C 労働し加工してえられたもの、「労働生産物」あるいは「製品」、広義の「作品」(œuvre)は、「内面性を外部にあらわす」もの、労働するもの、制作するものの意図の実現であり表現であると考えられる。労働生産物はその意味で、まずは労働する者の所有に帰し、作品と作者のあいだには特別な関係、親密なかかわりが存在するかにおもわれる。レヴィナスによれば、しかし、「労働の産物は譲渡できない所有物ではなく、〈他者〉によって簒奪されうる。作品は私から独立の運命を有しており、作品の総体のうちに組みこまれる [註44] 」(191/268)。なぜか。
第一に、作品はつねに私の意図を一方では過小に表現し、他方では過剰に表現しているからである。労働という「活動が質料のうちに引く方向線(les lignes de sens 意味をもつ線)は、引かれるやいなや、曖昧さでみたされてしまう」(191/267)。たとえば、とある焼き物の表面を覆っている微妙な紋様の数々は、窯元の意図したとおりの条痕なのか、炎のもたらした偶然の装飾なのか。質料 [﹅2] が材料となるかぎり、すみずみまで私の意図が浸透した作品が制作されることはありえない。作品と作者とのあいだの特権的な関係に(end64)範型をもとめるベルクソン的な自由の理念は挫折する [註45] 。作品とはある意味では「労働の残骸」(ibid.)であり、なにほどかは意図の表現に「失敗した行為」(252/350)である。だから「作品は、他者の意味付与(la Sinngebung d'autrui)にたいして身をまもることができない」。「作品は、疎遠な意志の企図に身をゆだね、領有されるがままになる」(252/349)。
第二に、かりに作品のなかに作者の意図がうつしだされているにしても、作品そのものはそれをみずからかたるわけではない。たしかに「作品は意味作用を有するが、沈黙をまもりつづけている」(250/346)。茶碗のおもてを無数に走っている亀裂、条痕には意味がある。が、それがどのような意味なのか、作者の意図のうちにふくまれていたことなのか、器はなにもかたらない [﹅5] 。作品はその本質からして〈匿名的〉になる。
かくして、「作品は商品という匿名的なありかたを身にまとい」(250/346 f.)、「交換可能となり、貨幣という匿名的なもののかたちをとることになる」(191/268)。――〈もの〉は「自体的(en soi)には存在しない」。そのゆえに、「〈もの〉は交換され、したがって比較され量化され、そのことを通じてすでにその同一性そのものをうしなって、貨幣のなかにみずからを映しだす」(174 f./245)。あるいはむしろ〈もの〉そのものが「貨幣になることができる」のだ(149/208)。この最後の点は、なお考えておくにあたいする [註46] 。
交換は「ひとしさ」(イソテース)を前提する。ひとしさはしかし、「おなじ基準で測る」(シュムメトレオー)ことによってなりたつ。だが、たとえば家とベッドをおなじ基準で測(end65)ることはできない。両者は、その目的、効用、つまり〈使用価値〉において端的にことなっている。家とベッドとをたがいに〈おきかえ〉ることはできない。交換は [﹅3] ほんとうは不可能 [﹅3] なのだ。アリストテレスによれば、だからこそひとしい量化の基準として、「とりきめ」(ノモス)に基づいてたんに名目的なものが、諸商品の質的な差異を抹消する」貨幣」(ノミスマ [註47] )が登場する。そうではないか。ところがレヴィナスによれば、作品はそれ自体としてすでに貨幣 [﹅12] なのである。
これはただしい認識であるとおもわれる。すべての生産物、商品、いっさいの作品はマルクスのいう「等価物」となりうる。あるいは「等価形態」に立ちうる。等価物はじぶんの価値を表現せず、ただ〈他なるもの〉の価値のみを表現する。一着の上着が二〇エレのリンネルの価値表現となるようにである。この第一の価値形態のうちに、すべての価値形態の秘密がかくされている [註48] 。ある〈もの〉が他の〈もの〉の価値を表現するということがらのうちに、あるいはより端的には、ある〈もの〉と他の〈もの〉との関係そのもののうちに、「貨幣の細胞形態」「貨幣が自体的にあるもの」がある [註49] 。かくして、すべては貨幣であり、いっさいは交換可能であって、交換され、〈他なるもの〉の価値を表現することでみずからをうしなって(s'aliéner)ゆく。譲渡され(s'aliéner)、所有は解消される [﹅8] のである [註50] 。
ここにあらわれているのは、もちろん、「交換可能な人間の人間性」である。「人間を(end66)たがいにおきかえることは、本源的な不敬であって、それが搾取そのものを可能にするのである」(332/457)。――領有法則は転回する [﹅9] 。労働による所有は否定され、作品は収奪される。悲劇的な意味でも、こうして所有は挫折し [﹅6] 、ひとびとは賃金奴隷制のもとにおかれ、資本のもとに「実質的に包摂」される [註51] 。まさにマルクスが説くとおりに、である。註44: 以下では、レヴィナスにならい「作品」で代表させる。レヴィナスの議論は、ヘーゲルが『精神現象学』で「ことそのもの」(Sache selbst)「作品」(Werk)をめぐって説くところときわめて近接している(vgl. G. W. F. Hegel, Werke in zwanzig Bänden Bd. 3, S. 294 ff.)。ちなみに、ルカーチは「ことそのもの」を「資本主義的商品関係」と解する(G. Lukács, Der junge Hegel, Suhrkamp 1973, S. 745)。「作品」をめぐるヘーゲルの所論については、とりあえず、熊野純彦「ヘーゲル他者論の射程」(上妻精他編『ヘーゲル』情況出版、一九九四年刊)二七六頁以下参照。
註45: H. Bergson, Essai sur les données immédiates de la conscience, 155e édition, PUF 1982, p. 129.
註46: レヴィナスの貨幣論については、E・レヴィナス「社会性と貨幣」(斎藤慶典訳、『思想』一九九七年四月号)をも参照。
註47: Cf. Aristoteles, Ethica nicomacheia, 1133 b 21.
註48: Vgl. K. Marx, Das Kapital Bd. Ⅰ, MEW Bd. 23, S. 63.
註49: K. Marx, Das Kapital, Iste Aufl. 1867, S. 16.
註50: マルクス価値形態論の哲学的な意味については、廣松渉『資本論の哲学』(現代評論社、一九七四年刊)参照。同書は増訂を経て勁草書房から一九八七年にに再刊され、この増補版が『廣松渉著作集』第一二巻(岩波書店、一九九六年刊)に再録されている。なおまた、吉田憲夫『資本論の思想』(情況出版、一九九五年刊)参照。
註51: 「資本のもとへの労働の実質的包摂」の具体的なさまについては、山本耕一「協働連関とその物象化」(廣松渉編『資本論を物象化論を視軸にして読む』岩波書店、一九八六年刊、所収)参照。
(熊野純彦『レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、64~67; 第Ⅰ部 第三章「所有と労働 ――世界に対して〈手〉で働きかけること――」)
- きょうはやや遅くなって、一二時二〇分の離床。瞑想もサボる。あがっていくとテレビは女子バスケットボールの試合。アメリカに負けて銀メダルという結果になったようだ。食事は炒飯ほか。新聞の書評欄はきょうは、すこやかになれる本、みたいなテーマで各書評委員が一冊をえらんで紹介する形式だった。尾崎真理子は福岡伸一がダーウィンにならってガラパゴスかどこか行ったときの記録みたいな著作をあげていた。おもしろそう。苅部直は田村隆一関連のもの、大家と店子という関係で彼の家に間借りだかしたひと(女性だったはず)が書いた本をあげていて、政治学者なのに現代詩方面までカバーしているのだからさすがだなとおもった。ほか、成田龍一が寄稿というか「あすへの考」でかたっていたのでそれも読む。戦争体験世代を三つに分類していた。ひとつが大正デモクラシーを経験しており日本に根づいていた民主主義が軍国主義によって破壊されたとかんがえた世代で、この代表が丸山眞男(一九一四年生まれ)であり、彼らは戦後民主主義を推進しようとした。もうひとつが青年期に学徒動員されて出征したひとびとで、この代表が三島由紀夫。さいごが戦時体制のなかで少年少女として育ち、国のために尽くして死ぬという道徳を教育された世代で、この最年少世代は敗戦を機に軍国主義から民主主義に即座に転換した大人たちを裏切り者とみなしながらも、いずれその立場を理解するにいたるが、青年として戦争に出た世代は戦後民主主義の問題とか欺瞞とかを看過できず、それに懐疑をいだきつづけ、その象徴が三島事件であると。
- 風呂では蓋の裏側や縁がぬるぬるしていたので、ちいさいブラシをつかってひさしぶりにそれも洗っておいた。帰室するといつもどおり茶を飲みつつ「読みかえし」ノートやプルーストを書見。とちゅうで雨降り。「読みかえし」ノートには石原吉郎『望郷と海』の記述を足す。あといくつかEvernoteからNotionに書抜きをうつしておいた。これらもおいおい追加していく。プルーストは194からはじめて223まで。ルグランダンのスノッブぶりがあらわになる一幕が滑稽でおもしろい。ルグランダンは技師として成功しつつ、しごとにはまったく関係ない、いくらか似非っぽいような文学的芸術的教養を持っているひとで(112)、話者の一家とは散歩のときによく出くわし、遭遇するといつも子どもの話者にたいして妙に気取ったような、いかにも鼻持ちならない勘違い野郎の通俗的詩的表現みたいなことばを吐くのだけれど、彼は近間に城をもっているという貴族(これがゲルマント家のひとかどうか、まだ確定的ではない)の女性と交際していたり、彼の妹はバルベックのほうでカンブルメールという貴族に嫁いでカンブルメール若夫人になっていたりするのだけれど、そういう上流階級者との交際にブルジョア階級である話者一家をかかわらせたくないという気持ちがありながらももちろんそれをあまり表立って直接にあらわすことはできないから、滑稽な振舞いを取ることになる。おりしも話者が祖母といっしょにバルベックに海水浴に行くというはなしがもちあがったさい、ルグランダンが妹をわれわれに紹介しようとするかためしてみようと父親はもくろみ、散歩で出会ったときに都合よくバルベックのうつくしさをペラペラかたりはじめたルグランダンに、「おや! バルベックに誰か知ったかたがおありですか?」(219)と問うて妹のことを引き出そうとするのだが、「ルグランダンは、私の父にじっと目をそそいでいた瞬間に、ふいにこの質問を受けて、その目をそらすことができず、友情と率直さとのようすをつくろい、面と向かって話相手をながめることをおそれないといった態度で、一刻ごとに強さを増して相手の目を見つめ――しかも悲しそうにほほえみながら――まるで相手の顔が透明になり、その顔を通してそのときはるかかなたの背後にあるあざやかに色どられた一片の雲を見ているかのように思われた」(220)といったようすをしめしてやりすごそうとする。しかし話者の父親は、あちらに友だちがいらっしゃるんですか、と、もういちどおなじ質問をさしむけて追撃し、ルグランダンはなにかしらこたえなくてはならなくなるのだが、そこで口にするのが、「私の友達ならどこにでもいます、傷つきながらまだ屈せず、たがいに身をよせあい、自分たちをあわれんでくれない冷酷な天に向かって、悲壮な執拗さで、いっしょになって哀願している木々の群があるところなら、どこにでもいますよ。」(220~221)という時宜を得ないインチキ詩人みたいなセリフで、こいつなに言ってんねん、というかんじでこれがおもしろかった。そのあとも彼はうだうだとおなじような調子で質問への返答を回避しつつ煙に巻くような言をつづけ、はじめはそのうつくしさを称揚していたバルベックを、「まだ気質ができあがっていない子供には、やはり不健全ですね」(222)と言って前言をひるがえし、バルベックに行くのはやめたほうがいいと言い残して去っていく。
- 書見は四時くらいまでだったか。そのあと瞑想した。そう、三時五二分から四時一九分までの瞑想だった。だから二七分で、これくらいながくすわったのはひさしぶりである。おかげでからだの輪郭がだいぶなめらかになった。やはり瞑想はきちんと時間を取って毎日おりおりやったほうが良い。それから多少ストレッチもおこない、きょうのことをすこしだけ書くと五時になったのでうえへ。アイロンかけをして二、三枚さっと処理する。南窓のむこうの空は白く、白地のうえに綿あめ的質感の淡い灰色雲が少々浮き、青さもいくらか混ざってあさくうねった潟をつくっている。空気は暗くはない。窓の端のほうにセミが一匹とまっており、茶色い翅だったが翅がべっ甲みたいな褐色なのはミンミンゼミだったか? それともアブラゼミか? とまってはいるものの鳴くわけでもなく、すこしもうごかず、すでに死んでいるかのように不動で、とまったまま息を引き取ったものの網戸の隙間にひっかかった脚が物体的惰性でもってかろうじてたもたれて落ちずにいる、といったようすだ。アイロンを終えると台所へ行き、ナスを切って湯がき、いっぽうでホタテを焼いてくれというので解凍したものをフライパンで焼く。焼くというか、袋をひっくりかえすと溶けた水もいっしょにフライパンにはいってしまったので、蓋をして蒸し焼きみたいにする。生臭いだろうというのでショウガをすりおろしまくった。醤油や酒や味醂で味つけ。バターを入れ忘れた。いっぽう、ひさしぶりに煮込みうどんを食べようとおもったので、ホタテを熱しているかたわら野菜を切ってつゆをつくり、ホタテがしあがると麺をさっとゆでて、つゆとあわせてそのまま食事へ。六時過ぎ。ほかには母親がつくった品、輪切りにしたゴーヤを焼いたものとか、サラダとか。食事を取りながら、新聞からは国際面を見る。ミャンマーでは八八年の八月八日に大規模な学生蜂起および軍との衝突があったらしいのだが、そこを経験したひとびとは「88世代」と呼ばれており、国軍から摘発対象として目をつけられているため今回の抗議で表立ってはうごけないが、後方支援でささえているという記事があった。「政治犯支援協会」だったか、国軍の弾圧で亡くなったひとや拘束されたひとの情報をあつめている組織の代表もとうじの抗議の中心的存在だったひとらしく、二回収監されたあとタイに逃れたという。ほか、ロシアや中国のテレビで、オリンピックに出場したトランスジェンダーの選手や女性選手を差別するような振舞いや質問があったとの報。テレビは『バンキシャ!』。さいしょのうちは成城学園あたりで電車内でひとを刺して逃げた例の事件がつたえられていたようだが、そのうちにオリンピックへ。女子バスケ銀メダルの報があったあと、今次オリンピックをささえたボランティアやスタッフのひとびとに海外の選手から感謝や称賛の声があがっているとの紹介。
- 食後もどってきてここまで記し、七時一一分。八時半から(……)と通話の予定。
- 通話まえに斎藤美奈子「世の中ラボ: 【第125回】百田尚樹の人気の秘密」(http://www.webchikuma.jp/articles/-/2168(http://www.webchikuma.jp/articles/-/2168))を読んだ。
百田自身は石戸 [石戸諭『ルポ百田尚樹現象』] の取材に対し、『永遠の0』について〈テーマに戦争を選んだのは、自分の原点である親世代の経験を自分の子供の世代に残したかったからであり、伝えたかったのは「生きることの素晴らしさ」である〉と語っている。五〇歳を前に戦争世代の父や叔父が死んでゆく。〈僕が何かの形で戦争を語り継ぎたいと思いました。映画も含めて、これはどう見ても特攻全否定の作品ですよ〉。
この言葉に嘘はないだろう。『永遠の0』では左派的歴史観をとうとうと語る朝日新聞の記者とおぼしき人物が揶揄的に描かれていて、その点は歴史修正主義的なのだが、半面、戦争賛美の色は薄く、なかなか批判しにくい作品なのだ。この本を出した岡も担当編集者も「右傾化エンタメ」と呼ばれるようになったのは、一〇年に百田がツイッターを開始して以降の話という。*
すると、百田はいつから右派論壇との関係を強めたのか。
転機は一二年。キーパーソンは、右派論壇誌「WiLL」の編集長だった花田紀凱 [かずよし] (現在は「月刊Hanada」の編集長)だ。同誌は民主党政権批判を盛んにツイートしていた百田に目をつけ、〈もっと思い切り書いてみませんか〉ともちかけた。百田自身は頼まれたから書いたという程度の気持ちだったようだが、一二年九月号に寄せたはじめての論考を、安倍再登板待望論で結んだ。これを機に百田と安倍晋三の対談が実現。安倍の再登板を画策していたグループとも結びついて右派の輪の中に入り、〈安倍再登板が実現して以降、百田の右派系メディアでの仕事や政治的な発言、歴史認識についての発信の場は急速に増えていった〉。*
百田人気を支える第二の理由は「普通の人」の感覚だという。石戸はヤフーニュースのコメント欄を分析した木村忠正の、「普通の人」の感覚として〈(1)韓国、中国に対する憤り(2)少数派が優遇されることへの憤り(3)反マスコミという感情〉の三つがあるとの説を紹介し、ネットの言論空間には〈百田のツイッターにも通じる気軽な排外主義〉が渦巻いているという。ただし、それらの声がメディアで公然と語られることはない。
百田はしかし、〈ごく普通の感覚にアプローチする術を感覚的に知る人〉だった。百田自身も語っている。
〈僕は反権威主義ですねぇ。一番の権威? 朝日新聞やね。だって一日に数百万部単位で発行されているんですよ。僕の部数や影響力なんてたかが知れている。そこに連なっている知識人とか文化人も含めた朝日的なものが最大の権威だと思う〉。*
百田尚樹のポストモダンぶりは、彼の源流ともいうべき論客と比較するとよくわかる。『ルポ百田尚樹現象』は「自虐史観」という語の発生源である三人の人物に取材している。「新しい歴史教科書をつくる会」を立ち上げた藤岡信勝、『国民の歴史』の著者である西尾幹二、『戦争論』をヒットさせた小林よしのり。彼らは一見みんな同じに見えるが、背景はバラバラだ。
大学院で教育学を学び、左翼運動に傾倒した藤岡は、アメリカ留学中に湾岸戦争に遭遇して価値観が崩壊する。フリーの漫画家である小林は、自らかかわった薬害エイズ問題の解決後も、日常に戻らない学生たちに幻滅した。そして、ニーチェの研究者である保守言論人の西尾には一〇歳で迎えた敗戦の体験がある。
彼らを結びつけたのは〈当時のメディア状況の中でマイノリティー意識を抱き、さらに自身の人生に対し「真面目」であったことが大きい〉と石戸はいう。マイノリティ意識を持った彼らは「権威」に立ち向かい、〈運動のターゲットをエリート層(学者や官僚、政治家、左派系メディア)ではなく、「ごく普通の人々」に定めて訴えた〉。それが当人たちも驚くほどの反響を呼び、予想外のうねりをつくった。それが「つくる会」運動だった。
彼ら三人の運動は自身の過去や人生観とつながっており、したがって思想や情念があった。ひるがえって百田尚樹は、どんな思想も物語も着脱可能。〈情念はやがて忘れられ、反権威という「スタイル」だけ、それも表層的な小林の真似事としてのスタイルだけが残ったのが現代の百田現象だ〉。
- そのほかこの夜は、Alex Preston, "Ann Goldstein: 'I try to make it really clear that I am not Elena Ferrante'"(2020/9/12, Sat.)(https://www.theguardian.com/books/2020/sep/12/ann-goldstein-i-try-to-make-it-really-clear-that-i-am-not-elena-ferrante(https://www.theguardian.com/books/2020/sep/12/ann-goldstein-i-try-to-make-it-really-clear-that-i-am-not-elena-ferrante))、Toni Morrison, "Toni Morrison on Primo Levi’s defiant humanism"(2015/9/5, Sat.)(https://www.theguardian.com/books/2015/sep/05/primo-levi-holocaust-survivor-the-complete-works(https://www.theguardian.com/books/2015/sep/05/primo-levi-holocaust-survivor-the-complete-works))、Tim Adams, "Primo Levi: The Matter of a Life by Berel Lang – review"(2014/2/2, Sun.)(https://www.theguardian.com/books/2014/feb/02/primo-levi-life-berel-lang-review(https://www.theguardian.com/books/2014/feb/02/primo-levi-life-berel-lang-review))の三記事を読んだ。
- 通話は八時四〇分から。冒頭はオリンピックのはなしを(……)から振ってきた。見てる? というので、ぜんぜん見ていない、とこたえる。(……)もリアルタイムというかすぐに見たものはないようだが、インターネット上にアーカイブされてある映像でいくらか見たようだ。それか、ネットでライブがどうのとも言っていたので、生中継で見たものもあったのだろうか。サーフィンが印象的だったらしい。すごいたいへんなスポーツだとおもったと。サーフィンは今回からオリンピックにくわわったらしく、いままで(……)は、サーフィンがスポーツ競技だという認識をしていなかったらしく(娯楽的な、遊びのイメージだったのだろう)、波でボードが割れたのを見てやばいなとおもったという。サーフィンって会場どこだったのかねとたずねると、その場で検索され、釣ヶ崎という地名が特定された。千葉らしい。こちらも検索して地図で見てみると、たしかに千葉で、それもだいぶ奥のほうというか端のほうというか、太平洋に面した東南部のけっこう下のほうだった。良い波が来るサーフィンスポットとして著名らしい。ほか、馬術がどうのとかいったので、馬術って七〇歳くらいのひとが出てなかったっけときくと、やはりその場で検索され、法華津なんとかという男性がシニアのスターみたいに呼ばれているらしい、という情報がもたらされた。それで、たしかに法華津というひとだった、とおもいだした。しかし今回の東京オリンピックには出ていなかったようだ。ただ、二〇一二年ロンドンオリンピックには出場していて、その時点でもう七〇歳くらいだったよう。
- 家族はオリンピックを見ているかとたずねられたので、父親は好きでよく見てるね、と回答。まわりにあまり好んで見るひとがいない、というので、職場でひとり、けっこう見るっていう女性がいたけど、とこたえつつも、われわれくらいの世代になると、もうあんまり、日本をみんなでいっしょになって応援するっていうかんじがないんじゃない、親くらいの世代だとまだそれがあるんじゃないかな、と述べると、そうだとおもう、と同意がかえった。(……)の母親もけっこうよく見ているらしい。見るひとも、ふわっとしてるっていうか、なにがなんでも日本を、っていうより、まあおなじ国だから応援するくらいのかんじだよね、と(……)。(……)くんは、だから、もし日本が出場しないスポーツ世界大会みたいなものがあったら、それでも見るか、ってところだよね、とさしこんできた。そこでスポーツファンというか、国に関係なくもっぱらスポーツを見たいというひとと、気持ちの度合いに多少はあれ日本を応援したいというひとに分かれるというわけだ。つまらんはなしですよ、とこちらは笑い、金メダルとかやめたほうがいいとおもってるけどね、けっきょくどこの国がどれだけメダルとるかの競争になってるじゃん、金が何個とか、くだらんですよ、とけなし、つづけて、まあ金メダルとりたいっていう選手もいるだろうし、好きなチームを応援したいっていうのもあるとはおもうんだけど、スポーツって、なんかすごいプレイとかすばらしい瞬間があればそれで感動するわけで、国とか関係なくね? とおもうんだけど、とつけたすと、(……)からも同意がかえった。ただまあ、これは言ってみればいわゆる「芸術至上主義」的なかんがえかたの一種だとおもわれ、政治性とか社会情勢とかを考慮しない素朴者の言かもしれないが。とはいえ、いちおうオリンピックって「平和の祭典」などと呼ばれているにもかかわらず、国威発揚を目的とされたり、国民国家単位で競うナショナリズム的代替戦争みたいなかんじになるのはいいの? ともおもうが。あと、今回のオリンピックが、「東京2020」とかいわれたり表記されたりすることにもなにがしかの違和感をおぼえる。なぜ2020の年号を固定化しようとするのかよくわからない。
- オリンピックのはなしのあとはこちらの近況で、さいきんはまた音読をよくやるようになっていて、音読をすると文がすらすら書けるという現象を再認識した、とはなした。(……)
- (……)
- そんなかんじで零時まえまで通話。(……)そのあとは入浴に行き、とりたてたこともせずになまけたはず。上記の英文記事も読んだ。
- マルセル・プルースト/井上究一郎訳『失われた時を求めてⅠ 第一篇 スワン家のほうへ』(ちくま文庫、一九九二年)より。
- 203: 「(……)私がうっとりしたのはアスパラガスのまえに立ったときで、それらは、ウルトラマリンとピンクに染められ、穂先はモーヴと空色とにこまかく点描され、根元のところにきて――苗床の土の色にまだよごれてはいるが――地上のものならぬ虹色の光彩によるうすれたぼかしになっていた。そうした天上の色彩のニュアンスは、たわむれに野菜に変身していた美しい女人たちの姿をあらわにしているように私には思われたが、そんな美女たちは、そのおいしそうな、ひきしまった肉体の変装を通して、生まれたばかりのあかつきの色や、さっと刷きつけられた虹の色や、消えてゆく青い暮色のなかに、貴重な本質をのぞかせているのであって、そのような本質は、私がアスパラガスをたべた夕食のあとにつづく夜にはいっても、まだ私のなかに認められ、そこに出てくる変身の美女たちは、シェイクスピアの夢幻劇のように詩的であると同時に野卑なファルスを演じながら、私のしびんを香水びんに変えてしまうのであった」
- 205: 「身内のものを除けば、彼女 [フランソワーズ] から遠く離れている人間の不幸ほど彼女のあわれみをそそったことを私は知った。新聞を読んでいて、彼女が見知らぬ人たちの不幸に流すおびただしい涙は、すこしでも明確に当人を思いうかべることができると、たちまちとまってしまうのであった」
- 209: 「ルグランダンの顔は、異常なまでの活気と熱意とをあらわしていた、彼は深く腰を折って挨拶をしてから、つぎにうしろに反りかえり、それを急に最初よりは反り身の位置にもどしたが、これは彼の妹のカンブルメール夫人の夫から教えられたものにちがいなかった。このすばやい姿勢の立てなおしは、私がそれほど肉づきがいいとは思わなかったルグランダンのお尻を、隆々と盛りあがった一種の激浪のように逆流させた、そしてなぜだかよくわからないが、この純然たる物質のうねり、精神性をあらわす何物もなく低劣さに満ちた慇懃な動作が暴風雨のように荒れ狂っているこの完全な肉の大波は、私たちが知っているルグランダンとは全然ちがったルグランダンがいるのかもしれないという感じを、ふと私の心に呼びおこした」
- 209~210: 「彼はまるで夢のなかにいるようにうっとりとしてほほえんでいた、それからあたふたと婦人のほうにひきかえしたがいつになく足を早めて歩くので、両肩はこっけいなほど左右にゆれ、またほかのことは念頭になく、すっかり幸福に身をゆだねているので、その姿は惰性で動い(end209)ている幸福という名の機械仕掛のおもちゃのように見えた」
- 214: 「「いいえ、私はどなたもよく知りません」と彼はいったが、そのように簡単なことを知らせ、そのように変わりばえのしない返事をするのに、それにふさわしい、自然な、普通の口調にならないで、一語一語に力をこめ、身をかがめると同時に頭をさげながら、きれぎれに答え、しかも、信じてもらうために、ほんとうらしくない断言をして――彼がゲルマント家の人々を知らないという事実が奇妙な偶然の結果でしかありえなかったかのように――それをおしつけようとし、さらにまたそれを誇張し、自分の苦しい状態をだまっていることができなくて、他人にそれを公言する人のように、自分の告白がすこしも自分につらくはなく、平気であり、愉快であり、自然に出てくるものである、といった観念をあたえようとする、または状況そのものが――ゲルマント家の人々と無関係であるという状況が――そとから強いられたものではなく、自分から欲したものであって、ゲルマント家との交際をとくに禁じる自分の家の慣例、道徳上の主義、秘密な誓約の結果なのであろう、といった観念をあたえようとするのであった」
- 220: 「ルグランダンは、私の父にじっと目をそそいでいた瞬間に、ふいにこの質問を受けて、その目をそらすことができず、友情と率直さとのようすをつくろい、面と向かって話相手をながめることをおそれないといった態度で、一刻ごとに強さを増して相手の目を見つめ――しかも悲しそうにほほえみながら――まるで相手の顔が透明になり、その顔を通してそのときはるかかなたの背後にあるあざやかに色どられた一片の雲を見ているかのように思われた、そしてその雲もまた、彼のために精神のアリバイになり、バルベックに知りあいはないかとたずねられたとき、ほかのことに気をとられて質問をききもらした、という口実になるかのようであった」