いまや、主体の主体性そのものが、明示的にも一種の〈女性性〉としてとらえかえされることになる。ただし、その〈性的〉な規定を拭いさったかたちでの女性性としてである。そうした女性性をレヴィナスは(それ自体むろん問題なしとしないところではあるが)「母性」(maternité)とよぶ。「〈傷つきやすさ〉は、感受性がそれを意味する母性にまでさかのぼる [註95] 」。〈私〉はあらかじめ・すでに破産し、ほころびた主体性であることによって、すなわち〈傷つきやすさ〉が私の構造をかたちづくっていることで、「母性」をうちにか(end126)かえこんでいる。母性である〈私〉は、「私の身体にむすびあわされるに先だって、他者たちにむすびつけられている」のである [註96] 。そのかぎりで、「〈他者〉にたいする責めは――〈私〉の自由、現在、表象に先だっていることにおいて――いっさいの受動性よりも受動的な受動性なのである [註97] 」。
主体の同一性はあらかじめ「破産」しており、「自己とは、〈私〉の同一性のこのような破損、あるいは敗北である」。「同一性」は「生起し・過ぎ去ってゆく」(se passer)。なぜ、〈主体性〉は当初から破産 [﹅2] し、「敗北」し、あらかじめ過去 [﹅2] のものとなっているのだろうか。それは、「主体」が(『全体性と無限』にあってもそうであったように)「感受性 [﹅3] 」によってかたどられているからであり、しかしその感受性が(『存在するとはべつのしかたで』では)あらたに「感応しやすさ」(susceptibilité)「傷つきやすさ [﹅6] 」というかたちで描きとられているからにほかならない。「陵辱に、傷に曝されることである」傷つきやすさは、いまや「責めであるような応答」の条件となっている。「重くのしかかる、隣人にたいする責め」が「いっさいの受動性よりも受動的な受動性」である「感受性のうちで響きわた」っている。ここに帰結するのは、つうじょうの意味における主体の〈主体性〉ではもはやなく、かえって「いっさいにたいする主体の隷属」である。「存在することからのこの離脱のうちで」(dans ce désintéresse)いまや〈倫理〉が成就することになる [註98] 。
〈責め〉は、引き受けられたり引き受けられなかったりするあるもの、私がそれを、人(end127)称的な存在者である〈私〉の決断と選択において受容するようなあること、ではない [﹅2] 。むしろ、私は〈他者〉との関係において逃れがたく無限な〈責め〉のうちに置かれることで、人称的で唯一的な〈私〉となる [﹅2] 。おなじように、〈母性〉である私は、ときに傷を負ったり、ときにまた傷つかなかったりするわけではない。〈私〉の主体性は、それが外部性によって構成され、同における他としてかたちづくられていることで、あらかじめ過ぎ去り [﹅4] 、ほつれ、破綻 [﹅2] している。傷つきやすいこととは、そのかぎりではむしろ、〈傷つかない可能性がないこと〉、〈他者〉の悲惨と苦しみとによって〈私〉がかならず傷を負うこと [﹅10] を意味している [註99] 。――傷つくことにおいては(〈責め〉を負うことにあってと同様)私の〈自由〉は存在しない。あるいは、〈私〉の自由は私が責めを負うため [﹅4] にある。おなじように、私は傷つきやすいことにおいて〈自由〉であり、傷つくために自由 [﹅8] なのである。
「存在することそれ自体は、世界のうちで一箇の悲惨である」。だが、とレヴィナスはいう。「この悲惨さのうちに、私と他者とのあいだには、レトリックを超えたある関係がある」(73/102)。つまり、支配と暴力を超えた関係がある。あるいは、「権力にも所有にもうったえることのない外部性」(44/61)が萌している。私がなにものも所有しえず、なにごとも支配しえないとしても、さらにまた、傷つきやすさと脆さとが〈私〉の主体性ならざる [﹅7] 主体性のありかであるとしても、所有と暴力とのかなたにひらかれる他者との関係のうちに、私の主体性 [﹅3] はやはりなお「擁護」されるのである。(註95): E. Lévinas, Autrement qu'être, p. 114.(邦訳、一三九頁)
(註96): Ibid., p. 123.(邦訳、一四八頁)
(註97): Ibid., p. 31.(邦訳、四二頁)
(註98): Ibid., p. 30 f.(邦訳、四一頁)『べつのしかたで』における感受性の問題については第Ⅱ部参照。
(註99): 港道隆「顔の彼方? 下」(『思想』一九九六年六月号)、一三一頁参照。なぜ〈傷つかない〉ことが不可能なのかは、第Ⅱ部で立ちいって検討する。ギリガン(C. Gilligan, In a Different Voice, Harvard U. P. 1982)以降の論者たちが「傷つきやすさ」(vulnerability)をキータームのひとつとしていることについては、川本隆史『現代倫理学の冒険』(創文社、一九九五年刊)七二頁以下参照。(熊野純彦『レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、126~128; 第Ⅰ部 第四章「裸形の他者 ――〈肌〉の傷つきやすさと脆さについて――」)
- 一一時五〇分起床。遅めではあるが、からだの感覚は重くなかった。きょうの天気は曇り。窓外のゴーヤがより茂ってきており、窓の上端の一角など葉が密集して空が入りこむ隙間もないくらいだ。ほかの箇所の隙間にのぞく空は真っ白で、きょうの大気はどちらかといえば暗さに寄った無機質な色合いであり、食事後にすこしだけ陽があらわれたときがあったのでタオルをベランダに出したのだが、風呂を洗ってもどってくると、やはりあやしいな、おおかた曇りのままにとどまるだろうがもしかしたら雨が落ちるかもしれないとおもわれたので、すぐにまたしまった。
- 食事はきのうのピーマンの肉詰めのあまりで椀におおきく盛った白米をかっくらった。新聞からはアフガニスタンの続報。テロの死者は一八〇人をかぞえたと。二六日に爆発があったとき、日本大使館のアフガン人職員やJICAのひとなどがバスに乗って空港にむかっていたのだが、そこに事件があって近寄れなくなり、退避がかなわなかった、という情報が載っていた。ひとりだけ自衛隊の輸送機でパキスタンはイスラマバードに移動できたひとは共同通信の通信員だというが(実名で載っていた)、このひともバスに載っており、ひきかえしたあとでカタール政府関連の車だったかでほかの外国人記者とともに空港にむかうことができ、それで自衛隊機で移送されたということだった。アフガニスタン人の仲間から、国外脱出の方法を問うメールがとどいて、とてもつらい、と語っていた。けっきょく自衛隊が移送したのはこのひとと、二六日にアフガニスタン人一二人だか一三人だかをはこんだのみのようだ。このアフガニスタン人はもともと米国かどこかほかの国が移送する予定だったのだけれど、機が空いていなかったかなにかで急遽日本がはこぶことになった、というはなしだった。米軍は無人機による報復攻撃で民間人の死者を出さずにISISの戦闘員ひとりを殺害し、この人物はテロを立案する役割だったと見られているらしい(どうしてそれがわかるのかわからないが)。ただ、今回のテロの立案者かどうかは不明。しかし新たなテロの準備のために移動しているところを攻撃したという情報もあるようだ。
- 日本人もアフガニスタン人もほかの国のひとも救出されないまま取り残される人間が多数にのぼることになるだろうが、英国ではボリス・ジョンソンがその点に率直に言及し、一二〇〇人ほどを救出できないまま作戦は終了することになる、非常に悲しみをおぼえる、と述べたらしい。もちろん今後もタリバンとの交渉をつづけてあらゆる手立てを尽くすと言ってはいるものの、どうなるか。国際面にはアメリカ支局長だったかが一文寄せていて、ベトナム戦争当時のモン族救出と今回の件を対比していた。ベトナム戦争時に隣国のラオスでモン族のひとびとがCIAによって訓練されて工作員としてはたらいていたらしく、戦争後に迫害されたので米国に多数の難民が脱出したらしいのだが、そのときに難民の受け入れにむけて熱心にはたらいたのがのちに(一九九六年四月に橋本龍太郎政権が普天間基地の返還を発表するさいに)駐日米大使だったウォルター・モンデールだったという(当時はカーター政権の副大統領)。モン族の米国内での立場は現在も良くはなく、貧困家庭が多いようだが、それでもちょうど今回の東京オリンピックでモン族出身の体操選手がメダルを取ったとか。そういった歴史を踏まえて、ベトナム戦争時の米国にはまだしも超大国として自国の失敗に責任を取ろうという姿勢があった、今次のアフガニスタンでもそういう姿勢をしめさなければ、米国にたいする世界の信頼はますます損なわれることになるだろう、と記事は締めくくっていた。ちなみにドナルド・トランプは、バイデンは米国にテロリストを連れてくるつもりだと言って難民の受け入れに反対し、復権を狙っているらしい。
- (……)からメールが来ていたのでLINEにアクセスし、「(……)」関連の返信をいくつか。音源も三つ聞く。それで二時くらいになっていたか? 「読みかえし」をいくらか読んでから書見。ミシェル・ド・セルトー/山田登世子訳『日常的実践のポイエティーク』(ちくま学芸文庫、二〇二一年/国文社、一九八七年)。ブルデューについての分析など。なかなか具体的な実践形態の記述に行かず、いままで全体的な展望や大枠の説明、またフーコーやブルデューなど関連する先行研究の批判的検討がつづいており、理論的地ならしのような準備が長く丁寧になされている。
- 五時でうえへ。アイロンをかけるものはなかったので、餃子を焼いた。ほか、ナスを茹でるなど。空腹だったが我慢してもどり、きょうのことをここまで記述。
- ワクチン接種を予約した。九月一七日金曜日の三時から(……)で。九月はあともうその日のその時間しか空いておらず、しかも最後のひとりだった。もうすこし遅れていたら、一〇月以降にしなければならなかったところだ。
- (……)からメール。ずいぶんひさしぶりにかかわったが、なにかとおもえば、昨年末に結婚して、一二月一八日に式をあげる予定なので来てくれるか、とのこと。了承。コロナウイルスの状況次第ではもちろん延期になるので、また連絡すると。一二月に会えるとしたら、たぶん(……)の結婚式以来ではないか。あれは小池百合子が当選した東京都知事選の前日だったので、二〇一六年七月三〇日のこと。
- 「愛なんて燃えるゴミでしょ明日にはなまものは消費期限が短い」という一首を風呂のなかでつくった。
- (……)
(……)
- この日は八月二六日から二八日まで、本文の記述は終わらせている。あとは書抜きをすれば投稿できるという状態。
- 147: 「監視の諸装置は、拡張をとげたあげく、解明の対象となり、それゆえ啓蒙の言語の一部になってしまっている。この事実そのものが、もはやそれらの装置がディスクールの諸制度を規定する力を失っているということの証拠ではなかろうか。なんらかの組織力をそなえた装置があるとしても、ディスクールがみずからの考察しうるものをとおして指し示すものは、もはやそのような組織的な役割を失ってしまった装置でしかないはずである。そうだとすれば、ディスクールが対象としえないような、ある別のタイプの装置がそのディスクールを分節化しているわけだが、いったいそれはどのような装置なのか」
- 150: 「ブルデューにおいて、カビリアは、「実践 [プラティック] の理論」のトロイの木馬である。そこによせられた三つのテクスト(「家あるいはさかしまの世界」をはじめ、ブルデューの書いたもののなかでももっとも素晴らしいテクスト)は、ひとつの長い認識論的ディスクールのための複数の前衛部隊の役をつとめている。この「カビリア民族学三試論」は、詩のようなスタイルでひとつの理論(散文で書かれた一種の注釈)をみちびきだし、いつどこから引用してもまばゆく散りばめられた破片のように輝く、理論の源になっている」
- 162: 「 [ブルデューの語る「戦略」的実践は、] より多くの 情報を集めておいてあらかじめ矯正策を講じておけるわけでもないから、「いささかの計算」があるわけでもない。先の予測をつけるのでもなく、ただ、過去の反復のような「漠と推測された世界」があるだけである。要するに「そういうことになるのは〔実践が結果として客観的情勢に適合するのは〕、厳密に言うなら、主体が、自分たちのやっていることを知らないからであり、かれらのやっていることには、かれらが知っている以上の意味があるからである [註26] 」。つまりここにあるのは「知恵ある無知 [ドクト・イニョランス] [註27] 」であり、自分で自分をそうとは自覚してない知略なのだ」; (註26): Pierre Bourdieu, Esquisse d'une théorie de la pratique, Droz, Genève, 1972, p. 175-177 et 182; 《Avenir de classe...》, in Revue française de sociologie, XV, 1974, p. 28-29; etc.; (註27): Esquisse..., op. cit., p. 202
- 162~163: 「場によって統括されるこれらの「戦略」、物識りでありながら自分では無自覚なこうした「戦略」とともに、もっとも伝統的な民族学が立ち返ってくる。事実これまで民族学は、みずからは隔絶した区域に身をおき、そこから観察をつづけながら、一民族にそなわる諸要素を首尾一貫して [﹅6] しかも無意識的なもの [﹅7] とみなしていた。この二つの面はわかちがたく結びついている。首尾一貫性なるものがひとつの知の公準であり、知がみずからにさずける地位の公準、みずからが準拠する知識モデルの公準であるためには、この知を、客観化された社会からはなれたところに位置づけなければならず、したがってこの知を、その社会がみずからについて抱いている知識とは隔たったもの [エトランジェ] 、それよりいちだんと高いものと前提しなければならなかった。研究の対象となる集団の無意識は、知がみずからの首尾一貫性を保持するために支払わねばならない対価(知が報わねばならない対価)であった。(end162)ひとつの社会は、みずからそうと知らずにしかシステムでありえなかったのである。そこから、次の命題が派生してくる。すなわち、自分ではわからないままに社会をなしているその社会がどのような社会であるかを知るためには民族学者が必要なのだ」
- 164: 「ブルデューがたてている問題そのものがかなりあやふやな項目からなっているのではないかと言えなくもない。そこで考えられている三つの与件――構造、状況、実践――のうち、後の二つ(この二つはたがいに応えあう)だけは観察される [﹅5] ものであるのにたいし、第一のものは統計にもとづいてみちびきだされた結論 [﹅2] であり、すでにできあがったモデル [﹅12] である。「理論的」問題に入りこんでしまうまえに、認識論的な二つの前提事項をはっきりさせておく必要があるだろう。すなわち、次の二つのことをおさえておかなければならない。(a)これらの「構造」にそなわっていると想定されている「客観性」。これは、社会学者のディスクールのなかで現実そのものが語られるという確信にささえられた「客観性」ではないのか。(b)「構造的」モデルは総体をおさめるものとされているが、観察された実践や状況はそこにおさまりきれない限界があるのではないか。とくにそれらを統計によってあらわそうとするのは限界があるのではないだろうか」
- 173~174: 「遠い昔にさかのぼるまでもなく、カント以来、いかなる理論的探求も、こうしたディスクールなき活動、人間的活動のうちで、なんらかの言語で飼いならされ象徴化されたことのないものからできあがっているこの広大な「残り」と自己とがどのよう(end173)な関係にあるのか、程度の差こそあれ、真向からたちむかってあきらかにしないわけにはいかなかった。個別科学はこのような真向からの対決をさけて通る。それは、みずからア・プリオリに条件を設定し、なにごとであれ、それを「ことばにしうる」ような、固有の限定された領域内でしか事物をあつかおうとしない。それは、事物をして「語らせる」ことができるようなモデルと仮説の碁盤割りをひいて事物を待ちうけているのであり、この質問装置は、狩猟家のはる罠にも似て、事物の沈黙を「回答」に、したがって言語にかえてしまうのである。それが、実証という作業だ [註1] 。これにたいして理論的な問いかけは、こうしたもろもろの科学的ディスクールどうしの相互関係のみならず、それらがみずからの領域を設定せんがために意図的に排除してしまったものと共通に結びあっている関係を忘れはしない [﹅6] し、忘れるわけにはゆかない。理論的な問いかけは、無限にひしめきあう(いまだ?)語らないものと結ばれており、なかでも「日常的な」実践というすがたをしたものと結ばれあっている。それは、この「残り」の記憶 [﹅7] なのである」; (註1): すでにカントが『純粋理性批判』においてこのことを語っていた。学者とは「自分で問いの型を決め、その問いにたいして証人に答えさせようとする判事である」、と。