それでは、他者の〈顔〉は私にどのように呼びかけるのであろうか。〈ことば〉は普遍的なものであり、ことばによって世界をものがたるとは「贈与によって、共有と普遍性とを創設すること」(74/104)であった(三・5・B)。他者のことばは、だから、世界を占有することを私に禁じている。「顔は、所有に、私の権能に抵抗する」(215/298)。顔は、他方また、「《なんじ、殺すなかれ》(tu ne commettras pas de meurtre)という、最初のことば」(217/301)である、とレヴィナスは主張する。(……)
(熊野純彦『レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、95; 第Ⅰ部 第四章「裸形の他者 ――〈肌〉の傷つきやすさと脆さについて――」)
- いちど九時台後半に覚めたおぼえがあるが、チャンスをつかめず一一時。こめかみやら脚やら各所を揉んで、一一時四〇分を越えて離床。きょうは瞑想をおこなえたのでよろしい。天気は曇りもしくは雨降りなのだけれど、午後から薄陽の色があらわれる晴れ間が時にはさまり、午後四時現在もわりと晴れている。
- ハムエッグを焼いて米と食べる。新聞はアフガニスタンの続報。タリバンは四月に米軍が正式に撤退を表明して以来、政府役人や各地の部族長とかと水面下で交渉をすすめていたといい、身の安全を保証するかわりに「無血開城」を飲ませて取ったという地域もけっこうあったらしい。とにかくアフガニスタン政府が信頼と正当性をえられていなかったということが大きかったのだろう。治安部隊員も複数の民族から成っていて、国への忠誠が薄かったとか。米国が各種支援や投資をおこなったにもかかわらずうまくいかなかった、さまざまな面で失敗した、責務を果たさなかった、みたいなことをバイデンは演説で述べてガニ大統領を批判したらしく、米国としてはむろんそういうふうに、われわれはやることをやったのだと言いたいだろう。じっさい、ガニ大統領はなんというか統治に意欲がないというか、やるべきことをやらないみたいなようすも見られていたらしいし、今回も駐留米軍トップが戦力の集中を助言したにもかかわらず反対に拡散させて、その結果タリバンの速攻をゆるしてしまったわけで、国外逃亡をしたこともあって(しかもそのさいに多額の現金をもちだしたもよう、とも伝えられている)元側近のひとりは「売国奴」などと呼んでいるらしいが、そういうもろもろを読むかぎりではたしかにガニ大統領の行動がむしろ積極的にタリバンを益したようにすら見えてくる。
- ほか、政池明という原子物理学方面の京大名誉教授が戦時の証言をしている記事。戦時中、日本では理化学研究所が「ニ号計画」という原爆開発プロジェクトをすすめていたのだが、そのいっぽうで京大でも、荒勝文策というひとを中心に「F計画」というものが進行しており、その資料や荒勝文策のノートは占領時に進駐軍によって没収されてしまったところ、このひとは米国の国会図書館などからそれを発見して当時の研究状況などを調べたらしい。荒勝文策はもともと戦争中に原爆を完成させるのは無理だと言っていたらしく、基礎研究としてそれをやったり、また優秀な若い学者を出征させないために海軍からの研究要求を飲んだという事情があったようだが、それでも戦後に、ああいう研究はやらないほうが良かった、みたいなことを言っていたとか。
- 「読みかえし」とプルースト。四時ごろに二食目を取りにいったとき、米をあたらしく磨いでおいた。
- 意識はさいしょのうちやや重たるいようだったが、書見とともに脚をほぐしたり、ストレッチをしたことで明晰に。
- 作: 「夢をうしなった反復者の朝は星に射られて不老を得たい」「シーツさえ浮かべるほどの涙にて君を待ち侘ぶ戦後千年」
- 出勤は五時過ぎ。晴れてきたので林から湧くセミの合唱が厚くなっていた。空はふりむいたさき、市街のある東南方面をのぞいてすっきりとした水色をたたえており、雲が追いやられたそのあとに化石のような月が淡く浮かんでいる。路上にはこまかな葉や植物の屑が無数に散らばって、アスファルトとともに濡れて色を鈍くしながらほぼ同化している。公営住宅まえまで来ると雨後でやわらかな湿りをはらみながらもさわやかな風がながれてここちよく、十字路沿いの木々の列はそのてっぺんに横薙ぎの陽がかかってあかるんでいる。坂にはいると太腿の筋肉のうごきをたしかめるようにしながらゆっくりのぼっていった。やはり太腿をうごかすと血がめぐってからだがあたたまるようで、よほどゆっくり踏んでいてもじきにやや熱がこもり、マスクの裏の息もすこし苦しくなる。出口付近まで来て片側が木立でなくなれば、右手の斜面へは夕陽のオレンジ色が悠々ととおり、坂上の一軒をつつみながらその窓にひかりを凝縮させるとともに、斜面上にたちならんだ竹の、見上げる高さの先端から雑然と草にかこまれた根元までこちらもまとめてつつみこんでいた。
- 五時の太陽は北寄りの西空にあらわに浮かんでいるが駅の階段通路をのぼるときにはちょうど薄雲にひっかかっていて、漬けられるというほどの暑さは避けられた。ホームにはいるとしかし、柱のたすけでひかりに当たらない日陰をさぐって立ち、短時電車を待つ。沿道から一段下がってひろがっている線路区画の端、むかいの壁には草が群れて茂っており、そこは北側だからひかりは当たらず緑色もややかげっているのだけれど、そのかげりを背景にして線路のうえの宙には羽虫が琥珀色めいた点となってふらふら飛び交い、沿道に立った柱にまつわる蜘蛛の糸も水中の蛸のごとく大気のながれにゆらぎながらその身のすべて一挙にではなく一瞬ごとにことなる部分に微光をやどしてすがたをあらわに浮かべている。そのかなた、太陽のそばにはしぼり伸ばされたようにひらたく長い雲がふたつ引かれて、下腹を白くつやめかせていた。
- 深夜二時過ぎ。一五日の日記にプルーストの書抜きをしながらBuddy Rich『The Roar of '74』をながしていて、#5 "Time Check"でベースがずいぶん活きが良かったので、このアルバムのベースだれだったかなとおもってWikipediaをみると、Tony Levinで、Tony LevinってあのTony Levinかとおもったらそうで、こんなしごとしてたんかとおどろいた。ぜんぜん知らなかったが、もともとSteve GaddといっしょにGap Mangione(Chuck Mangioneのきょうだいらしい)のレコーディングからキャリアをはじめたらしい。それで初期はけっこうそういうフュージョンとかファンキー系とかのしごともしていたようだ。Discogsを見るに、Gary McFarland、Brother Jack McDuff、Gary Burton Quartet(『Live In Tokyo』)、Charlie Marianoなどのなまえが見られる。
- 帰路は徒歩。職場を出ると、すぐに月があらわに浮いているのが目にはいる。夜空は晴れ渡って暗い青味があきらかであり、月だけでなく星もすがたをあらわし散っており、裏道から家々と線路のむこうの森のほうを見たときには空と梢の境も明白で、壁かおおきくもりあがりながら凍りついた波のように鎮座している木々列の、葉叢の襞の明暗もけっこう見てとれるくらいだった。夜道はもはや秋である。虫たちの音響にしても大気の肌触りにしてもそうだ。いつもの家のまえまで来て白猫はいるかと上体をかがめてみたものの、車のしたから出てくるものはない。それでさいきん不在だなとすすめばきょうはべつの一軒の隣家とのほそい隙間で壁に取りつけられた室外機のうえにちょこりと乗って、手足もからだに吸収されたような格好でしずかにたたずんでいた。いぜんもいちどだけここにいるのを見かけたことがある。ちかづいて手を伸ばしてみるものの、ねむいようすであまり反応をしめさない。道の端からだとぎりぎり手がとどかないくらいで、触れるにはその家をかこむごく低いブロックの段に乗らなければならないが、そこまでするのもなんだし、ねむいようだから放っておいてあげようときょうはあきらめて去った。
- 月は半月をすこし越えてふくらんだほどで、割れた恐竜の卵の殻が埋めこまれたようでもあり、巨大な親指がその先だけ夜空の開口部から顔を出しているようでもあり、街道と裏の交差部まで来るとあたりの街灯のあいだにのぞくからとおくの道の同種の電灯がひとつ見えているかのようでもあるが、いずれにしても黄の色味は街灯のそれよりもつよく、楕円のなかはなめらかである。ガードレールのむこうの下り斜面の底で、高く伸び上がる杉の木々にかこまれた沢がおもったよりも水音を増していた。道端にはユリのたぐいが生えていてここ以外にもいくつか見かけたが、どれも例外なくことごとくほそながい花部をくたりと曲げて垂れ下げており、死がもうすぐまぢかまでせまっていることを知った抑鬱のなかでしずかな苦悶の顔をかくしつつうなだれながら斬首を待っている囚人のようだった。木の間の下り坂にはいればジージーいっている夜蟬の気配はもうひとつきり、あとはコオロギの種なのか存在じたいがもっと大気にちかいかのように淡い声を回転させる虫が大半で夜気は秋めき、ひだりの木立の暗がりの先から川の音が、ひとつ下の道を越えてさらに斜面をくだればそこにあるからとおくないとはいえそれにしてもずいぶんそばでながれているかのようにうねりひびいてもちあがってくる。坂が終わるあたりでは視界がひらけて近所の家々のならびが見渡せるが、あいだに暗闇を満たしてしずまっている家並みのなかにともった街灯の白円はなにかを表示する暗号のようであり、暗号といってしかしそれがつたえるのはかくされた意味ではなくて道であって、つまり家を沈めた黒い海のなかに浮かぶ灯火がすきまのひろすぎる破線のようにして地上のそれとはことなり夜のあいだだけあらわれるもうひとつの道をつなぎつくっているように見えるのだけれど、一歩踏んですすむごとに街灯の位置関係は変化するから、その道もかたちや向きや角度をあらたにして絶えずむすびつきなおしては変成しつづける魔法の道のように映るのだった。
- 朝刊の文化面に、山根貞男が編集したという『日本映画作品大事典』なる本が紹介されていた。三省堂。収録されている監督は一三〇〇人、作品数でいえば二万弱というはなしで、二二年だかかかったというが、山根貞男はもう八二歳くらいなのにまったくすごいしごとをするものだ。一九〇八年の作品から二〇一八年のものまで収録されていて、一〇〇年いじょうの日本映画の財産を見渡せるものになっているわけだ。執筆者は五〇人以上。完成までこれだけかかったのにいちばんの困難だったのが、文書記録のまちがいや異同を調査してデータを正確にすることだったらしく、ある記録とべつの記録で題名とか出演者とかがちがっていたり、記録とじっさいの作品でタイトルがちがっていたりすることがざらで、映画が軟体生物のようにとらえどころのないものだということがこういう企画をいざ実行するにあたって浮き彫りになってよくわかったというようなことを山根は述べていた。こういう事典のたぐいだから、一〇万はいかないまでも五万円くらいはするのだろうか。
- マルセル・プルースト/井上究一郎訳『失われた時を求めてⅠ 第一篇 スワン家のほうへ』(ちくま文庫、一九九二年)より。
- 581~582:
(……)そしてこのことがスワンにわかって、彼が、「これはヴァ(end581)ントゥイユのソナタの小楽節だ、きくまい!」と心につぶやく以前に、早くも、オデットが彼に夢中になっていたころの思出、この日まで彼の存在の深いところに目に見えない形でうまく彼がおしとどめていたあのすべての思出がよみがえり、それらの思出は、恋の時期をかがやかせていたあの光がまた突然さしてきたのだと思いこみ、その光にだまされて目をさましながら、はばたきして舞いあがり、現在の彼の不幸をあわれみもしないで、幸福の歌の忘れられたルフランを狂おしげに彼の耳にひびかせるのであった。
「ぼくが幸福だったとき」、「ぼくが愛されていたとき」といった抽象的な言葉を、彼はこれまでしばしば口にして、それで大した苦痛を感じなかったのは、彼の理知が、過去から何も保存していないものをいわゆる過去の精髄だと称して後生大事に残していたからなのだが、そうした抽象的な言葉ではなくて、いま彼が見出したのは、あの失われた幸福の、特別な、蒸発しやすいエッセンスを、ことごとく永久に固定しているものなのであった(……)
- 583: 「ところがいまは、どんよりしたハレーションのようにオデットの魅力をひろげているこのおそろしい恐怖、彼女が何をしたかをいかなる場合にも知らず、いたるところで、つねに、彼女を占有するわけには行かないというこのかぎりない苦悩にくらべては、オデットの魅力はなんという微々たるものであろう!」
- 586~587: 「なるほど、小(end586)楽節はまた、たびたび二人の恋のはかなさを彼に警告した。そしてあのころ、小楽節のほほえみのなかに、熱中からさめた、澄みきった、その抑揚のなかに、彼は苦しみを読みとってさえいた、しかしいまはそのなかに彼はむしろ陽気に近いあきらめの美しさを見出すのであった。かつて小楽節は彼に悲嘆を語りかけ、彼自身はその悲嘆にとらえられずに、小楽節がほほえみながらその悲嘆を曲折に富むすみやかな音の流れのなかにさそってゆくのを、ただながめていただけなのだが、いまではその悲嘆は彼自身のものとなり、片時もそれから解放される望はなくなった、しかし小楽節は、その悲嘆について、かつて彼の幸福について告げたように、彼にこう告げているように思われるのだ、「それがなんだ、そんなものはすべてなんでもないのだ。」 そしてスワンの思考は、はじめて、あわれみと愛情にあふれながら、あのヴァントゥイユのほうへ、スワンとおなじように、ひどく苦しんだにちがいなかったあの未知の崇高な兄弟のほうへと向けられた。ヴァントゥイユの生涯はどんなものであったのか? どんな苦痛の底から、神のようなあの力、創造のかぎりないあの力強さをくみとったのか? スワンに彼の苦しみの空しさを語ってくれたのは小楽節なのであって、このとき、彼は心のなごやかさをとりもどし、たったいままで堪えられないと思われたまわりの人たちの分別――彼の恋をつまらないたわごとだと考えていた無関心な連中の顔にありありと読めるような気がしたあの分別――にも快さを見出すのであった」
- 588: 「小楽節がそうした魅力を織りこんだ形式は、もとより理屈では解くことのできないものであった。しかしこの一年あまり、彼の魂の数々の富を彼自身に啓示しながら、たとえしばらくのあいだでも、音楽への愛が彼のなかに生まれてからというもの、スワンは音楽の種々のモチーフを、べつの世界、べつの秩序に属する、真の思想 [イデ] と呼ばれるべきものと見なしていた、それは闇で被われた、未知の思想であり、理知がはいりこめない思想であったが、それでいてやはりその思想の一つ一つがまったく明瞭に区別され、価値も意味もそれぞれにひとしくない思想なのであった」
- 589: 「また、音楽家にひらかれている領域は、七つの音の貧弱な鍵盤ではなくて、際限のない、まだほとんど全体にわたって知られていない鍵盤であり、そこにあっては、鍵盤を構成している愛情、情熱、勇気、平静の幾百万のキーのうちのいくつかが、わずかにあちこちに、未踏の地の濃い闇によってたがいにへだてられ、それらのおのおのは、ちょうど一つの宇宙が他の宇宙と異なるように、他のキーと異なっているのであって、それらは、数人の大芸術家によって発見されたので、その人たちこそ、彼らの見出したテーマと交感しあうものをわれわれのなかに呼びさましながら、どんな富が、どんな変化が、われわれの空虚と見なし虚無と見なす魂のあのはいりこめない絶望的な広大な闇のなかに、知られずにかくされているかをわれわれのために見せてくれるのだ、ということを彼は知るのであった。ヴァントゥイユはそうした音楽家の一人であったのだ」