2021/8/2, Mon.

 労働すること、はたらくこととは、なによりもまず身体を、四肢をうごかすことをふくんでいる。とはいえ、たとえば〈足〉をうごかすことはそれ自体としては〈歩行〉でもありうる。それは、第一義的にはまだ労働ではない。〈手〉をうごかすこともまた、たんなる体操、〈あそび〉でありうる。だが、これにたいして、とくに〈手〉をうごかしてもの [﹅2] を〈摑む〉こと、さらにもの [﹅2] を移動させることは、すでにそれ自身として一箇の労働である。私は足を運動させることで、通常はまずみずから [﹅4] をうごかす。手を運動させることは、これにたいして、他のものにはたらきかけ [﹅6] 、他のもの [﹅4] をうごかすことである。「掌握」がそのものとして労働であり、また労働の原型となるのである。――森で樹木の下枝を手折ることはすでに一種の加工 [﹅2] であり、手折られた枝をついて歩くとき、枝はすでに杖、つまり一箇の道具 [﹅2] となっている。そこで私は、「〈始原的なもの〉から引き剝がされた〈もの〉を〈私〉にもたらし、〈私〉のエゴイスティックな目的のもとにもたら」している。じっさい石器の起源を考えてみれば、大地から石を拾いあげること自体が、すでに一種の〈加工〉のはじまりでもあるだろう。木の枝を杖として使用し、石で大地を掘りかえすと(end50)き私は、道具をかいして大地という〈始原的なもの〉にはたらきかけるが、そのさい直接には〈手〉が道具にはたらきかけている。アリストテレスがいうとおり、手は「道具の道具である」(オルガノン・エスティン・オルガノーン)からである。道具の道具として、ものを摑み、「欲求の目的とむすびつける [﹅6] 」ことが、そのかぎりでは、「手の本来のさだめ」、すなわち、それ自身としては「盲目な」手に負わされた固有の運命である。「手は把持と掌握の器官(l'organe de saisie et de prise)」なのである。
 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、50~51; 第Ⅰ部 第三章「所有と労働 ――世界に対して〈手〉で働きかけること――」)



  • 一一時半離床。瞑想OK。
  • 食事にはベーコンエッグを焼いて米のうえに。新聞、一面で、クーデターから半年を期してミャンマーのミン・アウン・フライン国軍総司令官が暫定首相に就任との報。三面にも関連記事。ミン・アウン・フラインはもともと司令官の任期が今年までだったらしいが、クーデター後に定年を撤廃しており、今後も権力をにぎりつづけるもよう。二〇二三年だか二四年だかに総選挙を実施することを誓う、と述べたという。NLDが勝った選挙は不正だったとの主張にもとづくもので、今後も国軍側は民主派を拘束したり、NLDを解党したり、民主派候補の立候補をみとめなかったりして対立者を排除しにかかるはずだから、総選挙をおこなったところでかたちだけの民政移管になるだろうとの観測。民主派の側も彼らの統一政府みたいなものをいちおう発足しており、戦力をつのって「連邦軍」をつくろうとしているらしく、民主派支持の市民のおおくは武力闘争に賛同しているようだから、内戦になるのではないか。もうなかばいじょう、そうなっているようなものかもしれないが。とはいえ、少数民族武装勢力も民主派とむすびつき、市民が彼らによって訓練を受けて兵となるとはいっても、軍事力とその規模はふつうに国軍のほうが高いのだろうし、民主派の暫定政府もいわば「オンライン政府」で国内に根拠がないから政権奪還は至難だろう、との見込み。
  • ロシアではプーチンが、二次大戦時のソ連ナチスの目的とか行動とかを同一視することを禁じる法をつくったという。EUではソ連独ソ不可侵条約をむすんだことでナチスポーランド侵攻をまねいたとする意見がつよく、だからソ連に一定の開戦責任を負わせようとする見方が支配的らしいのだが、それに反発するもの。「ヨーロッパの解放者」としてのソ連、という解釈しかみとめないというわけだ。
  • いま三時四〇分で、一時間まえくらいから曇って空が白くなっているのだが、それいぜんはふつうに晴れていた。とうぜん暑い。とはいえ、風呂洗いをしているときなど、はいってくる大気のながれがけっこう涼しい感触でもあった。二時ごろにベランダの洗濯物を取りこみながらちょっと陽を肌に浴びて眼下を見下ろしたが、ひとつの木の葉の先からべつの木の枝先へとわたっている蜘蛛の糸がこちらの姿勢の変化や糸のふるえにおうじてたまさか宙に浮かびあがり、飴細工のように淡く微光するそのときだけ目に見えるようになる。
  • 五時に家を出たころも空は白かったというか、ますます白くなっていて、全面白くなるどころかいくらか色が濁ってきており、雨が来てもおかしくはないなという気配で、公営住宅まえまで来ると棟のうえ、空間のむこうに南の山がのぞいているその稜線に触れながら、白を背景としながらやや濃い煙みたいな色の雲が、おさない画家の手によって気まぐれにわざわざそこだけぐるぐる塗り足されたといった調子でもやもやと浮かんでいた。木の間の坂にはいればきょうは西陽の色がないからもうけっこう薄暗く、そのなかでカナカナが左右のちかくから一心にかわるがわるに声をあげて宙をこすりながら埋めており、空は白くても左の斜面下で草むらの底にのぞく水の一所はやはり銀色に染まって散乱した鏡のようになっていて、すすめばじぶんじしんの影も足もとの路面にごくあわく湧いているのが見つかるがそれは夕刻の曇り空のわずかばかりのあかるみによるのではなく、道の電灯がもうつきはじめているためだろう。
  • (……)につくと、真っ白な空の地のうえにまさしく灰色といったかんじのわだかまりがこびりついていてますます雨をおもわせたが、じっさい勤務中に走ったときがあったし、帰路でも降られた。(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)一一時に退勤。かなりひさびさのことだが、徒歩を取ることに。暗夜の印象。裏道を行きながら左右をのぞくと木をいただく庭などかなり暗いし、道の先を見ても静電気みたいな黄緑色の街灯の裏の空があまりあきらかならないというか、闇の集合がのしかかっているようなかんじ。白猫に遭遇。こちらからモーションを見せたわけでなく、立ち止まろうとしたわけでもないのに、足音を聞きつけたのだろう、当該の家のまえまで来ると車のしたからすがたをあらわした。しゃがんでむかえると、道のまんなかにごろりとねころがって身をさらすので腹をやさしくなでてやれば、からだをそらせるようにして伸ばしたり、あくびをしたり、手や足をなめたりしながら臥位のままごろごろたたずんでいて、とても可愛らしい。時間が遅いのでやはりいつもよりねむいのだろうか、道を前後に通り抜けていく微風を浴びつつしばらく触れてたわむれてから立ち上がって別れても、いつものようについてこようとせず、寝転がったままだった。あるきながら、なんといういたいけな生き物なのかとおもった。まあそのように、脆いとかこわれやすいとか、こわれもののようなものとしてとらえるのも、猫に無礼だというか、人間の傲慢というものだろうが、それにしても可愛らしい。なぜなのかわからないが、猫と遭遇してしばらくたわむれたあとの道行きは、だいたいいつもちょっと神妙なような気分になるというか、死をおもうことがおおい。生命に触れたような感覚なのだろうか。それもまたあまり当を得た見方ともおもえないが、ただたしかに、人間と接するときよりも、猫においては生命がよりむき出しにちかいかたちであらわれているような印象は受けないでもない。言語が介在しないことによるのか? あるいは身体性がよりむき出しということなのか? いずれにしても、夜道をあるいているときにじぶんの死をおもうことはおおいというか、夜道をある程度の時間あるけばかならずおもうといっても良い。じぶんもいずれ死ぬんだなあ、と毎回かんがえている。それはたぶんしずかな夜道をひとりでいくと現在がわりと浮き彫りになっていまの瞬間の生が意識されるので、そこからひるがえって反転的に死をおもうという経路なのだとおもうが、猫に触れると、じぶんではないものの死をもおもうようなかんじがある。それはあの白猫じたいの死でもあるのだろうし、あの猫もそのうち、たぶんじぶんよりもはやくいなくなるんだろうなあ、というかんじでそこにさびしさももしかしたらあるのかもしれないが、あの猫の死だけにかぎられているのではないような気もする。
  • とちゅうで、(……)携帯をとりだしてメールをしたためはじめたところが、ちょうどそのあたりで雨がはじまって、しかもそこそこさかりだして携帯の画面に雨滴があつまり、じぶんのワイシャツにも濡れあとがついてきたので、いったん中断して先をいそいだものの、あまり遅くなってもとおもったので家につかないうちにおくっておきたくて、それでまたとりだして雨に邪魔されながら文をつくり、送信した。顔をあげるとあたってくる雨粒がわずらわしいので終始目を伏せていかなければならないくらいの降りで、けっこう濡れて、あたまはツンツンになったし、スラックスなどもそこそこ湿った。
  • 帰るともう先に風呂にはいったらと母親がしきりにすすめてきたが固辞し、休息。

Research lead by the cognitive scientists Jennifer Clegg, Nicole Wen and Cristine Legare at the University of Texas, Austin, further illuminates these patterns and may help explain why conformity was so eyebrow-raising to psychologists. The research team had adults in both the US and Vanuatu, in the South Pacific, watch two videos of children making a necklace. In both videos, the child first watched a demonstrator make a necklace, then were given a chance to make their own. However, in one of the videos, the child assembled a necklace that precisely matched the one made by the demonstrator in its bead colours and sequence. In the other, the child produced a necklace with a different sequence of coloured beads.

When asked which child was “smarter”, 88% of adults in Vanuatu pointed to the “conformer”, compared to only 19% of US respondents. When asked why they selected the non-conformers as “smarter”, the adults in the US explained that the child was “creative”.

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While the diversity of kin-based institutions found around the world has been influenced by many factors, the European Marriage Pattern traces primarily to a religious mutation. Beginning in late antiquity, the branch of Christianity that evolved into the Roman Catholic Church began to gradually promulgate a set of prohibitions and prescriptions related to marriage and the family. The Church, for example, banned cousin marriage, arranged marriage and polygamous marriage. Unlike other Christian sects, the Church slowly expanded the circle of “incestuous” relationships out to sixth cousins by the 11th Century.

Despite often facing stout resistance, this enterprise slowly dissolved the complex kin-based institutions of tribal Europe, leaving independent nuclear households as a cultural ideal and common pattern.

To test the idea that the medieval Church has shaped contemporary psychological variation, it is possible to exploit the unevenness of this historical process by tracking the diffusion of bishoprics across Europe from AD 500 to 1500. Analyses show that Europeans from regions that spent more centuries under the influence of the Church are today less inclined to conform, more individualistic and show greater trust and fairness towards strangers.

  • 深夜に日記を書くあいだ、なぜかGuns N' Roses『Appetite For Destruction』などながしてしまい、作業に切りがついたときに"Paradise City"の終盤で、目を閉じてちょっと聞いたのだけれど、この曲でのSlashのギターソロはなかなかすごい。有名なプレイだとおもうが。これを完全に主演としてのソロにしないでわざわざ歌がのこっているその裏でやらせるあたり贅沢である。Slashって基本ペンタトニックベースでブルージースタイルなのだけれど、速弾き度合いもやろうとおもえばかなりのもので、レガートもできて、この曲のソロでもクロマチック的なレガートの部分など格好良く、レガートのやりかたもいわゆるテクニカル系の連中、たとえばフュージョンまじりのやつらとかあるいはネオクラシカル方面のひとびととか、もしくはPaul Gilbertみたいなやつとはフレージングがやはりちょっと違うような気がされる。レガートを措いてもフレーズのくみたてはかなりのもので、とくにチョーキングのうごきかたなどはやく、こういうながれでこの音に移動してこんなにはやくチョーキング上下させて、これアドリブでできるかー、といったかんじがある。しかも八七年だから、二二歳でこれをやっているとかんがえるとなおさらすごい。