いつものように瞑想をした。一一時一五分ごろから四〇分まで。悪くない。安楽感。やはりなるべくちからをこめないこと。
  • 上階へ。食事はカレー。父親は(……)さん宅の跡地の草刈りに行っていたらしいが、ちょうど帰ってきた。(……)さんにたのまれて手伝うことになったと先日聞いたが、もともと(……)さんがこの土地の整備の手伝いをしていて、不動産屋から金ももらっていたらしく、だから今回の父親の手伝いも金をもらえるらしい。午後にふたたび出向くようす。父親はとうぜんながら汗だくのようで、なかにはいらず玄関で食事を取っていた。新聞を見ると、蘋果日報が二六日で停刊の見込みとあった。先日編集長や関連会社のCEOが逮捕され、また関連三社の資産凍結もなされたので(二億五七〇〇万円相当)、社員への給料の支払いもままならないし、多くの社員が退職を決めたとかで、どうしようもない状況だろう。いちおう凍結の解除を申し立ててはいるらしいが、みとめられるわけがない。香港の日刊紙で反中国政府を鮮明に表明しているのは唯一このアップル・デイリーだけらしいのだが、それもここで終了し、香港の報道において共産党を批判することはもはやできなくなるだろう。
  • ミャンマーのミン・アウン・フライン国軍総司令官がモスクワ入りして安全保障方面の高官と会談したという報もあった。ミャンマー国軍はもともとソ連時代からロシアとのつながりは深いらしく、二〇〇〇年から二〇一九年までの二〇年間にミャンマーに武器を供与した国では、金額ベースでロシアの四二パーセントが二位である。一位は中国の四五パーセント。もともとつながりがあったところに欧米からクーデターの件で批判されるわけだから、接近して関係強化を図るのはとうぜんのことだろう。武器を入手するという目論見もあるだろうし、対中関係とのバランスを取るという意図もあろう。ロシアのほうもじっさい、一八日だかに国連でミャンマーへの武器の流入を阻止するような案の決議がなされていたらしいのだが、そこで棄権したという。
  • 食後は洗い物をして部屋に帰り、コンピューターを用意してウェブをちょっと見たあときょうのことを記述。一時。暑い。そしてなんだかねむたいような、気だるいようなかんじがある。きょうは四時まえの電車で労働に行く。
  • そういえば、起きてすぐに三首つくっていた。

 大水とかみなりを呼ぶ夏夜にはあゆみを止めよ狂わぬように

 静寂を風のふるえがつたわってビルの向こうに朝焼けがくる

 うしなわれた水の歴史を悼むため葬送曲が砂漠に響く

  • その後、蓮實重彦夏目漱石論』(講談社文芸文庫、二〇一二年)を読みはじめた。『双生』を再読するにあたって、蓮實重彦のテクストへの触れ方を参考にできないかな、と。もともと蓮實重彦の著作をそんなにきちんと読んだことがなかったというか、中心作として言われているものではないものばかり読んできてしまったし、むかしとは理解力も違うので、表層に、まずはそこにあることばにつくという姿勢をあらためてまなんでおこう、というわけで。ひとつの作品を読むという観点からすると、『「ボヴァリー夫人」論』を再読したほうが良いのかもしれないが、これは持っていない。二年くらいまえに図書館で借りて読んだはずだが、あのときはあまりきちんと読めなかった。なんかわりとさっと読んでしまったおぼえがある。表層の観察のレベル、つまりここにこう書かれていて、ここにもこう書かれていて、こことここは対応していて、この語はあそこにも出てきて、というところまでは、時間と労力をかければおおかただれでもできるわけだし、こちらもそれなりに行けるつもりでいるのだけれど、その要素をどう関係づけるか、要素の関係をひとつひとつの箇所においてどう翻訳=解釈=意味づけするか、そしてそれらをどのようにつなげてひとつの道筋や像を描きだすか、という点はあきらかにまだ知見とか視点が足りない気がしているので、そのあたりをまなべないかな、というしだい。こちらにはめずらしいことだが、『双生』と併読することになるはず。基本的に併読はしないのだが。
  • この日の労働は四時過ぎから一時限だが、なんだかんだで退勤は七時四〇分ごろになった。(……)
  • 帰宅後もベッドで休みながら蓮實重彦夏目漱石論』(講談社文芸文庫、二〇一二年)を読みすすめた。やはり併読が性に合わないので、これをさきに読んでから『双生』にもどるのでも良い気がしてきた。八時から九時くらいまで。きょうはわりと疲れていて、八時半から一五分かそのくらい、本を置き、あおむけのまま目を閉じて意識をあいまいにした。
  • 14: 「遭遇という名の愚かしい存在証明。かくしてあたりには、おびただしい数の「私」の漱石像が境を接してひしめきあうことになる」
  • 16: 「「神話」は、不自由を自由と錯覚させることで蔓延する悪しき記憶の罠だ。不幸を幸福と錯覚させることで生きのびる悪しき記憶の織物である。ところで「文学」は、どこまでも幸福ないとなみでなければならぬ」
  • 16: 「「神話」の破壊とは、それじたいが「文学」的「神話」の一挿話にすぎず、新たな「神話」の構築と同時的にしか実現されえぬ宿命を担っている(……)」
  • 18: 「こうして「文学」と折合いをつけたかと錯覚する江藤氏の姿勢には、何やら教訓的なものが含まれている。というのも、無自覚な不幸として「神話」の構築に加担したその身振りは、それがあまりに独善的で客観性を欠き、ほとんど荒唐無稽でとても信じることはできないからというより、黙って聞いている限りは、いかにもそれらしい物語が念入りに語られているので、むしろ「文学」的日常のあの絶対的な単調さに酷似してしまうことになるからだ」
  • 20: 「だから、問題は、「神話」の破壊といった身振りとはあくまで無縁の試みを実践することにある。「神話」は、あらゆる破壊の身振りをかいくぐり、感性と思考とを犯す不断の日常として「文学」たりつづけている」
  • 21: 「「文学」が何にもまして厄介な代物だとしたら、そこではすべてが表層に露呈されているからではないのか」
  • 22: 「だから、意味であれ思想であれ、それが読めてしまうということは、「文学」にあっては書けてしまうことにおとらず恥しい体験なのだ」
  • 22: 「背後と思われ、内面と見えたものが同時に表面でしかなく、外面でしかなかったからこそ「文学」は困難となり、かつまた幸福が困難でもあったのだ」
  • 23: 「あってはならない誤解、それは、いまとりあえず余白、間隙、陥没点と呼んだものを不在や欠落の概念と混同視することだ。ここでいう余白にしろ、間隙または陥没点にしろ、それはいずれも充実した現存としてあり、いささかも不可視であったりはしない。積極的な過剰として「文学」と呼ばれる時空に亀裂を走らせ、読む意識を不断に戸惑わせるもの、その一帯だけは悪しき記憶に染まることのない磁場。読むという体験が演じられるのは、そのどこでもない時間、いつでもない空間をおいてはほかにはない」
  • 25: 「 [この書での試みは] また、いささかそんな相貌をまとっていないでもないが、究極においても「テーマ批評」、いわゆるテマティスムとも無縁の試みである」
  • うえの25の言明はわりと意外で、この本でやられているのはふつうにテマティスムの流儀だとおもっていたのだが、「究極において」「無縁」というのは、たぶん、テーマ批評がもともとは、作者の側におくりかえされるやり口だったからではないか。よく知らないのでまちがっているかもしれないが、バシュラールとか、いわゆるジュネーヴ学派のプーレとかリシャールとかの段階では、テマティスムというのは、作品の言語そのものとそれがあらわすテーマ系列に厳密にもとづきながらも、それをとおして作者の無意識的な領域を探ろう、というこころみだったとどこかで聞いたおぼえがあるので。だからリシャールにおいてはたぶん、フローベールは作者フローベール、あるいはばあいによっては実存者ギュスターヴとしての地位を失っていなかったとおもうのだけれど、蓮實重彦は作品の言語を作者夏目漱石や、「文学」の歴史がいままでおびただしく蓄積してきた作者漱石のイメージ(「誰もが夏目漱石として知っている何やら仔細ありげな人影」(9))=「神話」や、実存としての夏目金之助に還元すること、言語からそちらに向けての一歩を踏み出すことは倫理的な禁欲性でもって絶対にやらないし、その点は、「顔もなく、声もなく、過去をも失った無名の「作家」として、その人影を解放してやらねばならない」(11)とか、「漱石は、どの程度まで漱石たらざるものでありうるか。つまり、匿名の「作家」として「文学」の記憶にさからいうるか」(24)とか、「漱石その人 [﹅5] とは、いうまでもなく、誰もが夏目漱石として知っているあの人影ではなく、名もなく、顔もなく、記憶もなく、ただ言葉と戯れつつみずからの生命をまさぐる書く人、つまり「作家」漱石にほかならない」(49)とかいうことばにはっきりと表明されている。この書物におけるこころみを前置き的にみずから概説した24ページにはこのうえなく明確に、「まず、言葉いがいのいっさいのものを視界から一掃する」とも断言されている。
  • 68: 「これまで敬太郎や三四郎を主人公や作中人物と呼ばずにひたすら漱石的「存在」と記してきたのは、それが物語 [﹅2] にとって必須の心理だの性格だの欲望だのに従属することなく、むしろ物語 [﹅2] を支える濃密な説話的機能によって不断の現在としてある言葉の連らなりと同調する役割を帯びているからだ」
  • 69: 「だが、一篇の小説のしかるべき細部に、作者個人にとって潜在的な何ものかが顕在化されているとする確信は、「作品」を物語に還元しつつ卑小化することにほかならない。「作品」とは、現在たることしか知らぬ言葉だけが無方向に揺れている徹底して表層的な環境にほかならず、読むとは、その無方向な表層の戯れを身をもって生きることなのだ。記憶だの想像だの宿命だのを糧として生きのびる物語 [﹅2] が、その戯れを一瞬固定し、表層にたち騒ぐ細部を一定の方向に組織するかにみえるとき、「作品」はそこに方向づけられた言葉の群をたちどころに虚構化し、虚構のみに可能な一つの意味を賦与して現在から追放してしまう。だから現在に顔をそむけるものだけが「作品」を物語 [﹅2] として読み、そこにありもしない比喩だの象徴だのを見たと錯覚して満足するのである」
  • 「森の街も水の都も火の宮も雪のあとにはただ喪に服せ」を作成。
  • この日も一箇所だけだが書抜きができた。『双生』もほんのすこしだけ触れる。二一日の日記もてみじかにつづってしあげる。書抜き時には、雨晴らしカルテット『Back In Town / ジェロニモ2021』、雨ふらしカルテット『BIRD, BIRD & BIRD』というのをBGMに。「雨ふらし」から「雨晴らし」に改名したらしい。スウィンギンジャズバンドとかdiskunionの紹介に書かれていて、ああこういうかんじね、というのはわかりやすい。きちんと聞いたことがないので誤っているかもしれないが、EGO-WRAPPIN'というなまえを連想させるような雰囲気や音のつかいかたがときにあったし、大雑把な方向性としてはdorlisとかとおなじほうと言って良いのではないか。あちらのほうがビッグバンド感がつよかった気がするが。前者の音源の"ジェロニモ2021"というのがメロウで良かったのだが、一番まではまろやかだったのに、二番にはいって音が厚くなってくるとボーカルの歌も応じてちからがこもり、質感がざらついてきて、なんでわざわざメロウさを捨てちゃったの? とはおもった。このバンドのボーカルは、音域がたかいほうになると声質があらくなりがちで、ときに張り上げるような場面もあって、そこがちょっとどうもなあというかんじでもあった。