2021/9/13, Mon.

 カントは「直観における存在の純粋な露呈 [﹅14] 」に直面しながら、主体の自発性を「概念化」のうちに見ている(210/244)。カントはしかも、存在の露呈が時間の時間化とむすびあっていることをも見ていたといってよい。カントのいう「再生の総合」はじっさい、(end203)時間そのものの構成をかかわっている [註119] 。この時間化のなかで存在者の存在が再認 [﹅2] されて、同一性がなりたつ。こうした「同一化」が「意味を供給する」ことであり、同一化はつねに、カテゴリーとしての概念、「すでに語られたこと [﹅9] 」において生起する。かくてこそ、述語づけと「名ざし」が、「《これとしてのこれ》という聖別」が、あるいは「ケリュグマ」(宣告/福音の宣教)が可能となるのである(63/78)。

 (註119): I. Kant, Kritik der reinen Vernunft, A 101f. カントの演繹論そのものについては、註103に挙げた旧稿 [熊野純彦「超越論的哲学の帰趨――反省的自己のなりたちをめぐって」(宇都宮芳明・熊野純彦・新田孝彦編『カント哲学のコンテクスト』北海道大学図書刊行会、一九九七年刊)] のほか、『廣松渉著作集』第七巻(岩波書店、一九九七年刊)所収のふたつのカント論をも参照。

 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、203~204; 第Ⅱ部、第二章「時間と存在/感受性の次元」)



  • 一〇時一〇分に携帯がふるえたので、その音で覚醒。(……)からのメールだった。確認し、しばらく寝床で喉やこめかみやらを揉んでから起床したのが一〇時四〇分ごろ。快晴ではないものの、ひかりの色が見られる天気。水場に行ってきてから瞑想をしたが、眠気があってあたまがあまりはっきりせず、瞑目のうちの意識が靄っているようでさほどうまくいかなかった。
  • 食事はきのうの天麩羅のあまり。きょうは朝刊が休みなのでいちどしまったきのうの新聞を袋から出してきて読む。「あすへの考」が前国家安全保障局長の北村滋(64)。経済安全保障とインテリジェンスの重要性がますます高まっていると。いまはかつてと逆で民生の技術が軍事転用されるほうが主であり、中国がいわゆる「千人計画」で技術を入手しようとしているところ、技術者のあたまのなかにある知識や情報が流出するのがいちばん怖いと。日本はしかしインテリジェンスの面では意識が遅れていて、北村氏が国家安全保障局長についたとき、外交や防衛方面の出身ではなく警察庁のキャリアだったことを異例と批判されたが、諸外国ではむしろ安全保障は外務・防衛・インテリジェンスの三本柱で成り立つというのが常識だと。日本の情報機関としてはいま内閣情報室というのがあり、このひとが室長だったときに株式関連の法を改正して、海外の企業が日本企業に出資するとき報告を義務づける出資割合を一〇パーセント以上から一パーセント以上へと厳しく変更したというが、まだまだ充分にうごけるとはいえないので、内閣情報室を独立して内閣を補佐する恒久的な機関にしたり(「室」から「局」への格上げ)、各方面の情報を閲覧して集約できる権限をあたえることを検討するべきではないかとのこと。
  • 書評面の入り口では井上正也といってこのあいだ出た『評伝 福田赳夫』の共著者でもあるひとが自伝や回顧録が好きだといっていくつか紹介していた。岸信介ジョージ・ケナン、日銀でバブル後の処理をした西沢みたいななまえのひと、福沢諭吉。前者ふたりは中公文庫だったはずで(岸信介文藝春秋ライブラリーでも一冊出していたおぼえがあるが)、中公文庫はわりと回顧録のたぐいをおおく出しているような印象がある。
  • 母親のぶんも皿を洗い、風呂も洗って、茶をつくって帰室。(……)にLINEで返信し、それからきょうのことをここまで。一時をまわったところだ。
  • ベッドに転がって、脚をほぐしながら書見。シュナック/岡田朝雄訳『蝶の生活』(岩波文庫、一九九三年)。二時できりあげて、まず下階のベランダに干されてあった父親の布団を両親の寝室に入れた。自室のベランダ側の窓はそのまますべて開け放して網戸にしておき、上階へ。洗濯物をとりこむ。ついでに陽射しを少々浴びた。ベランダには日なたが生まれて足もとにかさなっており、ひかりを肌に浴びればむろん暑くていくらか夏っぽいものの、過ぎていく風のなかには熱気を散らすたしかな涼しさがふくまれていて大気は九月の爽やかさ、空に明確なかたちをなす雲はひとつもなくて淡い粉がさらさら刷かれているばかり、西をあおげば梢の上方で全方位へとふくらむ太陽の白さが空に混ざって雲の白さと見分けがつかない。風はほとんどとまらずながれつづけてあたりの草木草花ははらはらふるえ、我が家の梅の木と隣家の柚子の木のあいだに渡された蜘蛛の糸の中途には一枚の葉っぱ、枝をはなれてもまだ枯れきらず黄色いような緑にかわいたそれも、とらわれの身から脱するべくあがくけれどどうしても脱出できないというように糸といっしょにおおきく揺れさわいでいた。
  • たたむものをたたんではこび、母親が一枚のこしたランチパックとバナナをもって帰室。ここまでさっと加筆。きょうは労働で五時には出るようだが、焦りの感覚がなく、かなりちからを抜いたゆるい感覚で書けていて良い。
  • そのあとデスクにつき、(……)の音源を聞いてLINEにコメント。ついで、九月五日の記事への書抜きを終わらせた。それで四時ごろ。投稿はのちほどとして歯を磨きつつ(……)さんのブログを読み、口をゆすいできてからもひきつづき。九月五日分、「戦争」という記事が良かった。特に二段落目。

ナショナル ジオグラフィックの「9.11:アメリカを襲ったあの日の出来事」全六話中の一話と二話を見た。二十年前のことではあるが、今でも昨日のことのように衝撃的で、暗澹たる気分から、しばらくのあいだ立ち直れなくなる。

こういうのを見ると、政局とか情勢とかを知って判断して、正しく適切に行動する、などという言葉が、まやかしとしか思えなくなる。戦略だの戦術だのが、戦争ではない。今ここで、自分という個体がすべての判断根拠をうばわれること、認識という力を人間から根こそぎ奪って、生き物が本来もつ不安と恐怖を呼び起こして直に晒す、これが人間によってもたらされたということ、これこそが戦争と呼ばれる事態だと思う。

戦争は「この私は、こうする」といった主体性そのものを人間から奪う。上に向かうべきか、下に向かうべきか、救出に行くべきか、退避撤退すべきか、今この場所にいて良いのか悪いのか、この直後に何が起きるのか、どこなら安全なのか、どうすれば自分と家族を守れるのか、たった今、この私が、これで正しいのか間違っているのか、それらすべてに対して、拠り所を失って、不安と恐怖に駆られて右往左往するしかない、生き物の本性を、戦争は露呈させる。

「戦争反対」というのは常に、この苦痛を、この悲しみを、この不安を、この恐怖を、この怒りを…という場所から立ち上げなければ、意味がないだろうと思う。それ以外の小理屈がくっついたやつは「戦争反対」ではなくて、むしろ「戦争」に近い。そのような理屈をもてあそぶことで戦争に加担することなく、いつまでもその恐怖と不安と悲しみと怒りを、たった今の出来事であるかのように再生させ続ける必要がある。そのためには、いつまでも執拗に、過去を参照し続ける必要がある。

  • いまもう深夜三時まえ。入浴後、帰室してから熊野純彦レヴィナス』を書抜き。しかし労働のあとのことでやはりからだはこごっているので、二箇所四ページ抜いたところでベッドへ逃げる。やはり肉体をやわらげることを優先したほうがけっきょくはうまく行くような気がする。明日、(……)くんと通話することになっているので、前回の通話の記録を読み返しておこうとNotionを検索すると、四月三日のことだった。以下の三段あたりがなかなかおもしろかった。とくに目新しいはなしやかんがえはなく、いままでおりおり書いてきていることばかりだが、わりとよくまとまっているような気がした。

この会社はさらに、上でも多少触れたが、社員当人が納得している、という担保を重視し、もとめる。それはもちろん、本当は当人が納得していなかったとしても、納得したということが表面的に明言されれば良いという形骸化につながりうるわけだ。だから(……)くんも、実際には時間外労働をやっており、やらざるをえなかったわけだけれど、定期的にその点にかんして査察というか、私は時間外労働をやっていませんという証明書類みたいなものを書かされるらしく、しかしそこには当然、勤務時間以外にも仕事をやっていますということは書けないわけだ。正確には時間外労働をやっていますか? という問いがあり、それに対してはいとこたえると調査が入って、社員当人への対応とか環境的是正とかがなされるみたいな感じのようなのだが、それでまた仕事が遅れるとか、もろもろ勘案するといいえとこたえるほかはない。そして、その書類でもっていいえとこたえてしまった以上は、実際には時間外労働をしていたとしても、あの書類はまちがいでしたと取り消すことはできないわけだ。だってあなたはここできちんと証明しているじゃないですか、なんでこのときに時間外労働をしていますとこたえなかったんですか? ということになってしまう。ほかにも、たとえば(……)くんのように体調を崩したり、心身に問題をかかえたりした社員をケアするための専門の部署および社員というものも設置されているらしく、だから外面的には非常に丁寧に制度が整備されているように見えるのだけれど、実際にはそれらが機能していないというか、一種のエクスキューズとなっているようにも思われる。つまり、理屈の積み重ねでもって社員がみずから主体的な選択として納得とともに働いているかのように「洗脳」し、そこから逸脱した人間に対するケア的応対もシステムに組みこむことで企業としては十全に責任を果たしていると主張することが可能になり、社員が何かトラブルや問題に陥ったり、勤務維持が困難になったりしても、それはあなた自身の責任ですと、いわゆる「自己責任」論にもとづいて個人に過失を送り返すことが容易になるわけだ。実際入社する際には、ここはこういう会社だけどやっていけそうか、ということを念入りに聞かれるらしく、もし合わなければ辞めてほかのところに行けば良い、というスタンスが明言されているらしい。まあそれはそうだろうとは思う。ただ聞いてみればなんというか、いかにも現代的というのか、それともいわゆるポストモダン的と言って良いのか、強引に抑圧して強制的に従わせるのではなく、当人の思考に働きかけて行動を誘導しつつ監視するという、ソフトで緻密で侵入的なやり方が、いわゆる規律訓練以降の権力のやり口だなという感じが大いにするわけだ。こういうのは監視社会とか、生命科学とかと結びついたフーコー以後の権力論などでたぶんたくさん論じられているのだろう。ひとつの企業内でこれがおこなわれるにとどまっているうちは良いのだろうが、それが社会全体の一般になってしまうと、こちらなどはむろんまったく馴染めないような世界になって困るわけだが、残念ながら資本主義はわりとそちらの方向に向かってすすんでいるような気もする。一方でただ、曖昧な感情のようなものに依存して勢力を得たかたちの抑圧が、いままで社会領域のさまざまな場面で猛威を奮ってきたということはあきらかな事実だし、かっちり分けられることをきちんと区分けしてそういった事態が生じないようにしよう、という動勢もわかるはわかるわけだ。「働き方改革」とやらがかしましく言われるのもその成果ということだろうが、ただそこで極端に走っても結局うまく機能しないというか、目指したはずのところに行けないのではないかという気がする。単純な話、合理的制度でガチガチに固めて管理した体制は余裕がなくて、そこにいる人間にとっては窮屈だからまたべつの面で問題が生まれてくるだろうし、また制度的に固く締まりすぎていて余白がないものは一般に弾力的耐久力に乏しく、どこかが崩れればそれがひろく波及して、修復は困難で手間がかかる。くわえて言えば、以前散歩の途中に見かけた保育園にこちらが通っていた頃にはなかった柵が新たに設けられていた、という観察に関連して記したことだが、合理的分割を徹底的に推し進めておのおのの分をかたく守り異質なものを入れないようにしようという姿勢は、その行き着く先は結局のところナチスドイツでありディストピアであるように思えてならないのだ。そして残念なことに、資本主義における金科玉条は効率であり、合理的分割とはそのまま効率化であるとともに異質なものとは効率の敵なので、資本主義と上のような発想は大変に相性が良い。また一方では、制度的外形だけをいくらきれいに整えても、そのなかでは結局感情的要素のようなものが隠然とはびこって、かえって制度を悪用したり、骨抜きにしたり、新しくより姑息で複雑な抑圧の仕方を編み出したりするのではないかという気もする。あとは単純な話、(……)くんがいた会社のような仕組みだと、人間的意味の領域がきわめて希薄になるわけだ。それは社員ひとりひとりに言わばAIになることをもとめるというか、個人の人間性を捨てて大きな機械の一部となり、社員全員で総合的にひとつのコンピューターをつくりあげることをもとめているようなものだろう。しかしまだ実存を捨てられるほど人類は進化していないし、科学と哲学がどこまで進もうが、当分のあいだは「この私」が確かにあるという主体幻想を、それが仮に本当に幻想だと証明されたとしてもひとは放棄できないだろう。誰も意味から逃れることはできずそれに悩んで日々と生を生きているわけで、人間的意味を考慮に入れずあまりに捨象するというのはむしろ現実的でないように思うのだが。

そういうわけで(……)くんは仕事を一時辞め、いまはゆっくりと暮らしながら次の職や生き方を模索するところに入っている。強迫神経症と聞いていたが幸い体調は日常には問題なく、文を読むということもリハビリみたいな感じですこしずつやっていると。今回の会社は自分には合わなかったから体調を崩さなくとも遅かれ早かれ辞めていたとは思うが、前の職場がそれとは対極みたいな感じでゆるゆるで、少人数でやっていたところだから、二つ現場を見てきて本当に色々なところがあるなあと勉強になった、というようなことを言っていた。せっかく時間と環境ができたんだから、気の向くままに色々やってみたら良い、とこちらはすすめる。(……)くんとしても、自分は~~しなきゃ、という意識がけっこう強いほうで、案件が多すぎてキャパシティを越えたことももちろんそうだけれど、もともとのそういう性向が今回の変調を招いた一因だと認識しているようだった。いまも、自由になったはずなんだけど、まだそういう思考に縛られているというか、一日のなかで、あれやんなきゃと考えることが多い、と言う。それはわりとわかる話だ。まあひとは誰も、多かれ少なかれそういう義務的な事柄に追われて生きているのだろうし、そうせざるをえないのだろうが、ただ最近思うのは、結局のところ、この~~しなきゃ、から四方八方すべて逃れるというのが自由という状態の完全な実現なのだろうな、ということだ。仏教で言えば諸縁を放下するというのがそうなのだろうし、あらゆる意味でのしがらみから解き放たれて自分ひとつだけである、ということ。そもそも「自由」という語自体が、みずからによる、自分自身に(のみ)由来する、という字面になっているわけだし。ヴィパッサナー瞑想が目指す境地というのもそういうことなのだろうというのがだんだんわかってきた。ただ、以前からおなじことをくり返し書いているけれど、仮に諸縁を完全に放下して理想的な自由にいたることができたとしても、それはあらゆる物事に対する無関心ではないし、またそうであってはならず、仮に超越にいたったとしてもそのままそこにずっといられるわけはないと思うし、此岸にもどってきて現世のなかで具体的に生きなければならない。ただまあ生まれてからこの方、人間というのは知らず識らずのうちに、外から植えこまれたのでもあるだろうしみずからつくり出したのでもあるのだろうが、無数の~~しなきゃ、に包囲され占領され支配されて生きているようだということを最近よく感じるもので、ときにそれが~~したい、と見分けがつきがたくなっているあたりがまたたちが悪い。こちらも、死ぬまで毎日文を読み書くのだとか、できるだけすべてを記録するのだとか、そういうこだわりと執念をもってこの数年間生きてきたし、それはそれでべつに全然良かったのだけれど、そういうみずから主体的に選び取ったはずの原則もまた拘束であることに違いはなく、そういうこだわりも本当はあっけらかんと投げ捨てたほうが良いのかもしれないな、という気持ちに最近はなってきた。それですくなくとも後者の、なるべく多くを記録するという点にかんしては実際もうわりと放棄しているし、死ぬまでずっと読み書きを続けるというほうにかんしても、以前よりも強迫性が弱くなってきた。まあ前からおりおり、やめたくなったらさっさとやめれば良いと書きつけてもいたけれど、その発言が前よりもちかしく感じられるようになった気がする。読み書きも、文学も、書物も、音楽も、捨てて、起きて眠り飯を食って道を歩きひとと話しては光と風を浴びるだけで満足するような単純な存在になったほうが、本当は良いのかもしれないなあ、と思う。そうは言いながらも、いまのところ読み書きをやめたいという気持ちは起こっていないし、すぐにやめるということはないだろうが。

諸縁を放下するというのは、いまこの瞬間に自分がここに存在しているというその事実だけで自足する、ということとたぶんだいたいおなじではないかと思っている。過去とか未来とか人格的な自己意識とかは、自分を何かに縛りつける拘束でありしがらみであるわけだ。そういうものから完全に、恒常的に逃れることはたぶん無理なのだろうけれど、瞑想などによって一時的にその拘束を軽くすることはわりとできるし、そういう実践を重ねていくとそのほかの時間にあっても自分を縛る力がそこそこ軽くなる。完全になくすということはたぶん無理なのだが、それまでよりも弱くするということは普通に可能だ。そうすると浮世のよしなし事に対する対抗力ができて、色々な物事にあまり振り回されず、それなりに楽に生きられるようになる。ヴィパッサナー瞑想というのは、究極的には、生のあらゆる時間をそういう自由な心持ちや状態で過ごすことを目指すものなのだと思う。(……)くんは、~~しなきゃ、とか思うのは、普通にやらなければならないことがあるということもあるが、無駄な時間をつくらないというか、有限である時間を最大限に活用しなければならないというか、ある時間が何かにつながり、何かにならなければならない、という固定観念があるのだと思う、というようなことを言った。つまり意味づけの問題で、ひとは基本的には無意味に耐えられないわけだ。たとえば電車とかバスとか、なんでも良いけれどもろもろの待ち時間を、いまたいていのひとはスマートフォンを見て過ごしていると思う。あれは何もしないという時間、その意味の希薄さと退屈さに耐えられないので、それを何かしらの行動とか情報とかで埋めようとしているわけだろう。それはあるひとにとっては暇つぶしであり、積極的な意味は持たないが、とりあえず退屈を埋めて紛らわせてくれる程度のことができればそれで良い。また、言わばより意識が高いというか、隙間の時間を自分の能力向上とか情報収集とかに活用するひともいる。何か勉強したりとか、語学をやったりとか、ニュースを見たりとか。ひとはだいたい誰でも物語、言い換えれば人生全体を統括する大きな目的意識を程度の差はあれ持っているもので、しかしその物語はむろん、たいていの場合は、生のすべての時間がそれに接続し、吸収されるほどの包括性はそなえていない。物語とか人生観という大きな体系から見たときに、その意味論的システムから漏れ落ち、無駄と判断される時間はかならず生まれてくる。上に記した意識が高いひとの行動は、そういう時間をもなるべく自分の意味論的体系の内部に組みこもうとする情熱だと言えるだろうが、いずれにしても意味の無さに耐えられないことには変わりなく、後者のひとのほうがむしろ積極的に有意味をもとめるあたり、強迫的な補完欲に追い立てられていると言えるかもしれない。ここで言っているのは何かの待ち時間という個別的で小さな合間のことだが、それを人生全体に敷衍すれば、だいたいのところ、パスカルハイデガーの洞察とおなじことになる。つまり、ひとが不幸になるのは部屋のなかでただじっとしていることができないからであり、人間は絶えず気晴らしをもとめて駆けずり回っている、みたいなことを言ったのがパスカルであり、ハイデガーに言わせれば、ひとは自分がかならず死ぬという生の根源的無意味性に目を向けず、それから意識を逸らすためにいつも気散じに耽って頽落した非本来的な生を送っている、ということになるだろう。ヴィパッサナー瞑想はこの無意味性をそのままに受け取るというか、何につながらなくともそこにはそれ自体でささやかながらも意味があるのだ、というような受け止め方を涵養する、と一応言える。待ち時間が無意味で無駄だと感じられるのはあくまでそのひとの総合的な物語とか、そのときの目的および行動連鎖の文脈においてのことであり、純然たる無意味としての時間などというものをひとは経験できない。だから無意味で無駄だと思われる時間においても、もちろん一定の意味は生じており、ただそれは多くのひとにとっては感じ取れず、それ以外の時間よりも希薄だと感じられているだけのことだ。ヴィパッサナー瞑想もしくはマインドフルネスというのはいまそこにある物事に気づく能力を養うタイプの実践であり、そういう能力とそれに付随するある種の感性が鍛えられると、だいたいどのような時間でもそれそのものとして受け止めて味わえるようになる。つまり、退屈をちっとも感じなくなる。たとえば駅で電車を待っているあいだなど、風の感触とか、周囲を行き来する人間たちの様子とか、目前の風景とか、そういう何の変哲もない物々を感得しているだけでまあそれなりに面白いということになる。あるいは目を閉じて自分の頭のなかの思念を見ていても良い。めちゃくちゃ面白いわけではないが、普通に退屈はしなくなる。これらのささやかな感覚的情報も、その時空がはらみもっている意味の断片群である。たいていのひとはたぶん、これらの微刺激を明瞭に意識していないし、気づいたとしてそれはごくありふれた日常的な平凡事に過ぎないから、それに対して何を感じるでもないし、それらから何をもたらされるでもない。だからその時空は、無意味で何もない時間だと判断されてしまう。瞑想的な心身をはぐくめば、それらの意味断片群がそれとして感覚器に映るようになり、自分の世界のなかに豊かにあらわれてくる。それらは特に何につながるわけでもないが、それ自体として一定の刺激と、面白味を、言ってみれば味わいのようなものをあたえてくれる。それは音楽を聞くことや、飯を食うこととそこまで遠くはない。音楽や食物は何につながらなくともそれ自体で快楽や満足感をもたらしてくれるものである。ひとが何かの物事について「意味」という言葉を使うとき、多くの場合それは、そのものがつながる何かべつの物事、という意味で用いられている。だから手段と目的の二分論が成立するわけだし、役に立つうんぬんとか利益がどうとかかしましく語られるわけだ。何かある物事があれば、それはかならずべつの物事につながらなければならない、というのが現在の人類が広範に捕らえられている強迫的な固定観念である。何にもならない時間というものに耐えられないという感性も、たぶんそこから出てきているだろう。いまの人間は生まれた瞬間からその固定観念に心身を浸食されつつ育つことになっている。そこに資本主義的社会制度と、利益という、その発想内における唯一絶対の意味づけとが大いに影響していることはまちがいないだろう。だから何のため、何の役に立つのか、何の意味があるのか、という問いが人々の口からあふれかえるわけだ。これはむろん、未来予測によって現在の生の意味を色づけてしまうという事態と相同的である。数日後に迫る運動会が嫌でいま遊んでいても楽しくない子どものようなことだ。その最大級に極端な例がニヒリズムで、最終的には自分が死ぬということを理解したことによって現在の生までもまったく無意味に思えてくるという観念的操作がそれだ。人間は目前の物事を見ながら絶えずべつのものを志向している。諸縁を放下するといったときの「諸縁」というのはそういうことで、あるいはおそらくそういう意味もふくめて考えることが可能で、縁とは何かとのつながりのことであり、つながりはひとを支えもするが、同時に縛りつけもする。瞑想的実践は精神をその拘束からある程度解放させてくれると、一応は言える。物事が何につながらなくともそれそのもので肯定し、肯定しないまでも受容し、あるいはひとまず受け止めることがわりとできるようになるし、うまく行けばそこに楽しみや面白さをおぼえることも可能になる。だからヴィパッサナー瞑想的なあり方を極めた人間にとっては、おそらく生のだいたいの瞬間が、精神的に食事を取っているみたいなことになるのではないか。いつのどんな時空であっても味わえるようになるということ。もちろん甚大な苦痛が生じるような場合は無理だろうが。で、(……)くんはそういう種類の時間として、ひとつの体験例を挙げた。まだ働いている最中のことだったかそれとも辞めてからの最近のことだったか忘れたが、駅で電車を待って座っているときに、目の前にハトがいてまごまご動いているのをただ眺めていたのだと言う。普通のひとだったら無駄な時間だと思うんだろうけど、僕はけっこう好きなんだよね、そういうの、ああいうときはたしかに自由なのかもしれない、と彼は言った。そういうタイプの感性と心身を持ち合わせている彼が、上記したような種類の会社でやっていけなかったのは、むしろ当然のことのようにも思える。

  • それから、GuardianのJapanカテゴリのページをおとずれ、目についたPaul O’Shea and Sebastian Maslow, "Replacing Suga as prime minister will do little to resolve Japan’s political crisis"(2021/9/11, Sat.)(https://www.theguardian.com/commentisfree/2021/sep/11/suga-prime-minister-japan-political-crisis-ldp(https://www.theguardian.com/commentisfree/2021/sep/11/suga-prime-minister-japan-political-crisis-ldp))を読んだが、これは大した記事ではない。要は日本の政治は五五年体制以来ずっと自民党一強がつづいていて、自民党が政権をくだったのは短い期間のみであり、いまもその支配はつづいていて、政権交代を起こせるほどの有力な野党は存在せず、首相もしくは内閣の支持率がかなり低い(二〇一二年以来最低の)党がそれでも最大の支持をえて統治をつづけることになってしまうわけだが、自民党は伝統的にいっぽうで地方農村、いっぽうで大企業を支持基盤としてきており、権力は特権化された年嵩の男性既得権益層ににぎられているので、若者や、女性や、雇用状態が不安定なひとびとや移民など、現在の日本社会で多数を占めるとともに、少子高齢化パンデミック、気候危機などこの先の問題を解決するために重要なひとびとの声をすくいあげることができておらず、したがって首相が変わったからといって特に益することはなく、日本政治の見通しは暗い、というようなはなし。こちらのようなずぶの素人でも理解しているくらいの基本的なことがらだが、外国のひとにとっては要点をひろった概観になるのだろう。
  • 斎藤美奈子「世の中ラボ: 【第132回】ブラック校則は学校だけの問題か」(「ちくま」2021年4月号より転載)(http://www.webchikuma.jp/articles/-/2370(http://www.webchikuma.jp/articles/-/2370))のほうがおもしろかった。世田谷区立桜丘中学校といって、校則を完全撤廃した学校があるらしい。ルールをつくるというのは非常に効率的でその後のコストを格段に下げることができる操作であり、ルールが確立されているところではそれを課す側は、それはルールなので、とただひとつおぼえに言っていればよいだけなのでかなり楽をできる。ひるがえってルールというものがないとなると、なにか問題が起こったときに掟の一般性に準拠することができないままに、具体的な状況で具体的なあいてとその都度詳細で個別的なやりとり=交渉をして事態の解決をはからなければならなくなるわけで(もちろんルールがあってもそれらは存在するし、ルールが明文化されていなくとも事例の蓄積とその都度の対応のしかたによって慣例法的なちからは生まれるだろうが、すくなくとも「それがルールだから」という論拠はつかえなくなる――端的にいって、それまで「注意」とか「指導」とか「命令」とか「抑圧」とかだった領域が、「交渉」や、それにちかいものになる)、それこそが真にコミュニケーションと呼ぶべき契機だとはおもうものの、これは非常に手間のかかるたいへんなことでもある。だから校則全廃などという事態が曲がりなりにも実現できたということは、個々の教師が相当に労力をついやしてがんばったのではないかと想像する。

 2021年2月16日、大阪地裁で注目された裁判の判決が下された。仮に「頭髪訴訟」と呼んでおこう。
 ことの発端は15年、大阪府立懐風館高校一年生だった女子生徒が、生まれつきの茶色っぽい髪を黒く染めるよう教諭らに強要されて、翌年、不登校になったことだった。彼女は約220万円の損害賠償を求めて府を訴えた。17年のことである。
 報道によると、横田典子裁判長は元生徒側の訴えを一部認め、府に33万円の支払いを命じた。だがその一方で、こうした校則は生徒の非行を防ぐ教育目的に沿ったものであり、「社会通念に照らして合理的で、生徒を規律する裁量の範囲を逸脱していない」との判断を示した。また、教師らの頭髪指導も「教育的指導における裁量の範囲を逸脱した違法があったとはいえない」とした。違法とされたのは、校則ではなく、不登校後の学校側の対応だけ。

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 荻上チキ+内田良『ブラック校則』の副題は「理不尽な苦しみの現実」。本書が生まれたきっかけは、くだんの「頭髪訴訟」である。訴訟は衆目を集めたのを機に、有志による「ブラック校則をなくそう! プロジェクト」が立ち上がる。世間で交わされているのはあてずっぽうな議論である。実態調査もデータもない。
 そこでチームは18年2月、10代(15歳以上)から50代の男女2000人を対象に自身の体験を聞くアンケート調査を行った。ほかに現役の保護者2000人を対象にした調査も行った。本書はその回答の結果と、複数の論考を集めた本で、この件について考えるための、ほとんど唯一の基礎資料である。
 校則は生徒手帳やプリント、ウェブなどに明記されたものだけではない。「伝統」「校風」の名の下で行われているもの、校長や教師によって急遽ルールができるケースも含まれる。そのうち、社会から見て明らかにおかしい校則がブラック校則だ。
 まず頭髪について。生まれつきの髪色を「茶色」と答えた人は、本人・保護者ともに8%程度。うち約一割が中学で、約二割が高校で「髪染め指導」を受けていた。また、天然パーマの矯正を求められたり、髪型を細かくチェックされた人もいた。
 生まれつき茶髪の娘が、二か月ごとに黒く染めるよう求められた(福岡県・私立高校・保護者)。長くなると茶色が目立つため、地毛証明書を提出していても、「毛先を切れ」「結んで目立たないようにしろ」といわれる(茨城県・私立高校・当事者)。子どもがくせ毛であることは申請してあるのに、「ストレートパーマで伸ばすように」と注意された(三重県・公立高校・保護者)。
 服装の規定で目立つのは「下着チェック」だ。
 中学三年の時に、プールの授業があった日の放課後に男性教諭から呼び出され、「下着青だったんでしょ? 白にしなきゃダメだよ?」といわれた(愛知県・公立中学校・当事者)。スカート丈の短い女子生徒を呼び止め、女性教員がいきなりセーラー服の上着をまくりあげ、スカートをベルトでたくし上げていないか、点検する(東京都・私立中学校・教師)。修学旅行の荷物検査で一部分が白でない下着を持っていた女子生徒が没収され、そのまま二泊三日をノーブラで過ごさせられた(佐賀県・公立中学校・保護者)。
 日本の学校、くるっているとしか思えない。共通するのは学校や教育委員会に訴えても相手にされなかったという点だ。しかも校則の細かい規定は減るどころか、近年増加傾向にある。

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 西郷孝彦『校則なくした中学校 たったひとつの校長ルール』は校則を撤廃した中学校の記録である。著者は世田谷区立桜丘中学校の校長(20年に退任)。桜丘中には生徒を縛るルールがない。
 ①校則がない。②授業開始と終了のベルがない。③中間や期末の定期テストがない。④宿題がない。⑤服装・髪型の自由。⑥スマホタブレットの持ち込み自由。⑦登校時間の自由。⑧授業中に廊下で学習する自由。⑨授業中に寝る自由。⑩授業を「つまらない」と批判する自由。――そんなバカな!
 最初はバカな、と私も思った。しかし本書を読むと、右のような形に至るまでには、相当な時間と手間が費やされており、「はい、今日から校則をなくします」なんて話じゃないことがわかる。
 西郷校長が赴任した2010年、桜丘中は教師の怒号が飛び交う学校だった。朝礼ひとつとってもまるで軍隊。「黙れー!」「そこ! 早く並べ!!」「おい、後ろを向くな!」。
 校長は朝礼の見直しから手をつけた。
〈生徒がうるさくしていても、それは私の話がつまらないせい。だから生徒を怒鳴ることをやめましょう〉。
 教師には〈子どもは管理するものであり、教員が指示を出すもの〉という固定観念がしみついている。朝礼には〈一糸乱れず整列して、校長のありがたいお話を大人しく聞かなければならない〉という暗黙のルールが敷かれている。ならばルールを取り除いてしまったら? 生徒が騒ぐのは校長のせい、と責任転嫁してしまえば、生徒を注意する必要はなくなる。
 桜丘中には「セーターの色は紺」という規定があった。派手にならないためという理由である。だが、派手とはいえない白や黒もダメ。理屈に合わない。そのうち生徒からグレーや黒も認めてほしいという要望が出てきた。セーターの色は「紺」から「紺・黒・グレー」になり、最終的には「自由」になった。
 この本は、校則をなくすまでの過程を通して、学校がいかに「思い込み」に支配されてきたかを浮き彫りにする。多くの校則には合理的な理由がない。「なぜそうなのか」を議論することで、矛盾が浮かび上がり、教師も生徒も自分で考えざるを得なくなる。
 試行錯誤の末、桜丘中は16年に校則を全廃した。
 校則がなくなって、いちばん変わったのは教師だった。〈それまで、校則があるばかりに、教員は生徒が校則違反をしていないかどうか、目を光らせていなければなりませんでした。(略)当然、反抗的な生徒も現れます。「こんな校則、破ってしまえ」となる。/すると教員は、さらに強権的に指導しなければならなくなります〉。これでは教師と生徒の信頼は築けない。

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  • 往路は省略する。帰路は徒歩。行きの時点ですでに空に雲が湧いてゆるく畝をなしてひろがっていたが、夜にはそれがさらに密につながって隙間をなくしたようで、夜空は全面模様も差異も見えず一様に埋まっており、天を覆いつくした雲の白さがあらわなほどにあかるくはなく、といって黒い深さに沈むほどに暗くもなく、青みもなくてどうともいいづらい空だった。白猫は不在。裏路地にひとどおりはほとんどなくて、たまさか生まれても足の遅いこちらをさっさと抜かしていくからすぐにまた静寂となり、道の左右を縁取るごとく奏でられている虫の音と、トツトツひびくじぶんの足音ばかりがともづれになる。表に出て行っているあいだ、車のながれがとぎれてあたり一面にしずけさがひろがる例の聖なる沈黙がおとずれたが、それまで耳からかくれていた虫の音が前面にあらわれそればかりがやはりきわだって浮遊するその時間も、すべて聖なるものとはつかの間であるうつし世の原則にしたがってさしてつづかず、数秒すればまた前からまだすがたの見えない車の高い擦過音が侵入してきて、背後からもまだ遠いタイヤのひびきが低くつたわってくる。
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