2021/7/31, Sat.

 「家は、大地、大気、光、森、道路、海、川といった匿名的なものから撤退したところに位置する」と、レヴィナスはいう。ひとはつうじょう道路のまんなかに、あるいは川の流れのただなかに〈ねぐら〉をもうけることはない。ここまではよい。レヴィナスはさらにつづけて、〈すみか〉とは「そこで《私》がみずからを集約し、我が家にとどまる非 - 場所」であると主張する(167/235)。だが、なぜ非 - 場所 [﹅3] なのか。
 レヴィナスの行論のなかに明示的な解答はない。レヴィナスが家を非 - 場所とよぶ理(end44)由を考えてみる。
 家は、〈始原的なもの〉の環境のなかに建てられる。〈場所〉(トポス)それ自体もまた、大地にぞくするものとして、〈始原的なもの〉にほかならない。〈すみか〉とは、場所のうちにありながら、場所から切断されたものである。家をたてることが〈始原的なもの〉から手を切ろうとするくわだて、風雨から身をまもろうとするこころみであるかぎり、それはもはや始原的なトポスとしての場所ではない [﹅2] 。そのかぎりで、「非 [﹅] - 場所」である。――家は「四つの壁」の内部に〈始原的なもの〉を封じ込める。家のなかにも大気はあるが、〈すみか〉にはもはや風はながれない。家の内部では、水もその奔出をおしとどめられ、火すらが管理されている。〈すみか〉とはアルケーが管理され統御される場所(トポス)であり、非 - 場所 [﹅2] (ウー・トポス)である。
 非 - 場所、つまり場所の不在 [﹅5] とは、しかしまた「どこにもないところ」(実現不能ユートピア)であり、不在の [﹅3] 場所である。住居は、たしかにうちに空気を収容し、戸外を吹く風をさえぎっている。大気の流れは、だが、家の壁を抜けて不断に外へと漏れ出てゆく。逆にまた、家にもすきま風がたえず入りこむ。〈すみか〉は光をとりいれ、窓からは灯かりが洩れる。水はときに家を押しながし、火は〈すみか〉を焼き尽くす。だからほんとうは、「〈始原的なもの〉が家の四つの壁のなかで固定され、所有のうちで静まりかえる」(前出 [169/238] )ことはありえない [﹅5] 。住居によっても、〈始原的なもの〉は所有できない。〈始原(end45)的なもの〉は、ここでもやはり所有の限界をかたちづくっている。家による大気や光の所有は挫折する [﹅7] 。それでは、ほんらいなにが [﹅3] 所有され、どのように [﹅5] 所有されることになるのだろうか。(……)
 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、44~46; 第Ⅰ部 第三章「所有と労働 ――世界に対して〈手〉で働きかけること――」)



  • 「赤光のうつくしさたる凪の朝思い立ったら死ぬが吉日」という一首をつくった。
  • この日は朝から勤務。瞑想できず。母親に送ってもらった。こちらが居間で天麩羅を食っているあいだに階下から起きてきたとき、コロナウイルスのワクチンを前日打ったため、腕が痛いともらしていたが、熱はなかったようで、その後もとくに体調不良はないようす。
  • (……)
  • (……)
  • 帰路は電車。(……)のホームですわっていると、左方にカップル。男性のほうは英語圏の外国人で、女性はたぶん日本人だったような気がするが、英語でにぎやかにしゃべっていた。男性がスマートフォンかなんか見ておもしろがり、これ見ろよ、みたいなかんじでもりあがっていたようす。来た電車に乗るとしばらくしてこちらの右にあつまってきた一団も、中国か韓国かよくわからなかったがアジア極東の人間のようで、こんな田舎でもずいぶん顔ぶれが多国籍になってきている。
  • 最寄り駅で降りればとうぜんひかりがまぶしく照っていてすぐさまつつまれるのだけれど、帰路をいくあいだそこまでめちゃくちゃ暑くはなかったというか、たまには昼日中の陽射しを肌に浴びるのもわるくはない。ゴッホが手紙に、夏のひかりを浴びるとじぶんは気力が湧いてヒースの野原をぐんぐんわたっていく、みたいなことを書いていたのをおもいだす。線路のまわりがあかるい緑に染まっており、その先にひらいているトンネルの穴も草にお膳立てされるようにしててまえの左右を緑が占めて陽にくつろいでいて、そういうさまを見るに、なんとなくなつかしいようなとか、原風景とか、そういう形容もしくは語が浮かんだりもするのだけれど、日本のゆたかな自然と牧歌的生活をしのばせる原風景、とかいうものはフィクションだろう。原風景などというものはこの世に存在しない。風景はつねに風景であり、どこでも風景であり、それに起源などありはしない。ところでこの日の夜に「読みかえし」ノートから大津透『天皇の歴史①』を読んでいておもったのだけれど、日本の原風景としてなんか田んぼとか棚田とか稲穂の群れとかがよくいわれる気がするのは、つまり日本を根源的にあらわす象徴として米が前景化されるのは、まさしく神話的次元からしてそうなのだと。というのも、記紀神話のなかで天照大神が日本を「豊葦原の瑞穂の国」と呼んでいるらしいからで、これはむろん、稲がゆたかにみのった国ということである。だから日本書紀成立時点で、日本=米、というイメージはすでに確立している。たぶんそれがずっと受け継がれているということなのだとおもうが、米と稲作じたいはいうまでもなくユーラシア大陸から渡来してきたもので、日本起源というよりはアジア起源のものである。もっとも縄文時点でまだ「日本」などなかったはずだから、稲作の導入による定住化を発端として文明が発展定着し日本国(ヤマトもしくは倭)が形成されていくとかんがえれば、まさしく米こそが日本をつくったとも言える気もする。
  • (……)のホームにあがったときも、いまは電車のとまっていないホーム脇がひかりの満ち満ちてかよう空間をひらいて陽炎をあわくにじみあげており、そのむこうに待機中の電車がふたつくらいとまってオレンジのラインを引いた銀色の車体をてらてらつやめかせていたり、さらに先で丘や森の緑があざやかに視界の周辺を占めてどこを見てもその存在感をほこるようにあかるくなっているさまを受けるに、いかにも夏っぽい風景だなという感をえた。
  • 帰り道、坂下の平らな道を家までまっすぐあるいているあいだ、セミの声はとうぜん林からひっきりなしに騒がしく立っていて、青空は雲をいくつも浮かべているものの余裕はありそうで乱れる気配は見せず雨は遠く、左手の林縁でブナだかナラだかシラカバだかわからないが白っぽい、生まれたばかりでまだやわらかい象の皮膚みたいな色の幹が一本あかるくたたずんでいて、そこにいまセミが一匹、茶色の翅を見せながら飛んでいったのだが周囲の蟬時雨にまぎれてその翅音は聞こえず、とまったあとに鳴きだしたのかどうか、一匹分の声など合唱が容易に呑みこんでしまうからそれもわからない。
  • 昼過ぎの飯はカレー。食後、ギターをいじる。ペンタトニックというスケールはすごい。てきとうにやっていればどこを弾いてもそれなりになるし、それをいくらでもつづけることができる。ふつうの七音のスケールだともうすこしやりづらい気がするのだが。といってペンタでもむろん、五音だけでなくてときどきにいろいろくわえてはいるが。四時半くらいから眠ってしまった。七時過ぎまで。
  • 「読みかえし」ノートの音読をよくやった。番号でいうと13から50までやっているし、時間だとたぶんあわせて二時間くらいか? 文を口に出して読んでいると、やはりやる気が出るし、それだけであたまや気分が晴れるようになるということを再実感する。書抜き文の内容をおぼえようなどという目論見は無用だともあらためて理解した。ただ読むだけで良い。
  • 今週一週間は月からきょうまでずっと勤務があって、ようやくあした一日やすめる。しかしその一日が終われば来週もまた週五で毎日。こんな生活はやっていられない。はたらきすぎだ。
  • ひさびさに書抜きできてよろしい。
  • 北川修幹の"弱い心で"が好きで、ひさしぶりにこれがあたまのなかにながれて聞きたくなったのでAmazon Musicでながし、ついでに収録アルバムの『あいのうた』全体もながしたのだが、これがいぜんおもっていたよりも良かったのでおどろいた。まえは"弱い心で"いがいはそこまででもないとおもっていたのだけれど、冒頭の"バカばっか"なんて、はじまった瞬間に、すばらしくメロウでめっちゃいいじゃんとおもわれた。サビも良い。サビの後半で上がっていって、さいごがバックとのユニゾンで歌詞なしの高音のハミングで終わるのがとても良い。まえは、アルバムが全体的に、甘さと感傷にやや寄りすぎているようにかんじていたのかもしれない。