にもかかわらず、ひとはしばしばもの [﹅2] といえば、石、木片、時計、リンゴ、バラ、といった〈もの〉を、つまりは広義の「物体」をおもいうかべる [註33: M. Heidegger, Die Frage nach dem Ding, in: Gesamtausgabe Bd. 41, S. 6.] 。その結果、ひとは多くのばあい「世界」を「物体」が適度に散乱した空間としてイメージすることになる。物体としての〈もの〉とはいっても、おそらく通常はたんに漠然とそのありようが了解されているにすぎないであろう。そのあいまいな理解の内容を強いて分節化して整理しておけ(end52)ば、〈もの〉とは、おおむね、一定のはば [﹅2] とかさ [﹅2] をもって「延長」し、しかも特定の空間を占有する「不可入」的な存在者であり、かつ外部から力がくわえられないかぎり不動な、あるいは一様な運動をつづける「惰性」的な存在者であると理解されていよう。
もちろん、植物は「おのずと」成長し、動物は「じぶんから」運動する。生命体は、「惰性」的ではない。また、水の流れは、ひとがそこに足を浸すことができる「可入」的なものである。通常はまた、ひとははたして大気のかさ [﹅2] を、風のはば [﹅2] を意識するものであろうか。大気は無定型に重さもなくひろがり、風はただ一瞬ながれ吹くだけではないだろうか。
そうであるとすれば、ひとが一般に〈もの〉の典型として念頭におくもの、「世界」の構造成素としてイメージする存在者は、ほんとうはもの一般 [﹅4] ではない。それはむしろ「剛体」にちかい物体なのである [註34: この論点については、廣松渉『存在と意味』(岩波書店、一九八二年刊)三九〇頁以下参照。『廣松渉著作集』第一五巻(岩波書店、一九九七年刊)も同頁。この問題は、すでに、『事的世界観への前哨』(勁草書房、一九七五年刊)一三二頁以下で検討されている。] 。――物体としての〈もの〉がなりたち、世界が実体的な存在者からなる世界としてひらかれてくるのは、所有と労働にたいしてなのだ、とレヴィナスはいう。
物体 [﹅2] としての〈もの〉には、輪郭がある。一定の輪郭によって〈もの〉はある〈かたち〉をもち、また他の〈もの〉からへだてられて、特定の〈もの〉となる(二・3)。このことが決定的なことがらなのだ。(……)
(熊野純彦『レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、52~53; 第Ⅰ部 第三章「所有と労働 ――世界に対して〈手〉で働きかけること――」)
- 一一時半離床。瞑想OK。窓外のセミの声がここさいきんの印象とくらべていっそうはげしくなっている。泡立つような、非常に微細な泡で空間全体が沸騰しているかのような音響。
- きょう、業者が来てあたらしいガスコンロが導入された。ふたりで来て、うちひとりがきのう熱中症になっちゃってとはなしていたので卓につかせてつめたい麦茶をふるまったとのこと。四五歳くらいのがっしりしたひとだったという。気持ち悪くなり、きのうははやく九時には床についたというが、その翌日にもうはたらかなくてはならないのでたいへんだ。
- 新聞は家庭生活面みたいなところに夫のモラハラになやむ妻の声が寄せられていて、エピソードを瞥見するに、こういう人間にだけはどうしてもなりたくないとおもう。専門家がアドバイスとして、あいてを変えなければならないとおもってしまいがちですが、モラハラをするひとを変えるのは本人がよほどおおきくのぞまないと無理なので、あいてを変えるのはあきらめてそれにとらわれず、じぶんがなにをやりたいのか、どう生きたいのか、なぜいまそれができないのか、と現実状況を問うて分析するほうが有益です、経済的事情などでどうしてもはなれることができないのだったら、さいあく夫を「ATM」とか「ルームシェアのあいて」とみなしてわりきるのもひとつの手です、と述べていて、それはそれでなかなかの割り切りようだなとおもってちょっと笑った。
- 音読や書見。プルーストを読みすすめているのだけれど、プルーストの記述って、原文ではどうなのかわからないけれど、正直すごくきれいに隙なく無駄なく構築されているというかんじではなく、ひとつひとつのことがらの説明などみても、単純なはなし、べつにそんなに書かなくていいでしょ、みたいな余剰がおおくて、翻訳で読むかぎりすごく磨かれたというものではないとおもうのだけれど、そこがむしろ気になるというか、推敲のときに削減して切り詰めていくタイプの書き手ではなくて、むしろ隙間にどんどんあたらしいことばを埋めてさらに膨張させていくタイプの書き手の感触があって、めちゃくちゃ大雑把なはなし、とにかくこまかく詳細に書く、というかかたり、説明する(プルーストの書きぶりって、描写とか物語とかいうよりは、「説明」というかんじがいちばんちかいような気がするのだが)、という方向でつきつめているかんじで、こういうのじぶんでもやってみたいなとはちょっとおもう。
- それにしても、開始一〇ページくらいはねむりから覚めたときに過去のいろいろな場面とか部屋のことをおもいだすというはなししかしていないし、そこからコンブレーの回想にはいっても、いま60くらいまで読んでいるけれど、一家のひとびとの説明とスワンの説明がながく、いちおう話者じしんに直接にかかわる中心的な件としても、スワンが客に来る日の夜ははやく寝室にあがらなくてはならず、母親とおやすみの接吻も満足にできずかまってもらえないからつらい、というはなしでしかないわけで、六〇ページついやしても物語の進行としてはその一件しか発生していないわけで、この第一篇が発表されたのは一九一三年だが、とうじのフランスで小説のスタンダードがどんなものだったのかわからないけれど、たとえばゾラみたいなものがわりと標準だったのだとすると、とうじこれを読んだひとが、阿呆かと、こいつなにやってんねん、ふざけてんのか? とおもったとしてもぜんぜん不思議ではないなとおもう。じっさい、さいしょにたしかアンドレ・ジッドがかかわっていた新フランス評論とかいう雑誌に掲載してもらおうとしたのだけれど採用されなかったのではなかったか。それでジッドがのちに、あのときのじぶんの判断は誤りだったみたいな、じぶんの目は節穴だったみたいなことを言っていたような気がするが。
- きょうはけっこう風がつよく、よく吹いていて、九時か一〇時ごろ、まだ寝床に貼りついていたときなど、白めの空を背景に窓に見えるゴーヤの網などかなりばたばた揺れていたし、風が家にぶつかってきて音を立てながら揺れたときもあった。
- 出勤は、母親が送っていってくれるというので、暑いし時間もほしいしとおもってそのことばにあまえることにして、五時二〇分くらいまで「読みかえし」ノートを音読した。車に乗って出発。街道に出ると、いまいるところは日蔭なのだけれど、道の先のほうには角度のあさくなった西陽の手がとどいて家も山も宙もオレンジ色にいろどられており、周囲のちかくで日蔭のなかにある家も通りすぎざまに窓ガラスには太陽の破片が鬼火のささめきのようにひらめいたりもして、はしっていくうちにわれわれもそのあかるみのなかにはいりこんでまわりがやわらかくほがらかに色づくわけだが、そのあかるさ、橙の色味のために、見慣れた風景がつくりものめいて見えるというか、よそから来たひとがつかの間接する異郷を見るときの視線感覚がやどったようになり、建物や車道沿いを行っているひとびとやら家のまえで微風に揺らいでいる緑の下草のちいさな海やらが物語のなかの存在のように映じ、それを見るこちらもそこから排除されてそとからながめているのではなくて、おなじ物語のなかにはいりこんで一片として位置を占めているようなかんじが起こった。車道沿いを行くひとはだいたいワイシャツにスラックスの勤め人風情で、なかに一組男女の連れ合いがおり、もうすこしすすんでより市街のほうに行ったときにはハーフパンツにアロハ風シャツで夏らしく軽装の若い一団がうろついているすがたも見られた。道はなぜかそこそこ混んでいて、とちゅう止まったときに右手の対向車線のほうでも停まっているわけだけれど、その車にも横から陽がかかって運転手である中年女性の顔が淡いあかるみと薄影でもって印象的にいろどられていた。
- 母親は道中、父親について、ああやって(……)と行き来する二重生活をずっとおくって、もうはたらかないのかな、といつもながらのぼやきを吐いていた。それにつづけて、(……)は七八歳でまだがんばってるのに、と職場のひとりの名をあげるのもお決まりの比較だ。
- (……)
- (……)
- (……)
- (……)
- きょうは電車に乗った。最寄り駅から木の間を坂をくだると、道をいくあいだずっと、頭上で翅音やギギ、ジジ、という声が途切れずに立っていて、これはどうもセミがコウモリのごとく暗闇のなかで枝葉から枝葉をわたっているようなのだが、それがあまりに途切れず、この日までこんなことはなかったので、やはりきょうからセミの数がずいぶん増えたのだとおもわれる。路上にもちからをうしなって死と朽ちることを待つものたちが散見される。坂の下り際あたりで道端の草のあいだにかすかなひかりがすいーっとながれていくのを二度見たとおもうのだが、目の錯覚でなければあれはたぶんホタルではないか。平らな道を行くあいだもやはりあたまのうえや林のほうでセミたちがさわいでおり、けっこうちかくバタバタいうこともあるので、急に飛んできやしないかとわりとビクビクしながらあるいていたところ、家のまえまで来て、隣家の(……)さんの宅とのあいだ、その勝手口におりていくほそい通路のあたりにとまっていたやつが果たして飛び出してきて背中にあたったので、おお、とおもわず声を出して身をかがめてしまった。
- 家にはいると父親はタブレットでたぶんオリンピックかなにか見ながらしきりに独り言を吐いてじぶんひとり感じ入ったようにしており、母親は母親でテレビでなにかべつのものを見ている。帰室して休息。一二時ごろに食事へ。父親はまだ居間にとどまって食前やビール缶など出しっぱなしにしたままあいかわらずタブレットでなにかを見ており、やはりたびたび独り言を漏らして番組に反応し、感心したようにうなったりとか、こいつほんとうにバカだな、とか憎まれ口をたたいたりしているが、このときはたぶんオリンピックではなくてなんらかのドラマ(韓国ドラマのたぐいではないか?)を見ていたのではないか。こちらは膳を用意し(お好み焼きなど)、ひとことも発さずにただ無言で黙々とものを食べながら夕刊を読む。「日本史アップデート」は廃仏毀釈について。破壊の面ばかりが取りざたされるが、廃仏のはげしさには地域差があり、激しかったのは水戸学とか平田篤胤の国家神道とか、尊皇思想方面に影響を受けた官僚がいた地方で、薩摩とか長野とかだった気がするが、けっこうゆるいところもあって、商人が破壊されるまえの仏像を買い取ってべつの地域の信者に売ったりとか、仏塔がべつの地域の寺に一〇年かけてうつされたりとかいうこともあったという。ほか、東北にまつわる作品とか本とかを紹介するコラムで、大牟羅良というひとが紹介されていた。敗戦後に古着の商人として盛岡付近の山村というか農村というかに出入りしたひとで、その見聞をまとめて岩波新書から『ものいわぬ農民』という本を五八年だったかわすれたがそのくらいに出したらしく、それがいまだに読まれつづけていて岩手の本屋などではさいきんでもけっこう売れているらしい。声なきものの声を聞き取りすくいあげることが大切だ、というようなことを言っていたらしい。実体験に根ざしたリアリティが読みどころだというが、そのために批判もあったという。つまり、農村の貧しさを誇張して書いているとか、恥をさらしたとか、そういったことも言われたと。このひとの甥だったかはヒッタイト方面の考古学者で、いまもトルコだかに滞在して発掘研究に従事しているようなのだが、伯父のことばをじぶんも胸にして考古学でも声なきものの声を聞き取ろうとがんばっているとのことだった。
- 入浴後はきのうのことを記述。本文は終了。その後はわりとだらだらして、四時二〇分就寝。
- (……)さんのブログの八月一日の記事をとちゅうまで読んだ。中国語のニュースの翻訳を校閲する業務をやっており、二七日に常徳市で(無症状ではあるが)コロナウイルス感染者が発見されたこととその後の対応をつたえる記事が引かれていて、(……)さんが、「これは準戦時体制にある国家や、戦争になったら間違っても日本が勝つことのできる相手ちゃうな、と思った」といっているとおり、そのうごきのすばやさと厳格さも目をみはるものなのだが、それとはべつでこちらは、カタカナ語が中国語でどうあらわされているのかなというのがちょっと気になって見てみると、まずKFCがあったのでKFCってどうなるんだと原文を照らし合わせて見てみたところ、「肯德基」というのがどうやら「ケンタッキー」ということらしい。あと、「スーパー」は「超市」でそのままだし、「センター」も「中心」でそのままなので笑う。「シェラトンホテル」は「喜来登酒店」のようで、「喜来登」が「シェラトン」で「酒店」というのが「ホテル」ということだろうか? なかなかおもしろい。
- マルセル・プルースト/井上究一郎訳『失われた時を求めてⅠ 第一篇 スワン家のほうへ』(ちくま文庫、一九九二年)より。
- 50: 「私がさっきまで感じていた苦悩、そんなものをスワンは、もし私の手紙を読んで目的を見ぬいたとしたら、ずいぶんばかにしただろう、とそのときの私は考えていた、ところが、それは反対で、後年私にわかったように、それに似た苦悩がスワンの生活の長年の心労だったのであり、おそらくは彼ほどよく私を理解することができた人はなかったのだ、彼の場合は、自分がいない、自分が会いに行けない、そんな快楽の場所に、愛するひとがいるのを感じるという苦悩であって、それを切実に彼に感じさせるようになったのは恋なのであり(……)」
- 57: 「「スワンにはたいへんな気苦労があるのだと思うわ、あの蓮っぱな女を奥さんにしたものだから。その女がシャルリュスさんとかいう男と、コンブレー中に知られながら、いっしょに暮らしているのですからね。町の語りぐさだわ。」 母は指摘した」
- 61~62: 「彼はまだ私たちのまえに大きく立ちはだかっていた、白い寝間着につつまれ、神経痛をわずらって以来用いるようになったむらさきとピンクのインド・カシミアのマフラーを顔のまわりに巻きつけて、スワン氏がまえに私にくれたベノッツォ・ゴッツォーリの複製画にある、アブラハムが妻のサラにその子イサクのそばから身を離せと告げているあの身ぶりで。それからずいぶん年月が経っている。父のろうそくの光があがってくるのを私が見た階段の壁がなくなってからも、もう長い。私の内部でもまた、いつまでもつづくと思いこんでいたずいぶん多くのものがくずれさり、そして新しいものが築かれ、それがそのはじめには予想もつかなかった新しいつらさやよろこびを生むようになった、――古いものが私にとって理解し(end61)にくくなったのをおなじように」
- 62: 「私にたいする父の行為は、そんなふうに恩恵の形で示されるときでも、何か自分勝手で、的はずれで、それが父の行為の特徴であったが、概していえば、それはあらかじめ考えられたプランからというよりも、むしろその場その場の都合から出てくるためなのだ」
- 63: 「「この子自身にもわからないのよ、フランソワーズ、神経が立っているのね、早く大きなベッドを私がやすめるようにつくってください、それからあなたも上にあがっておやすみ。」 このようにして、はじめて、私の悲しみは、もはや罰すべき過失ではなく、一種の無意志的な病気と考えられたのであり、人がそんな私の病気を、私に責任がない神経症状として、いまこの場で公然と認めたことになったのである、私は涙のにがさにさまざまの懸念をまぜる必要もなくなったので気が軽くなった、罪を犯さずに泣けるのであった」