2021/8/14, Sat.

 他者との関係がそもそものはじまり [﹅4] から非対称的で不均等なものであるならば、他者との〈正〉しい関係、つまり「正義」とは「普遍性という均衡状態」ではない。他者との関係が私のかぎりない〈責め〉でおわる [﹅3] かぎり、そもそも〈配分的な正義〉がもはや文字どおりの意味ではなりたたない。むしろ「正義は、〈私〉を、正義の直線のかなたへとおもむくようにうながすのであり、そのあゆみの終点を、なにものもしるしづけることはできない」(274/380)のである。正義もまた、おわり [﹅3] のありえない関係 [﹅2] である。無限に、つまり果てしなく他者に応答しつづけてゆくことのほかに、正義をかたるべき場所はない。正義とは、〈他者をむかえいれること〉(hospitalité)以外のことがらを意味することができない。
 他者との関係にあって、〈私〉の存在の重点がかえって私の存在そのものの外部へと移行してしまうかぎり、「正義とは他者であるという特権の承認であり、他者による統御の承認である」(69/97)。レヴィナスはしかも、「われわれは言説において正面から応接することを正義とよぶ [括弧内﹅] 」という。(……)
 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、83; 第Ⅰ部 第四章「裸形の他者 ――〈肌〉の傷つきやすさと脆さについて――」)



(……)

  • 五時にいたって階をあがり、麻婆豆腐をこしらえてアイロンかけをしたのだけれど、そうしながら、気が滅入るまではいかないとしても閉塞的なストレスをかんじていることを身に認知したので、この盆休み中ほぼそとに出ていないから、外気を浴びなさすぎたのだなとおもって、そのあと雨のなかビニール傘をさして玄関を出た。そうすると、扉を抜けた瞬間からさっそくながれていく風のやわらかさがかなり気持ちよくて、やはり一日一回は外気を浴びないとだめだなとおもった。まわりを囲われておらず、ひろくひらけていて空気のながれがある場所に出ないと。それでしばらく林縁の土地をうろついて、沢を見下ろしたり林を見上げたり(セミの声はすくないものの、ミンミンゼミやカナカナの鳴きが木々の奥から降ってくる)、なんの種か知らないが植わってそだてられている野菜をしゃがんでながめたりしつつ心身をほぐした。外気のなかにとどまって風を浴びて雨音を聞いているだけでかなりおちつく。夕刊を取ってもどった。
  • (……)
  • (……)
  • 起きたのは一一時二五分。夢を見た。ひとまず冒頭は(……)が舞台。駅で待ち合わせをしていたよう。時刻は午前五時とか四時とかでまだ夜も明けておらず、なぜかそんなにはやい時間から、どうやってきたのか知らないがでむいており、さいしょは駅にいたのだけれど合流しないうちに街のほうにちょっと出た記憶がある。そのうちに(……)と合流。モツ鍋屋みたいなところに行く。(……)はここで品の予約をしていて、それを受け取るらしかった。店内はけっこう混んでいたようだ。はいると女性店員(中年のひとで、顔に見覚えがあり、醒めたあと、じっさいにこちらの身辺で遭遇する機会があったどこかの店の店員ではないかとおもったのだけれど、不明)が、慇懃だがやたら厳しい口調で注意もしくは文句を言ってきて、それは、おもての看板を見たか、そこに書かれてある品とか組み合わせのなかからあらかじめ注文を決めておいてからはいり、すぐに注文するのだ、みたいなことだったようだ。(……)が手間取ったのが気に入らなかったらしい(あとであきらかになったところでは、予約じたいは(……)が電話でしていたらしく、それで(……)は品の詳細について知らずに携帯を確認したりしなければならなかったようだ)。そのあともいくらかながれがあったはずだがそれは忘却。
  • プルーストは413からいま456まで。「スワンの恋」のつづき。フォルシュヴィル伯爵も出てきて、スワンもヴェルデュラン夫妻から煙たがられるようになり、いよいよそろそろオデットとの関係に苦しみはじめるところだ。ヴェルデュラン夫妻とそのサロンにあつまる連中というのは、スワンが行き慣れていた貴族などがあつまる上流社交界の趣味や価値観からすると(スワンじしんはそこに慣れ親しんだことともちまえの皮肉ぶりでその上流社交界じたいも本質的にはたいしたものではないといくらか軽侮の念をもっているのだが)一段もしくは数段下がるというか、やや卑俗に映るような振舞いとか価値観の持ち主たちで、だから医師コタールがくだらない冗談を吐きまくってみんなが笑っているなかでスワンひとりはそれに乗れずお愛想としてのほほえみを漏らすほかないし、大学教授ブリショの軍隊式口調をまじえた長広舌は衒学的で粗野だとかんじられるし、ヴェルデュラン夫人をはじめとしてひとびとがじぶんより上層の公爵夫人などを「やりきれない連中」とけなし、まだあんなひとたちのところに行ってはなしあいてをしてあげるひとがいるなんて信じられない、などとこきおろすときにも、スワンはじっさいにその公爵夫人(というかレ・ローム大公夫人で、これは要するにのちのゲルマント公爵夫人である)と親しい知り合いなので、あの方は聡明で魅力のある方ですよと擁護せざるをえず、ヴェルデュラン夫人をカンカンに怒らせ、一座をしらけさせてしまう。そういう、ひとびとのスノッブぶりとか虚栄心とか、スワンの繊細さとか、それがどう受け止められるかとかのようすはおもしろく、また、読みながら、ああ……そうね……なるほど……みたいなかんじにならないでもない。そういうエレガントで理知的なスワンがオデットに恋したばかりに(その恋情もボッティチェルリの作品を重要な要素として介しているという点でだいぶ特殊なようにおもわれるが)つまらん連中の卑俗なサロンに出入りしなければならず、それどころか出入りすることに幸福をかんじていたりとか、オデットをいわば「啓蒙」するのではなく彼女の趣味にあわせて俗っぽい芝居を見に行ったりすることにやはり幸福をおぼえたりとか、まさしく恋に狂ったような心情におちいったりとか、そのいっぽうでじぶんのこころを冷静に分析するところもあったりとか、しかしそれは部分的なものにとどまって醒めるにはいたらなかったりむしろ恋情をうしないたくがないために都合の良い理屈をでっちあげたりとか、そういった恋愛者の心理や行動の解剖はまあやはりおもしろい。結末を先取りしてしまうと、たしかこの部のさいごでスワンは最終的にオデットとの関係に苦しめられることもなくなり悟ったような心境にいたって、「あんなつまらない女にこんなにのめりこむなんて、まったく俺も馬鹿な時間のつかいかたをしたもんだ!」みたいなことを吐いていた記憶があるが(そう言いながらもスワンはけっきょくオデットと結婚するわけだが)。
  • あと、プルーストは一般的・理論的(やはりあくまで文学者としてのそれなので、似非理論的とでもいうようなかんじだが)な考察とか説明をしたあとに、それは~~とおなじことである、あたかも~~のようなものである、とかいって、比喩をつけたして説明のたすけにすることがおおいのだけれど、そこで提示される比喩イメージはふつうの作家とくらべると相当に具体的というか微に入るようなもので、その記述がそれじたいかなりながくて何行にも渡ったりすることがままあるので、それ比喩として適切なのか? 説明としてむしろわかりにくくなってないか? とつっこんでしまうところがあっておもしろい。ただ彼は書簡のなかで、「個別的なものの頂点においてこそ普遍的なものが花開く」ということばを書いているので(正確な典拠は省くが、これはロラン・バルトコレージュ・ド・フランス講義録の三冊目、『小説の準備』のなかに引いていた)、その言にしたがったプルーストらしい作法だといえるのかもしれないが。
  • 新聞。国際面。タリバンはひきつづき攻勢をつよめて各地を奪取しており、夕刊では全三四州のうち一七州都をとったとあった。米国には、アフガニスタン政府軍がここまで対応できないとはおもわなかった、という誤算があるらしい。兵力じたいは政府軍が三〇万でタリバンが一〇万ほどだからふつうに政府軍が勝てそうなものだが、駐留米軍トップが、特殊訓練を受けた七万五〇〇〇の精鋭を要衝にわりふって拠点をまもるべきであるとアドバイスしたのをガニ大統領がきかず、あさくひろく各地に散らばらせて展開する方針をとった結果、各地でタリバンから奇襲を受けたりしてまともにたたかわないままに敗走を喫することがおおい現状らしい。カブールはいちおうまだいますぐどうという状況ではないという声があるようだが、じっさいのところ、カブールが落ちる落ちない、タリバンが政権を奪取するしないにかかわらず、現時点までですでに、政治的影響力とかたたかいでえられるものとかの観点からしタリバンの勝利でアフガニスタンおよび米国側の敗北と評価して良いことは新聞を読んでいるだけの素人の目からしてもあきらかではないか? ホワイトハウスにも、危機感とあきらめのいりまじった雰囲気がただよっている、と記事にはしるされてあった。二〇〇一年以来の二〇年を経て米国とアフガニスタンがえた結果がこれなのだ。米国がアフガニスタンにもたらした結果、と言っても良いはず。
  • 隣国パキスタンでは「パキスタンタリバン運動」みたいななまえの過激派がアフガニスタンタリバンの動向に影響されて活発化しているらしく、七月一四日に起こって当初はガス漏れによる事故だとおもわれていたバス爆破事件の首謀者がこの組織だったという調査結果を当局が発表したという。米国のアジア系のひとびとにかんする連載シリーズも読んだ。先の大統領選挙で、いままで共和党の牙城だった南部ジョージア州を今回バイデンがとったらしいが、それに寄与したのがアジア系のひとびとの票だったと。民主党陣営ではたらいているアジア系のひとがベトナム語や韓国語のビラをつくって戸別訪問をしたり、投票所でお茶をふるまったりしてアジア系のひとびとの投票率をあげたらしい。
  • いま午後一〇時まえだが、きょうは天気も基本的に雨降りだったし、気温は低めで、パソコンの画面右下のタスクバー上の天気表示(何か月かまえからいつのまにかこれがあたらしく出るようになっていたのだが)では二二度であり、エアコンをつけないまま緑茶を飲んでも我慢できる気候で、いま背後でカーテンのむこうの窓を網戸にあけてあるがそれではいってくる夜気も肌や肩口にけっこう涼しくて佳い。
  • 宵前に手の爪を切ることができた。
  • アイロンかけをしていたときに南窓のむこうに見えた空は端的な白一色のむらのない塗りつぶしで、きのうおとといは灰色がいくらかひきちぎったフェルトみたいにひっかかっていたのだけれど、雨降りのきょうはすべて一色でおおわれているために個別の雲すら存在しない白だった。山はその空に上方をやや侵食されている。このときだったかテレビのニュースでは各地で大雨のために道路が冠水したり川が激しくなったりしているという報がつたえられ、岐阜県飛騨川と長野県南木曽(「なぎそ」と読むことをはじめて知った)の木曽川と、あと佐賀県武雄市江の川というのがあげられていたとおもったが、記憶に自信がなかったのでいま検索したら江の川は佐賀ではなくて島根県だった。佐賀県武雄市が映ったのもまちがいはない。ところで江の川というのは「えのかわ」と読むのだろうとおもったところが「ごうのがわ」という読みで、「江の川」という文字が画面に何個か映りながらもアナウンサーが「ごうのがわ」と発音するのでその文字と声のあいだに連関をつけられず、ごうのがわってのはどういう字なんだ? どこに書いてあるんだ? とすこしのあいだ目を走らせてさがしてしまう、ということが起こった。
  • プルーストは368から370あたりにかけてオデットの自宅が描写されているのだが、そこには日本や中国や東洋の文物がふんだんに散りばめられている。まずもって家のまえの庭には菊が生えているし、サロンにも「当時としてはまだめずらしかった大輪の菊の花」がならべられてある。サロンにむかうまでにとおる階段通路の左右には「東邦の織物や、トルコの数珠や、絹の細紐でつるした日本の大きな提灯」がさがっているし、サロン内のようすにもどると、「支那のかざり鉢に植えた大きな棕櫚とか、写真やリボンかざりや扇などを貼りつけた屛風」もあり、まねきいれたスワンにオデットが提供するのは「日本絹のクッション」だし、果ては「部屋係の従僕が、ほとんどすべて支那の陶器にはめこんだランプをつぎつぎに数多くはこんできて」、室内をいろどりだす。「当時としてはまだめずらしかった」とプルーストじしんもしるしているように(この時点の時代設定はたぶん一八八〇年代後半から一八九〇年あたりが主となっているとおもうのだが)、そのころフランスにおいて日本趣味の流行があったらしく、たぶん当時のこういう「シック」な連中(もしくは「シック」を気取りたい連中)は東洋的文物を積極的にとりいれて宅に配置したのだろう。そのあたりのいわゆるジャポニスムにも興味が惹かれるが、それはプルーストの小説への興味というより、もっと一般的なフランスの文化史や社会風俗にかんしての興味である。ところでこのさいしょのオデット訪問のさいにスワンはシガレット・ケースをわすれてしまい、帰ってまもなくオデットからそれを知らせる手紙が来るのだけれど、(この訪問を描くながい一段落のしめくくりとして)そこに記されているのは、「どうしてあなたのお心もこれといっしょにお忘れにならなかったのでしょうね。お心ならば、こうしてお返しすることはなかったでしょうに。」(372)という文句で、これを読んだときに、まるで平安朝の和歌のような口ぶりではないか? じっさい、なにか有名な和歌でこんな内容のものがなかったか? とおもったのだった。日本の和歌俳句も一九世紀末かすくなくとも二〇世紀初頭にはたぶんフランスにすでにはいっていたとおもうのだけれど(たしかフランス人と結婚したかでむこうにわたって和歌アンソロジーみたいなものをつくった日本人女性がいたような記憶があり、これもロラン・バルトの『小説の準備』のなかで読んだ情報である)、プルーストがそこまで読んでいたかというとさすがにそこまでは読んでいなかったのではないか。だからおそらく、日本趣味にあふれた邸内のようすを記述する段落を閉じるこの一節が(こちらの印象では)和歌っぽいとして、それは偶然だとおもうのだが。
  • (……)とあしたの午後通話するというはなしになっていたので(七月後半にメールが来て、そのように決めた)、何時からがいいかと送り、三時からと決定。
  • 風呂で止まって安らいでいるときになんとなくおもったというかおもいだしたのだけれど、こちらがパニック障害になって瞑想を知ったころ(パニック障害のさいしょの発作にみまわれたのは大学二年当時の秋だから二〇〇九年の、たぶん一〇月だった気がするのだが(まだ大学祭をむかえてはいなかったはずで、大学祭はたしか一一月のさいしょにあったとおもうので)、その後たぶん二〇一〇年中には瞑想をすこしばかりやるようになっていたはず――復学して大学三年生になった二〇一一年に、英文を輪読する(……)さんの授業でいっしょになった(……)なんとかいうスペインかどこかのハーフのすらっと背の高くて顔立ちも西洋人寄りだった女性がいて(たしかサルサダンスだかフラメンコだかを熱心にやっているというはなしだった)、そのひとにパニック障害のことをはなしたときに、瞑想とかやってみたらとかえされて、瞑想はときどきやってんだわ、とこたえた記憶があるので、二〇一一年中にやっていたのはまちがいない)、「マインドフルネス」ということばは、だいたい「マインドフルネス心理療法」というかたちで、あくまで精神医学方面の治療法のひとつとして提示されることがもっぱらだったな、と。だからあまり一般には知られていなかったはず。じぶんはたぶん休学中の二〇一〇年のあいだだったかとおもうが、図書館で関連書をひとつふたつ借りて読んだようなおぼえもある(とはいえいっぽうで、Steve Jobsがそういう瞑想を習慣にとりいれているというはなしもすでにそこそこ流通していたような気もするが)。そこから一〇年でずいぶん人口に膾炙してたんなるリフレッシュ法とかストレス低減のセラピー的なものとして大衆化したなあとおもったのだった。
  • そういうことをかんがえたときにはまだRonald Purser, "The mindfulness conspiracy"(2019/6/14)(https://www.theguardian.com/lifeandstyle/2019/jun/14/the-mindfulness-conspiracy-capitalist-spirituality(https://www.theguardian.com/lifeandstyle/2019/jun/14/the-mindfulness-conspiracy-capitalist-spirituality))をひらいてはおらず、ウェブ記事のURLをメモしてあるノートのなかでつぎに読むあたりの記事のなかに偶然これがあって読むことにしたのだが、まさしくうえでいったマインドフルネスの大衆化・商品化が、指導者や推進者の意図はどうあれ資本主義システムと結果的に共謀することになってしまっている、という論旨の記事で、いわく、マインドフルネスがおしえる現在の瞬間を無判断的に観察してあるがままにしておくという技法や、個人の不幸や苦しみは最終的にはそのひとのこころのなかの迷妄とかに帰せられるものでそこを解決すれば幸福になれるとかいう言い分とかは、すべての問題を内面性に還元してしまうもので(非常にひらたくいえば、すべてが「心の持ちよう」の問題になってしまうということだろう)、(仏教の知恵が本来もっていたはずの道徳的・倫理的側面を欠いており)個人の苦しみを生み出している外的な諸要因、つまるところ社会構造とそのなかでの権力の布置・配分・占有とかへの批判的視点を涵養しない、したがって根本的な問題の解決や解消や変革へと個々人を導くことがないまま、中途半端に現状に満足してストレス低減策になぐさめられながらそこそこうまくやっていく主体、いわばmindful capitalistを生産するばかりである、みたいなはなしで、なんかめちゃくちゃオーソドックスな左派的もしくはマルクス主義的論説だなという印象をえたのだけれど、たぶん西洋社会でのこの方面にかんする実態をわりとただしく記述しているんじゃないか、という気はした。まだとちゅうまでしか読んでいないが。そもそも、TIMES誌が特集したマインドフルネス特集のときの記事の一文句として、〈“The ability to focus for a few minutes on a single raisin isn’t silly if the skills it requires are the keys to surviving and succeeding in the 21st century,” the author explained.〉と引かれたりしているのだけれど、survivingはともかくとしてもsucceeding in the 21st centuryってなんやねん、マインドフルネスがそこから出てきた仏教のおしえやブッダはそんなことちっともかんがえていないどころかそういう発想からひとを自由にするということをこそ実践していたのではないのか、とおもった。それはともかくとしても、Jon Kabbat Zinというひとが西欧におけるいってみれば近代的もしくは現代的マインドフルネスの方法論の創始者とみなされているらしいのだけれど、いまマインドフルネスを実践しているひとびとのなかにはたとえば企業の幹部連とか役職者とかもけっこうおおいようで(Steve Jobsもやっていたわけだし)、彼らにマインドフルネスを指導しても、彼らの会社が従業員たちにどういう負担を強いているかとか、システム的にどういった問題があるかとかそういう方面には目をひらかせることにはならず(そういう方向に観察と反省をめぐらせるような指導のしかたはせず)、ただじぶんがバリバリはたらくにあたっての負担やストレスを緩和してより強力な企業活動を推進していくための単なる一ツールになってしまっている、というわけで、それはたぶんわりとそうなのだろう。それは幹部連まで行かずともふつうの労働者についても言えることで、現状を(根本的に)改善しないままそれなりに乗り切るための手助けにしかなっていないというわけだが(こちらじしんも、バリバリはたらかずにだらだら生きている人種ではあるけれど、日々をすこしばかり楽にするツールとして瞑想をつかっている側面があるのは否定できないところだ)、こういう分析はアドルノがジャズについてしていたものとたぶんだいたいおなじなのだとおもう。アドルノじしんの文章を読んだことがないし聞きかじりでしかないからよく知らないのだけれど、アドルノはジャズについて、労働者たちを踊らせることでつかの間慰撫してフォーディズム的生産体制のなかによりうまく適合させるための低俗な音楽でしかない、みたいなことを言っているらしく、踊るとか言っているのだとしたらアドルノがジャズとしていっているのはたぶんスウィングあたりのジャズのことのはずで、せいぜいビバップのはじまりくらいで、ハードバップまではたぶんふくんでいなかったのではないかとおもうのだが。だから時代的にいうとおそらくせいぜい一九四〇年代前半くらいまでのもので、一九五〇年以降のジャズはふくまれていないのではないかとおもうのだが。
  • 個人的には、物事にたいして判断や評価をしないというのは、あるとしてもつかの間のことにすぎず、そのように生きていくのは最終的には人間には不可能だとおもうし、マインドフルネスというか瞑想的方法論において身につくのはたんなる相対化・対象化の姿勢、つまりじぶんのこの考えや認識は事実ではなくて判断である、とか、判断が判断である、感情が感情である、思考が思考である、ということをより明確に認識できるようになる、というくらいのことではないかとおもう。相対化というのは、確実なものはなにもないという全的ニヒリズムとしばしば同一視されるいわゆる相対主義や、相対化・対象化したその物事を否定するということとおなじではなく、ただそれが絶対なわけではないということを知る、というだけのことにすぎない。だからいってみれば、思考や認識にワンクッション分だけバッファーを置く、というくらいのことでしかないはず。それによって結果的により良い、より精錬された判断をできる、かもしれない、というのが、仏教の教義としてはそういうことは言っていないかもしれないが、マインドフルネスなるものの実際的効用(もしそれがあるとすれば)ではないかとおもうのだが(あとは、瞑想をしているとなぜかわからないがからだの感覚がまとまって心身がおちつき楽になるという、作用機序がよくわからない生理学的効果があって、それがまさしくストレス低減策・リフレッシュ法ということだろう)。あと、こちらの体感では、瞑想習慣をおこなうことで観察力がやしなわれるのはじぶんの内面にたいしてばかりではなくて、外界の物事にたいしてもひとしく観察力がみがかれるはずだとおもうし、その点についてはむしろより積極的に、そうでなければならないとおもうのだが。
  • それにしても、GuardianのこのThe long readのシリーズってじっさいけっこうながくて読むのもわりとたいへんなのだけれど、テーマは多様でおもしろそうなものがおおいし、思想方面もカバーしているし、これだけの量と質をもった記事を(Audio版をのぞいて)一週間に二つくらいはコンスタントにアップしているのだから、Guardianってマジでやばいメディアだな、と、マジで世界でいちばんすごいメディアだなとおもう。さいきんのを見てみても、Paul Gilroyについて詳細に紹介した記事とか、いまだに武装闘争をつづけているアイルランド共和軍の残党についてとか、中国がビデオゲーム界隈にどういう監視の手をひろげつつあるかとか、イラク戦争にまつわる米国の神話とか、英国のインド統治についてアマルティア・センがかたっているらしき記事とか、ポーランドハンガリーが近年なんであんなに反動的になっているのかとか、そういう話題が見られる。
  • 414: 「『セルジュ・パニーヌ』をふたたび見に行ったり、オリヴィエ・メトラの指揮ぶりを見る機会を求めていたのも、オデットの物の考えかたのすべてに精通する快さ、彼女の趣味のすべてをわけあっていると感じる快さのためであった。彼女の好きな作品または場所にまつわっていて、彼を彼女に近づけるそんな魅力は、それよりも美しい作品、または場所に内在しているけれども、彼に彼女を思いおこさせない魅力よりも、彼にとってはずっと神秘に思われた」
  • 416: 「ところで彼は、自分がいつまでもオデットを愛するだろうと言いきる決断がつかなかった、そう考えなくなるときのことをおそれたからであった、そしてせめていつまでもヴェルデュラン家に出入りするだろうと想像するようにつとめながら(これはア・プリオリ [﹅5] には、彼の理知からの原則的異議をひきおこさない命題であった)、今後もずっと毎晩オデットに会いつづける自分を目に見るのであった」
  • 418: 「あることがほんとうだからというのではなく、口にするのがたのしく、また自分でしゃべっていながら、その声がどこか自分以外からくるようにきこえるので、自分のいっている内容がはっきりつかめなくても、それを口にしていると、おのずから感じられるあの軽い感動(……)」
  • 420: 「(……)そんなすべてがつみかさなり、彼らがスワンを腹にすえかねる理由をなしていた。しかしその深い理由はほかにあった。それは彼らがいちはやくスワンのなかにはいりこめない一つの場所がとっておかれているのを感じていたからであって、そんな場所でスワンは、サガン大公夫人はグロテスクではない、コタールの冗談はおもしろくない、とひそかに自分に向かって言いつづけているのであり、けっして彼が愛想のよさを失わず、また彼らの教義に反抗していなくても、結局そんなスワンに、彼らの教義をおしつけて完全に改宗させることは、いままでに例がなかったほど不可能であるのを彼らが感じていたからであった」
  • 450~451: 「しかし、いかに事実そうであろうと考えたにしても、おそらく彼は、彼女が彼に見出す魅力や長所よりももっと持続力をもった支柱、すなわちあの利害(end450)関係を、オデットの彼にたいする愛のなかに見つけて苦しむということはなかったであろう、むしろそうした利害関係のために、彼女が彼に会うことをやめてしまいたいと思う日の到来がせきとめられているのではないか。さしあたって、彼女を贈物で満たし、なにくれと世話をやきながら、自分自身の魅力で彼女をよろこばせようと身をすりへらす苦労を避けて、自分の人格のそとにあり、自分の知力のそとにある特権にまかせておくだけでよかったのだ。そして、恋に身を置くという官能のよろこび、恋だけに生きるという官能のよろこび、ときどきその現実性が彼にうたがわれるほどの官能のよろこびのために、非物質的な感覚の愛好者として彼の支払っている代償が、要するに彼にその官能のよろこびを増させたのである」