2021/11/8, Mon.

 あなたは、ご自分の詩がよくできているかどうかとおたずねになる。この私におたずねになる。あなたはその前にほかの人たちにもおたずねになった。さらにいろいろな雑誌に作品をお送りになる。ご自分の詩をほかの人の詩と比較なさる。いくつかの編集部があなたの詩を拒否すると、あなたは不安をお感じになる。さてそこで、(助言をせよとのことなので)あえて申し上げますが、このようなことはすべておやめになるようお勧めします。あなたは目を外へ向けていますが、それこそなによりもあなたが今やってはいけないことなのです。誰もあなたを指導したり支援したりすることはできません。手段は一つしかありません。ご自分の内部へ入ってお行きなさい。あなたがどうしても書かずにはいられない原因を探りなさい。その原因があなたの心の最も奥深いところに根を張っているかどうかをお験 [ため] しなさい。書くことを許されなくなったとしたら、死なずにはいられないかどうか、ご自分に正直に言ってごらんなさい。とりわけ申し上げたいのは、あなたの夜の一番静かな時間に、自分は書かねばならないかと、ご自分に向かって問うてみることです。深部にひそむ一つの答えを求めて、ご自分の心の中を掘り下げてみてください。その答えが肯定的であるなら、あなたがこの真剣な問いに対して力強く簡潔な「書かずにはいられない」とのことばで応じるだけのいわれをもっているなら、それならばあなたはそのやむにやまれぬ気持ちにしたがってご自分の人生を築いていかれたらよろしい。あなたの人生は、どんなにつまらない、とるに足らない時間であっても、すべてその内なる促しのしるしとあかしにならなくてはなりません。それならばあなたは自然に近づきなさい。それならばあなたは、この世の最初の人間のつもりで、ご自分が見るもの、体験するもの、愛するもの、失うものを、言い表わすよう試みなさい。恋愛詩を書いてはいけま(end159)せん。さしあたり、あまりによく使われるありふれた形式は避けることです。そういう形式は最も扱いにくいものです。なぜなら、すぐれた、部分的には輝かしい遺産が山ほど集まっているところで、独自なものを作り出していくには、よほどの円熟した力が必要だからです。それゆえ一般性のあるモチーフは敬遠して、あなた自身の日常が提供してくれる特殊な題材を取り上げるのがよいでしょう。ご自身のさまざまな悲しみや願い、脳裡に浮かんでは去っていくさまざまな想念や、ある美しいものの存在への確信、そういったものを描いてごらんなさい。これらすべてを、心のこもった、静かな、謙虚な誠実さをもって描いてごらんなさい。そして、自己実現のためには、あなたの周囲にある物たちや、夢に出てくる形象や、思い出の中にある事柄などをお使いなさい。ご自分の日常がどんなに貧しく見えようとも、それをなじってはいけません。責めるなら、ご自分を責めなさい。周囲の日常世界の富を呼びおこすに十分な力量の詩人にまだなっていないからだと、自分に言いきかせなさい。なぜなら、創作をする人間にとっては、貧しい日常というものはなく、取るに足らない場所など存在しません。たとえあなたが牢獄の中にいるとしても、そして四方の壁に遮られて世間の物音が何ひとつあなたの感覚に届かないにしても、それでもあなたにはご自身の少年時代が、あの貴重な、王国のような豊かさが、さまざまな思い出の宝庫があるではありませんか。そちらの方へあなたの注意を向けてください。この遠い過去のさまざまな感動を、水底から引き揚げるよう努めてください。そうすれば、あなたの個性は確固たるものとなり、あなたの孤独は拡大し、暮れゆく住処となるでしょう。すると世の人たちのたてる騒音は遠く素通りして行きます。――そしてこの内面への転向、自己の世界への沈潜から詩が生まれてくるとするなら、あなたはもう、それがよい詩かどうかなどと、人にたずねようとはなさらないでしょう。あれこれの雑誌に働きかけてご自身の作品を売りこもうと努めたりもなさらないでしょう。(end160)なぜならあなたはご自分の作品を、自然から与えられた所有物であり、あなたの生命の一片であり、一つの声であると見なすだろうからです。芸術作品は、それが必然から生まれた場合には、すぐれたものになります。このような作品生成の事情にこそ作品の価値判断の規準も存在します。ほかの規準は存在しません。ですから、カプスさん、あなたに助言できるとすれば、このことだけです。すなわち、ご自身の内面に入って行き、あなたの生命の根源となる深部を探究することです。作品の拠ってきたるゆえんを知ることによって、あなたは、作品を書かねばならないかどうかの問いに対する答えを見つけるでしょう。答えを解明しようなどとせず、聞こえてくるままに受け取ればよろしい。おそらく、あなたには芸術家たる天命の与えられていることが明らかになるでしょう。それならあなたはその運命を自らに引受けなさい。運命の苦難と偉大さをともに担いなさい。外部からもたらされるかもしれない報酬のことなどたずねてはいけません。なぜなら、創作する者はそれ自身が一つの世界でなければならず、自分の中に、そしてその人が密接に結びついた自然の中にすべてを見つけ出さなければならないからです。
 (神品芳夫訳『リルケ詩集』(土曜美術社出版販売/新・世界現代史文庫10、二〇〇九年)、159~161; 「若き詩人への手紙」より; フランツ・クサヴァー・カプス宛; パリにて、一九〇三年二月十七日付)



  • 七時だったか八時だったか、アラームの鳴るまえにいちど覚醒。寝つく。そうして八時半にしかけておいたアラームで正式に目覚め、寝床でしばらく深呼吸などしたのち、九時をまわって起き上がった。肩をぐるぐるまわして息をととのえ、水場に行ってきてから瞑想。二〇分ほど座った。きょうの天気は曇りで、午後にかけてときおり陽の色が見えないでもなかったが、基本的には白く平板。昨晩の遅くには雨らしき音もすこし聞いた。
  • 上階へ行き、ハムエッグを焼いて食事。新聞、二面にミャンマーについての記事。NLD(国民民主連盟)が圧勝した昨年の選挙から一年と。国軍系の政党(連邦団結発展党)はたしか三三議席とかそのくらいしか得られず、NLDは単独で過半数を獲得したのだが、国軍は選挙に不正があったといちゃもんをつけ、やり直しの要求にNLDが応じなかったので二月にクーデターを起こしたというのが現状の背景にあるながれである。国軍は来年だか再来年だかに選挙実施を予定しているが、その前に選挙法を民主派に都合の悪いように変えて、国軍系勢力が勝てるようにしようともくろんでいるらしい。アウン・サン・スー・チーらも拘束されて裁判にかけられているが、もし有罪となったら立候補はできなくなると。
  • 皿を洗い、一〇時がもう間近だったので風呂はあとにして帰室。コンピューターを持って隣室へ。(……)
  • 自室にもどり、ベッドで脚を揉みながら「読みかえし」を読んだ。三時で階を上がり、風呂洗い。洗剤がほぼ切れていたので詰替え用のパッケージを開封し、ボトルにあたらしくそそいでおく。そうしてよく出るようになった洗剤をつかって浴槽を念入りに洗い、排水溝カバーに引っかかったよくわからないゴミもブラシで取り除いておいた。さいちゅう、父親が、また郵便を出してくれと言ってきたので了承。たぶん(……)関連のものではないか。上階に上がったとき、そちらの方面のひとと電話をしていたので。
  • きのうの大根の煮物のあまりと、白米に鮭の振りかけをかけて用意し、自室へ。ウェブを見つつ食事。それからきょうのことをここまで記してちょうど四時。
  • (……)さんのブログ、一一月六日より。一年前の二〇二〇年一一月六日からの引用の一部。

 同じことが, 空間ではなく時間において起こるとどうなるでしょうか? 私たちはふつう, 過去から現在を経て未来に至る, という時間の「ちゃんとした方向づけ=良識」があることを前提としています。だからこそ, 自己を過去から現在を経て未来へと至るひとつのストーリーの中で把握することができるのです。では, もしそのような時間における「良識=ちゃんとした方向づけ」が機能しなかったとしたら, どうなるのでしょうか。パースラインのない世界と同じように, 過去・現在・未来の出来事がすべて等価なものとして扱われるようになるはずです。つまり, 東田さんが言うように, ひとつの流れにむかって記憶を方向づける「線」によってまとめあげられていない, 「点の集まり」としての記憶の中を生きることになるはずです。おそらくは, それこそが自閉症の人々の生きる時間なのです。実際, ドゥルーズは, 彼が「純粋な出来事」と呼ぶ世界においては, ひとつひとつの出来事は「決して現前しない〔=現在にあらわれない〕が, 常に既に過ぎ去っており, かついまだ来たるべき jamais présent, mais toujours déjà passé et encore à venir」という時間性をもっていると言っています。つまり, 過去から現在を経て未来へと進む方向に整序されていないパラドキシカルな時間の世界こそが, ドゥルーズが描き出そうとした時間なのです(…)。
 なお, 後にとりあげる現象学者の村上靖彦は, 『自閉症現象学』(2008)の中で「低機能の自閉症においては時間は流れない」「自閉症児は, 時間流の感覚を持たない永遠の現在に生きている可能性がある」と述べています。「時間は流れない」「永遠の現在」と言われると, われわれ精神病理学を学ぶ者としては, それはどんな時間の停止なのかと考えなくてはいけません。なぜなら, これは症例49のような内因性うつ病における時間の生成停止や, それによって生じる「永遠の現在」とは異なるからです。つまり自閉症では, 流れていた時間が止まるのではなくて, むしろ過去と現在と未来が一定の方向づけによって統御されずにフラットに存在するがゆえに, 「時間が流れない」のだと考えることができるわけです。
 では, このような時間の世界から, タイムスリップ現象を考えてみましょう。
 自閉症の子どもの記憶は, 過去から現在, そして未来へ不可逆的に進んでいく時間の秩序によって統御されていません。定型発達であれば, 記憶(出来事)は過去から現在へと向かう方向に従って順番に並べられた状態にあるわけですが, 自閉症の子どもにとって, 過去の記憶(出来事)は巨大なデータベースの中に, それぞれの記憶が時間によって整序されていない等価なものとして蓄積されているようなものだと考えてください。そして, カナーの症例ドナルド(症例85)のところでみたように, そのデータベースの中にあるひとつひとつの記憶(出来事)は, それぞれ別々のものとして記録されています。つまり, ひとつひとつの記憶(出来事)がそれぞれ, 他のものには還元することのできないこの性をもっているのです。
 例をあげて考えてみましょう。ふつう, 私たちは子どものときに食べた一回一回の給食がどういうものだったかなんて, 覚えていませんよね。「カレーがたくさん出たな」くらいのことでしょう。しかも, その一回一回の「カレー」がどんなものであったのかまでは覚えていないはずです。それは, 私たちが言語を使うことによって, 個々の「このカレー」という体験を, 抽象的な「カレー」という言葉によって処理したうえで記憶しているからです。しかし, おそらく自閉症の子どもの記憶は, その都度その都度の「カレー1」「カレー2」「カレー3」……が, すべてがデータベースの中に格納されているようなものなのです。つまり, 彼らの記憶は抽象化・一般化が施されていないのです。抽象化・一般化をするためには分節化された言語が必要です。定型発達の人々の記憶は, 言語を獲得し, 抽象化・一般化をすることができるようになった後のものだけであり, 抽象化・一般化が可能な言語をまだ獲得していない時期に体験したことは記憶には残らないのですが, 反対に, 自閉症の子どもの記憶は, そのような抽象化や一般化を経ていない, 「純粋な出来事」としての記憶です。杉山登志郎は, タイムスリップ現象における「その記憶体験は, 普通児において一般に想起することが出来ない年齢のものまで含まれ」ていることを指摘していますが, それは, 彼らの記憶が抽象化・一般化を経ずに記録されたものであるがゆえに, 言語獲得以前の記憶をもちうるのだということなのではないでしょうか。
松本卓也『症例でわかる精神病理学』 p.236-240)

  • 作: 「鉛筆の芯の先からはじめよう光と塵と破壊のうたを」
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