2021/8/7, Sat.

 B 「ことば」(langage)とは「個体的なものから一般的なものへの移行そのもの」である。「〈ことば〉が私の所有するものを他者に供することになる」(74/104)と、レヴィナスはいう。この間の消息をめぐるレヴィナスの議論は明晰である。引用する。

 ある〈もの〉を指示するとき、私はそれを他者にたいして指示する。指示の行為が、私が〈もの〉を享受し所有する関係を変容し、〈もの〉を他者のパースペクティヴのうちに位置づける。記号を使用することは、だからじっさい、〈もの〉との直接的関係を間接的関係におきかえることにとどまるものではない。それは、〈もの〉を提供可能なものとし、〈もの〉を私の使用からひきはなし、譲渡させ、外的なものとする。〈もの〉を指示する語は、それが、〈私〉と他者たちのあいだでわかちもたれることを証明する(230/317 f.)。

 アリストテレスが説くとおり、〈かたる〉ことは、〈かたるひと〉(ホ・レゴン)と〈それに(end62)ついてかたられることがら〉(ペリ・フー・レゲイ)、ならびに〈そのひとにたいしてかたられるひと〉(プロス・ホン)をふくんでいる [註41] 。「〈他者〉にたいして世界をかたる」(189/264)さい、「ある〈もの〉を指示するとき、私はそれを他者にたいして指示する」。指示することは、他者との共同的な行為なのであって、〈他者〉の参与あるいは寄与(partage)なくしてありえない。
 目のまえにある〈もの〉を指さし [﹅3] て「これ見て!」ということすら、聞き手のがわの了解の確保を前提している。その動作と文の複合は、指に注視をもとめるものとも理解されうるからである(たとえば、爪の負傷に注意を喚起している場合 [註42] )。「指示の行為」とは「〈もの〉を他者のパースペクティヴのうちに位置づける」行為であって、そのためには同時に他者の参与をもとめる行為でもなければならない。指示において〈もの〉は、他者の視点に差しだされ、他者の〈もの〉ともなっている。「記号を使用すること」は、だから、たんに〈もの〉のかわりに〈ことば〉を使用し、「間接的関係におきかえること」ではない。それは、〈もの〉を「提供可能なもの」とし、私にとっては「外的なもの」とする。つまり、私から疎遠な [﹅3] ものとし「譲渡」することなのだ。〈もの〉を指示するとは、その〈もの〉が「〈私〉と他者たちのあいだでわかちもたれること(partage)」にひとしい。
 そのゆえに、「〈もの〉を〈他者〉にさししめす〈ことば〉は、所有権の本源的な剝奪であり、最初の贈与なのである」(189/264)、とレヴィナスはいう。労働は私の所有を創設し、(end63)〈ことば〉が私の占有的な所有を解消する。だから、「労働」と「〈ことば〉とのあいだには、底知れない深淵がある [註43] 」(331/456)。
 〈ことば〉はかくて所有を転覆する [﹅7] 。(……)

註41: Aristoteles, Ars rhetorica, 1358 b 1-2.

註42: この論点については、熊野純彦「直示行為と「意味」」(『現代思想』一九九〇年一月号、青土社)二二七頁以下参照。

註43: 労働と言語をめぐるレヴィナスの考察はヘーゲルのイエナ草稿群をおもわせ、また、その検討に裏うちされたハーバマスの議論をおもわせる。Vgl. J. Habermas, Technik und Wissenschaft alsIdeologie 〈, 10. Aufl., Suhrkamp 1979, S. 9 ff.

 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、62~64; 第Ⅰ部 第三章「所有と労働 ――世界に対して〈手〉で働きかけること――」)



  • 一〇時二〇分に覚醒。なぜかいつもよりはやい。天気はこのとき曇り気味だったはず。雨がぱらつく音が窓に聞こえたおぼえもある。その後、みじかいあいだだけ陽の色が見える時間もあったものの、現在四時半ではまた雲がひろく垂れこめて空のすべてを占領するようになっていて、先ほど雨がぱらつくいじょうに通る時間もあった。脚がやたらこごっていたので、ベッド上にとどまりながらほぐし、一〇時五〇分に離床。水場に行ってきて瞑想もおこなった。
  • 食事は焼きそば。新聞は橋本五郎のコラムを読んで、福田赳夫の評伝が紹介されており、五百旗頭真が監修したやつでたしかミネルヴァ書房から出ていたのだったか? これは先日も書評欄で、たしか苅部直がとりあげていたはず。福田赳夫田中角栄とか大平正芳とか中曽根康弘とかとくらべると詳細で本格的な評伝とか研究とかがすくなかったらしいのだけれど、この新著は彼の本質をとらえているとのこと。高橋是清由来の、好況時は緊縮し不況時は財政支出を増やすという経済観を一貫して保つとともに、弱者というか高度経済成長の裏でとりのこされるひとびとへの関心も持っていたらしく、岸政権で成立した最低賃金法とかいまにもつうじるもろもろの経済基盤政策にはすべて福田がかかわっていたというし、成田空港開発の件でも水面下で反対派とのはなしあいを模索しつづけていたという。わりと清廉簡素なひとがらであり、また生活もそのようなものだったといい、橋本五郎は記者として交流もあったらしいが、人物と思想と生が一貫して調和しているさまを見せられたとのこと。いわゆる角福戦争なるもので敗北するわけだが、そもそも金権政治に反対で、権力闘争にもあまり関心がつよくなかったので、必然としての敗北だったかもしれない、と。
  • 帰室後は「読みかえし」ノートを読み、プルーストを書見。143からで、話者が庭で本を読んでいるあたり。小説と、それが読み手の精神にあたえる影響みたいなことについての論がちょっとぶたれたあと、サン・ティレールの鐘が大空にひびきわたる描写がされたり、兵隊の行進をみなが見に行くみたいな場面がはさまれたりして、ベルゴットの話題が出てくる。ベルゴットは古風で特殊な表現が文学好きのひとびとのこころをひきつける作家で、とうじはじぶんのアイドルであったみたいなことがかたられたのち、ある日ベルゴットを庭で読んでいるときに、スワンがやってきてそれに言及したことがあった、とそのひとことだけ書いてのち、いったん、ベルゴットをわたしがはじめて知ったのは学校の友人ブロックを通してだった、とブロックのはなしにそれて、このユダヤ人の級友がむやみに哲学者ぶって、わたしの精神は形而下の事象になどまったく影響されずそれをみとめないので、雨が降っていたかどうかなどあなたにもうしあげることは絶対にできません、などと話者の父親に述べて、あいつは天気のはなしすらできない白痴だな、と軽蔑されたり(ちなみにこのさいに父は、天気ほど人間にとって重要なことはないのに! みたいなことばも漏らしていて、晴雨計を愛好する彼の気象への偏愛がしめされている)、話者の家族にきらわれてまねかれることがなくなる、という迂回的エピソードがはさまったのち、庭にスワンが登場するところにもどって、ベルゴットならわたしと懇意で、夕食を取りにこない週はないくらいですし、うちの娘と仲が良くてよくフランスの史蹟を見にいったりしてますよ、とかたられて、それで話者はまえまえからきれいな少女だといううわさを聞いて興味を持っていたこのスワンの娘(ここではまだなまえが出ていないが、すなわち初恋のあいてジルベルト)へのおもいをなおさらにつのらせる、というところでひとくくりが閉じて、一行空けがはさまれる。このさいごのあたりを一読したかぎりでは、だから、話者のジルベルトへのさいしょの恋心は、ジルベルトじしんの性質の情報というよりは、彼女が話者の偏愛する作家ベルゴットとしたしいという事実によって媒介されているようにもおもわれたのだが、そのあたりはくわしく読んでみないと確実ではない。一行空けのあとは、レオニ叔母(話者の一家がコンブレーにいるあいだその家に滞在している大叔母の娘で、病身で、夫のオクターヴを失って以来一日中ベッドで過ごしている)と女中フランソワーズや、ユーラリーという叔母を不快にさせず当を得た返答をすることに長けた友人の女性や司祭の訪問などについてはなしが展開されるが、レオニ叔母の生活のようすとかフランソワーズやユーラリーと彼女との関係はまえにいちどかたられているので、それもたしか、マドレーヌの場面が終わって全コンブレーが回想されはじめるその冒頭でかたられていたはずなので、ここでそれが回帰してきて、いわば仕切り直しというか、ここからあらためてべつの方向にすすんでいく、というながれになっているとおもわれ、たしかこのあとゲルマント一族のはなしとかにつながっていくのではなかったか。この司祭というひとはなかなかおもしろく、芸術的な興味はまったくもっていないらしいが、しかしフランスのさまざまな地名の語源にやたらくわしくて、レオニ叔母に会いにきてながながと滞在し、病気の叔母を疲労させながら、教会のことを説明するはなしのあいまあいまにこの地名はもともとこういうなまえでこれが訛ったものなのですよ、みたいなどうでもよい豆知識をはさみまくる衒学家である。
  • 四時半ごろに切って、ここまで記述し、いま五時をまわったところ。
  • 先週の金曜日(七月三〇日)の夕刊に載っていた音楽情報をいまさら記録しておくと、Black Midi『Cavalcade』というのがひとつ。King Crimsonと「米国の実験的なロックバンドのバトルスを思い起こした」とあり、「今、世界で最も面白いバンドの一つだ」とべた褒めされていて気になる。大西順子 presents THE ORCHESTRA『Out Of The Dawn』というのも。大西本人はプロデュースのみで曲作りにも演奏にもくわわっていないらしいが。マハラージャン『僕のスピな☆ムン太郎』というなんだかよくわからないシンガーソングライターの初メジャーアルバムも出ていて、ジャケットや題はキワモノっぽいが石若駿が参加しているというからちょっと気になる。ハマ・オカモトも参加というからわりとファンキー路線なのか。あとはKIRINJI feat. Awichの『爆ぜる心臓』。T-SQUAREの七枚組ボックスはまあべつに、というかんじ。
  • やりたいこと: 『双生』の覚書 / 書抜き / 詩作 / (……)くんの小説を読むこと
  • この夜に入浴したさいに、夜にもかかわらず窓外でセミがまだ鳴きまくっていて、沢の音か風の音かと混ざり合ってもいたようだが、しかし拡散的に旺盛だった。湯のなかで目をつぶってじっとしていると、首すじとか肩のまわりや胸の上部(肩から鳩尾までのあいだの領域)に汗が続々と湧いてはながれつづけ、肌のうえを愛撫的にくすぐったくなぞるそれらの水滴のうごきかたは大都市中心部の狭い土地を縦横無尽に張り巡らされている道路のうえを行く無数の車集団の軌跡よりも複雑なはずである。
  • 144: 「人は、自分の精神がかつて事物の上に投射した光の反映を、その光のためにそのとき美しく見えた事物のなかに、もう一度見出そうとつとめるが、それらの事物は、思考のなかである種の観念と隣りあっていたためにもっていたかつての魅力を、自然のなかでうばわれてしまったように見えることを知って、人は幻滅を味わう」
  • 146: 「コンブレーの庭のマロニエの木陰の、日曜日の晴れた午後よ、私は個人生活の平凡な出来事をおまえから入念に排除し、それらをきれいな川にうるおうある山国のなかの奇妙な冒険とあこがれとの生活に置きかえたが、いまでもおまえは、私がおまえのことを考えるとき、そうした生活を私に呼びおこしてくれるし、おまえの静かな、よくひびく、かおり高い、澄みきった時間が、葉陰を通してゆっくりと変化しながら、つぎつぎに形成する結晶のなかに――一方私の読書が進み、日中の暑気がさがっていったあいだに――おまえはそうした生活をすこしずつまるくまとめてとじこめていったので、いまでもおまえは実際にそうした生活をおまえのなかにふくんでいるのだ」
  • 154:

 「おや、ブロックさん、どんな天気ですか、そとは? 雨がふったのですか? おかしいな、晴雨計は上々吉だったのに。」
 それにたいして父はこんな返事しかひきだせなかったのだ、
 「それはあなた、絶対に申しあげられません、ぼくとしては、雨がふったかどうかなどと。ぼくはじつに断乎として形而下の偶発事のそとに生きていますから、ぼくの感覚はそのような偶発事をぼくに通告する労はとらないのです。」
 「いやまったく、あなたにはわるいけれど、白痴だね、あなたの友達は」とブロックが帰ったあとで父がいった。「なんてことだ! あいつはきょうの天気のことさえ私に話せない! いや、天気ほど関心をひくものはないのだからね! あいつは低能だよ。」

  • 185: 「このお産のような非常にまれな出来事以外には叔母の毎日のこまごとにはなんの変化もなかった、と私がいうとき、一定の間隔をおいて、つねにおなじように反復されながら、千篇一律のなかにさらに一種の副次的な千篇一律をもちこむにすぎないような、そんな変化もあったことを言いもらしている。たとえば、土曜日はいつも、午後からフランソワーズがルーサンヴィル=ル=パンの市場に行くので、昼食は私たちみんなにとって一時間早かった、というようなことがある。そして叔母は、そんな週一回の違反にすっかり慣れてしまったので、その違反の習慣を他の習慣とおなじようにたいせつにしていた」