2021/8/23, Mon.

 エロス的なものが「把持すること」「所有すること」を、あるいは「認識すること」を意味するならば、さきの設問にたいする答えは「しかり」である [註88] 。愛撫はつまり、必然的に挫折する。〈手〉がどれほどせわしなく、もどかしげに動きまわろうと、手はそれがもとめてやまないもの、他者の他性を〈手に入れる〉ことはない。愛撫は所有すること(end106)がない。愛撫とは、かえって所有の挫折そのものである。
 だが、そもそもレヴィナスにいわせれば「所有ほど〈エロス [﹅3] 〉とかけはなれているものはほかにない」(298/410 f.)エロス的な関係は「二元性から養分をえて」おり、「融合であり区別」である(302/418)からである。ひとはエロス的な関係、「性」の関係にあって「けっして《私のもの》となることなく、〈他なるもの〉でありつづけるものとの関係にはいる」(309/428)。性愛というエロス的な経験がしめしているのは、他者とはけっして所有されえないもののことであり、どのようにしても所有されえないものこそが〈他者〉であるということにほかならない。
 他者は「その裸形において不可触のものである」(intacte dans sa nudité)。「処女性の不断の再開」という、それ自体としては問題ぶくみのかたりようでレヴィナスが説きあかしていることがら(289/398)、あるいは解きあかそうとしていることの消息を、本章ではこの文脈でとらえかえしておくことができよう。《永遠に女性的なもの》(ibid.)とは、ふみにじりようのない、けっしてふみにじることのできない、他者の他性それ自体である。他者は、いまだ存在しないものへと撤退し、逃れてゆく。他者とはひとがそれに追いついてゆくことのできない、いわば〈処女性〉をそのつど明かすものであるがゆえに、所有されず、支配されえないものなのだ。

 (註88): E. Lévinas, Le temps et l'autre, p. 83.

 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、106~107; 第Ⅰ部 第四章「裸形の他者 ――〈肌〉の傷つきやすさと脆さについて――」)



  • 一一時半起床。瞑想をできた。きのうおとといはたしかサボってしまったはずで、三日ぶりにできて良かった。やはり一日のはじめに心身を調律しなくては。なにもせず、人為的主体性を停止させるということを体感として理解しつつある。充分にそれを実現させることはむずかしいが、きょうはけっこううまくできた気がする。
  • 新聞からアフガニスタンの報。タリバン指導部は市民の安全を守らなければならないと下位に言い渡して融和姿勢を演出しているのだけれど、やはり実態はそれとは遠く、読売新聞の通信員が、空港周辺でタリバン戦闘員があつまった市民にお前らの乗る飛行機はないと言って追い散らしたりしている現場を目撃したと。北部では、つくった飯がまずいと言って調理人の女性に火をつけて殺したという事件も報告されているようだし、米国への協力者ではなかったひとの家にもそれを疑って問答無用で押し入ったり、そのほかにもいろいろの暴力行為が報告されているようすで、場所によっては女学校の閉鎖や女性の外出禁止もおこなわれていると。報道官は、イラン国営テレビの放送で、下位の人間が暴力行為におよんでいることを認めつつも、我々も人間だから過ちを犯すのはしかたがない、とひらきなおったといい、イスラーム法に照らしてそれは良いのか? とおもうのだけれど、いずれにせよ指導部も末端まで統制できていないし、おそらくはそもそも統制するつもりがないのだろう。カブール陥落とタリバンの実権掌握によって、米国がアフガニスタン政府に供与していたヘリとか弾薬とかもろもろの武装タリバンの手に渡ったという由々しき事態もつたえられており、そこからアル・カーイダにながれたり、あるいは中国に技術が流出したりするおそれもあって、米国は安全保障上のおおきなリスクに直面することになったと。
  • そのほか、横浜市長選で現職や自民党の支援候補を破って、立民ほか野党が支持した候補が当選したと。山中なんとかといったか、横浜市立大の教授だったひとで、四八歳とあったはず。コロナウイルスにまつわる市民の政府および自民党にたいする不満の受け皿になることに成功したと。IR誘致は撤回方針。自民党側は小此木なんとかいう元国家公安委員長を推していたのだが、政権への不支持が影響しておよばず、と。衆議院の任期満了を目前にひかえている菅政権にとっては痛手となったと。来月には自民党総裁選があり、菅では選挙をたたかえないという声がありながらもいまのところ明確に対抗馬として名乗りを上げているひとはたぶんいないのではないかとおもうが、一〇月二一日に衆議院は任期が終わるので、菅が総裁を継続して一〇月前半に解散か、コロナウイルスの状況によっては満了まで行くとの見通しのようだ。
  • (……)その後、(……)さんのブログを最新から三日分。(……)さんの父親の職場で感染者が出たらしく、家庭内感染の可能性がにわかに忍び寄ってきてやばそう。こちらのまわりでも、(……)は感染者が出て登校禁止になったというし、たしか金曜か土曜日の新聞で見たときには(……)は新規感染者が三七人で、これはたしかいままでで最多だったとおもう。(……)でも町内で感染が出たと聞いているし、だんだんこちらも包囲されているような雰囲気。すくなくとも(……)の生徒は塾に来るのも取りやめたほうが良いとおもうのだけれど、どうもそのあたり対応しそうにない。
  • 帰路のことを先に。退勤したのは一一時直前だった。徒歩を取る。非常に蒸し暑い。からだから水も抜けていたので、ひさしぶりに路上でものを飲む気になった。それで駅から裏にはいってまもなく、一世帯用アパートとでもいうような直方体の無愛想な外観の家のまえの自販機でWelch'sの葡萄ジュースを買い、片手はバッグで埋まっているのでキャップは腕時計とともに胸のポケットに入れ、冷たい液体をちびちびからだに取りこんで息をつきながらあるく。すぐに飲み終えて、空いたペットボトルを文化センターそばのべつの自販機のゴミ箱に捨てた。月がもう満月らしくまるまると太ってよく照っており、空には雲が蜘蛛の巣めいてほつれながら複雑にかかっているものの光量は抜群で、ひかりが隠れる間もあまりなく、雲のかたちも隙間の水色もあらわに見える。一日休みをはさんで回復したためか、遅くなったけれどからだの疲労感はそこまででなく、ただとにかく暑くはあった。風も裏道のあいだはほとんどない。ひろい空き地に接したところまで来れば空がひらけて満月の威容が行き渡っているのがふたたびあきらかで、ひかりはさざなみめいて遠くひろがり月から離れた東のほうまで雲の模様が浮き上がっているが、その映りはぼやけてあまりさだかならず、もこもことした白灰色の薄綿といった様相、しかしその立体感のなさで埋まって天頂も裾も大した段差がないのが、かえって空のひろさを昼間よりもまざまざと見せるようで、ずいぶんひろいなと見上げながら過ぎた。
  • 白猫がいたので道のまんなかでしゃがみこみ、しばらくのあいだ、寝転がった猫の腹や背や脚の付け根あたりなどを無心でやさしく撫でつづけるだけの主体となった。撫でられているあいだ猫はときおり両手両足をぐぐっと上下に伸ばして細長い姿態となったり、寝返りを打ったり、またその尻尾はゆるく曲がった先が地面についたままちょっと揺れたり、不規則に、ゆっくりとした動きで、母体からは独立した生命を持ってそれじたいで動いている蛇のように持ち上がりながらやわらかにうねったりする。猫に触れているときほどいつくしみというものをかんじることはないな、とおもった。ことばを発することなくしずかなのがとても良い。去って先をすすんだあと、ひるがえって人間というものの鬱陶しさがおもわれ、猫にくらべれば人間など、誰も彼も例外なくあさましい存在だとおもった。意味とちからを絶えず交換しあい互いをつかれさせ不快にすることなしには生きていくこともできない無能者のあつまりだ。うんざりである。来世は大気か樹木になりたい。
  • しばらくさすりたわむれてから立ち、たびたびふりかえりながらすすみはじめると、これははじめて見るものだがべつの黒い猫が一匹、脇の家から出てきて道をわたり、夜闇になかばまぎれながら一軒の車のそばにたたずんだ。白猫はすこしあるいてついてきていたので、このまますすめばたがいに気づいてなんらかの交感が生じるのではないか、と期待したものの、白いすがたはとちゅうの道端で止まってしまい、ちょっともどってさそうようにしてみてもそれいじょうすすんでこないようすだったので、あきらめてその場を立ち去った。
  • さいきんはまた夜でも暑い。裏通りにいるあいだは空気のながれもほとんどなかったようだが、街道に出れば、吹くというほどでなくともやわらかにひろく拡散するながれが正面からはろばろと寄せてきてそれなりに涼しい。とはいえ肌は全身汗にべたついており、ワイシャツと肌着の裏の布に触れられていないすきまで汗の玉が脇腹や背をくすぐったくころがっていくのがかんじられる。夜蟬のうめきはもはやなく、あたりの音響は秋めいており、見上げれば南の空をわたる月は、酸で溶けた衣服のようにぎざぎざの線をした雲の網の、牙のならんだ獣をおもわせてあぎと、とでも言いたくなるその間隙で、ひかりをいっぱいにひろげながら充実している。
  • 往路は電車で行ったのだけれど、行きのことはわすれたしまあ良いでしょう。出るまえに読んだ(……)さんのブログでは八月二〇日の記事で、「新型コロナ後遺症は「体内で目覚めた別のウイルスが原因」と示される」(https://nazology.net/archives/95025(https://nazology.net/archives/95025%EF%BC%89))という情報が紹介されており、元記事をまだ読んでいないのだけれど(……)さんが要点を引いていたのでそれをそのまま転載しておく。

新型コロナウイルスによるパンデミックが発生して以降、奇妙な症状が知られるようになってきました。
体内から新型コロナウイルスが消えて肺炎が収まったにもかかわらず、患者の30%が、頭に霧がかかったように思考が遮られてしまう「脳の霧」や極度の倦怠感、不眠症、頭痛、発疹、喉や腹部の痛みなどの後遺症が、数か月以上に渡って続くことがわかってきたのです。
そこで世界各地の医師たちは、この奇妙な後遺症の正体についてずっと調べを続けてきました。
最初に手掛かりを掴んだのは、武漢大学人民病院の医師でした。
この医師は、新型コロナウイルスにみられる肺炎以外の脳の霧や倦怠感、不眠症、頭痛、発疹などといった症状が、「EBウイルス」の感染症状に非常によく似ていると気付きました。
そして2020年の1月9日から2月29日にかけて、67人の入院患者に対して調査を行ったところ、55.2%の患者においてEBウイルスが活発に働いていることを発見します。
ただこの時点では、新型コロナウイルスEBウイルスが重複感染している場合が多いことを示したのみで、後遺症との関連性は不明でした。
ですが同様のEBウイルスの検出事例は、世界各地で起きていました。
イタリアでは、新型コロナウイルスに感染してICU入りした重症患者の95.2%でEBウイルスの再活性化を確認。
またフランスでもICU入りした重症患者の82%、オーストリアにおいても、ICU入りした重症患者の78%でEBウイルスの再活性化が確認されます。
これらの結果は、新型コロナウイルスによるパンデミックの陰で、EBウイルスによるパンデミックも起きており、人類は2種類のウイルスの連合軍と戦っていたことを示します。
しかしEBウイルスとは、いったいどんなウイルスなのでしょうか?

     *

EBウイルスは唾液に潜むウイルスであり、新型コロナウイルスと同じくエンベロープを持つ、ヘルペスウイルスの1種です。
また人類の成人の95%は既にEBウイルスに感染していることが知られています。
感染のほどんどは幼児期から思春期にかけて、両親や友達・恋人などの唾液を通じて行われますが、子供が感染しても症状は現れません。
一方、成人してからキスなどを介して感染した場合は、倦怠感や不眠症、頭痛、思考がはっきりしない脳の霧といった、新型コロナウイルスの後遺症とソックリの状態が、数か月以上にわたって続くことが知られています。
そのため古くからEBウイルスによる症状は「キス病」とも言われてきました。
ですがEBウイルスの恐ろしさは症状の長さや俗称の恥ずかしさだけではありません。
EBウイルスは活動レベルを落として潜伏状態に入ることで、生涯にわたって口や喉の粘膜に残存し続けることができるのです。
さらにEBウイルスには潜伏だけでなく「再活性化」するという特徴があります。
人体がストレスなどを感じると、低活動状態から目覚めて、体内で急激な感染拡大を引き起こすのです。
新型コロナウイルスが新しい体外からの脅威であるならば、EBウイルスは既にある体内からの脅威と言えるでしょう。
しかし何より問題なのは、この両者の感染場所と潜伏場所がかぶっていたことでした。

     *

これまでの研究で、新型コロナウイルスEBウイルスが人類を同時攻撃してきていることは示されていました。
しかし新型コロナウイルスの後遺症がEBウイルスによって引き起こされているかどうかという因果関係の詳しい調査は不十分でした。
そこで今回、World OrganizationのジェフリーE・ゴールド氏らは、新型コロナウイルスの後遺症に悩む人々とそうでない人々のEBウイルスの活性度の違いを改めて確かめてみました。
すると、後遺症に悩む66.7%の患者の体内においてEBウイルスが再活性化している一方で、後遺症がない患者の体内では、EBウイルスの再活性化している確率はわずか10%に過ぎませんでした。
また新型コロナウイルスの後遺症を頻度順に調べた結果、倦怠感58.6%、不眠症48.3%、頭痛44.8%、筋肉痛44.8%、錯乱と脳の霧41.4%、脱力感37.9%、発疹31.0%、咽頭炎24.1%、腹痛24.1%となり、この全てがEBウイルスの症状にもみられることが判明します。
この結果は、新型コロナウイルスの後遺症がEBウイルスの再活性化の結果であることを示します。
また研究者たちは、EBウイルスの再活性化が起きたのは、新型コロナウイルスの感染場所である口や喉が、EBウイルスの潜伏場所(口と喉)と被っていたことが大きな要因であると結論しました。
EBウイルスが潜伏する細胞に新型コロナウイルスが感染して増殖がはじまると、細胞内の環境が激変するだけでなく、やがて免疫細胞が感染した細胞を殺しに来ます。
そのため、潜伏状態を維持していたEBウイルスも、生き残りをかけて再活性化して増殖モードに移行する必要があったと推測されます。
過激な新参者のせいで古参の住民が苦労するということが、人間の細胞内でも起きていたのかもしれません。

     *

今回の研究により、新型コロナウイルスの後遺症が、既に体内に潜伏しているEBウイルスの再活性化によることが示されました。
EBウイルスの再活性化率は重症化率と緊密に関連しているだけでなく、後遺症の発症率とも関連していたのです。
また追加の分析では、後遺症の発症率は重症度よりもEBウイルスの再活性化率に影響を強く受けていることも示されます。
つまり新型コロナウイルスに感染し「無症状」で済んだとしても、EBウイルスが再活性化してしまった場合は、EBウイルス感染症状としての「後遺症」が発生する確率が上がります。
そして「無症状なのに後遺症に悩まされる」という不思議な現象が起こり得ます。
このややこしさは、重症化は新型コロナウイルスEBウイルスの合作で、後遺症はEBウイルスの単独犯になりがちという、組み合わせの複雑さにも起因します。
そこで気になってくるのが、場合によっては新型コロナウイルスよりも厄介になり得るEBウイルスも、ワクチンによってどうにかきるかどうかという部分です。

     *

EBウイルスはワクチンで予防したり再活性化を抑えることはできるのか?
答えは残念ながら、難しいと言わざるを得ないでしょう。
新参者の新型コロナウイルスと違って、EBウイルスは潜伏の達人です。
それに既に感染しているEBウイルスを、免疫が一生かけても排除できない時点で、免疫力に頼ったワクチンの効果は、現状では薄いと言わざるを得ません。
なにより、公の場で常に口元をマスクで隠すことはできても、私的な場での会食やキスを禁止することはできないからです。
人類が親子や友人と食卓を囲む習慣やキスの習慣を捨てない限り、EBウイルスを完全に滅ぼすことはできないでしょう。
見知らぬ外敵よりも、内情を知り尽くした身内に潜む敵のほうが厄介なのは、生物の世界でも同じなのかもしれません。

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  • 帰宅後はいつもどおり一時間くらい休んだのでそれから飯を食って風呂を浴びると部屋にもどったころには二時になっていた。一九日の書抜きを済ませるくらいしかできず。書見は、プルーストを読み終わってつぎになにを読もうかなとまよっていたのだが、ミシェル・ド・セルトー/山田登世子訳『日常的実践のポイエティーク』(ちくま学芸文庫、二〇二一年/国文社、一九八七年)を読みだした。いちおう学問的範疇としては社会学のくくりにはいるのだろうか。セルトーじしんは歴史学や宗教学や神学などいろいろやっているようだし、この書も領域横断的なもののようだが。支配的な文化生産者(非常に大雑把には「エリート」や企業、学問共同体など)が押しつけシステム化する文化的・社会的体制に否応なしに巻きこまれ、とらわれてしまう無名の消費者たち(「大衆」)が、そこから逃れるのでもなく(そんなことは不可能である)、かといって完全に同化するのでもなく、無数の細部の組み換えや手持ちのさまざまな要素の組み合わせ(いわゆる「ブリコラージュ」)や、意味の再解釈や個人的なルールの開発などによっていかにして押しつけられた文化をひそかにじぶんのものとし(それは非 - 正統的な意味での生産者、いわば「モグリ」になるということではないか)、システムのなかでかくれながらうまくやっていくか(隠蔽者・寄生者・密猟者・(ことによると部分的には)収奪者として?)、そのささやかながら非常に多様な日常的実践の形態を記述し、かつそこからアンチ文化が生み出されていく(かもしれない?)その(転覆の?)動態を政治的意義の点から追って見定める、というようなはなしだとおもう。だからテーマとしては、政治的方面および権力論から見るに、フーコーの研究と重なり合う部分が大きいものなのではないか(とはいえセルトーじしんは、さいしょに置かれてある研究概略のなかで、フーコーの『監獄の誕生』の多大な意義をみとめながらも、それでもなお彼の研究は装置と規律生産の側にのみフォーカスしたものだった、というようなことを言っていた――だから、言ってみればこの本は、フーコーが『監獄の誕生』では記述しなかった側の視点からそれを補完するようなものなのかもしれない――つまり、権力機構とその作用のなかにとらわれ、規律を注入されて主体形成しながらかつがつ生きていくしかない、無名でふつうの無数の個人の側から――しかしまた、セルトーは、この研究の主題はそうした主体のあり方そのものではなく(だから彼らの実存や生なのではなく)、あくまで彼らが戦術的に駆使する日常的実践の「形態」なのだ、とも強調していた)。ときおり、学問的・科学的文章の領分をあきらかに逸脱したとおもわれる文学的表現が出現して、それがなかなか素敵な書きぶり(訳しぶり)になっている。
  • この日は瞑想を多くやった。起床時、出勤前、帰宅して休んだあと、就床前。やはり瞑想をやらないと駄目だし、一日のうちでおりにふれてやったほうがからだがまとまって良いという至極単純なことを再認識した。瞑想というか、停止してなにもせず休む時間ということだが。
  • 12: 「この二巻を編むにあたっては、いろいろな方々の協力をあおいだが、おかげでさまざまな研究がうまれ、何人かの足どりが交差することにもなった。広場での密議とでもいうべきか。とまれ、こうして交差しながら歩いてゆく道筋 [パルクール] が、けっしてひとつの閉域をつくることなく、この道筋をたどってゆくわれわれの足どりが、いつしか群衆のなかに紛れ、消えゆかんことを」(「はじめに」)
  • 18~19: 「拡張主義的で中央集権的な、合理化された生産、騒々しく、見世物的な生産にたいして、もうひとつの [﹅6] 生産が呼応している。(end18)「消費」と形容されている生産が。こちらのほうの生産は、さまざまな策略を弄しながら、あちこちに点在し、いたるところに紛れこんでいるけれども、ひっそりと声もたてず、なかば不可視のものである。なぜならそれは、固有の生産物によってみずからを表わさず、支配的な経済体制によって押しつけられたさまざまな製品をどう使いこなすか [﹅8] によっておのれを表わすからだ」(「概説」)
  • 21: 「つまり、インディオたちのやりかたにならって、使用者たちは、支配的文化のエコノミーのただなかで、そのエコノミーを相手に「ブリコラージュ」をおこない、その法則を、自分たちの利益にかない、自分たちだけの規則にしたがう法則に変えるべく、細々とした無数の変化をくわえているのではないか、ということだ」(「概説」)
  • 22~23: 「こうした「もののやりかた」は、幾千もの実践をつくりなしており、そうした実践をとおして使用者たちは社会文化的な生産の技術によって組織されている空間をふたたびわが(end22)ものにしようとするのである。それらが提起する問題は、フーコーがあつかった問題と似てもいるし、またその逆でもある。似ているというのは、数々のテクノクラシーの構造の内部に宿って繁殖し、日常性の「細部」にかかわる多数の「戦術」を駆使してその構造の働きかたをそらしてしまうような、なかば微生物にも似たもろもろの操作を明るみにだすことが問題だからである。また、逆だというのは、秩序の暴力がいかにして規律化のテクノロジーに変化してゆくかをあきらかにするのはもはや問題ではなく、さまざまな集団や個人が、これからも「監視」の編み目のなかにとらわれつづけながら、そこで発揮する創造性、そこここに散らばり、戦術的で、ブリコラージュにたけたその創造性がいったいいかなる隠密形態をとっているのか、それをほりおこすことが問題だからだ。消費者たちが発揮するこうした策略と手続きは、ついには反規律 [アンチ・ディシプリン] の網の目を形成してゆく [註5] 。それこそ、本書の主題である」(「概説」): (註5): こうした視点からみても、日常生活にかんするアンリ・ルフェーブルの研究は基本的文献である。