2021/10/31, Sun.

 変化を希求せよ。おお 焔の働きに感動せよ。
 焔の中でこそ、一つの物がきみから離れ、変容の華々しさを示す。
 地上のものを支配するあの構想の精神は
 図形の躍動するなかで転換する点のみを好む。

 留まろうと身を閉ざすものは、それだけでもう硬直した存在だ。
 目立たない灰色の保護を受け、それで自分が安全だと思っているのか。
 よいか、硬いものでも遠方からさらに硬いものに狙われている。(end130)
 なんと、不在のハンマーがふり上げられているのだ。

 泉となって注ぎ出る者は、見る目もつ者に見分けられる。
 見る目に導かれて恍惚として、晴れやかに創られるもののなかを流れる。
 それはしばしば、開始しては終わり、終わってはまた始まる。

 巧みに開かれて、人々が感嘆しつつ通る空間は、
 離別のあとか、さらなる離別のあとに生じる。変身したダフネは、
 自らを月桂樹と認めて以来、きみが風に変身するのを願っている。

 (神品芳夫訳『リルケ詩集』(土曜美術社出版販売/新・世界現代史文庫10、二〇〇九年)、130~131; 『オルフォイスによせるソネットDie Sonette an Orpheus より; ヴェーラ・アウカマ・クノープのための墓碑として書かれる; 第二部、十二)



  • 一一時まえに離床。もともと九時まえだったかに覚めており、しかもきちんと意識が晴れていて喉を揉んだりこめかみを揉んだりしていたのだが、布団を抜け出す決定的な気力だけが起こらず、そうしていつかまた寝ついていた。きのうおととい二日連続で長くはたらいたことと、前日までの好天から今朝一気に白曇りとなって気温が下がったことが寄与したのだろう。そうして一〇時過ぎにふたたび目覚めてからもだらだらとどまり、一〇時五五分になってようやく起き上がった。水場に行ってきてからきょうは瞑想をサボり、ポール・ド・マン/土田知則訳『読むことのアレゴリー ルソー、ニーチェリルケプルーストにおける比喩的言語』(岩波書店、二〇一二年)をひらいた。もうあとすこしで終わりだったので、読み終えてしまいたかったのだ。そうして読了。いま見てみるとこの本は九月二八日に読みはじめているから一か月いじょうかかずらってしまったわけで、これはさすがに時間をつかいすぎた。もっとかるく、軽薄に、こだわらずにどんどん読んでいこう。
  • 上階へ。ジャージに着替えて食事。きのうのサバやナスとひき肉の煮物などをおかずに米。新聞は一面で衆院選の投票日をつたえており、こちらもあとで行かなければならない。国際面を見た。ニューヨーク市で職員にワクチン接種が義務付けられたが、消防士や警察官などの一部がそれに反発して抗議を起こしていると。ワクチン接種をおこなわなかった職員は一一月から無給休暇あつかいになるといい、警察消防で義務化にしたがわない人員はだいたい一割から二割くらいはいるようなので、けっこうな人手不足が発生すると。書評面はたいして見ていないが、オーシャン・ヴォーンのOn Earth Briefly We're Gorgeousの邦訳があった。地上にて僕たちはつかの間かがやく、みたいな邦題だったか。新潮クレスト・ブックス。この若い、たしかベトナム系だったかのアメリカの詩人(作家)のことは(……)さんがいぜん通話でなまえを出したことで知った。いま検索してみると、原題はOn Earth We're Briefly Gorgeousの順番で、Ocean Vuongという名はヴォーンではなくヴォンもしくはヴオンと表記することになっているようだ。ほか、国分良成にインタビューしたページがあったのでちょっと読みたい。
  • 皿と風呂を洗い、茶を持って帰室。昨晩、Bill Evans Trio『Portrait In Jazz』をベッドで聞いていたらいつの間にか意識をうしなっていたのだけれど、その後自動再生でKeith Jarrett Trio『Still Live』の"When I Fall In Love"がながれたらしく、そこで止めたままChromebookの電源を落とすのをわすれていたので、部屋にもどってきてコンピューターに触れるとそれが表示された。なぜかなんとなくEarth, Wind & Fireをながそうかという気になっており、しかもあまりにも有名な"September"を聞きたいような気がしていたのだが、せっかくだしこの『Still Live』をながすかというわけで冒頭の"My Funny Valentine"から再生した。なんだかんだふつうに良くはかんじる。Bill Evans TrioとくらべるとKeith Jarrett Standards Trioというのは高潮と沈静の対照がやはりわかりやすく、ボレロ的にとでもいうか三者一体になってじわじわと時間をかけてもりあがっていくさまもより劇的といえる。だいたいのところ音楽の構成は、しばしばピアノソロのしずかなイントロからはじまってテーマにはいり、おのおの次第に音数やちからを増しながら高まっていき、最高潮にいたったところで一気に落下する、という漸進的高揚・解放の動態をえがいているとおもう。だから必然的にカタルシスはつよくなるだろうし、ダイナミズムとしてもセクシュアルというか、要は射精的な気味もつよいはず(そのいっぽうで曲によっては、みじかい単位の進行をひたすらながながと反復しつづける、単調ともおもえるような水平的持続を見せることもおおいが――たしかBlue Noteでやった"Autumn Leaves"のアウトロがそんな感じだったとおもうし、『The Cure』のタイトル曲とか、『Tribute』の"Sun Prayer"とかもそうではなかったか)。くわえてJarrett自身が例の有名な(ばあいによっては悪名高いというべき)しぼりだすようなうなり声でもって高揚とか官能性とか苦と入り混じった快みたいなニュアンスを積極的に演出しており、それがゆえに「ピアノとセックスしている」なんて形容を過去にはあたえられたようだから、性的なイメージは余計に助長されるし、細部を聞いても展開の中盤あたりの音の埋め方など、言ってみれば「こねくりまわす」ような感触を帯びているとかんじられ、そこも愛撫と性行為としての演奏というメタファーに回収されることになる(愛撫じみた局所的な手つきのいっぽうで、そこからガッと一気に、はじけるようにしてひらく、きらびやかなするどさのフレーズもおりおりはさまれるもので、『Standards, Vol. 1』の"All The Things You Are"がそのあたり印象的だった気がする)。

京極:バルミロたちが手を染める臓器ビジネスと、心臓を神に捧げるアステカ神話が重ねられていますが、この二つを結び付けた経緯というのは何かあるんですか。

佐藤:臓器売買が先ですね。レッドマーケットと呼ばれる臓器ビジネスは、資本主義経済の行きつく先です。それを麻薬売買と並ぶ現代の悪として、書こうと思いました。

京極:心臓売買が先だったんだ。

佐藤:はい。『資本主義リアリズム』という本を読んだら、マイク・デイヴィスという批評家がジェイムズ・エルロイのクライムノベルを批判した文章が引用されていて。デイヴィスは腐敗した社会の観察者を気取るエルロイを、レーガンブッシュ政権の世界観を支えたにすぎない、とぶった切っています。この指摘に衝撃を受けて、デイヴィスに応えられないとクライムノベルは書けないなと痛感しました。アメリカの連邦議事堂に突入したQアノン信奉者を見ても分かるとおり、以前のように無邪気にフィクションと現実を区別できない時代に来ている。だったら暴力を解除する鍵も、作中にセットしておこうと。それがアステカの人身供犠を重ねて書く作業でした。

京極:信仰の最深部が社会構造の終焉部とシンクロして行くという妙ね。確かにそういう強いメッセージはあるんだけど、混沌とした意匠に覆われているために、お説教くさくなっていない。全編残虐行為だらけのこの小説で、一番胸が痛むのは、罪もない子どもたちが心臓を取り出されるシーンですよね。どこか遠くにあるように感じていた搾取の構図が、急に身近なものとして迫ってくる。ここも上手いですよね。

  • (……)
  • それで福嶋亮大の記事を読み終えると上階へ。三時四〇分ごろだった。アイロン掛けをはじめる。母親は背後、テーブルの端で雑多なものものをかたづけたり整理していたよう。(……)
  • アイロン掛けをしていると暑くなるので、ダウンジャケットは早々に脱いでいたし、とちゅうでジャージの上も脱いで肌着になっていた。終えるとそのまま台所にはいって料理。母親はスンドゥブでいいじゃんと言っていたが、麻婆豆腐にすることにして、フライパンに中村屋のソースをあけるとともに豆腐を手のひらのうえで切って投入。冷蔵庫にパックにあまった小松菜がすこしあったのでそれもよりちいさく切ってくわえ、加熱してブクブクやったあと、ネギをふんだんにおろしてくまなく全体に配置し、ごま油をかけてしあげた。それから味噌汁。タマネギと卵にしようとおもっていたのだが、冷蔵庫をのぞくと半分あまったタマネギがあったのでそれをつかったほうが良い。しかしそれだけだと具がすくないので、やはりあまっていたブナシメジのうち半分くらいを取って足すことに。だが、いざ切って鍋に入れてみるとそれでもさびしい気がしたので、先ほど麻婆豆腐につかったネギの残りも入れることにしてザクザク切った。そうしてからだを伸ばしたり洗い物をかたづけたりしながらしばらく煮たあと、味噌(たしか四国かどこかの麦味噌)を溶かして終了。具がけっこう多くなったので卵はよしとした。
  • 米も母親が磨いでおいたのをとちゅうでセットし、炊飯ボタンも押しておいた。調理を終えると五時一〇分。その他の品はなにかつくるなら母親にまかせることにして、こちらは帰室。投票に行かなければならないが、六時くらいに飯を食って七時くらいに家を出れば良いかなとおもっていた。そうしてきょうのことをここまで記しながらいま六時にかかるところで、空腹もたかまってきているのでそろそろ食事を取りたい。
  • 食事へ。じぶんでつくったもののほか、鶏肉と小松菜のソテーやサラダ。国分良成のインタビューを読んだが、それほど印象深い内容はなかった。食べ終えると皿を洗ってさっさと帰室。歯を磨き、服を着替える。面倒臭いし投票に行くだけなので、下だけ履き替えて、うえはジャージのままモッズコートを羽織ってまえを閉ざすことにした。それで財布と選挙通知だけ持って出発。ちょうど七時くらいだった。きょうの夜道はやたらとしずかで、大気がうごかずその場にとどまっており、物音がほとんど立たず空漠とした音空間がひろがっている。予想とはちがって、まったく寒くもなかった。右手、視界の端で、林の外縁にある石段上の草むらのなかにひかったものがあり、見れば投棄されたコーヒーの缶だった。(……)さんのまえあたりで、どこかの家から大相撲の行司らしき音声が漏れてきた。公営住宅では棟の階段通路をかつかつ上がる足音と、はなしている親子の声が輪郭を増幅されてひびいていたが、じきに扉の閉まる音とともに消えた。なにか甘いものが飲みたいような気がしていたので、十字路の自販機を見て、やみつきキャラメルラテというやつを帰りに買ってみるかと目星をつけて先へ。坂をのぼっていくと、ここでもしずけさがつよくきわだち、右は林で左はガードレールの先が一面草の詰まった斜面になっているにもかかわらず、虫の音もないし、やはりながれるものがほとんどないから葉っぱの触れ合う音すら立たない。視界はひらいて果てまでつづいているが空はすべて墨色に塗られて閉塞され、そのしたで市街のマンションの明かりが特にあざやかでもなく灯っている。右に折れてさらに坂をのぼり、街道へ。駅に電車が着いた直後だったのだろう、帰宅していくすがたが数人あった。車の隙をついて街道をわたり、またのぼっていくと、北の空は暗く、丘の黒さと不分明であり、眼鏡をかけてこなかったためにそのてまえの家並みのすがたやぽつりとさしはさまれる街灯の灯もややあいまいで、視界が全体として不明瞭に押し黙っていた。裏路地にはいって左に折れると、そのさきに投票所である(……)がある。そのすこしまえに低めの塀にかこわれた完全に木造の家屋が二軒あって、相当に年季の入った昭和の風情であり、こんな家はもう地方に行かないと、東京ではまず目にしないだろうな、と、木の筋が走っておりどす黒いその壁をながめた。
  • 投票。アルコールスプレーが用意されていたので手に吹きかけ、あいさつして葉書を差し出す。あるいてきたために、おもったよりも暑く、服のうちのからだに熱がこもっていた。また、こちらが着いたときには家族で来ている一組がいたが、入れ替わるようにして退出していったので投票人はじぶんただひとり、そのなかで左右からスタッフや立会人の視線にさらされるのですこし緊張して、こちらから視線をはしらせてまわりを観察する余裕もなかった。腹にものを入れたばかりだったことも多少は影響している。それで記入台で黙々と文字を書き(いくつかの記入スペースが仕切りをはさんでひとつながりになっているものだが、こちらが文字を書きつけるそのうごきですこしガタガタと揺れる)、(……)最高裁判所裁判官の国民審査はなにもわからないので特に罷免したいというあたまもない。いままでこの制度で罷免された裁判官もいないはず。数日前に新聞で今回の審査対象となる裁判官たちの情報を瞥見したが、みんなふつうに真面目そうな言い分だった。過去の判例をしらべて読むのが趣味だという仕事一徹みたいなひともいた。出身はほぼ東大法学部で、早稲田の法学部がひとりと、あとひとりどこか東大ではないひとがいた気がする。
  • それで退出。帰路はまあ来た道とはちがうルートを取るかということで駅のほうへと裏路地をすすむ。やはりきわめてしずかであり、あいかわらず大気にまったくうごきがないし、左右の家からはところどころひかりが漏れてはいるものの、そのなかにいるはずのひとの気配はすこしも伝わってこず、もう葉をだいぶ落として枝を露出させた庭の木もなんのうごきも音も見せない、と、そこで耳鳴りがはじまった。左耳からだったが、なんだかんだでしつこくつづいてさいきんときどき聞いていた、慢性のひそやかなあれとはちがって、ピー……とはっきりおおきな音で闖入し、しかしすぐに減退して去っていった。
  • 最寄り駅に出ると街道をわたっていつも帰路にとおる木の間の坂へ。ここでようやく風が生じ、路面に映っている枝葉の影がこまかくたわんだが、それでもその程度で葉擦れもほとんどなかった気がする。虫の音も一匹二匹、カチカチと散発的に立つのみで、今年は秋虫の声をぜんぜん聞かないままに過ぎたな、という気がした。くだっているあいだときおり、なんの予兆も見せずに葉っぱが落ちてきて、視界の端に音もなくひらりとあらわれると、路上に一瞬影をひらめかせてはゆるく降りながれて、かすかな着地音をもらしながらそれとぴったり一致していく。十字路に出ると先ほど見たキャラメルラテを買い、あたたかなそれをモッズコートのポケットに入れて帰宅。
  • 手洗いなどして帰室し、コーヒーを飲んだが特にうまくはなく、病みつくほどの味ではなかった。そこから入浴までは日記。二九日と三〇日をこの日で終わらせ、無事かたづけて投稿することができた。入浴に行ったのは一一時過ぎくらいで、あがっていったときテレビは『The Covers』という音楽番組を映していて、ひさしぶりに見かけたので同定するのに時間がかかったが、平原綾香が歌っていた。なんのカバーだったのかは知らない。平原綾香は父親がサックス奏者であることと、むかしなぜかヒットした例の、ホルスト組曲をもとにした"Jupiter"しか知らないし(この曲はあと、Deep PurpleのJon Lordが『Made In Japan』の"Space Truckin'"のとちゅうで弾いているのを聞いたことがある)、興味はないが、歌はずいぶんうまいなとおもった。活気のあるエモーショナルが歌唱でかなり高音まで出していたし、その高音部も、いきなりそちらに跳ね上がるみたいなメロディのながれもあったのだけれど、うまくあやまたずに突っこんでいくとともに蝶の翅のふるえめいたビブラートもおのずと付与されていた。終わったあと、リリー・フランキーといっしょにMCをつとめている若い女性が、すごいです、ゴスペルみたいで、と言っていたが、たしかにそういうかんじはあった。この曲は、Mrs. Green Apple "僕のこと"というやつだったようだ。ぜんぜん知らない。
  • 入浴後はおおむねだらだらしてしまって惜しかった。(……)四時四七分の就床となった。