2021/10/5, Tue.

 ディアクロニーとはさしあたり、「時間的な〈以後〉が同時に [﹅3] 時間的な〈以前〉」となるような反転した時間性のことである。およそ想像もつかないこのような時間のあり方が要請される第一の理由は、他者との関係にある。時計で計られるような通常の時間意識、すなわち「共時性」においては、過去は想起として未来は予期として現在にもたらされる。しかしそのことは反面、主体が過去を過ぎ去った現在、未来を未だ来ぬ現在として自らの表象の下で統握し現前化(共時化)することで、他者との隔たりを抹消してしまう(end340)ことを意味する。それゆえ、私から無限に隔たった他者、決して現前化されえない他者との関係がありうるとすれば、それは共時性を破綻させる時間、すなわちディアクロニーにおいてなのである。
 とはいえ、ディアクロニーとは単に例外的な時間の様態なのではない。というのも、それは〈時間〉と〈永遠〉という哲学史上の難問に関わることだからである。『ヘーゲル 〈他なるもの〉をめぐる思考』第二章でも詳述されている通り、時間が流れるということはアポリアを含んでいる。〈いま〉が同じものであれば端的に時間は流れず(それは永遠である)、〈いま〉が違うものであれば時間は寸断される。〈いま〉は同じであっても異なっていても、流れる時間という経験的な事実は説明できない。だとすれば、時間が流れるためには、〈いま〉は異なり続けることで自分と同じものでなければならない。その意味で、時間の本性とは自己差異化であり、〈いま〉がすでに〈いま〉でないというディアクロニーなのである。
 このような時間性をより具体的に示しているのが「痕跡」である。他者の顔であれ愛撫される皮膚であれ、流れる時間の中でそれらはつねに老いていく。いま見えている顔は老いていく顔であり、現に触れられている肌は老いつつある皮膚である。老いとは現在が過去になることなのだから、老いていく顔を見るとは現在の内に過去を見ること、現在のなかで現在が剝落していくのを見ることである。したがって、顔や皮膚は「現前(end341)が現前じしんの過去である現前 [﹅13] 」として痕跡であり、時間的な〈以後〉(現在)が同時に時間的な〈以前〉(過去)となるディアクロニーである。通常の意味での痕跡は、例えば傷痕のように、過去に存在したもの、かつて現前したものの跡である。これに対して、ディアクロニーにおける痕跡とは、過去になかったもの、決して現前しえないものの痕跡なのである。
 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、340~342; 佐々木雄大「解説」)



  • 一一時四五分ごろに正式な覚醒。きょうもまた空の青さとひかりがまぶしい晴れの日で、臥位からみあげた窓では細胞のような網戸の格子に光点がななめにながれてひっかかっており、宙にはふたつみっつ、爪のかけらよりもはるかにちいさい糸状の塵がしずかに浮かんで海月を真似ている。しばらく脚をマッサージして、一二時一〇分に離床した。ややこごった起き抜け。水場に行ってきてから瞑想をする。一五分ほど。
  • 上階へ。蕎麦などで食事。新聞はきのうの朝刊夕刊と同様、岸田文雄内閣の顔ぶれを紹介している。文化面に宇能鴻一郎という作家の話題があった。六二年だかに芥川賞を取った八七歳のひとで、その後官能小説のほうにシフトして一時代を築いたというが、さいきんむかしの作をあつめた短編集を出したとかで(姫君なんとか、みたいな題だった――芥川賞を取ったのは『鯨神』という篇で、巨鯨にいどむ漁師たちのはなしだというからどうしたってメルヴィルを連想する)また注目があつまっているとか。エログロ的な濃密な描写を旨としているらしい。満州生まれで、そこの市場でさまざまなにおいの入り混じった猥雑さを体験したことがそういう志向につながったのかもしれない、みたいなことを本人はかたっていた。また、満州時代にソ連の「貴人」の暮らしぶりに触れたともあったのだが、ふつうに生きていればそんな機会はないはずなので、上流層の生まれなのだろうか(しかしそもそも、「ソ連」に「貴人」とは?)。二〇一二年だか一四年だかには『夢十夜』といって、三島由紀夫谷崎潤一郎を道化役として登場させた自伝的小説も書いているとか。
  • 皿をかたづけ、その後しばらくベランダで陽を浴びた。日なたのなかで屈伸や開脚をして脚をほぐし、すわりこんで肌に熱を吸う。ひかりはなかなか旺盛で熱く、陽射しのなかにずっといればことによっては熱中症になってもおかしくないくらいのつよさとかんじたが、風が絶えずながれて身のまわりをかきみだし、暑気のわだかまりを散らしてくれる。空はあかるい水色だけれど意外と雲も乗っていて、ところどころに淡いすじがながれたり、青さのなかにぼやけた白さが沈みこんだようになっていた。
  • 風呂を洗い、茶をつくって帰室。母親はなぜか階段下の室であかりもつけずに歯を磨いており、あとで洗濯物を入れてくれというので了承する。二時半から歯医者なのだ。こちらもきょうは(……)に行くかもしれないと先ほど言っておいた。電気屋に行ってパソコンを買うとともに書店でマラルメなど買おうかという腹だが、あくまでもその気になったらで、行かない可能性も十分にある。
  • きょうのことを記述して二時。便所に立ったついでに階段をあがって洗濯物を入れようとおもったが、母親が出かけるまえにもう取りこんでくれたようだった。父親はソファでやすんでいた。
  • きのうのことを記述してしあげると三時をまわったくらいだったはず。この時点では街に出るかどうかまだ迷いつつもきょうはいいかなというほうへややかたむいており、とりあえず脚をほぐすために寝転がって書見をすることに。そうしてポール・ド・マン/土田知則訳『読むことのアレゴリー ルソー、ニーチェリルケプルーストにおける比喩的言語』(岩波書店、二〇一二年)を読みはじめたが、そうしているうちにやはり面倒臭さがまさってきょうは出かけないこころにかたまった。第三章の「読むこと(プルースト)」を読み終えたが、この章をもういちどさいしょから読むことにした。やはりわかりきっていない細部があるので。そうして冒頭から、精読とまではいかないが、よくわからない部分を何度もくりかえし読みながらすすめていると、なんだかんださいしょよりも飲みこめてくることが多くあった。文章を読んでいて言っていることがよくわからんなあというのはだいたいのところある語の意味やその範囲・射程がつかめないということと、前後の文、あるいはもうすこしひろい文脈のつながりかた・うつりかたがよくわからん、ということに集約されるとおもう(ということはつまり、範列的要素と統辞的要素ということか)。おなじ箇所をなんどもくりかえし読んでいると、ここまではわかるがここからがわからん、もしくはこの文のなかでこの語だけがどういうことなのかわからん、ということが明確に浮かび上がってくるし、それを踏まえてさらに読んでいると、おなじ段落内の前後やときには段落を越えた範囲で、この語とこの語がむすびついているなとか、ここがここの言い換えだなとか、そういう移行的・転換的な意味のネットワークがよりこまかく見えてくるので、だいたいそれで解決する。ある範囲の記述の意味がわかる、すっきりするというのは、そこで構築されている意味論的調和(すなわち総体における有機的な首尾一貫性)のかたちが見え、とらえられるということだ。それぞれの部品が全体のなかでどう配置され、どこにどう接続されており、それによってどういうかたちをつくりあげているか、また個々の部分がどのように動きはたらいているのか、すなわち記述の仕組み(「仕組み」というのは個々の小規模な部分の「形式」も、より総体的な意味での「構造」も、諸部分のあいだに生まれる連関的な「動態」も一挙に含意できる便利な語ではないだろうか)を(仮構的ではあるものの)俯瞰して把握するようなことである。したがって、言述とはいってみれば機械のようなものだ。ただ、その機械の部品はもちろん語であるわけだけれど、語の意味とはその本性上、点ではありえず、それぞれ特有の幅やかたち、もしくは範囲をそなえている。その固有のかたち - 範囲たちが群れなしつらなりかさなりあうことで、あるいは調和し相乗し、あるいは打ち消し合ったり干渉したり浸食しあったりしながら、多層化したり、変形したり、ばあいによっては破綻したりしつつ、全体としてもおのおの微妙にことなりあっている(ときにはきわめて複雑怪奇な)固有のかたちをつくりあげているというのが文章ということだろう。
  • 五時で上階へ。アイロン掛け。やはり一時間くらいかかった。五時二〇分くらいだったか、正面の南窓の空にも、右手のベランダのむこうにすこしだけのぞいた西空にも薔薇色をかおらせた淡い雲のすじがいくらかながれ、室内の明かりは背後の食卓灯だけで薄暗がりのうちにオレンジ色が弱くさしこまれてただよっていたのだけれど、そのなかにもそとの薔薇色のにおいがかそけく反映して混じっているような雰囲気だった。母親は台所で肉を炒めたり豚汁をつくったりしている。出かけるまえは寿司にしようと言っていたのだが、けっきょく寿司ではなくて刺し身を買ってきたという。
  • 室にもどるとさらに書見し、七時で夕食。豚汁がうまい。しかしあまりおちついたこころではなく、味もよく見ずにさっさと食うようなかんじになってしまった。夕刊の「日本史アップデート」は日本の朝鮮支配についてで、併合と植民地支配が朝鮮のひとびとの尊厳をそこなったことはいうまでもないが、最新の統計データを見ると産業的・経済的な成長というのはたしかに観測されており、米の消費量、身長体格の変化、衛生環境の情報などあわせてかんがえるとひとびとの生活の質が極端に低下したわけではなく、経済的な側面にかぎっていえば搾取収奪とまでは言えないだろう、と。ただしそれも戦争がはじまるまでにかぎってのはなしで、戦時中はいわゆる創氏改名など同化政策がより強力にすすめられたし、徴用工なども生まれて日本は朝鮮を無謀な総力戦に巻きこんだと。戦時日本の全体主義的・統制経済的側面は北朝鮮に(インフラもふくめて)そのまま引き継がれたいっぽう、韓国のほうはインフラは活用しつつも体制は自由主義経済のほうへ転換し、それがいわゆる「漢江の奇跡」と呼ばれる高度成長を生んで両国の差になったと。
  • 食後は「読みかえし」。プルーストQueen + Adam Lambert『Live Around The World』をまたながしたが、Adam Lambertというひとはやはりやたらと歌がうまく、メロディのフェイクのしかたなどかなりこなれていてお手の物というかんじ。高音でシャウトするときの甲高さとかつきぬけるようなかんじとかは、全盛期のAxl Roseを連想させるところがちょっとないでもない。

Shuafat Refugee Camp is inside Jerusalem proper, according to the municipal boundaries that Israel declared after the Six Day War in 1967. (Though the entire walled area is frequently referred to as the Shuafat Refugee Camp, the actual camp, run by the United Nation’s relief agency for Palestinian refugees, is only a small portion. Adjacent to the camp are three neighborhoods that are the responsibility of the city of Jerusalem.) The Palestinian Authority has no jurisdiction there: The camp is, according to Israeli law, inside Israel, and the people who live there are Jerusalem residents, but they are refugees in their own city. Residents pay taxes to Israel, but the camp is barely serviced. There is very little legally supplied water, a scarcely functioning sewage system, essentially no garbage pickup, no road building, no mail service (the streets don’t even have names, much less addresses), virtually no infrastructure of any kind. There is no adequate school system. Israeli emergency fire and medical services do not enter the camp. The Israeli police enter only to make arrests; they provide no security for camp residents. There is chaotic land registration. While no one knows how many people really live in the Shuafat camp and its three surrounding neighborhoods, which is roughly one square kilometer, it’s estimated that the population is around 80,000. They live surrounded by a 25-foot concrete wall, a wall interspersed by guard towers and trapdoors that swing open when Israeli forces raid the camp, with reinforcements in the hundreds, or even, as in December 2015, over a thousand troops.

Effectively, there are no laws in the Shuafat Refugee Camp, despite its geographical location inside Jerusalem. The Shuafat camp’s original citizens were moved from the Old City, where they sought asylum in 1948 during the Arab-Israeli War, to the camp’s boundaries starting in 1965, when the camp was under the control of the Jordanian government, with more arriving, in need of asylum, during and after the war in 1967. Now, 50 years after Israel’s 1967 boundaries were drawn, even Israeli security experts don’t quite know why the Shuafat Refugee Camp was placed inside the Jerusalem municipal boundaries. The population was much smaller then and surrounded by beautiful green, open forestland, which stretched to the land on which the Jewish settlement of Pisgat Ze’ev was later built. (The forestland is still there, visible beyond the separation wall, but inaccessible to camp residents, on account of the wall.) Perhaps the Israelis were hoping the camp’s residents could be relocated, because they numbered only a few thousand. Instead, the population of the camp exploded in the following decades into the tens of thousands. In 1980, Israel passed a law declaring Jerusalem the “complete and united” capital of Israel. In 2004, Israel began erecting the concrete wall around the camp, cutting inside Israel’s own declared boundaries, as if to stanch and cauterize the camp from “united” Jerusalem.

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Before the separation wall was constructed, the mall was bulldozed twice by the Israeli authorities, but the owner rebuilt both times. Since the wall has gone up, the Israelis have not tried to demolish any large buildings in Shuafat, though they have destroyed individual homes. Armed Palestinian gangsters could take away someone’s land or apartment at any moment. A fire or earthquake would be catastrophic. There are multiple risks to buying property in the Shuafat camp, but the cost of an apartment there can be less than a tenth of what an apartment would cost on the other side of the separation wall, in East Jerusalem. And living in Shuafat is a way to try to hold onto Jerusalem residency status. Jerusalem residents have a coveted blue ID card, meaning they can enter Israel in order to work and support their families, unlike Palestinians with green, or West Bank ID cards, who need many supporting documents in order to enter Israel — to work or for any other reason, and who also must pass through military checkpoints like Qalandiya, which can require waiting in hourslong lines. Jerusalem residency is, quite simply, a lifeline to employment, a matter of survival.

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When I asked Baha if garbage was burned by the separation wall because it was safer — a way to contain a fire, like a giant fireplace — he shook his head. “It’s, aah, symbolic.” In other words, garbage is burned by the wall because the wall is Israeli. Drugs are sold along the wall by the Israeli checkpoint, not for symbolic reasons. The camp organizers, like Baha, cannot effectively control the drug trade in a zone patrolled by the Israeli police and monitored by security cameras. Dealers are safe there from the means of popular justice exacted inside the camp. The most heavily militarized area of the camp is perhaps its most lawless.

The popular drug the dealers sell is called Mr. Nice Guy, which is sometimes categorized as a “synthetic cannabinoid” — a meaningless nomenclature. It is highly toxic, and its effects are nothing like cannabis. It can bring on psychosis. It damages brains and ruins lives. Baha told me that Mr. Nice Guy is popular with kids as young as 8. Empty packets of it sifted around at our feet as we crossed the large parking lot where buses pick up 6,000 children daily and transport them through the checkpoint for school, because the camp has only one public school, for elementary students. Every afternoon, children stream back into camp, passing the dealers and users who cluster near the checkpoint.

  • それからド・マンをまたすこし読み、豆腐と茶漬けを用意してきて食うときょうのことをここまで加筆。三時が目前。
  • (……)ふたたびド・マン。四時一〇分くらいまで。そうして瞑想をして(やはり眠気にみだされていくらもつづかなかったが)、消灯し、暗闇のなかで合蹠してから就寝。四時半をまわったくらいだった。