なんと鳥の叫びがわれわれの心をつかむことか……
ひとたび創り出されたある叫びが。
けれども子供たちはもう、野外に遊びながら、(end131)
真実の叫び声のかたわらを叫びつつ通り過ぎる。偶然なる叫びを上げる、この、
世界空間の中間地帯へ、(そこへ、
人々が夢の中へ入るように、健やかな鳥の叫びが入っていくが)
子供たちはそこへ金切り声の楔を打ち込む。ああ われわれはどこに存在しているのか。
ますます奔放に、糸の切れた凧のように、
われわれは中空を駆ける、風で引きちぎられた笑いで縁どりをして。――叫ぶ者たちを然るべく整えよ、
うたう神よ! 彼らがざわめきつつ目を覚まし、
流れとなって頭部と竪琴を運んでいくように。(神品芳夫訳『リルケ詩集』(土曜美術社出版販売/新・世界現代史文庫10、二〇〇九年)、131~132; 『オルフォイスによせるソネット』 Die Sonette an Orpheus より; ヴェーラ・アウカマ・クノープのための墓碑として書かれる; 第二部、二十六)
- 九時のアラームで覚醒し、ベッドを抜け出して携帯を止めるときょうは二度寝にもどることもなくきちんと起床できた。水場に行って、うがいをよくしておくと、もどって瞑想。しかしきょうは瞑想というより呼吸法というかんじで、例の息を吐ききるヨガ的な深呼吸をしばらくつづけた。これをやるとじっさいからだ全体があきらかにほぐれて楽になる。九時三五分まで。きょうはいちおう陽射しが見える天気ではあったものの、雲もおおくてひかりはうっすらとしたぐあいで、いま一〇時二〇分は空がすべて白さに覆われてしまっており、太陽もわずかにつやめきを漏らすのみとなっている。
- 上階へ行き、ジャージに着替える。髪を梳かし、屈伸をして脚をやわらげると、ハムエッグを焼いて食事。両親はきょう、隔離されていた宿泊施設(といってけっこう出歩けたようだが)を出て(……)の新居にはいる兄夫婦の手伝いに出向いている。新聞はとうぜん衆院選の結果をつたえており、自民党が単独過半数をまもり、立憲民主党は振るわず敗北、維新の党が躍進して第三党に、という情報だった。四六五議席のうち自民党は二五七を取り、公示前の二七六から二〇ほど減らしはしたものの、選挙前には単独過半数はあやういのではと伝えられていたわけだから、まあ無事に済んだというところだろう。立憲民主党は一一〇から九〇に減り、野党共闘は不発に終わった。ほかはほぼ公示前と変わらないなかで(れいわ新選組と社民党はそれぞれ一議席を保ち、共産党や公明党も安定、国民民主党は八で変わらず、立花孝志のNHKと裁判をしている党は一からゼロになった)、維新の党は一一から三七と三倍いじょう増加した。大阪の小選挙区で立候補した一五名は全員当選したというから大阪での人気はどうも圧倒的らしく、今回はさらにほかの地域でも頭角をあらわし、自民党と立憲民主党からこぼれた議席をかっさらったかたちのようだ。自民はもう嫌だが野党も駄目だ、みたいなひとたちの受け皿になったとおもわれる。いまNHKのページで正式な結果を見たところ、自民党は二六一、立憲民主党は九六、維新の党は四一だった。維新の党は小選挙区だと大阪以外では兵庫で一議席取ったにすぎないのだが、比例代表によって各地で議席をかせいでいる。
- 皿を洗うともう一〇時直前だったので帰室。LINEを見るとしかし、(……)さんの体調が悪いということで通話は延期となっていたので了承。おもいがけず時間が生まれたかたちとなり、わりとありがたい。睡眠がすくないので、あとですこし休んだほうが良いとおもうが。それできょうのことをここまで記して、一〇時四五分。きょうはいつもどおり五時から労働。それまでにきのうのことを書き終えてしまいたい。あしたは「(……)」のひとびとと会うことになっているので、音源も聞いておきたい。(……)が日々音源をアップデートしまくっているのに、ぜんぜん聞けていない。
- 作:
かくり世の唄の秘密を知ったなら漂う春をつかまえにゆけ
雪融けの声はかなしい子守唄他生の夢をねむれひとの子
香月 [こうづき] よ寄るべなき夜のあとさきもおまえ次第で温情となる
- きょうのことを記したあとはそのままきのうのこともつづけて記し、正午にかかったくらいで完成した記憶がある。それから書見。きのうポール・ド・マンを読み終えてそのつぎになにを読むかまよっていたが、塚本邦雄『荊冠傳說――小說イエス・キリスト』(集英社、一九七六年)に決めた。なにかしら小説を読もうとはおもっており、『トリストラム・シャンディ』でも良かったのだけれど、じぶんは放っておくと日本人作家のものをぜんぜん読まないからなるべく日本人にしようとおもい、それでこの本にした。三島由紀夫の『金閣寺』とか、夏目漱石とか、林京子とか堀田善衛『時間』とかでも良かったのだが。それにしてもこうしてあらためて積み本を探ってみると、翻訳本にくらべて日本人の書いた小説をぜんぜん持っていないことがわかる。特にいま現役で書いているようなひとの本はほぼない。高齢者のものならあるが、いわゆる中堅とか若手みたいな、いまの文芸業界の前線でがんばっているようなひとびとの本が。
- 塚本邦雄は主には歌人だが、その歌集は持っていないくせになぜかこの小説作品だけ持っていた。二五時半現在で四〇ページくらいまですすんでいるが、いまのところとりたてて印象深い部分はない。ちょっと気になるところがないではないが、書いておくほどのことがらではないし、じぶんのなかに目立った反応をまだ呼び起こされていない。
- 一時で洗濯物を取りこみに行った。空がややさむざむと白くなったので乾ききっていない。ついでに風呂を洗っていなかったことをおもいだして洗い、もどるとさらに書見をしたり、Oasisをながして臥位のまま「読みかえし」ノートを読んだり。ストレッチをおこなって各所の筋を伸ばしやわらげると三時半過ぎ。上階に行き、「赤いきつね」を用意してきて部屋で食べた。容器を始末して箸も洗ってくるとはやくも歯磨き。そうして出発前に鶏肉をソテーしておくことに。台所に行って冷蔵庫をのぞくとタマネギやブナシメジや小松菜があまっていたので、これらをぜんぶまとめて炒めものにしてしまうことに。それで野菜を切り、鶏肉もちいさめに切り分けて調理。鶏肉からフライパンに入れて、すぐに味醂や酒などをすこしくわえて、蓋をして蒸し焼き気味にした。そのうちに野菜も足して、醤油もまわしかけると最大の火力でジャージャー炒める。しあがると洗い物をして終了。それで四時四〇分くらいだったか。部屋にもどるとBill Evans Trio『Portrait In Jazz』から冒頭の二曲のみ聞いた。枕のうえに座ってからだを立てたままで聞いたが、やや眠気が混じってあまりたしかに聞けず。そうしてOasisの"Champagne Supernova"をながして口ずさみながら服を着替え、出発へ。
- きょうも大気に動きはほとんどかんじられなかったが、まだ五時過ぎで比較的はやいためでもあるのか、虫の音は林縁からはしばし立ってピリリピリリと笛を吹く。地上はもうたそがれというほかない暗さによどんで宵の気味すらはやつよく、遺漏なく夜にかたむいているものの、空を見れば雲にしろしめされてはいても青の色味がまだのこり、よどみの点では地上とそう変わらないとしても色のさかいはあきらかで、頭上のひらきばかりはまだ夜に数歩分おくれている。ところが坂道を越えて駅に出て、ホームに立って見上げたときには青みがもはや失せており、空は雲を墨に落として暗色をいっぱいに受け容れながら、わずかな色彩を苦もなくはらい、涼しい顔で地上の夜に合流していた。
- いま二時過ぎ。歯磨きのあいだ、Seamus Coyle, "Death: can our final moment be euphoric?"(2020/2/6)(https://www.bbc.com/future/article/20200205-death-can-our-final-moment-be-euphoric(https://www.bbc.com/future/article/20200205-death-can-our-final-moment-be-euphoric))をほんのすこしだけ読んだのだけれど、BBCとか向こうのメディアって、特にすごい文章ではないのだけれど、話題の展開にしても文のながれにしても修辞にしても、読みやすくわかりやすい文として実にきちんと書かれてまとまっているなという印象で、しかも"an expert on palliative care"だと自称する人間がそれをふつうにやっているのがすごい。日本だとれっきとした学者としての身分を持っているひとでも、たとえば経済方面のウェブ記事の文章などでこのあいだも見かけたが、てにをはや構文の一貫性からしてちゃんちゃらおかしい、みたいな文が堂々とまかりとおっていることがあるのだけれど、それにたいして苦痛緩和治療の専門家であるこの著者はこともなげにDylan Thomasを引いてみせるわけである。大英帝国もアメリカ合衆国も、なんだかんだ言ってそういうところはやはりすげえなとおもう。なにしろボリス・ジョンソンでさえ大学ではラテン語とギリシャ語を修めて、『イリアス』だか『オデュッセイア』だかを暗唱できるというはなしだ。日本だと首相が『古事記』か『日本書紀』を暗唱するようなものだろうが、安倍晋三や菅義偉にそんなことができるはずもないのはどう見てもあきらかだろう。そんなことで右翼だの愛国だの大和魂だの大日本帝国だのほざいてんじゃねえとおもう。右翼や保守を自称するならまず記紀神話に万葉古今新古今、源氏物語と平家物語に、本居宣長と平田篤胤と北一輝あたりを読んでから名乗れと。とはいえ、じっさいに読んだかどうかが本質的な問題なのではない。すくなくともそういう姿勢があるかどうかが問題なのであって、安倍とか菅とかそのへんの人間がクソなのは思想的に右派だからではなく、知と歴史と言語に敬意をはらってきちんと学ぶということを知らないからだ。右翼をやるならやるで日本文化や右翼の先人たちの遺産をしっかり学んでやれとおもう。知と思想と文学をなめるんじゃない。なによりも、ことばをないがしろにするんじゃねえ。それだからよりにもよって中央省庁のレベルで、忖度だのなんだので文書記録の改竄がふつうにおこなわれて官僚が自殺するようなことになったのだ。文学とはことばを読むこととことばを書くことを学び実践するいとなみいがいのなにでもない。それを欠いて思考も政治も歴史も公共もない。ことばに敬意をはらえない国家などながつづきはしない。
- (……)
- その後は記憶なし。五所純子「透過と公差——Kyotographie 2021の4つの展示」(2021/10/5)(https://icakyoto.art/realkyoto/reviews/85739/(https://icakyoto.art/realkyoto/reviews/85739/))とNick Chater, "Could we live in a world without rules?"(2020/2/22)(https://www.bbc.com/future/article/20200220-could-we-live-in-a-world-without-rules(https://www.bbc.com/future/article/20200220-could-we-live-in-a-world-without-rules))とSeamus Coyle, "Death: can our final moment be euphoric?"(2020/2/6)(https://www.bbc.com/future/article/20200205-death-can-our-final-moment-be-euphoric(https://www.bbc.com/future/article/20200205-death-can-our-final-moment-be-euphoric))を読んでいる。