2021/8/31, Tue.

 メルロ=ポンティの《根源的歴史性》は――そこでは、主体とその世界が一箇の世界のうちで集約されるのだが――〈語られたこと〉のうちを動いている。〔これにたいして〕心性あるいは生気をふきこまれることとは、一者と他者のあいだの差異が――しかしそれはまた、食いちがいあう項のあいだの [﹅13] 、共通の時間を欠いた関係 [﹅2] でもあるのだが――無関心であることができない、ということを意味するにいたるしかたなのである(114/139)。

 「心性あるいは生気をふきこまれること」(le psychisme ou l'animation)とはレヴィナス特有の用語である。それは(後論〔第三章〕で立ち入ることがらをここでは大づかみに先どりしていえば)いやおうなく他者が食いこんだ主体のありかた、他者との関係をうちに懐胎している〈私〉のありようをさす。他者との関係は [﹅3] 私にとって不可避である [﹅6] 。その意味で〈私〉はすでに他者を身のうちにかかえこんでいる。しかも他者は、踏みこえようのない「差異」そのままに私のうちに食いこんでいる。「共通の時間」をもたないま(end159)でに私とへだたっている他者が、私の主体性のうちに孕まれている。他者と私という、「食いちがいあう項 [﹅8] 」のあいだに、なお「関係 [﹅2] 」がなりたっている。だからこそ、他者にたいして私は「無関心であることができない」(non-indifférence)。「主体とその世界」を一挙に「一箇の世界」のうちで「集約」してしまうまなざしから、つまりレヴィナスが理解するかぎりでの《根源的歴史性》からは、このようなことの消息のいっさいが抜けおちてゆく。レヴィナスが見るところによれば、メルロ=ポンティの思考は結局のところ、他者と私との差異 [﹅2] と、両者の時間的なずれ [﹅2] によって意味が分泌される世界に、ではなく、すでに一貫して意味づけられた世界のうちに住まい、反復可能なことばによって意味があたえられ、〈語られたこと〉(le Dit)において有意味的な世界のうちでやすらっている。
 ことばは自他の関係を不断に更新するがゆえに「意味」は「さしあたりは暴力的な運動」によってしかありえない。遺稿にそうした章句をも書きとめたメルロ=ポンティが、自他の共存をひたすら調和的な像にたくして思考していたとはおもわれない [註38] 。だが、たしかにじっさい、他者と私とが「唯一の間身体性の器官 [註39] 」であるというメルロ=ポンティの認識には、それ自体なにほどかは両義的なものがある。つまり、他者との共存を保証しつつ他者の超越をかえって無化してゆくかたむきがある。諸身体の共存 [﹅6] を原型とするかぎりでのメルロ=ポンティの歴史性 [﹅3] からは、そのかぎりで、他者との絶対的な差異(end160)が、差異によって散乱してゆく時間のかたちが零れおちてゆく。レヴィナスの眼からすれば、「メルロ=ポンティの根源的歴史性」とは他者という「集約不能なものの不可能な共時化(synchronisation)」なのであり、それは他者との「〈近さ〉というディアクロニー」に、つまり、私の主体性のうちにいやおうなく食いこんでいるにもかかわらず、不断に〈私〉のもとから逃れさり過ぎ去って、私がけっして現在 [﹅2] においてとらえきることのできない、他者の時間 [﹅5] にたいして盲目なのである(76/94)。(……)

 (註38): M. Merleau-Ponty, La prose du monde, Gallimard 1969, p. 197 f.
 (註39): M. Merleau-Ponty, Signes, p. 213. この論点については、第3節第1項でも触れる。メルロ=ポンティの思考それ自体の「両義性」については、高橋哲哉「《自然》のミトロジー――メルロ=ポンティと構想力の臨界」(『逆光のロゴス』未来社、一九九二年刊)参照。これにたいして、篠憲二「現象学の始原論と目的論――メルロ=ポンティ現象学の領野」(『現象学の系譜』世界書院、一九九六年刊)一三五頁以下が、存在の「永続的な炸裂」という発想のうちに最晩年の思考のモティーフをみとめている。なおまた、鷲田清一メルロ=ポンティ』(講談社、一九九七年刊)二五六頁以下をも参照。

 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、159~161; 第Ⅱ部 第一章「物語の時間/断絶する時間」)



  • いま六時半まえ。2020/1/18, Sat.を読んだ。(……)くんおよび(……)さんと会合している。その(……)くんからは先ほどメールがはいり、ちかいうちにはなしをしたいという誘いとともに、完成した長編小説が送られてきた。

 雪の降りは微妙に増していた。傘を持って玄関の戸口を出ると、宙を埋める粒が軒下まで迫ってくる。道へ出ると雪は西から東へ、つまり前から傾きながら降ってくるので、コートの裾に白く細かなものが付着するのを防ぐ手立てがない。せめても流れてくるものを受け止めようと傘を前に傾けると視界は狭くなり、視線を横に逃せば(……)さんの宅の庭に置かれてある材木が白さを被せられており、さらに道の縁の垣根の上端の、葉の一枚一枚の上にも薄く積もって表皮と化したものがあり、雪の純白に彩られると物々がかえってつくりものめくようで、原寸大の模型のようにも映るのだった。降るものはしかし足もとのアスファルトには残らず、緩慢な飛び降り自殺のようにゆっくりと落ちてくる粒はことごとく路面に吸いこまれて消えていく。降雪を少しでも避けようと道の端の樹の下に入りながら行くが、公営住宅の前まで来ると樹もなくなったのでまた道の中央に出て、視線を下に向けると路面にはひらいた傘の影が多角形の図となって黒くぼやけて映っており、その上の宙にはある地点から自分の至近だけ粒子が消滅する境があって、それは当然、頭上に掲げられた傘によって降りが遮られているに過ぎないのだが、身体の周囲に目に見えないバリアが張られているようで何だか不思議な眺めだった。その外は空間が無数の粒に籠められて、一歩ごと一瞬ごとにその布置、位置関係は複雑精妙に変成しているはずだが、じっと観察を凝らしても一瞬前と一瞬後の違いがわからず、まったく同じシーンを永劫に巻き戻して反復しているかのようで、催眠的である。

     *

 (……)そのほか、(……)くんのやや強迫神経症的な性向についても語られて、これはちょっと面白かったので書いておいても良いかもしれない。曰く、彼は以前はFacebookTwitterのタイムラインを隅から隅まですべて見なくては気が済まなかったのだと言う。定期的に他人の投稿をチェックする時間を取っていたのだが、昔は飛行機内などではインターネットに接続できなかったから、そのあいだにタイムラインを見られない時間というのがストレスで、外国に着いてホテルに入るとまずインターネット環境を整えて、渡航のあいだに投稿された発言を追うのが常だったとのことだ。何故だかわからないがとにかく全部見なくてはいけないのだというようなこだわりがあったと言い、しかしある時、自分がその人の発言を見ていようがいまいが、周りの人はあまり気にしていないようだなということに気づいて、それでこだわりが薄くなってきて、今は投稿をすべて追うということはなくなり、ごく普通の使い方をするに至ったと言う。自分でも基準がわからないが、妙な部分で強いこだわりを見せることがあると彼は言い、まずもって幼少期からその萌芽が観察されていたと話した。と言うのは、幼児時代の彼は、ジグソーパズルを自分一人で完成させないと気が済まないという執着を持っていたらしく、他人が途中で手を出して一ピースでも嵌めてしまうと、それまでできあがっていた絵をひっくり返してぶち撒けてしまい、最初からまたやり直す、という振舞いに出ていたのだと言う。変なところで完璧主義的な部分があるのだ、ということだ。だから、根っこの部分、土台の部分の考え方、その方向性を間違えると、それこそアイヒマンみたいになっていたかもしれないと思うよ、と彼は話した。

  • きょうは休日。一日はたらけば一日休めるということはすばらしい。労働とは全世界的にそういうものでなければならない。一週間が七日あり、そのうち五日か六日はたらくのがふつうだとみなされている世界など、まちがいなくあたまがおかしいのだ。ほぼ普遍化されたその狂気にひとびとはあまり気づいていない。あるいは気づいていても、そういうものだとおもっている。たしかに、しかたのないことだ。しかし、「だからといってこの事実 [﹅2] がわれわれの掟 [﹅] になろうはずはないだろう」(ミシェル・ド・セルトー/山田登世子訳『日常的実践のポイエティーク』(ちくま学芸文庫、二〇二一年/国文社、一九八七年、102)。「たとえ事実は少しも変わらないとしても、この事実 [﹅2] を掟 [﹅] としてうけいれることはできない」(81)。一日はたらいたらそれに応じて一日休む、これがほんらい人間のあるべきリズムである。ものごとは均衡をたもってこそ、相補的・相乗的でありうる。
  • (……)それが終わると一時すぎだったか。「読みかえし」。Oasis『(What's The Story) Morning Glory?』をながす。なんだかんだで気持ちの良いアルバムだ。何曲か、アコギで弾き語りたい。その後、ミシェル・ド・セルトー/山田登世子訳『日常的実践のポイエティーク』(ちくま学芸文庫、二〇二一年/国文社、一九八七年)を読んだ。186から216まで。第5章「理論の技」のさいごのほうで、カントの判断力論が援用されていて、「判断力がおよぶのは、(……)多数の要素の比例関係 [﹅4] についてであり、そうした判断力は、新しくひとつの要素をつけくわえられてこの比例関係をほどよく [﹅4] 按配しながら、具体的に一個の新たな全体を創造する行為のなかにしか存在しない」(197)とか、「判断力とはすなわち形式的な「配合」であり、想像力と理解力とからなる主観的な「バランス」である」(199)とか、「このようにして倫理的かつ詩的行為にあずかる判断力を、カント以前にもとめようとすれば、おそらくかつての宗教的経験がそれであろう。その昔は宗教的経験もまたひとつの「巧み [タクト] 」であり、個別的な実践のなかでひとつの「調和」を把握し創造すること、なんらかの具体的行為の連鎖のなかで、ある協和をつなぎなおし(religare)たりつくりだしたりする倫理的かつ詩的な身ぶりであった」(200)などと述べられているのを見るに、何年かまえ(二〇一七年の年末あたりに)じぶんが「実践的芸術家/芸術的実践者」といういいかたでかんがえていたこととおなじテーマがかたられているな、じぶんがかんがえていたのは、カントの文脈でいくと判断力についてのことだったのか、とおもった。じぶんがかんがえていたのは、テクスト上にさまざまな語と意味を配置しひとつの高度な秩序をかたちづくっていく作家、もしくはより広範に芸術家をモデルにして、現実世界の状況において行為と発話によってそれと類同的なことをおこなうのが「実践的芸術家/芸術的実践者」だということで、作家はテクストにことばを書きこむことによって意味や表象の布置をある程度まであやつり、芸術的・美的に高度で印象的かつ深い作用を読み手におよぼすような構造やながれ、動きや模様をかたちづくることができるわけだが、現実の世界をテクストとして比喩的にとらえることで、それとおなじようなことができる余地が生まれるのではないかとおもったのだ。ここでいうテクストとしての現実世界(現実世界としてのテクスト)というのは、ある一定の時空においてひとびとが交わし合う意味およびちから・情報や、そこに存在しているもろもろの事物によってかたちづくられたネットワークのつながり・織りなしのことで、作家がテクストにことばを書きこんで作品のネットワーク編成を変えていくことが、ここではひとがなんらかの行為をおこない、あるいはパロールとしてのことばを他者に差し向けていくことで、状況に影響をあたえ、変化させることに類比される。適切なタイミングにおける適切な対象へのそういう介入 - 操作によってその時空のネットワーク編成をより良いもの(より目的にかなっていたり、より調和的だったり、より快適だったり、より美的だったり)に変化させていくというのが、現実世界(という作品・テクスト)を舞台にした芸術家としての実践行為ではないか、というようなはなしで、このようにかたると大仰なひびきを持つが、こういうことはみんなふだんからふつうにやっていることで、とりわけ有能な仕事人とか調停者とかはそれを有効に活用しているはずである。具体的に言えば、職場の上司が調子の悪そうな部下に声をかけて気遣ったり、あまり関係を持っていなかったあるひととあるひとに共同の作業をあたえて関係構築をうながしたりとか、ひとつひとつとしてはそういったささやかなことである。そういう無数の個別的で些細な行為による介入 - 操作をとおして、その場にあらたなつながりを生み出したりとか、ネットワーク中に生じているノイズ的要素を除去して意味やちからや情報の交通をより円滑にしたりとか(もちろん、目的によっては反対に阻害・切断したりとか)、それらを駆使してある高度な秩序のかたちを構築していくのが実践的芸術家だ、というはなしなのだけれど、ミシェル・ド・セルトーがとりあげているのもわりとそういうはなしで、第6章「物語の時間」では、マルセル・ドゥティエンヌという歴史家・人類学者を参照しながら、ギリシア人の「メティス」について論述している。メティスとはギリシア語で「知恵」をあらわすことばで、ここでは好機(カイロス)をとらえて行動し、すぐれた機転と狡智によって状況におおきな効果と変化をもたらす能力、というような意味でかたられている。だから、「メティス」とは、うえでこちらが言った「無数の個別的で些細な行為による介入 - 操作」のうち、とりわけすぐれておおきなちからをもった状況転換行為(言ってみれば、「会心の一撃」のようなもの)、あるいはそれを生み出す「知恵」だということになるだろう。第6章で注目するべきなのは、それが物語およびそれを語る行為と相同的なものとしてとらえられていることで(215: 「もし物語というものもまたメティスに似たなにかである [﹅3] とすれば」)、だからここで、文学という営みの実践倫理的効力、という視野がひらけてくるのかもしれない、ということになる。まだこのあたりまでしか読んでいないので、セルトーにおけるその内実はあきらかでないが、こちらがうえで語ったことに引き寄せて述べればつぎのようなことになるだろう。まず、内容の側面からいって、物語は、状況や行為や体験や人物の豊富な具体例を提供する。読み手がじっさいに経験するものではなく、言語やその他の媒体によって仮想・表象された仮構的体験ではあるにしても、物語を読む者はそれを現実の経験と類比的なものとして理解し、そこでなんらかの感情や、行動の指針や、世界にたいする理解をえたりする。つまり、物語は、仮構的かつ代理補完的なかたちではあるものの、経験の蓄積の役割を果たす。もちろん経験がより多く蓄積されたからといって、かならずしもなんらかの意味ですぐれたふるまいができるとはかぎらないが、すくなくとも状況判断の参照先を増やしたり、未知の領域を減らすことでものごとの理解の益になったりはするわけで、それがあるとないとでは行為の選択肢も変わってくるだろう。つぎに、物語を緻密に読むこととはそこに展開され形態化されていることばや意味のネットワークを把握し、詳細に観察して理解することであり、この能力を磨くことで、現実の時空を対象にしたばあいでも、その場の諸要素のつながりや配置をテクスト的に把握することができるようになり、状況の理解や判断が緻密化され、明晰になる(かもしれない)。すなわち、文学を読むことが読み手にもたらす効用とは、すべてを文学として読むことができるようになるということである、というわけだ。第三に、物語を書くこと、もしくは語ることの側面からいって、語る行為とはさまざまな技術の組み合わせや応用の場であり、それらの技術は、とりわけことばや意味やその他の要素の配置・配列・整序、組み換えや変形の妙にかかわるものであり、ひとまとめにしていえばおそらく、ものごとの構築とながれをつくることにかかわる手法である。語る行為をそのようにとらえるとともに、その理解を物語だけでなくさまざまな実践に共通のものとして一般化してかんがえれば、語る技術からえられるものがより広範な状況において適用・応用できる(かもしれない)というわけだ。まだ先を読んでいないのでわからないが、たぶんセルトーが主に注目しているのはこの第三の領域なのではないかという気がする。物語行為を端緒にして、そこで用いられるさまざまな技術の方式や理解の形式などを、そのほかの実践行為にも見出して分析していこうというのが今後の道行きなのではないか(「Ⅱ 技芸の理論」は第6章「物語の時間」までで終わりで、「Ⅲ 空間の実践」にはいって第7章「都市を歩く」から、ようやく具体的な日常的実践形態の論述がはじまるのだとおもう)。「物語の理論は実践の理論とわかちがたく結ばれているのであって、こうした物語こそ実践の理論の条件であり同時にその生産でもあると考えねばならないのではないのか」(207)。
  • 五時でうえへ。両親は出かけていた。米を磨ぎ、アイロン掛け。三時かそのくらいから雨が降り出しており、いまはさらに降りが嵩んで、そんなにはげしいわけではないが窓外は灰霧の色につつまれて部屋内も暗く、風はないようでまっすぐ落ちながらこまかく空間をきざんでいる雨線のかさなりのむこうで山のすがたがうすれている。
  • アイロン掛けをしているうちに両親は帰宅。かけるものはたくさんあって、終えたころにはもう六時すぎだった。米は六時半に炊けるようにしてあったので、部屋にもどってきょうのことを記述。米が炊けるまでのあいだちょっと書こうとおもっていたところが、うえのセルトーの本にまつわる思考の記述に時間がかかり、いまはもう八時直前である。
  • 二六日木曜日の記事に書抜きを足して投稿。二七日も投稿。二八日も書抜きをすすめているが、この日は六〇ページほど読んで、気になったところがやたらおおくなったので、今日中に終わらない気がする。
  • ウラジーミル・プロップの民話分析の研究(『昔話の形態学』)ってけっこうむかしのしごとで、一九二八年の出版だったのだ。ロラン・バルトが一時期やったような物語の構造分析の文脈でなまえが出てくるので、そのころのひとだとおもっていたのだが、一八九五年生まれで一九七〇年に死んでいる。
  • 入浴中、髭を剃った。
  • 夕食時のことはまあ特に。夕刊から「日本史アップデート」を読んだくらいか。戦国時代の後北条氏について。小田原の史跡からは色の違う石をタイル状にはめこんでつくられている床とか、古代ローマの浴場みたいな独特な遺構が出てきているらしい。これは京都でまなんだ先進文化をとりいれたものではないかと。初代北条早雲(伊勢宗瑞)の出自についてもむかしの定説とはちがったことがわかってきており、以前は北条早雲は素浪人から成り上がった傑物、というのが共通認識だったのだが、じっさいには室町幕府の政所をつとめた伊勢氏の系譜で、九代将軍足利義尚の側近みたいな役職もつとめていたらしい。ちょうど一五〇〇年くらいの人物で、その前後で伊豆とか小田原とかを支配したもよう。そこから時代が一〇〇年弱くだると五代目の北条氏直豊臣秀吉とたたかって征討されるわけだが、このたたかいにそなえて小田原城のみならず城下町一帯をすべてかこむ総構 [そうがまえ] という防壁をつくったという。
  • 入浴後に二八日の書抜きをまたやろうとしたのだが、背がこごってどうにもつづかず。大してできなかった。
  • 189: 「技芸 [﹅2] は、供儀とおなじく、「一見すると粗野なのでついそう信じてしまうほどわれわれからかけ離れたものではなく [註13] 」、科学とくらべてみれば、それじたいで重要だが科学なしには読みえない知なのである。このような考えかたは、科学の立場を危ういものにしてしまう。なぜなら科学に残されるのはただ、自分に欠けた知を語る権能だけだということになってしまうからだ。というわけで科学と技芸のあいだの望ましい関係は、二者択一ではなく相互補完性ということになり、もしできれば、この二つの結合が望ましいということになる」; (註13): Emile Durkheim, les Formes élémentaires de la vie religieuse, P. U. F., 1968, p. 495. 〔古野清人訳『宗教生活の原初形態』岩波書店
  • 192~193: 「こうした実践が語りのなかに「回帰」してくるという事実は(ほかにもたくさんの例をとりあげてそのひろがりを検討してみなければならないだろうが)、いっそう大きなもうひとつの現象にむすびついている。この現象は、歴史的な年代はそれほどさだかではないが、技能のなかにふくまれている知の美学化 [﹅5] と言い表わすことができるだろう。この知は、(end192)みずからの手続きと切りはなされて、「趣味」とか「勘」とか、あるいはまた「才」とみなされてゆくのである」
  • 193: 「それは、自分を識らない知識といわれるものだ。このような「認識をはらんだ営為」には、反復や内的「反省」という方法によってみずからの行為を制御しようとする自己意識がそなわっていないはずである。実践と理論のあいだにあって、この知識は依然として「第三の」位置をしめている。もはやディスクール的な位置ではなく、原初的な位置を。それは、始原にある [オリジネール] ものとして、身をひそめているのだ」
  • 193~194: 「いずれにあっても、主体が反省しない知が問題なのである。主体はわが知をわがものにできないままに、その知のほどをしめす。究極的にこの主体はわれとわが技能の借り主であって、所有者ではないのである。この技能について、ひとはそこに知があるかどうか [﹅6] などとは考えず(知があるにちがいない [﹅5] とひとは思っている)、その知はもっぱらその持ち主以外の者によって知られる [﹅4] のだ。詩人や画家のそれにも似て、日々の実践の技能が知られるのは、それをディスクールという鏡のなかで解明する通訳、だが自分とてその技能を所有しているわけではない通訳をとおしてでし(end193)かないだろう。したがってこの技能はだれのものでもない。それは、いかなる主体にも属さないまま、実践者の無意識から非 - 実践者の反省へと巡ってゆく。それは、匿名でありながら、しかも準拠すべき知であり、技術的、学術的実践の可能性の条件である」
  • 196: 「三世紀にわたり、意識は歴史上いろいろな姿をまとい、知の定義もさまざまな変遷をへてきたにもかかわらず、相異なる二項の結合は不変のままのこっている。すなわち、一方に、準拠すべきだが「粗野な」知識があり、他方に、みずからの出で来った不透明な泉を転倒した表象と化し、その表象を光のもとにさらす開明的 [エクレレ] ディスクールがあるのだ。このディスクールこそ「理論 [テオリー] 」なるものである。理論という語そのものに、「見る/見させる」、あるいは「観照する」(theôrein)という、古代的かつ古典的な意味がのこっている。理論とは、「明るみにもたらされたもの [エクレレ] 」なのだ」
  • 196~197: 「いかにも特徴的なことだが、カントがものをなす技(Kunst)と科学(Wissenschaft)との関係、あるいは技術(Technik)と理論(Theorie)との関係を論じたのは、まず趣(end196)味の考察にはじまり、しだいに判断力批判へと移行してゆく研究過程においてであった [註19] 。カントは、趣味から判断力へといたる行程で技芸に出会うのである」; (註19): 『趣味判断』(1787年)から『判断力批判』(1790年)にいたるこのような移行過程にかんしては、次を参照。Victor Delbos, la Philosophie pratique de Kant, P. U. F., 1969, p. 416-422. カントのテクストは次に所収。Kritik der Urteilskraft, § 43 (《Von der Kunst überhaupt》), Werke, ed. W. Weischedel, Insel-Verlag, t. 5, 1957, p. 401-402; Critique de la faculté de juger, trad. Philonenko, Vrin, 1979, p. 134-136. 〔篠田英雄訳『判断力批判岩波書店〕。ブルデューによるカント美学の批判は、基本的(「社会関係の否認」)であるが、社会学者のメスをもっての批判であり、かれもまた「自由な芸術 [アール] 」と「必要な技芸 [アール] 」のカント的区別にかかわる視点をとってはいるが、わたしのパースペクティヴとは別のところに位置している(la Distinction. Critique sociale du jugement, Ed. de Minuit, 1979, p 565-583)。
  • 197: 「ものをなす技 [アール・ド・フェール] は、美学の圏内におさめられ、思考の「非 - 論理的」条件として、判断力のもとに位置づけられている [註20] 。思考の根源に技芸 [﹅2] をみてとり、判断力を理論と実践 [プラクシス] のあいだの「中間項」(Mittelglied)ととらえる視点によって、「操作性」と「反省」とのあいだの伝統的な二律背反がのりこえられるのである。カントのこのような思考の技 [アール・ド・パンセ] は、二つのものの総合的統一をなしとげている」; (註20): Cf. A. Philonenko, Théorie et praxis dans la pensée morale et politique de Kant et de Fichte en 1793, Vrin, 1968, p. 19-24; Jurgen Heinrichs, Das Problem der Zeit in der praktischen Philosophie Kants (Kantstudien, vol. 95), H. Bouvier und Co Verlag, Bonn, 1968, p. 34-43 (《Innerer Sinn und Bewusstsein》), Paul Guyer, Kant and the Claims of Taste, Harvard University Press, 1979, p. 120-165 (《A universal Voice》), 331-350 (《The Metaphysics of Taste》).
  • 197~198: 「判断力がおよぶのは、たんに社会的な「適合性」(もろもろの暗黙の契約が織りなす網の目に抵触しないようなバランス)についてばかりでなく、さらにひろく、多数の要素の比例関係 [﹅4] についてであり、そうした判断力は、新しくひとつの要素をつけくわえてこの比例関係をほどよく [﹅4] 按配しながら、具体的に一個の新たな全体を創造する行為のなかにしか存在しない。ちょうど、赤やオークルをくわえながら一枚の絵を破壊す(end197)ることなく変化させるような具合に。所与のバランスをある別のバランスに転化させること、それが技芸の特徴である」
  • 198: 「カントは書いている、わたしのところでは(in meinem Gegenden、わたしの地方、わたしの「くに」では)、「ごく普通のひと」(der Gemeine Mann)が言う(sagt)ことに、手品師(Taschenspielers)のやることは知の領分に属している(トリックを知ればできる)けれども、綱渡り(Seiltänzers)は技芸に属している、と [註22] 。綱渡りをすること、それは、一歩ふみだすごとに新たに加わってくる力を利用してバランスをとりなおしながら、一瞬一瞬バランス [﹅4] をとりつづけてゆくことである。それは、あたかも釣り合いを「維持している」かにみせかけながら、けっしてそれまでとは同じでない釣り合いをとり、たえず新たにつくりだされてゆく釣り合いを保ちつづけてゆくことだ。このようにして、行為の技芸 [アール・ド・フェール] がみごとに定義されることになる。事実、ここでは、バランスを修正しながら崩さないように保ってゆくことが問題なのだが、実践者自身がそのバランスの一部をつくりなしているのである」; (註22): Kant, Kritik der Urteilskraft, § 43.
  • 199: 「認識する悟性と、欲求する理性とのあいだにあって、判断力とはすなわち形式的な「配合」であり、想像力と理解力とからなる主観的な「バランス」である。この判断力は、快 [﹅] という形式をとるが、これは外的な形式ではなく、実際になにかをやるときのそのやりかたの様式にかかわっている。すなわちこの判断力は、想像力と悟性との調和という普遍的 [﹅3] 原理を、具体的 [﹅3] な経験としてうみだすのである。それは、感覚 [﹅2] (Sinn)であるが、「共通の」感覚である。共通感覚(Gemeinsinn)あるいは判断力、なのだ」
  • 200: 「このようにして倫理的かつ詩的行為にあずかる判断力を、カント以前にもとめようとすれば、おそらくかつての宗教的経験がそれであろう。その昔は宗教的経験もまたひとつの「巧み [タクト] 」であり、個別的な実践のなかでひとつの「調和」を把握し創造すること、なんらかの具体的行為の連鎖のなかで、ある協和をつなぎなおし(religare)たりつくりだしたりする倫理的かつ詩的な身ぶりであった」
  • 202~203: 「世にひろまっている「格言」 [「理論としては正しいかもしれないが、実践にはなんの役にもたたない」] は、ある原理をうちたてているのではない。ある事実を指しているのであって、カントはこの事実を解釈して、実践者が理論にむける関心がたりないか、さもなければ、理論が理論家自身において十分な深化をとげていないかのどちらかの証拠だと述べている。「理論がまだ少ししか(noch wenig)実践に浸透していない場合には、理論が間違っているということではない。そうではなく、理論がいまだ十分でない [﹅8] (nicht genug)のであって、経験から理論を学ぶべきであったということなのだ(end202)…… [註29] 」; (註29): Kant, Gentz, Rehberg, Über Theorie und Praxis, Suhrkamp Verlag, Frankfurt am Main, 1967, p. 41. (強調はカント)
  • 203: 「ここで大切なのは、判断における諸能力の形式的調和 [﹅5] という原理である。このような判断力は、科学的ディスクール、特殊技術、芸術的表現のいずれにも位置づけることができない。それは、思考の技 [アール・ド・パンセ] であって、日常的実践も理論も、ともにこうした技 [アール] 〔芸〕に属している。綱渡りの芸とおなじく、この技もまた倫理的、美的、実践的価値をそなえている」
  • 204~205: 「これ [判断力や巧みといった問題] についてカントは、先にみたように引用を援用している。世に言われる諺 [アダージュ] 、あるいは「普通の」人間のいうことば [モ] を。このような手続きは、いまだ法学的(しかもすでに民族学的)なものであって、他人になにかを語らせ [﹅10] 、それに釈義をくだしているのである。民衆の「託宣 [オラクル] 」(Spruch)は、こうした技芸について述べたてている [﹅7] にちがいない、しからば注釈者がこの「格言」に注解をほどこそう [﹅8] 、というわけである。たしかにこのとき〔理論的〕ディスクールは人びとの口にする(end204)ことば [パロール] をまじめにうけとめてはいる(実践をおおっていることばは過誤にみちているとみなすのとは正反対に)、けれどもこのディスクールは実践の外部に位置し、理解し観察しようとする距離を保っている。それは、他者がみずからの技にかんして語っていることについて [﹅4] 語っているのであって、この技そのものが [﹅5] 語っているのではない。もしこの「技」が実践されるしかなく、この遂行をはなれては発話もないのだとすれば、言語は同時に実践であるはずである。語りの技 [アール・ド・ディール] とはそのようなものであろう。あのものをなす技 [アール・ド・フェール] 、カントがその根底に思考の技をみてとった、あの技がまさにそこで遂行されているのだ。言いかえれば、まさにそれが物語 [レシ] というものであろう。語りの技がそれじたいものをなす技でありしかも思考の技であるなら、物語は同時にこの技の実践でもあり、理論でもあるはずである」
  • 206~207: 「数多くの研究のなかで、物語性 [ナラティヴィテ] は学問的ディスクールのなかにしのびこみ、ある時にはその総称(タイトル)となり、ある時にはその一部分(「事例」分析、集団や「人物の伝記」、等々)となり、あるいはまたその対重(断片的引用、インタビュー、「格言」、等々)となっている。学問的ディスクールにはたえず物語性がつきまとっているのだ。そこに、物語性の科学的 [﹅3] 正当性を認める必要があるのではなかろうか。物語性はディスクールの排除しえぬ残り、あるいはいまだ排除されざる残りであるどころか、ディスクールの不可欠の機能をになうもので(end206)あり、物語の理論は実践の理論とわかちがたく結ばれているのであって、こうした物語こそ実践の理論の条件であり同時にその生産でもあると考えねばならないのではないのか [「物語の理論は」以下﹅] 」
  • 207: 「おそらくそれは、近代科学が存在してからというもの、日常的実践の見世物小屋と化してしまっている小説にその理論的価値を認めることであろう。ことにそれは、実践を物語り [﹅3] つづけてやまない伝統的な身ぶりに(これもまた身ぶりなのだ)、「科学的」意義をとりもどしてやることであろう。そうなれば、民話は科学的ディスクールにたいしてひとつのモデルを提供するのであって、たんに考察の対象となるテクストを提供するだけではないことになる」
  • 207: 「こうして、「語りの技」が「ものをなす技」に結びあわされているさま、両者が交互に共犯関係を結び、相似た手続きをそなえ、社会のなかで入り組みあっているさまが理解されるであろう。つまり同一の実践が、ある時にはことばの領域でまたある時には身ぶりの領域でおこなわれているのだといってもよい」
  • 208: 「このような物語性は、古典主義時代のあの《記述》にいきつくのであろうか。そこにはある根源的な差異があって、この二つをへだてている。すなわち、もはや物語においては、ある「現実」(技術的操作、等々)にできるだけ近づけようとする必要もなければ、テクストをそれが表示する「現実的なもの」によって権威づけたりする必要もない、ということだ。逆に、物語られた話 [イストワール] はフィクションの空間をつくりだす。それは「現実的なもの」から遠ざかる――というよりむしろ、「昔、あるところに……」と言いながら、現在の情勢から独立しているかのようなふりをするのだ。だからこそ、物語られた話は、ある「手 [ク] 」を描きだす以上に、この手をやってのける [﹅6] のである」
  • 208~209: 「たしかに物語にはある内容があるけれども、この内容もまた事 [ク] をやってのける技に属している。それは、ある過去なり(「いつかある日」、「その昔」)、ある引用(「格言」、ことわざ)なりを使いながら、機をとらえ、不意をおそいつつバランスを変えるために迂回を(end208)するのだ。ここでディスクールは、それがしめすものよりもむしろ、それが遂行されてゆく [﹅7] ありかたによって特徴づけられる。だからこのとき、ディスクールが語っていることとは別のことを理解しなければならないのだ。つまりそれは効果をうみだしているのであって、対象をうみだしているのではないのである。それは語り [ナラシオン] であって、記述ではない。それは、語りの技 [﹅] なのである」
  • 209~210: 「フーコーが力を発揮するのはなによりまずその学識のせいではなく(それもしかし驚嘆すべきものだが)、思考と行為の技がひとつになっ(end209)た、こうした語りの技のせいである。レトリックのうちでも最も手のこんだ手続きをつかい、描写的なタブロー(典型的な「歴史」の数々)と分析的なタブロー(理論的な弁別)とをたくみに配列しながら、フーコーはめざす読者にたいして明証性という効果をうみだしてゆき、領域を少しずつずらしては順次そこに身をしのばせて、全体の新しい「配合」を創造してゆく。けれどもフーコーのこの語りの技は、みずからの他者にも演じさせている。つまり彼は書誌学的な「記述」をももちいながら、その法則を別の法則に置きかえることなく、それを修正しているのである。フーコーに固有のディスクールがあるわけではないのだ。かれはそこでみずからを語っているのではない。かれはあの非 - 場所を、あの fort-da を実践しているのだ。いない、いない、ばあ、遊びをやっているのである。フーコーは学識や分類のかげに姿を隠すふりをしつつ、それでいてちゃんとそれらをあやつっている。古文書学者に変装した綱渡り。ニーチェの哄笑が歴史家のテクストを横切ってゆく」
  • 211: 「歴史家でもあり人類学者でもあるマルセル・ドゥティエンヌは、きっぱりと物語ることをえらんだ。かれは、自分のまえにさまざまなギリシアの話 [イストワール] 〔歴史〕をならべ、それらの話を、それらとは別のものの名において考察したりしようなどとはしない。ドゥティエンヌは、それらを知の対象に変え知るべき対象に変えてしまうような、科学的操作による分断をしりぞけるのである。そうした分断の操作によってうがたれた洞窟には、とっておきの「謎」が保蔵されていて、科学的探究がその意味づけをあかしてくれるのを待っているといった、そんな洞窟をドゥティエンヌは認めようとしないのだ。かれは、こうした話全体の背後になにか秘密が隠されていて、それを徐々に解明してゆけば、やがて自分に固有の場が、あの解釈という場があたえられるだろうなどとは考えてもいない。ドゥティエンヌにとって、これらの民話や物語や詩や論稿はすでにそれじたいで実践なのである。それらはみずからがおこなうことを正確に語っている。それらの話は、みずから意味する身ぶりなのだ。それらがそうと知らずに表現していることを知にもたらすための注釈をそこにつけくわえたりする必要などみじんもありはしないし、それらは何の [﹅2] メタファーなのかと問うたりする必要もない。それらの話はひとつの操作網をかたちづくっており、千人におよぶ登場人物がその型式とうまい手 [ク] の数々を描きだしている」
  • 211~212: 「テクストの織りなすこの実践空間をまえにして、一文献ごとに駒も規則も勝負もふえてゆくチェスのゲームをやっているかのように、業師 [アルティスト] ドゥティエンヌは、これまでにやら(end211)れたことのある千の手を知っている(どんなチェスの勝負でも、古い手を覚えておくのが肝心である)。だがかれは実際にゲームをやるのだ。ドゥティエンヌはこの一覧をもとに新たなゲームをはじめる。つまり自分もまた物語る [﹅8] のである。かれはこれらの策略の身ぶりを暗 [レ] - 唱 [シテ] するのだ。それらが語っていることを語るのに、それら以外のディスクールなどありはしない。それらがなにを「意味」しているのかとおたずねですか? それではもういちど語ってあげましょう、というわけである。あるソナタの意味をたずねた者にむかって、ベートーベンはそのソナタをもういちど演奏してきかせたという」
  • 212~213: 「ドゥティエンヌは、現代の舞台のうえで、自分の流儀にのっとってギリシアの物語を語り聞かせつつ、ギリシアの人びとのあやつった業 [トゥール] のあとをたどってゆく。かれがこうした業の数々を博物誌的な記述のように歪めずにすんでいるのは、かれが芸をそなえているおかげだが、歴史学はこの芸を長いあいだ不可欠のものとみなしていたあげくに放棄するにいたり、いまでは人類学が、『神話の論理』から『語りの民族誌学』にいたるまで [註4] 、他者のところでその重要性を再発見しているありさまだ。この芸とは、話〔歴史〕を物語る技のことである。ドゥティエンヌはしたがって、歴史学がみずから過去においてやっていたことと、人類学が異国のものとして再興しようとしていることの二つのあいだで芸を演じてみせているわけだ。この二つのあいだで、いまや語る快楽が科学的正当性をになうものになっているのである」; (註4): Cf. Richard Bauman and Joel Sherzer (ed.), Explorations in the Ethnography of Speaking, Cambridge University Press, 1974; David Sudnow (ed.), Studies in Social Interaction, The Free Press and Collier-Macmillan, New York and London, 1972.
  • 214~215: 「それは、メティスが「機会」ととりむすび、変装ととりむすび、逆説的な不可視性ととりむすんでいる三つの関係である。まず第一にメティスは「好機」(カイロス)をうかがい、好機を利用する。それは時間の実践である。第二にメティスは仮面とメタファーを多用する。それは固有の場からの離脱である。最後に、メティスはみずから行為自身のなかに姿を消してしまう。あたかも、自分を表象してくれる鏡もないままに、自分の行為そのもののな(end214)かに姿を見失ってしまうかのように。メティスは自己のイメージをもたないのである。このようなメティスの特徴はまた物語の特徴でもある。したがって、それらはドゥティエンヌとヴェルナンに帰すべき「代補」を示唆してもいる。すなわち、もし物語というものもまたメティスに似たなにかである [﹅3] とすれば、かれらが分析している実践的な知恵の形式と、かれらがその分析をおこなうやりかたとのあいだには、理論的な絆があるはずであろう」
  • 216: 「この記憶は、自分が巡ってきたさまざまな出来事、といって所有しているわけではない出来事(そのいずれもが過ぎた [﹅3] 過去であり、場所は失われ、時の破片と化している)に学んで、推測をし、また、これまでにあった事柄、あるかもしれない事柄のあれこれを組み合わせて、「あれこれの先行き」を予測する [註8] 。こうして力関係のなかにひとつの持続が導入され、その力関係を変えてゆくのだ。事実メティスは自分にとって不利な、場の構成というものに対抗しつつ、自分にとって有利な、時の蓄積に賭けるのである」; (註8): 「 」内のことばは、Marcel Détienne et Jean-Pierre Vernant, les Ruses de l'intelligence. La métis des Grecs, Flammarion, 1974, p. 23-25から借りた表現、あるいは引用である。
  • 220: 「記憶は、空間的な転換を起こす媒介役をはたしている。「好機」(カイロス)という様態にもとづいて、記憶は創始の亀裂をうがつのだ。その異者性が場の掟の侵犯を可能にするのである。その測りがたく変転たえまない秘密のなかからすがたをあらわした記憶の「一撃 [ク] 」が、場の秩序に変容をもたらすのだ。系列の終局は、したがって可視的組織を転換させる操作をめざしている」
  • 222: 「ところで、こうして時間が場のなかに移り住むといっても、記憶 - 知がその場を自由に決定できるわけではない。機会は「とらえる」ものであって、創造されるものではないのだ。機会は情勢によって、すなわち外的な [﹅3] 情況によってあたえられるのであり、その情況下、記憶はすばやい一瞥をなげかけて、どうすれば新たな全体が、しかも自分に有利な全体ができあがるか、一瞬のうちに見てとるのである。そして記憶は、そこに余分なディテールひとつ [﹅11] をあしらうことによってその全体をつくりだす。しめた、もう一はけ加えてやれば、「うまく」ゆくぞ、というわけだ。そこに実践的な「調和」がうまれるために欠けているのは、ほんのちょっとしたもの、なにかの切れはしであり、残りものにすぎないのだが、その残りものは情勢からすれば貴重な残りものであって、そのなにかを、記憶の見えざる宝庫が提供しにやってくるのである」