2021/9/16, Thu.

 だが、「感性的なものが固有に意味することがら」を、脱 [﹅] 感性化されたことば、知 [﹅] をかたどる用語でえがきとることはできない。それは、「享受や傷といったことばで記述されなければならない」。どうしてだろうか。まず「享受」(jouissance)という面からみておこう。
 感覚されたものは、さしあたり生きられるのであって、認識されるのではない。感覚そのものがただちに知であるわけではない。初夏の緑に目をやり、秋の夕日をながめるとき、「この葉の緑、この夕日の赤といった感性的性質を、ひとは認識するのではなく生きる」。「感覚するとは〈うちにある〉こと」であり、あたえられて在る [﹅2] ものにたんに満足 [﹅2] することだ。「感受性とは享受なのである [註127] 」。――だがそれにしても、感性的性質を生きる [﹅3] こと、純粋な感受性の次元にとどまっていることが、認識ではない [﹅6] のはなぜだろうか。
 たんなる感受性とは、「実詞を欠いた《形容詞》」を、「基体を欠いた純粋な質」を享受する [﹅4] ものであるからである [註128] 。空の青さ、風のそよぎ、光のかがやきは「どこでもないと(end212)ころから到来する」。しかも「不断に到来する [註129] 」。空の青さはなにかの基体 [﹅2] に貼りついたものではない。一瞬ふきわたり、吹きすぎる風は、存続する [﹅4] 実体ではない。光はふと煌いて、過ぎ去ってゆく。ひとはそれらのすべてをたんにひととき享受するだけである。そこでは同一的なものについての知、さまざまにことなって現出するなかでおなじ [﹅3] でありつづけることがらにかんする認識がいまだ成立していない。抜けるような青さや微かな風、あえかな光は、意味づけのてまえで [﹅4] 生きられている。
 《風景を味わう》(jouir d'un spectacle)、《目で食べる》(manger des yeux)といった表現は、たんなる「比喩」ではない(109/133)。食べ物を口にし、文字どおり享受するとき、現に享受へと供されているものは、咀嚼され、輪郭をうしなってゆく。食べる [﹅3] とは、享受されるものとのさかいめ [﹅4] を不断に抹消してゆくことである。だが、感覚的に享受することが一般に、「隔たりを食いつくす」ことなのだ(117/142)。空の青さにこころを奪われるとき、空はへだて [﹅3] られて、かなたにひろがっているのではない。私はふかい青さのなかに吸い込まれてゆく。凪いだ夏の一夕に吹きわたる風が、からだを吹きぬける [﹅3] ことをこそ、私は享受 [﹅2] する。揺らめく陽光に身をあずけているとき、光の煌きと私とのあいだに〈距離〉などありうるだろうか。
 享受のさなか、隔たりは「近さ」のなかで、「接触のなかで睡ろんでいる」(122/148)。この近さそのものは意識されることがない。近さがめざめ、近さが意識されるとき、近(end213)さはむしろ消失し、かえって対 [﹅] 象との隔たりが生成されているからだ。緑が葉の緑として [﹅4] 、赤が夕日の赤として [﹅4] 意識されるなら、〈近さ〉は〈隔たり〉に、享受は知に変容している。(……)

 (註127): E. Lévinas, Totalité et Infini, p. 143 f. (邦訳、二〇〇頁以下)
 (註128): Ibid., p. 173. (邦訳、二四三頁)
 (註129): Ibid., p. 150. (邦訳、二一〇頁)

 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、212~214; 第Ⅱ部、第二章「時間と存在/感受性の次元」)



  • 起床は正午をわずかに越えてしまった。いつもどおり、水場に行ってきてから瞑想。寝起きのわりにあたまは比較的はっきりしていた印象。いろいろ思念がめぐる。一二時一二分からはじめて三五分まで。きょうの天気は涼しげな曇り。このころにはまだすこしだけ陽の色も見えていたが。
  • 上階へ行き、炒飯で食事。新聞からアフガニスタンの件を読む。タリバン政権運営がはやくも行き詰まりそうだとのことで、人心は掌握できていないし、米国が資産を凍結しているから資金が足りないと。また、政治部門トップで副首相についているアブドゥル・ガニ・バラダルと、軍事方面のトップ(か有力幹部)で内相のハッカニがはげしい口論をしたという情報もあり、内部もまとまっていないようだと。タリバンとの戦闘で夫と家をうしない、子どもを連れて逃げたあげく物乞いをせざるをえなくなった女性にいわせれば、誰もタリバンが国家を統治できるなどとかんがえていない、とのこと。政府職員の給与は未払いがつづいていて職場をはなれる者も出ており、病院も同様、戦闘員ですらたびたび記者に金を貸してくれとたかってくる始末だという。
  • ほか、ブリンケン国務長官とオースティン国防長官がバイデンにアフガニスタンからの早期撤退はやめ、慎重に、何段階かにわけておこなうべきだと具申していたという。ワシントン・ポストボブ・ウッドワードウォーターゲート事件の報道者)がPerilという新著をここで出すというのだが、そこに政権の内幕がいろいろしるされているらしい。三月か四月くらいにこのふたりがバイデンに意見を述べていたとのこと。きのうの夕刊だか朝刊にはこのおなじ本の内容としてドナルド・トランプ政権時のこともつたえられていたはずで、いわく、政権の終盤、昨年一〇月ごろから、マーク・ミリー統合参謀本部議長(米軍制服組のトップ)がドナルド・トランプの暴走を危惧して中国側の高官に、米国が中国をとつぜん攻撃するという事態はない、もし攻撃することになっても事前に通知する、とつたえていたという。一月にトランプ支持者が米連邦議会議事堂を占拠した際にも、米国の状況は完全に安定しており心配はないと伝達したというし、また、選挙で負けたトランプが「正気を失っている」という判断をもとに、トランプが核攻撃の命令をくだしてもかならずじぶんを通すように、と部下に指示していたと。
  • (……)
  • 帰室して茶を飲みつつウェブを見、きょうのことを記したあと書見。シュナック『蝶の生活』のつづき。蛾のパートにはいっている。蝶も蛾も挿絵がおおくはさまれていて、蝶の部はけっこうそれを見るのがおもしろかったが、蛾の絵はやはりわりとグロくかんじてしまう。だいたいみんな蝶よりも毛深いし。三時まえできりあげてストレッチをした。毎日きちんと柔軟をおこなうのがやはり大事なことだと再認識。とくに合蹠を長めにやるとすぐさま体温があがる。その後上階に行ってきのうのゴーヤの残りを食い(母親はソファにあおむけになり、タブレットを腹のうえに乗せたままねむっていた)、もどるときのうの記事にすこしだけ文を足して、きょうのこともここまで加筆。四時。
  • ゴーヤを食べながら新聞の一面をすこし読んだが、北朝鮮がきのうの一二時半すぎに弾道ミサイル二発を発射していたらしい。日本海側の排他的経済水域内に落ちたと。変則的な軌道を描くミサイルで、いちど下降したあとに再上昇して飛距離が伸びるものらしい。そちらのほうが迎撃はむずかしくなるわけで、北朝鮮はさいきんこのタイプの開発をすすめているようだ。北朝鮮のミサイル実験によって漁船とか航行している船とか人間に被害が出たことって、たぶんいままでないのだとおもうけれど、万が一、偶然落下地点付近にひとがいて巻きこまれた場合、北朝鮮はどうしようとおもっているのだろう? そんなの知ったこっちゃねえということなのか、衛星とかで予想落下地点のようすをしらべてからやっているのか。もし仮に日本人が巻きこまれてしまった場合、日本国内のムードはまちがいなく北朝鮮をぶっつぶせぶっ殺せという報復戦争論のたかまりが支配するだろうし(たぶん、二〇〇一年のテロの直後のアメリカとおなじようなかんじになるだろう)、自衛隊はそれができないいじょう(もしかしたら安全保障関連法を拡大的に解釈して「存立危機事態」だかなんだかのたぐいと認定するかもしれないが)、米国に要請して頼るほかはない。米軍がなんらかの攻撃を北朝鮮にしかけたとして、そこで万が一金正恩が血迷って核兵器をつかったらもう終わりである。
  • いま一七日の午前二時。昼間に瞑想しているあいだに、なぜか竹内まりや "September"をおもいだし、しかしおもいだしたといってこの曲も竹内まりやもあまり聞いたことはないので、こういうむかしのシティポップスというか日本産AORみたいなやつをいくらかきちんと聞いてみるかとおもっていたのだが、それでこの曲がはいっている『LOVE SONGS』(一九八〇年)をAmazon Musicでながした。まあやはり八〇年代のAORだよなあ、というかんじの音。冒頭、"FLY AWAY"というのは英詞で、外国人のミュージシャンがバックをつとめており、キーボードはDavid Benoit。ベースはLeland Sklarというひとで、初見の名なのだけれど、仙人みたいな風貌の写真が載っているWikipedia記事を見てみるにもともとDanny KortchmarとThe Sectionというバンドをやっていたらしく、James Taylorと仕事をしていたというのでCarole Kingまわりでもあるのだろう。スタジオミュージシャンとしていろいろレコーディングしているようだ。この"FLY AWAY"ではフレットレスを弾いていて、ずいぶんうねって目立っている。
  • #4 "象牙海岸"は冒頭三拍目まで完全にThe Carpentersの"Close To You"。#5 "五線紙"はとてもすばらしい。ギター一本の伴奏に竹内まりやの歌とコーラスだけで、このギターは完璧にジャズの歌伴のそれで、アメリカの一線の連中がやっているのとあまり遜色ない貫禄がある(Russel Maloneとかをなんとなく連想させる)。杉本喜代志というひとで、「1970年代トップ・プレイヤーのひとり」だという。「渡辺貞夫からのグループ加入の誘いを断ったことがある。この時、代わりに加入したのが増尾好秋」とか、「渡辺香津美が弟子入りを志願したが、多忙を極めていた時期と重なり断ったのは有名な話」とか、「筒美京平のファーストコールミュージシャンであり、お気に入りのプレイヤーの一人であった」とかいうエピソードがWikipediaに載っている。
  • それで肝心の"September"はといえば、冒頭のかんじ(フレーズや楽器の音色など)からしてすでによくつくられているなあという印象だが、このアルバムのながれで聞くと、ほかの曲とちょっと毛色がちがうのではないか? という気がした。どこがどうちがうのか、あまりはっきりしないのだが。ここまでの各曲よりも一段、都会的で洗練され、なめらかにまとまった音になっているというか。だから曲単体として見ると大したものだとなるとおもうけれど、アルバム中ではもしかしたらほんのすこしだけ浮いているような気すらしないでもない。まあシングルカットされた曲のよそおいと言えばそうだろうし、このアルバムが全体的な統一は確保しながらも内部ではそれだけ幅広いということかもしれないが。浮いているかもしれないと言って、べつに統一が乱れるほどのことではもちろんない。しかし、うたいかたも、曲調やアレンジも、サウンドプロダクションも、ほかとはちょっとちがうような気がやはりする。Wikipediaで作曲・アレンジを見ると、この曲と"象牙海岸"だけ林哲司というひとになっているので、その色ということなのか。The Carpenters的色調ということなのか。
  • とにかく"五線紙"がめちゃくちゃ良い。終わりに収録されているライブバージョンも良い。
  • (……)