2021/10/1, Fri.

 3 生きてあるかぎり、つねに私ではなく他者が [﹅3] 死に、私は「生き延びた者」(第一(end266)章参照)でありつづける。すくなくとも、死にゆくものはその他者でなかった可能性があり、私であった可能性がある。この私が [﹅2] 生きのこることにおそらく根拠などはない。ありえようもない。私は生き延びたことにおいて無垢ではなく、私が在る、とは正当化されえないなにごとか、であるかもしれない。「私は他者が死ぬことに責めがあり、生き延びることについて有罪であるかのように」、である(145/173)。この、「生き延びた者としての咎(culpabilité de survivant)にあって、他者の死は私のことがらである [註187] 」。
 このとき顔が声となる、もしくは顔が意味し [﹅3] 、さしあたりは沈黙の声 [﹅4] となる。「皺を刻まれた皮膚」の、その皺と皺の「あいだ」で「見捨てられたものの裸形がきらめく」。つまり、死にゆくものの、(死がつねに不可測であるかぎりでは)原理的にはあらゆる他者の、「すでに神へと叫ばれている叫び」が、とりあえずは「声もなく」、《救いもなく》さけばれる叫びが聴き取られる。「沈黙の響き」(résonance du silence)が響く [註188] 。
 「沈黙の響き」(cf. 211/245)ということばが示しているように、背後にあるものは、ハイデガーの思索=詩作論である。詩人(トラクル)が雪、窓、夕べの鐘を名ざし「呼ぶこと」で冬の一夕をえがくとき、〈もの〉と世界との「親密さ」のなかで、沈黙が支配する。あるいは沈黙が「響く」。「ことば [﹅3] 」はそのとき、「沈黙の響き(Geläut der Stille)としてかたる [﹅11] 」。この「沈黙の響きはなんら人間的なものではない [註189] 」。――レヴィナスがかたる沈黙の響きは、これにたいして、もっとも人間的なもの [﹅6] である。私は隣人との〈近さ〉に(end267)巻きこまれており、他者の顔が沈黙の声として響いている。「声ではない [﹅5] /声 [﹅] 」(keine/Stimme)(ツェラン)が聴き取られてしまっている。顔のまえで、かくて私はすでに召喚されている。しかし、すでに [﹅3] とは、私がこの叫びに、呼びかけに遅れてしまっているということだ。いまや、この遅れ [﹅2] こそがまさに問題となる。――私は、他者からの「呼びかけ」にあらかじめ [﹅5] 遅れている。どうしてか。ここですこし考えてみよう。
 呼びかけられていることに、私が気づく [﹅3] 。ということは、他者はすでに [﹅3] 私にたいして呼びかけてしまっている、ということではないだろうか。しかも、つねに・あらかじめそうなのではないか。呼びかけられていることに気づくとき、他者はいつでもすでに私に呼びかけてしまっている。呼びかけは、私がそれを呼びかけとしてとらえ、意識のうちに据えなおすまえにあらかじめ [﹅5] 呼びかけとして響いている。取りかえしのつかない [﹅10] 感受性において響いている。他者による呼びかけは、だから「主題化不能な呼びかけであり、したがって呼びかけではなく、外傷なのである」(26/35)。
 呼びかけを受容する私の現在は、他者による呼びかけそのものの現在につねに・すでに遅れている。他者にとっての(呼びかけの)現在 [﹅2] は、私にとっては取りもどしようのない過去 [﹅2] になっている。他者の呼びかけは、だから私の現在に回収できない、否応のない「外傷」であり、他者の現在そのものがその「痕跡」なのだ。かくて私には、他者にたいする責めがある。追いつきようのない〈責め〉があるのである。(end268)
 他者の死が現実におとずれてしまう場面では、ことがらははっきりしている。死は真に外傷 [﹅2] となる。私の応答のいっさいは手おくれで、取りもどしようがない。手のとどかない過去がけっして現在となることなく、しかし繰りかえし回帰する。他者の死はそのとき回収不能な疼き [﹅2] となる。「悔い」、みずからを嚙む [﹅7] ほどに「悩みくるしむ [﹅6] 」(se ronger)悔いは、それが後 [﹅] 悔であるがゆえにいつでも遅すぎる [﹅4] (182/214, cf. 18/25)。「後悔は原理的である [註190] 」。「逝くというできごとそのもの [﹅13] 」に注目するとき、「それぞれの死は最初の死」であり「早すぎる」死なのであって、「生き延びた者に責めがある」からである [註191] 。

 (註187): E. Lévinas, La mort et le temps, p. 44. なお、小松美彦が「「死なせた」他者・「死なれた」他者との「間」における、「自分」の死」という大庭健の表現(大庭『他者とは誰のことか』勁草書房、一九八九年刊、六頁)を引きつつ、この箇所に言及している。小松『死は共鳴する――脳死・臓器移植の深みへ』(勁草書房、一九九六年刊)八三、二五五頁。
 (註188): E. Lévinas, Dieu et la philosophie (1975), in: De Dieu qui vient à l'idée, p. 118.
 (註189): M. Heidegger, Unterwegs zur Sprache, in: Gesamtausgabe Bd. 12, S. 27.
 (註190): 港道隆『レヴィナス』(講談社、一九九七年刊)、一六四頁。
 (註191): E. Lévinas, La mort et le temps, p. 81.

 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、266~269; 第Ⅱ部、第三章「主体の綻び/反転する時間」)



  • 一一時半の離床。一一時まえから覚めていたし、もっとはやい時間にも覚めたおぼえがあるのだが、例によって意識がそこまではっきりせず、まぶたをひらいたままに保てなかった。一一時すぎあたりからそれいじょうの眠りにおちいる心配はなくなったものの、しばらく脚をマッサージしたりしてから起床。水場に行ってきて瞑想。きょうは雨降り、ひさしぶりに大雨と言って良いくらいに降っていて、そとは薄暗い石灰水の色に染まっており、窓をすこしだけあけてすわっていると窓外に水のながれが生まれているような雨音で、その恒常的なひびきはどこか渦を巻いてまわりの音やあるいは聴覚を吸いこむかのようなかんじだった。室内にいると風はかんじられないが、ときおり雨粒がかたむいて窓枠やネットなどにぱちぱち当たっているのが聞こえる。雨がとりたてて好きだというわけではないが、雨音じたいは好きというか聞いているとわりとおちつく。正午過ぎまでけっこうすわった。
  • 食事は炒飯や煮込みうどん。新聞、国際面を。バングラデシュはコックスバザールのロヒンギャ難民キャンプでロヒンギャの有力指導者が銃で撃たれて殺されたという報があった。このひとは難民とバングラデシュ政府と国際支援団体のあいだを仲介するような役割を果たしていたというのだが、難民キャンプでは麻薬の密売によって資金をかせぐ武装勢力が横行して治安が悪化しており、この指導者も脅迫を受けていたという。胸を三発撃たれて死亡、下手人は逃走したらしい。
  • サウジアラビアやエジプトがカタールやトルコとの関係改善をこころみ、地域の緊張緩和をはかっているというはなしも。サウジアラビアムハンマド・ビン・サルマン皇太子、カタールの首長、それにUAEの国家安全保障顧問がそろってカジュアルな格好で三人ならび、白い歯を見せるくらいの笑顔で映っている写真が九月一七日に皇太子側近によって投稿され、関係改善を演出し、印象づけているらしい。というのもサウジアラビアは一月までカタールと断交していたらしく、それはカタールがイランと貿易かなにかやりとりしたのにたいする措置で、陸海空すべての国境を封鎖して孤立化をはかっていたというのだが、そこから転換したわけだ。UAEとも石油の生産方式をめぐって石油輸出国機構内ではげしくやりあったばかりだというが、サウジアラビアが周辺国との関係改善にのりだしたのは、とうぜんながら米国の支援が縮小されている、もしくは今後縮小されることが予想されるからで、イランとすら直接交渉をおこなっているらしい。ただそれは情勢を見極めるための一時的な停戦だろうと識者の言があったが。エジプトも同様に、人権状況の改善を条件に軍事支援を一億数千万ドル分留保されているなか、リビアをめぐって対立していたトルコと接近している。また両国とも中露にもちかづいていて、サウジアラビアはロシアと軍事協定みたいなものを結んだらしいし、エジプトはロシアの戦闘機を購入するとともに中国製ワクチンの国内生産をはじめたという。
  • 皿を洗い、あたらしい米を磨いでおくとともに、風呂をあらって帰室。コンピューターを用意して、きのうの記事にひとことだけ足して投稿、きょうのこともここまで記した。いま一時半をまわったところ。とちゅう、そういえば古谷利裕がむかしの批評文をnoteにアップしていたよなとおもってアクセスし、気になる記事をURLメモにメモしておいた。
  • そのあと、Reginald Dwayne Betts, "Could an Ex-Convict Become an Attorney? I Intended to Find Out"(2018/10/16)(https://www.nytimes.com/2018/10/16/magazine/felon-attorney-crime-yale-law.html(https://www.nytimes.com/2018/10/16/magazine/felon-attorney-crime-yale-law.html))を読んだ。出勤直前にもすこし読み、帰宅後にまた読んで読了。良いはなしとしてふつうに感動してしまった。良いはなしというだけでかたづけてしまってはいけないのだろうが。ただ、問題をこまかく分析的に書いて論じるタイプの文章ではなく、ex-convictとしてのこのひとの体験談、人生の道行きをつづった記事なので、知見がどうの主張がどうのという種類のものではない。それにしてもprison abolitionという動向についていままでぜんぜん知らなかったしかんがえたこともなかった。Proud Boysなんかも主張としてはそういうことをとなえていたはずで、そっちとむすびつくとまずそうだが。
  • 四時ごろに上階へ。うどんののこりがあったのでそれを汁に入れてちょっと煮込み、すべて丼にながしこんで部屋にもちかえる。(……)さんのブログを読みながら食事。食べ終えると皿を洗いに行き、出勤前に一品だけつくっておくことにした。冷蔵庫を見ると消費期限が翌日までの鶏肉のササミがあったので、芸がないがこれをタマネギとソテーすれば良かろうと決定。申し訳程度のいろどりとしてピーマンもくわえることに。なのでピーマンはこまかく切って散らすかんじにした。野菜と肉を切るとフライパンにオリーブオイルを引き、生姜とニンニクをすりおろして、最弱にちかい火力でしばらく炙る。全体がこまかくぶつぶつジュワジュワと黄色く泡立っている、油と香味のいわばシートみたいなものがひろがっているところに鶏肉を投入し、木べらでからめながら炒めた。その後に適時野菜もくわえて味付けは醤油と砂糖、それに生姜を追加でおろしておいた。そうすると時刻は四時半過ぎだったか。下階に帰って歯を磨きながらうえの英文記事を読み、五時を超えたところで着替え。
  • あと四時まえにはストレッチもした。出勤路へ。このころには雨はもうほとんどやんでおり、あまり感触もあたえずぱらつく程度だったが傘をひらいていった。空気に霧や靄の要素はなく空間ははっきりしており、南の山の緑のすがたもすこしもみだされていない。公営住宅まえまで来るとカラスの声がとつぜん立って降ってきて、しかしみあげても影がなく、出所がさだかでない、とあるいているうちに電柱のてっぺんとそこからつきだした器具にかくれていたシルエットが、白一色の空をうしろに明瞭に浮かびあがった。空気のながれはかなり涼しく、そとならジャケットを着ても良いとおもわれるくらい。坂に折れると側溝のうち入口そばの一箇所に葉っぱがおびただしくあつまりわだかまっており、てらてらと濡れた表面に白いひかりの細片をはらんでいるその色は滋味ゆたかな土のように濃い褐色である。
  • 坂をのぼりきって最寄り駅まえに出ると、駅舎を越えた果ての西空の低みが、そこ以外すべてムース様の青い雲に占領されているのに唯一ほのかなオレンジを浮かべていて、通路を行けば、雨がまだほんのすこし降っていて薄暗いあたりの空気のなかにその反映がしのびこんで微妙に熟したような色合いになっていた。ベンチについてあらためてあかるみをながめると、空の端のその一画のみ金橙色ともいうべき落日のなごりがどこかからとどいて塗られており、それをスクリーンとして影となった青灰色の雲たち、ちいさなおもちゃの飛竜めいたかたちのものや、灰汁のように濁ってかたまったもの、また上部を覆いつくしている大陸雲とつながってわかちがたく垂れ下がったものなどが、すべて一定のスピードで間隔も変えずに右から左へと推移していくのだった。
  • 電車に乗って(……)へ移動。ホームを行く。このころには青暗さがさらに深まるとともに、しかしホームからひらいた空間の先、東側の路地のほうや家並みのうえに視線をおくるとやはり、薔薇色のような気配がいくらか混ざっているのが見分けられ、たそがれのなかにワインめいて芳醇な風情をかもしだしていた。駅を出て職場へ。労働。
  • (……)
  • (……)
  • 帰路は徒歩。雨はやんでいた。マスクをずらして鼻と口を露出させながら夜道を行く。空気のながれはそこそこあって、吹くというところまで行かず肌寒さにも転じないやわらかな涼気が身に寄って、見上げれば空は意外と晴れていて雲は途切れてひろく生まれた夜空の底がすっきりと青く色濃さをたたえており、なかに星がきらめき浮遊している。裏路地をあるいていっておもてに折れると正面にひろがる南空に綿をあつめてからめたような、あるいは波頭の白さでもってクジラを成型したような雲の白さもあきらかで、月は遠くなったはずだがずいぶんとあかるい夜空だった。雨後のことで、諸所の家先に大ぶりの葉がまだ色をはっきりのこしたまま散らばり落ちている。また裏にはいって下り坂のうえまでくればなだらかに伸べられた視界の半分を今度は東南の空がひらいて占め、そこだと余計に空の青さと雲の白が双方密にきわだって、ほとんど富士をおもわせるような色の濃さ、それを見ながら足をすすめているながめに右からゆっくり一本の梢と葉の粒立ちがはいってきて、気持ちがおちついており歩もゆるく軽かったので現在時の密度がたかまっており、坂をおりるあいだあたりのようすが映画の風情を帯びた。周囲の頭上に垂れ下がる枝葉はことごとく、葉のところどころに指輪をはめたようにつや消しの白銀色を埋めこんでおり、その宝飾品はしかし葉の指にはサイズがゆるいらしく、ときおりするりと抜け落ちてきてあたまがつめたい。坂下で川のほうを見やれば近間の家々の先のあるところから端的な闇が空間を支配しており、なにも見えない黒の真空にただながれる水のひびきだけが存在し、のぼってくる。視覚がそのまま聴覚化されたかのような様相だが、かたちも襞もない黒一色の充実は川沿いの樹々のあたりも同様で、そこから対岸の地域を経由して(黒い海のなかに散発的に浮かぶ街灯のひかりでつくられたつつましい花弁のみが、そこがひとの暮らす地帯であることをしめしている)、色のちからで距離を無化しながら山へとつながり、その影は景観の最外縁をめぐるように右へとつらなって、ふたたびあいだの空間をものともせずに圧縮して我が家のすぐまえの林にまで達しているのだ。
  • 帰宅後はうえのNew York Timesの記事を読みつつ休息し、その後すこしこの日のことも書いてから食事へ。一〇時半過ぎだった。竹森俊平の世界経済情勢分析みたいなコラムを読む。中国の恒大集団について。中国ではマンション建設とそれにたいする投資がブームとなっていて、つくられたものの入居者のいないマンションが九〇〇〇万人分くらいあるらしいのだけれど、恒大集団はマンションへの投資を喚起してバブルを先導していたところ(そもそもその社名じたい、恒久的なバブル増大を示唆している、と筆者は述べていた)、共産党にたたかれたと。もともと中国にはソフトな弾力性をもったたくましい市場みたいな環境があったらしいのだけれど、中華人民共和国成立および毛沢東期の政権によってハードな統制が導入され、改革開放はあったにしてもいまもそのハード面がのこっているらしく、つまり共産党としては、社種や社風としては非効率かもしれないが国営企業を資本と権勢の基盤にしたいから、民間企業に突出してもらってはこまる、くわえて米国などに進出して資本を海外にながしてもらってはこまる、ということらしい。
  • 夜、夕食を取って風呂を出たのち、茶を飲みながら斎藤美奈子林大介「緊急対談! 若者の政治参加、どう思う?」(2016/7/29)(http://www.webchikuma.jp/articles/-/240(http://www.webchikuma.jp/articles/-/240))を読んだあと、デスクについて書抜きへ。熊野純彦の『レヴィナス』がやっと終わったのでフィリップ・K・ディック浅倉久志訳『高い城の男』(ハヤカワ文庫、一九八四年)へ。あとリルケ。書抜きのあいだ、なぜかIdea of Northのことをおもいだしており、とりわけ"Isn't She Lovely"をおもいだしていたのでAmazon Musicでこのコーラスグループの音源をながすことにしたのだが、むかし持っていた『Evidence』はなかったのでベスト盤らしい『Anthology』をながした。どの曲もまあすごいのだけれど、一一曲目の"Man In The Mirror"(https://www.youtube.com/watch?v=KexaEKCRF4I(https://www.youtube.com/watch?v=KexaEKCRF4I))が抜群にすごく、ビビったのでそこで書抜きをきりあげて音楽を聞く時間に移行してしまった。スタジオ音源だから多少ととのえてはいるのかもしれないが、音程のぶれがマジで微塵もなくて、一糸乱れぬ、という形容を体現している。ついでに"Isn't She Lovely"も聞き、またひさしぶりに、YouTubeにあるライブ音源もいくつか聞いた。ライブだとさすがに声色や音程面でスタジオ盤ほどまとまった音質になっていないところも見受けられはするものの、それは問題ではなく、ほぼスタジオと遜色ないし、四人で和音を推移するところなどやばくて、これだけそろえられるとうたっている側はほとんど性的な官能性にちかいものをおぼえるのではないか? というくらいにすごい。"Isn't She Lovely"も"Stayin' Alive"もまあすごいが、やっぱりいちばんすごいのはジャズスタンダードをやっているときかなというかんじで、つまり"Sister Sadie"(https://www.youtube.com/watch?v=nM32F_8mHHU(https://www.youtube.com/watch?v=nM32F_8mHHU))と"But Not For Me"(https://www.youtube.com/watch?v=gx5fflRF6WM(https://www.youtube.com/watch?v=gx5fflRF6WM))である。むかしからずっとおなじ印象なのだけれど、このグループはとりわけベースのひとがすごくて、めちゃくちゃ低い音域まで出るし、その安定感もすさまじく、またリズムの区切り方、音価の伸ばし方やひっかけ方など、ほんとうに声がそのまま楽器のベースになっているようなかんじ。ライブの"Isn't She Lovely"でほかの三人が観客にコーラスをわりふってメロディをおしえているあいだなど、ずっとうしろで低音をきざんでいるのだけれど、そのときのフェイクのニュアンスなどマジでベース奏者がベースを弾いているときのそれだなというかんじ。
  • こういうジャズ方面のコーラスグループというものをぜんぜん知らず、せいぜいManhattan Transferくらいしか聞いたことがないのだけれど、Amazon Musicの関連で出てきたところではThe Singers Unlimitedというのがひとつあるようだ。あとはTake 6とかThe Real Groupとかがたぶん有名なところで、Take 6はむかしすこしだけ聞いたことがある。あれはジャズというよりもっとポップス寄りだった気がするが。Jon Hendricksをともかくは聞きたい。ヴォカリーズをやっているひとたちの蓄積というのもかなりあるのだろうし。Jon Hendricksは晩年にMiles Davisのなにかのアルバムを全部ボーカルでやろうというプロジェクトをやっていたはずで、そんなことふつうやる? とおもう。
  • Idea of Northのほかにひさしぶりで六一年のBill Evans Trioの"All of You (take 1)"を聞き、演奏がすごいのはもうわかっているし、演奏うんぬんよりもLaFaroのベースの音を聞いているだけでわりと満足なのだが、六一年のライブにしてはこの録音はかなり音質がよくないか? とあらためておもった。ベースの弦のアタック音とか、指をうごかして押弦するとき、もしくははなすときのこまかく微小なビビリなんかもかなり聞こえる。あとは聞きながら、二、三か所あるMotianのビートのこのつまずきというのはなんなんだろうとおもったり、ドラムソロのキックがあいかわらずぜんぜんわからん、とおもったりした。ソロ中のキックの踏み方はいったいどういうつもりでやっているのか意味不明で、たぶんてきとうに踏んでいるだけじゃないかとおもうのだけれど、譜割りにきちんとあてはまっていないタイミングもいくらかあるような気もするし、キックだけ聞いていると拍頭をふつうにロストしてしまう。だから上部、両手のフレーズとの分離感がつよいというか、うえとしたでべつのながれに沿っているようにもかんじられるのだけれど、こういうのはいったいどういう感覚でやっているのだろうと疑問をきんじえない。現代のドラマーだったらこういうことをひとつのテクニックとして、うえはうえで、したはしたで、ときっちりはめこんで独立させながらできるのだろうが、Motianのそれはそういうテクニックの段階ではない。