2021/10/23, Sat.

 そこでわれわれはひしめき合い、地上の生を成しとげようとする、
 われわれの素朴な手の中に、あふれる眼差しの中に、
 そして言葉なき心の中に、それを保っておこうとする。
 われわれは地上の生になりきろうとする。さてだれにそれを渡すのか。
 最も望ましいのは、すべてを永久に保有することだ。……別の関連へは(end109)
 ああ 何を持っていったらよいか。この地上でゆっくりと会得した
 物を見るわざでもなく、地上のできごとでもない。そのどれでもない。
 それなら痛みはどうか、とりわけ重い生きざまは、
 愛の長い経験などはどうか、――つまり
 言葉に表わせぬものばかりだ。しかし、のちになって
 星の世界に赴くとき、それはどれだけの意味があろう。星の方がずっと言葉に表わせないものだ。
 思うに旅人が山の端の斜面から持ち帰るものは
 一握りの土、すなわちすべての人にとって言い難いものでなく、
 獲得された言葉、純粋な言葉、すなわち、黄色や青のりんどうだ。
 われわれがこの地上にいるのは、おそらく言うためだ、家、
 橋、泉、門、かめ、果樹、窓――
 せいぜい、柱、塔……と言うためだ。だが、わかってほしい、
 物たちですら、こんなに親密な存在感はもったことはないと思うほどに
 言うためなのだ。恋人たちの心を高ぶらせ、
 彼らの感情のなかで、ひとつひとつの物が有頂天になるよう仕向けるのは
 秘密にされているこの大地のひそかな計略ではないのか。(end110)
 敷居というもの――それは二人の恋人にとって何だろう。
 戸口にある自分たちの古い敷居を、彼らもまた
 少しばかりすり減らす、たくさんの祖先のあとを受け、
 これから後にくる人たちに先立って……軽やかに。

 (神品芳夫訳『リルケ詩集』(土曜美術社出版販売/新・世界現代史文庫10、二〇〇九年)、109~111; 『ドゥイノの悲歌』 Duineser Elegien より; 「第九の悲歌」 Die neunte Elegie



  • 八時のアラームで無事めざめたのだけれど、いちど布団を抜けておきながら携帯をとめてまた舞い戻り、そこからからだを起こせずにけっこう長々とまどろんでしまった。九時一〇分ごろにはっと気づき、あぶなかったとおもいながら起床。一〇時半には出る予定だったので(母親が買い物に行きたいらしく、送っていくと昨晩申し出ていた)あまり猶予がなく、水場に行ってきてからの瞑想は深呼吸でからだをほぐすのをメインにして、座禅的な無動の時間はほとんど取れなかった。上階に行って食事。安っぽくてちいさな餃子をおかずに米を食う。新聞からは国際面の記事をひとつ読んだ。英国の中国大使館がロンドンのタワー・ハムレッツという地区に移転する予定で、金融街であるシティの端にある由緒正しい建物(どういうものだったかわすれたが、むかし財務省だか造幣局だかがはいっていたとか書いてあったか?)に移るらしいのだが、その地域の市議だか区議だか(カーンという姓の女性で、バングラデシュ出身だかバングラデシュ系といっていたか? ムスリムらしくスカーフをあたまに巻いていた。いまのロンドン市長もカーンという姓のムスリムだったはずである)が中心となって中国によるウイグルや香港の弾圧に抗議するため(また、被弾圧者たちへの連帯を表明するため)、周辺の通りの名をそういう固有名詞を入れたなまえに改名するよう活動しているというはなしだった。街頭で通りの名がしるされたプラカードをかかげながらそのなまえを叫んで抗議しているひとびとの写真も載せられていた。そういえばきのうだかおとといの新聞で見たが、香港の区議たちが香港政府に忠誠を誓う宣誓を無効とみなされて議員としての立場をみとめられなかった、という報もあった。一六人だかが今回それで無効化され、いままでとあわせて五〇人くらいが排除されたらしく、民主派の一掃がほぼ完了したというはなしだった。
  • 食器をかたづけると風呂もあらわずすぐに下階へ。ほんのすこしだけでも口をうごかしておきたいというわけで、Notionを用意し、竹内まりや『LOVE SONGS』をながして「読みかえし」を読んだ。264番を二回読んだだけで一〇時一五分にいたって時が尽きた。そうして歯を磨き、服を着替えて出発へ。玄関を抜ける。きょうの天気はすがすがしく、ひかりがよくとおってひろがるとともに空には雲がはっきり浮かんで白も青もあかるいが、あとで職場の入り口に立っていたときなどは晴天のわりにぬくみがかんじられず空気が冷たいな、とおもった。このときはしかしひかりのただなかにあったのであたたかく、暖気によって背をなでられながら貧相な沢の脇に立ち、丈の低いケイトウといっしょにそこに植えられた青い花、紫もほんのかすか混ざっているような青さの粒がひかえめにつらなっているそのうえに、あれはモンシロチョウなのかそれすらわからないのだが白い蝶がちょっととまっては飛び立つのを見下ろしながめながら母親を待った。この青い花はリンドウではないかとおもったのだが、いま画像検索したかぎりではすこし違うような気がする。もっと粒がこまかかったような気がするのだ。もっとも、おとろえているような印象もあったので、枯死に向かってちいさくなっていたのかもしれないが。母親が車を出してくると後部に乗り、発車。
  • 職場のすぐ脇の裏路地でおろしてもらい、礼を言って別れ、勤務へ。(……)
  • (……)一二時四〇分くらいに退勤。駅へ。土曜日なのでひとが多い。電車に乗って瞑目し、最寄り駅で降車。このときも晴天はつづいており、ひかりをふんだんにはらみながらも涼しさに締まった空気がさわやかで、駅を出るとすぐ坂をくだるのではなく街道沿いの日なたのなかをおだやかさにつつまれながらぶらぶらあるき、(……)さんの家の横から林のなかを抜けて下の道におりた。
  • 帰宅。母親は一時半から知人と会う予定だった。こちらが着替えている横で干しておいてくれた布団をベランダから取り入れ、その後しばらくして出かけていった。じぶんは休息。睡眠がいつもより短いのでやはりすこし眠い感覚はあった。職場にいるあいだも何度かあくびが漏れた。とうぜんといえばとうぜんだが、ふだんだいたい七時間くらいは寝ているわけで、からだがいくらほぐれていてもそのくらい眠らないと眠気自体はすこし湧く。肉体はととのっていて疲れはあまりかんじないけれど、眠さはある、という状態になる。あまりにも自明の理だといわざるをえないが、人間は充分に眠らなければ眠気を完全に解消することはできない生きものなのだ。したがって、短眠法のたぐいなど、その根本からして胡乱げな代物だということになる。睡眠時間をみじかくしてそのぶん自由な時間をかせぎ、やりたいことややらなければならないことをやりたいというのはだれもがかんがえる夢想だろうが、そのような人間の生理に反するせせこましいことを画策せずに、胸を張って猫のように堂々と、七時間八時間九時間とたっぷり惰眠をむさぼろうではないか。それが健康で健全な人間の生というものである。個々人においてそれがゆるされないのだとしたら、それはひとりひとりのひとが悪いのではなく、世が誤っているのだ。史上高名なショートスリーパーたる例外者のことなど放っておくが良い。彼らはおそらく、他人に秘密で昼寝をしたり風呂のなかで眠ったりしていたのだ。
  • 二時で食事へ。煮込みうどん。あと母親が帰りに寄ってきたというパン屋のクリームパンなど。自室にはこんで食った。その後、洗濯物を取りこみ、風呂を洗っていなかったことをおもいだしたので風呂洗いもすませ、茶を飲んで一息。四時まえくらいから「読みかえし」を読んだか? 竹内まりやのつづきをながし、それが尽きるとJose James『New York 2020』。四時半で上階に行き、シーツを持ってきて寝床をセッティングした。そのあたりで母親も帰宅し、こちらはつづけてストーブのタンクに石油を補充したり、米をあたらしく磨いだり。勝手口のそとに保存してある石油がもう底を尽きたので、母親は帰ってきたばかりなのにまたそれを買いに行き、こちらはアイロン掛けをはじめて、石油のポリタンクが来るとそとに出てそれをはこんだ。そこにちょうど山梨に行っていた父親も帰宅。室内にもどるとアイロン掛けのつづきをすすめ、終えるとたたんでいなかった洗濯物をすべてかたづけて、皺を殺してなめらかにしたシャツを階段のとちゅうに吊るし、じぶんのものは自室に持ち帰った。それでついでに、ズボンなどハンガーにかけずラックに乗せたままで散らかっていた収納のなかを整理したというか、服の配置をととのえてすべてハンガーにかけておいた。そうすると六時一五分くらいだったのではないか。そこからふたたび「読みかえし」ノートを読んだ。したがってきょうは264番から279番までたくさん読むことができ、よろしい。リルケの詩がいくつもあったが、詩を声に出して読むとやはりなにか散文の文章とはちがう快楽が生まれる。あれがやはり歌の感覚というものなのだろうか。散文でもそういうふうになることは不可能ではないし、文学だけでなく思想方面の文章、それこそきょう読んだ熊野純彦レヴィナス』の文などは、そういうふうになる契機が比較的起こり得そうだった。そもそもソクラテスプラトン以前においては詩と哲学に区別などなかったのだ。パルメニデスは詩のかたちで存在論を述べたわけだし、ヘラクレイトスなど、断片としてつたえられているそれいぜんの哲学者の文も、だいたい詩的な箴言みたいなかたちだったはず。プラトンの野郎が勝手に、詩人とは真実の模倣物をさらに模倣するいやしい虚偽の徒であると断罪しておとしめたにすぎない。しかし作中にそういう主張を書きつけたプラトンが、もっぱら対話篇という文学的な形式をえらんだというのはどういうことなのか?
  • 食事。新聞、フィリピンのドゥテルテ大統領が苦境に立たされていると。麻薬対策として容疑者を殺しまくった件が司法省の調査を受けており、検死記録がない案件がいくつか確認されたとか。司法省の大臣だか担当者は必要があればさらなる調査をおこなうみたいな言を述べているようで、記事には国民の批判にたいするガス抜き的な意味合いでおこなったのだろうみたいなことが書かれてあったのだけれど、となるとこの報道はドゥテルテがみずから指示してやらせたと見ているのだろうか。それが実情なのか、司法大臣が主導したのか、ほかのうごきがあったのか、よくわからない。いずれにしても、任期を終えても権力を握りつづけようとする姿勢が国民から反発をまねいており、娘のサラを大統領の座につけようという目論見があやうくなりつつあるということだった。
  • 食後は緑茶を飲んで一服したあと日記。きのうのことを仕上げ、きょうのこともとちゅうまで綴る。一〇時四〇分で母親が風呂を出たので入浴へ。母親がはいったあとはいつも湯がやたら熱くなっていて、こう寒くなってくるとからだへの負担がおおきいので、たおれないようにはいるまえに慎重にからだに掛け湯をする。(……)
  • 風呂からもどってくるときょうのことをここまで記し、いまは零時半を越えたところ。
  • それからなにをしたのか、さっぱりおもいだせない。一時二〇分かそのくらいから音楽を聞きつつ休んだことはおぼえているのだが。ベッドにころがってすこし脚をマッサージしたのだったか。ながした音楽というのはBill Evans Trio『Portrait In Jazz』で、臥位になって楽にしながらひさしぶりにEvansを聞こうとおもったのだったが、だいたいのところ意識が曖昧化し、音楽をたしかに聞き取っていた時間はほとんどなかった。二時を越えて切りをつけたあともポール・ド・マンをすこしだけ読んだくらいで大したことはせず、四時直前に就寝。