2021/8/5, Thu.

 労働は、レヴィナスによればしかし、たんに所有のみを創設するばかりではない。労働はまた、〈もの〉をつくりだすことで、実体 [﹅2] を、あるいは諸性質の基体 [﹅2] をつくりだす。労働は〈もの〉からなる世界を、実体がかたちづくる世界を創設する [﹅7] のである。
 〈始原的なもの〉とは、典型的には大気であり、水であり、かたちをもたないものであった。大気は、たとえば暖かく感じられ、また冷たく感じられる。そのように感じられるとき、暖かさや冷たさといった純粋な感覚質とはべつに、その背後でそうした〈性質〉をになっている基体としてのあるもの [﹅4] が存在するわけではない。暖かな大気が冷たくなるとき、それ自体としては暖かくもなく、冷たくもないあるものが持続的に存在し、そ(end57)の変化しない [﹅5] あるものが、変化の背後にあるのではない。たんに冷たい大気があり [﹅2] 、暖かい大気がある [﹅2] だけである。〈おなじ〉ものが〈ちがう〉もにになる [﹅2] のではない。たんに〈ことなり〉があるにすぎない。享受の対象となるものは、「純粋な〈始原的なもの〉からなるこの世界、基体を欠き、実体を欠いた質としてのこの世界」(146/204)であり、享受としての感受性(三・3)が感じとるものは「基体を欠いた純粋な質」(144/201)なのである。
 これにたいして、労働をかいしてはじめて「把持可能なもの」が「出現」する。「性質の基体 [﹅2] 」が出現する。どうしてか。労働によって〈もの〉が創設されるとは、「〈かたち〉なきものの形態化」であり、「固体化」(la solidification 凝固)(前出 [172 f./242 f.] )であるからである。労働とともに可能となる「所有が存在から変化を剝奪する」(172/242)。要するに所有が「ものを〈もの〉として構成する」(138/193)のである。――〈もの〉は把持され、蓄積される。「所有のみが、享受の純粋な質のなかに、永続性を創設する」(175/245)。享受される純粋な質、ものの諸性質の背後で持続し、それらをささえているあるもの [﹅4] とは、基体としての実体 [﹅8] にほかならない。〈始原的なもの〉は恒常的に存在する実体ではない。だが、所有される〈もの〉は実体となる。
 こうして、レヴィナスは主張することになる。「所有のみが実体にふれる。〈もの〉とのその他の諸関係は、属性に到達するにすぎない」(174/245)。エンゲルス [﹅5] がいうように、思考によってとらえられる「物質そのもの」は一箇の「抽象」である。ただ労働だけが(end58)〈物自体〉にふれるのだ [註36] 。――このことはしかし逆にいえば、物自体 [﹅3] とは所有の影にほかならないということである。所有への、存続しつづける〈もの〉への意志が、天変し生滅してやまない(環境)世界のただなかに、それ自体としては不変な実体という〈虚焦点〉(focus imaginarius)(カント [註37])を創設するのである。


註36: その意味では、「実践、すなわち実験と産業」が物自体をとらえるという『フォイエルバッハ論』の主張(ならびに、党内闘争を背景とした一箇の政治文書ではあれ、『唯物論と経験批判論』におけるレーニンの主張の一部 [﹅2] )は、みかけほど粗野な哲学的主張ではない。なお、本文でふれたように、エンゲルスの『自然弁証法』草稿群・最新層には、「注意せよ。物質そのものは純粋に思考の産物であり抽象である」という一節がある。Vgl. F. Engels, Dialektik und Natur, in: Marx-Engels Archiv Bd. 2, hrsg. von D. Rjazanov, Neudruck 1969, S. 234.


註37: Vgl. I. Kant, Kritik der reinen Vernunft, A644/B672.


 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、57~59; 第Ⅰ部 第三章「所有と労働 ――世界に対して〈手〉で働きかけること――」)



  • 最終的に一〇時半の離床。クソ暑かった。暑気のためか何度か覚めており、しかしおなじその暑さの重みのためになかなかうごけず、リモコンに手を伸ばしてエアコンをつけることすらできずにかたまっていた。八時くらいにさめたときはまだ涼しくて意外と暑くないなとおもったおぼえがあるが、九時一〇時だともう駄目。寝ているあいだに熱中症になってもおかしくないとおもわれるような暑さ。かなりひさしぶりで夢見があった。友人らとどこかにむかっている。街中というか、車道脇みたいなところを。あるいはもしかしたら橋のうえだったかも。(……)がいたのだけれど、彼女のお兄さんがあらわれて、彼はさいしょわれわれに気づかれないように通りすぎようとしたか、あるいは逆にそれをよそおいながらもじつは気づいてほしい風だったのかもしれないが、いずれにせよこちらは人物を同定し、しかし関係がないので黙っていたところ、(……)くんではなかったような気がするのだけれど面識のあるひとりが声をかけて多少やりとり。(……)
  • その後、大学みたいなところに移動。どうも音楽練習室みたいなところに行って練習かなにかしようとしていたらしい。ただそのまえに、どこかの壁際に荷物とか道具とかがあつめられていて、それをはこばなければならないようで、こちらはなぜか寿司(丼か大きめの丸皿か、いずれにせよパックの寿司ではなくてそれよりも一段いじょううえのもの)を二つ、なにかの荷物のさらにそのうえに乗せてはこぶことになって、その寿司ふたつを上下にかさねて持たねばならず、不安定で、なかなか難儀しているうちにほかのみなはさきに行ってしまい、エレベーターに乗らねばならないのだが何階が目的のフロアなのかがわからない。それで困っていると、隣にあらわれた童顔の男性(さらさらと頭蓋を覆うようなみじかめの髪を薄赤い金色みたいなかんじに染めている)が小中高とおなじ学校だった(……)であることに気づき、(……)? と問えば肯定される。彼は音楽をやっているらしい(現実の(……)はじつにおとなしく気弱そうな人間だったはずで、バンドなどやりそうにはなかった――と書きながらおもったのだけれど、しかし、高校のときに(……)のバンドでなにかやっていたのだったか? 気のせいか?)。「イカれたやつら」みたいななまえのグループにいて、そこをやめてきたという。
  • 起きると水場に行ってきて瞑想。一五分。暑くて、肌に汗がにじんで肌着が皮膚にべたついてくるので、それいじょうできなかった。食事は(……)さんからもらったというアジフライをおかずにして米。新聞、ベラルーシの反体制派(ベラルーシを脱出したいひとを支援する団体の代表だったらしい)が隣国ウクライナで死体となって見つかったと。ジョギングに出たきり行方不明になっていたところが、ちかくの公園で首を吊っているのを発見されたといい、ウクライナ当局はベラルーシの情報機関がはたらいたものではないかとかんがえて、自殺ではなくて殺人で捜査をしているという。
  • ほか、レバノンベイルートの港湾で大規模な爆発(原爆をのぞけば史上最大のきのこ雲が発生したとか言われているようで、周辺の七万軒の建物が損害を受けたという)が起こってから一年と。レバノンの情勢は混迷の極みみたいな状態のようで、経済がマジで崩壊の危機にひんしているらしく、インフレがはなはだしくてドルにたいする通貨のレートが一〇倍以上下落したようだし、それでパンの値段とかもいぜんとくらべて七倍とかになって市民の生活はやばいと。反政府デモも大人数で起こっており、国のシステムを抜本的に変える革命が必要だとの声も聞かれているよう。
  • 食後、窓外をちょっとながめると、ひかりのとおった空間のむこうで山の樹々の緑がスローモーションになった炎のようにしてうねっているので風がいくらかあるようだったが、それもすぐにおさまって、そうするとうごくものといってほぼなく、鳥が宙をわたっていくか、あるいは我が家の梅の樹のてっぺんの枝葉の先が窓の下端からすこしだけ顔を出してわずかにふるえているのが見えるくらいで、しかしそれも姿勢をかえて椅子の背にもたれるように身をひけば見えなくなり、無動と化した風景のなかにただセミの声がジャージャージャージャーはいりこんでくる。
  • いつもどおり「読みかえし」ノートを読み、その後プルーストを書見。暑気でねむりが良くなかったのか、序盤はけっこう眠いようなかんじがあり、本を置いてしばらく目をつぶった時間もあった。太腿を踵でほぐしているうちにだんだんあたまが晴れてきたので、やはり血がめぐると意識もあかるくなるのだろうか。三時まえまで読み、そこからストレッチも。それでエネルギーを補給しようとうえに行くと、昼につくったらしい炒飯のあまりがあるというのでそれをいただくことに。あたためて持ち帰り、(……)さんのブログを読みながら食すと、母親が下階のベランダに兄の部屋の布団などを干していたのでそれを取りこんだ。そうしてここまでつづって四時まえ。
  • 「八月になったからには寝暮らしの君を覚まして川に逃げたい」という一首をつくった。
  • ヒバリという鳥名の漢字表記(雲雀)は良いなとおもった。雲のスズメ。日本人という連中のこういう無駄な詩心はなんなのか。告天子とも書くらしい。天を告げる子だぞ? もしくは、天に(あまねくなにかを)告げる子か?
  • 家を発つまえ、歯磨きしたとき、下階の洗面所の鏡台にヤモリがいた。窓のそとにとまっているのを見るときより、体色の白がくすんで不健康そうな印象。
  • 勤務。(……)
  • (……)
  • たしかこの日の夕刊だったはずだが、河村たかしが女子ソフトボールの日本代表選手と会見したさいに、彼女(ら)が獲得した金メダルを首にかけてもらい、それを突然噛んだ、という出来事があり、それにたいして批判が噴出しているという記事があった。河村たかしの行動は思慮を欠いたただのアホのものだとおもうし、無礼だとか選手にたいする敬意がないとか、記事に載せられていた批判のことばはどれもそのとおりだとおもったが、この件で名古屋市役所には朝からずっと苦情の電話がかかりつづけており、さらに苦情のメールが二六〇〇件届いたとあって(この翌日の朝刊ではそれが五〇〇〇件いじょうに増えていた)、そちらの数字のほうにむしろひっかかってしまった。二六〇〇件もメールがとどくようなことなのか? と。それもそれで異常ではないか、とおもってしまった。それだけスポーツファン、オリンピックファン、この女子ソフトボールの選手やチームのファンがおおいということなのか、ただ炎上騒ぎに加担したいというひとがおおいということなのか。河村たかしの政治的志向を問題視する左派のひとがこの件を良いきっかけに抗議メールをおくったとかいうのもすこしばかりはあるのではないかという気もするが。
  • 82: 「その二つの部屋は、田舎によくある部屋――たとえばある地方で、大気や海のあちらこちらがわれわれの目に見えない無数の微生物で一面に発光したり匂ったりしているように――無数の匂でわれわれを魅惑する部屋、もろもろの美徳や知恵や習慣など、あたりにただようひそかな、目に見えない、あふれるような、道徳的な生活のいっさいから、無数の匂が発散するあの田舎の部屋であった、それらの匂は、なるほどまだ自然の匂であり、すぐ近くの野原の匂とおなじように季節の景物なのだが、しかしそれはすでに居すわった、人間くさい、部屋にこもった匂になっている、そしてそれらの匂は、いわば果樹園を去って戸棚におさまった、その年のすべての果物の、おいしい、苦心してつくられた、透明なゼリーの匂、季節物であって、しかも家具となり召使となる家つきの匂、焼きたてのパンのほかほかのやわらかさで、ゼリーの白い霜のちかちかしたかたまりを緩和する匂、村の大時計のようにのらりくらりしていて几帳面な、漫然とさまようかと思うと整然とおさまった、無頓着で先の用意を怠らない匂、清潔な白布の、朝起きの、信心家の匂、平安をたのしみながら不安の増大しかもたらさない匂、そのなかに生きたことがなくただそこを通りすぎる人には詩の大貯蔵槽に見えながら、そのなかにいれば散文的なたのしみしかない匂である」
  • 84: 「隣の部屋で、叔母がただひとり小声でしゃべっているのが私にきこえた。彼女はかなり低い声でしか口をきかなかったが、それは自分の頭のなかに、何かこわれたもの、浮動するものをもっていて、あまり大きな声で話すと、それの位置が変わってしまうように思っていたからだ」
  • 111: 「夕方の五時に、コンブレーの家から数軒先の郵便局へ手紙をとりに行くとき、左手に、屋並の稜線を抜いて、孤立した一つの峰を突然そびえさせる鐘塔を目にしたときにせよ、反対の方向で、サズラ夫人の家に近況をたずねに行こうとして、鐘塔から二つ目の道路をまがらなくてはならないことを念頭に置きながら、鐘塔の尖端のべつの斜面が徐々に下降したあと屋並のあの稜線がまた低くなってくるのを目で追ったときにせよ、さらにまた、もっと遠くへ足をのばし、停車場まで行こうとして、あたかも旋回している物体の未知の一点をふいに照射した場合のように、横向きから新しい稜と面とを見せている鐘塔を、斜に見たときにせよ、または、ヴィヴォーヌ川のほとりから、遠望のせいで筋肉たくましく盛りあがった後陣が、尖塔を天心に投げあげようとする鐘塔のいきおいにつれて、自分も躍りあがろうとしているように見えたにせよ、いずれにしても人が立ちもどってこなくてはならなかった中心はつねに鐘塔であったし、つねに鐘塔がすべてを支配していたのであって、神の指のように――その神のからだは人間の群衆にかくれていても、そのために私が群衆とそれとを混同しなかったであろう、そんな神の指のように――ふいにあらわれ私のまえに高く天をさし示すその尖塔によって、鐘塔は家々に警告をあたえていたのであった」