日当りのよい道のほとりに
半分に折れて窪みとなった木の幹が
以前から水を溜めているところで、
水の表面をそれ自体の中で更新しつつ
わたしは自分の渇きをいやす。水の
明かるさと素性を手首を通して受け入れる。
飲むというにはあまりにひそかな、目立たない仕草。
けれどもこの待つ姿勢は
澄んだ水をわたしの意識にもたらす。(神品芳夫訳『リルケ詩集』(土曜美術社出版販売/新・世界現代史文庫10、二〇〇九年)、193; 一九二四年六月初め、ミュゾットの館にて成立; カール・クローロウ「新しい解釈の時が始まるだろう ――リルケの創造的ためらい――」より)
- きのうのアラームをしかけたままだったので、八時半に起こされた。それがはっきりとして軽い目覚めだったので二度寝に入らず、一〇分ほど留まってからもう起床。昨晩来の雨がつづいており、朝にもかかわらずかなり暗かった。水場に行ってきてから、きょうは瞑想をするのではなくさっそく書見。また臥位になって脚をほぐしつつ、ミシェル・ピカール/及川馥・内藤雅文訳『遊びとしての読書 文学を読む楽しみ』(法政大学出版局/叢書・ウニベルシタス667、二〇〇〇年)を読んだ。一〇時一五分くらいまで読んでうえへ。両親にあいさつして食事。きのうの鍋にもはいっていたが、やたら脂の多くてベトベトしている豚肉(たしかイベリコ豚と書いてあった気がするが、これは(……)さんにもらったものだったはず)をネギといっしょに炒めて米のうえに乗せた。鍋スープもよそって卓へ。新聞からは青木保が先ごろ亡くなった中根千枝という人類学者への追悼文を寄せていた。助教授として指導してもらったと。とにかく行動力と決断のひとだったといい、五〇年代にすでにひとりでインドの奥地アッサムに行ってフィールドワークをしていたし、長野県にフィールドワークに行ったときも、男の院生ですら尻込みするような夜道を意に介さずひとりで湯を浴びに行っていたと。欧米の大学に留学するのもいいが、そのまえにじぶんのフィールドを見つけてきちんとそこを調査しなさい、そうすれば海外に留学したときにもまわりと対等にはなすことができる、と言っていたといい、それはみずからの経験にもとづいた考えだったようで、青木保もその助言にしたがってまずタイの現場を調査してから留学したと。
- 食器を洗い、風呂も洗った。洗濯機に残り湯を汲みこむポンプがまたヌルヌル汚れてきていたので、それもブラシでこすっておいた。出ると茶を支度。まだ昼なのに、南の窓のむこうはもう四時くらいになったかのような色合いで、うっすらとした青さをふくみながらやや暗んでおり、水っぽい大気をかきみだしている雨線の幕の先では川沿いの樹々が紅葉をすすめて緑をのがれた部分が多くなっていた。部屋へ。コンピューターを用意し、ウェブをちょっと見たあと「読みかえし」。竹内まりや『LOVE SONGS』をながした。一時くらいまで、一時間ほど読んだはず。それからひさしぶりにギターを弾こうという気になった。自室に持ってきててきとうにいじる。まあまあ悪くない感触。あいかわらず曲を手習う気にならないが。
- その後ふたたびベッドで書見をして、(……)四時過ぎで上階へ。買い物に出ている母親から、米だけよろしくというメールが届いていたので、ひとまず先に磨いでおくことに。アジフライとサーモンを買ったとかいうからおかずはさして必要なさそうだった。玄関の戸棚にはいっている米が尽きたのであたらしい袋を開封。あまっていた米を計量カップに入れて計るのも面倒臭く、二杯目はザルにざーっとながしこんだので正確な量がわからず、全部でまあたぶんだいたい四合くらいだろうと目分量でさだめて台所へ。炊飯器の釜を洗って米を磨ぎ、水とともに仕込んでセットしておいた。そうして居間のカーテンを閉め、もどってくるとここまできょうのことを記述。五時にさしかかろうとしている。
- 作: 「山上の結婚式をおとずれる夏と風だけ信じたいのさ」
- ブログに記事を投稿するのをわすれていたので、一一月四日から六日までを投稿。そうして上階へ。両親が帰宅していた。アイロン掛けをおこなう。その合間、テレビのニュースをながめる。NHK『シブ5時』。さいしょのうちは、湯たんぽやカイロなどで容易に低温やけどになる危険を紹介し、注意をうながしていた。充電中のスマートフォンもけっこう温度が高くなるらしく、電源につないだまま布団にはいって動画を見ているうちにうとうとしてしまい、機械が顔にくっついた状態でながく過ごす、というときなど、やはり低温やけどになるという。それが終わるとニュースにはいって、なかに意識を惹かれたのは、都内の中高一貫校に通っていて卒業したトランスジェンダーのひとが一万名いじょうの署名をあつめ、性別にかかわらず制服を選択できるような制度に変えるべきだと都教委に提言したとの件。このひとは戸籍上は男性とされているが精神的には女性であり、女子は現在スカートもスラックスも選べるが、男子にはスカートを身につけるという選択肢はあたえられていないからスラックスを着なければならず、非常に違和感をおぼえる状態で三年間を過ごすことになったと。そのあとはまたつうじょうのニュースをはなれて、初心者でも手軽にあつかえて騒音も気にしなくていい電子楽器が、コロナウイルスで自宅待機の時間が増えたこともあって人気をあつめている、という話題がとりあげられた。
- アイロン掛けを終えると室に帰り、七日の日曜日のことを記述。六時半ごろでしあげて投稿し、きょうのこともまたここまで書き足した。
- 六時四五分くらいだった。夕食へ。両親が買ってきたカキフライとアジフライ、それにモヤシ炒めを一皿に乗せ、ほか、白米と昼につくられた麺の残り、それに生サラダ。アジフライは一枚がやたらとおおきなもので、カキフライもあるしそんなに食べる気が起こらなかったので半分にした。食事を取りつつ夕刊を読む。「日本史アップデート」。遊女の歴史について。日本で売春が生まれたのは九世紀ごろだと見られているらしく、それいぜんの古代と呼ばれる時代は夫婦関係がゆるく、多くの人間と関係を持つことがそんなに忌避されていなかったといい、したがって性的にからだを売るということがそもそも対価として成り立たなかったらしい。そんなことわかるの? とおもうが。律令制の影響などでだんだん夫婦関係がかたまってくるとともに売春という観念が生まれ、中世期は女性が主体的になる側面もあり、当時の遊女は宴席ではべって芸事をおこなうとともに旅人に宿を貸してからだをひさいでいたが(「ひさぐ」という語は「春をひさぐ」という言い方でしか聞いたことがなかったが、「売る」という意味なのだ)、和歌とか歌舞とかの教養があって貴族が弟子入りすることすらあったらしい(吉原の遊女もそのトップのほうになるといろいろな教養をそなえていないとつとまらないものだったと聞いたことがある)。中世期は言ってみれば女性の自営業的なものだったのだが、戦国くらいから男性が経営主体となった売春がはじまり、豊臣秀吉が京都に傾城町(というのもおもしろいなまえである)をひらくことを許可し、江戸時代はいうまでもなく吉原に京都大阪と色街があって、江戸の後半になると売上の一割を役所におさめるというかたちで管理売春がおこなわれていた。営業の独占を許可して売春を公認するかわりに税を取り、また非公認の売春は店のほうにとりしまりをまかせていたらしいが、遊女のあつかいはやはりひどい場所もあったようで、そのあたり遊女自身が書いた日記の研究などがさいきんすすんでいるという。記事に紹介されていたところでは「梅本記」という史料があるらしく、店のひどい仕打ちに耐えかねて(飯を食わせてもらえずに仕置きされたと)火をつけて告発をはかった遊女が書いた日記がそのなかにふくまれており、これは裁判資料としてあつかわれたので残ったらしい。ちなみに一八四二年くらいには(ということは水野忠邦のころだろうが)遊女や歌舞伎役者を浮世絵に描くのが禁じられている(たぶんそれいぜん、松平定信のときもやっていたのではないかとおもうのだが)。明治になると娼妓解放令とかいうものが出されて、公的な管理売春ではなくて個々人で勝手にやれ、というようなことになったようで、そうなると娼婦を「みだらな女」とみなす差別的な観念が強化されたと。江戸時代までは家が貧しくて身売りに出なければならず、みたいな事情が多くてそのあたりまだ比較的ゆるかったようで、明治になっても現実にはそういう事情はとうぜん多かったというが、法的には、また観念のレベルでは自分の好きでやっているということになるわけで、そうなると色事が好きなあばずれ、みたいな捉えられかたになるのだろう。吉原の遊女のほうは、いわばトップアイドルみたいなものだった、という俗説をよく聞くものだが。ほんとうにそう言えるのかどうかわからないが、遊女を描いた浮世絵は男性だけでなく女性も楽しんで見ていたとおもわれるらしく、この記事にコメントを寄せた学者は、ファッション雑誌を見るような感じで、派手できらびやかで奇抜だったりする装いを非日常的な世界として楽しんでいたのではないか、と言っていた。
- 編集委員鵜飼哲夫の「ああ言えばこう聞く」も読んだ。大野和士という指揮者。コロナウイルスの状況下でも人間が人間として生きるために芸術は必要であり、不要不急のものなどではないと。「困難は、私たち音楽家と聴衆の意識を決定的に、しかもポジティブな方向に変えたと思います」ということばが力強い。「再開後、最初の演奏会では観客の数もオーケストラの数も制限しましたが、演奏後に聞いた楽団員の言葉は忘れられません。/「これまでは満座の拍手を当たり前と思っていた。しかし、今回の拍手は数は少ないが、これほど胸に突き刺さる経験をしたことはなかった」」とのこと。このひとは九〇年代、三〇代のときにクロアチア紛争下でザグレブ交響楽団の指揮をしていたといい、空襲がたびたび起こるなかで練習も公演もおこなったらしい。
その時の光景で忘れられないのは、灯火管制で暗くなった道を黙々と集まってくる人々が会場でつくるムンムンとした熱気です。そして演奏すると立ち上がり、涙する人もいる。それが終わるとまたひっそりと家路につく。
人間は食べるためだけに生きているのではなく、心があり、イマジネーションがあり、感動を求めている。しかし、心は、耕し、水をささないとしおれてしまう。
心に水をさすことは人間にしかできない。そして音楽をはじめ文化芸術は、心を震わせ、イマジネーションの翼を広げ、人間が人間らしく生きるための糧です。それが不要不急のわけがありません。
- 言い分そのものとしてはありきたりだとしても、じっさいに険しい状況のなかでこのことばを生きてきた人間のことばである。おなじころ、あるいはそう遠くないころ、そう遠くない隣国の地で、スーザン・ソンタグが、やはり空襲と銃撃が頻発する情勢下で、『ゴドーを待ちながら』の演出と練習と公演をおこなっていたはずである。『サラエボで、ゴドーを待ちながら』は感動的な文章だった。もういちど読みたい。ソンタグは『反解釈』と『サラエボで、ゴドーを待ちながら』と『書くこと、ロラン・バルトについて』の三冊をむかし読んだが、すべてもういちど読みたい。
- 食事を終えると皿を洗い、緑茶を用意。まえのものがなくなったので、「辻利一本店」というメーカーのものをあらたに開封した。たぶん有名な会社なのだとおもう。宇治茶らしい。それで室に帰ってくると、(……)さんのブログを読んだ。最新の一一月八日。いちばんはじめ、授業のために朝にバスに乗って学院まで移動しているところを読みながら、え、なんかめちゃくちゃなつかしいな、という感覚がきざした。授業じたいは先日にもういちどやっているようだが、その日の記事はきちんと読んでいなかった。なつかしいという感覚とはちがうが、きのう読んだ記事で、飯屋の老板と再会してこころよくむかえられているのを見たときにも、なんかめちゃくちゃいい雰囲気だなという印象をえていた。
- 一一月五日の冒頭より。ここでの「ディスクール」は、いわゆる「物語」(個々人が世界と生を分節し認識するにあたっての意味論的体系)とだいたい置き換え可能な語としてつかわれているように見える。ディスクールってそういう概念だったのか、とおもった。
ディスクールの構造は、真理に支えられた動因が他者に働きかけ、生産物を生み出させるものであり、その際に真理と生産物のあいだは遮断されているのであった。主人のディスクールでは、主体(/S)と対象aのあいだが遮断されていた(…)。ラカンは、この遮断がファンタスム(/S◇a)に相当し、享楽に対するバリアとしての機能を果たしていると言っている。この議論は、六〇年代の神経症論と接続することができる。それによれば、神経症者はファンタスムをつかって対象aの顕現から身を守っているのであった(…)。反対に、精神病者はファンタスムの形成に必要な「対象aの抽出」を行えておらず、ファンタスムをうまく形成できていない。これは、精神病者にはディスクールの構造があてはまらない、ということを意味している。後にラカンが述べるように、精神病者は「ディスクールの外部 hors-discours」(AE490)にいるのである。
ディスクールの外部にあるものとしての精神病。この図式がもっともよくあてはまるのは、スキゾフレニーである(五〇年代ラカンの精神病のパラダイムがシュレーバーのようなパラノイアであったとすれば、六〇年代後半から七〇年代前半にかけてのそれは明らかにスキゾフレニーである。(…))。実際、七二年の「エトゥルディ」のなかで、ラカンはスキゾフレニーについて次のように述べている。いわゆるスキゾフレニー患者 le dit schizophréne は、いかなる既成のディスクールにも捉えられていないことによって特徴づけられる。(AE47/4, (…))
スキゾフレニー患者は、ディスクールに従属しておらず、ディスクールの外部にいる。このような考えは、すでに六六年の論文「哲学科学生への応答」のなかにも胚胎されていた。そこでは、スキゾフレニー患者は「あらゆる社会的関係の根源に迫るイロニー ironie を備えている」と規定されていた(AE209)。ここでいうイロニーとは、「大他者は存在しないこと、社会的紐帯はその根底において詐欺であること、みせかけ semblant でないようなディスクールは存在しないこと」を示す機能のことである(Miller, 1993a)。つまり、スキゾフレニー患者は、神経症者が依拠している通常の主人のディスクールが正常なものでも普遍的なものでもないことを暴露する機能をもっているのである。イロニーと呼ばれているのは、ディスクールに対するこのようなニヒリズム的態度である。
スキゾフレニー患者のこのようなあり方の発見は、既成のディスクールを相対化することを可能にする。つまり、どのディスクールが正統なものなのかは決定不可能であり、さらには「既成のディスクールとラカンが呼ぶものは、ノーマルな妄想 délires normaux のことである」(Miller, 2004)とすら言うことができるのである。エディプスコンプレクスに対応するものとしての主人のディスクールは、たしかに「正常」と地続きの神経症者を生み出す。しかし、スキゾフレニーの側からみた場合、主人のディスクールは「正常」なものでは決してなく、むしろ「妄想」のヴァリアントのひとつなのである。すなわち、神経症者が依拠する象徴秩序もまた「妄想」のひとつであり、その意味で「人はみな妄想する tout le monde délire」とすら言いうるのである。このようなパースペクティヴを、ミレール(1993a)は「妄想の普遍的臨床 clinique universelle du délire」と呼んでいる。
(松本卓也『人はみな妄想する――ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』 p.322-324)
- BGMにOasisのライブ盤である『Familiar To Millions』をながしていたのだが、一〇曲目(CDだったらディスク一の最終曲)である"Stand By Me"がめちゃくちゃいいじゃんとおもった。先日聞いたときにもそうおもったが。これは三枚目の『Be Here Now』にはいっているらしい。三枚目なんてほぼ聞いたおぼえがない。というかたぶん音源を持っていなかったから、まったく聞いたことがないのではないか。『Standing On The Shoulder of Giants』と『Heathen Chemistry』はほんのすこしだけ聞いた記憶がある。そのうちでも前者はほぼ聞いておらず、後者のほうがまだそれよりも多くながした。こちらのOasis体験は二枚目とファーストでほぼ尽きている。
- そのまま(……)さんのブログも読む。一一月二日の「行為と嫉妬」。
橋本治の読解によれば「行為」の力とは、「私は彼に負けてもいい」と思えることだ。私そのものを彼にぶつけたい、対象にぶつかった結果、私が砕けてもいいと思うことだ。それは対象への憧憬に基づく単純な衝動であって「そんな私」のメタ視点はない。
ここでの対象とは、彼でもあり美でもある。
「行為」の力とは、恋をする能力とも言えて、恋をする能力とは、対象を前にした自分が、それに負けたり死んだりしても良いと思うことのできる力である。
「行為」の力に欠ける場合、自分は対象を見て、対象に恋することができずに「嫉妬」する。「嫉妬」とは、自分が対象によって滅ぼされることを恐れる、対象を前にした自分が、それに負けたり死んだりすることの出来ない、そのことへの焦りや苛立ちである。
「嫉妬」する者は、やがて対象と対等の場所に立つことを回避するようになる。そして愛する対象が、自分ではなく他人に殺されるところを見たいと願う。それが権力者の欲望である。
「行為」の力とは、自分が対象と同化したい、自分が対象と等価でありたいと願う欲望の力である。それと同然でありたいと思うから、はじめて自分は、自分の死を許容できるようになる。
「嫉妬」する私は、もはや対象と自分との戦争状態だ。対象が、はじめて私に対する「革命」を仕掛けた。それに対して私は「嫉妬」と呼ばれる軍隊を動員し「反革命」のクーデターをおこして、事態を鎮圧する。
妄想の暴君たる私は再び王座に即き、そうなったとき最大の寵臣は失われていた。しかしそれでも構わない。「私」にとって重要なのは、「恋」でも「愛」でも「性欲」でもなく、暴君としてある「支配権」なのだ。それはまた、一般には「自己達成」と呼ばれるものでもあるが。
(「「三島由紀夫」とはなにものだったのか」207頁)
- (……)さんのブログは最新の一一月五日から一〇月二七日までさかのぼって読み、そうすると九時。ひさしぶりに散歩に行こうというつよい気持ちが湧いていたので、屈伸をしたり開脚をしたりして脚のすじを伸ばしてから上階へ。散歩に行くと告げて出発。マスクはつけなかった。夜道でひともほとんどいないし、マスクをつけていると眼鏡を顔にぴったりひきつけてかけることができず、顔からすこしはなしたとしても息で曇りがちなのでうまくものを見ることがむずかしくなるからだ。ジャージのうえにダウンベストをはおった格好でそとに出た。夜気に寒さはなく、路上に空気のながれは弱々しくあってさいしょのうちは顔にすこしだけ冷たかったが、それも冷え冷えとするというほどではなく、歩いているうちにかんじなくなった。雨はすでに止んでいたが空は完全に曇って暗み、とはいえ黒々とした山の影が完全に空とつながって隠れるほどではなく、稜線のあたりに靄が湧いて烟っているのも見て取れる。あるきながら道端を見やれば街灯のひかりをかけられてみずからうすぼんやりと発光する黒色体のようになった葉群は写真にとらわれたすがたのごとくくっきりしており、アスファルトも同様にまだまだ水気にまみれた表面の内からスポンジめいて光色がにじみ出ているかのようになめらかで、あたりのものものがことごとくきわだって映るあの感覚がひさしぶりにおとずれたが、それは推移していく視界のひとつひとつ、瞬間ごとが切り取られた写真であるかのような、あるいは映画のなかにはいりこんだかのような感覚で、はいりこんだといってもそのなかの登場人物や参与者として世界に根ざして生活しているのではなく、その世界のひとやものにとっては透明で認識されない幽霊のような存在としてただかたわらにあるようなありかたで、だからそれはある種の夢を見ているときの感覚にちかいのかもしれない(目の前でくりひろげられる物語やシーンのなかにじぶんの存在がなく、一員としてそれに参加するわけでもなく、自動的に展開する光景に対してただ見る者としてのみ(したがって、不在の純粋な視線として)接するという夢をときおり見ないだろうか)。参入しているわけでも参入していないわけでもない、つかず離れずの傍観者であるあわいの位相。それはまたおそらくは少量の疎外と、なによりも孤独の場所でもあるのだが、しずけさと夜歩きのむすびにおいてその位置は自由と安息の時間となる。そういう一種の非日常感、おそらくは離人感と呼ばれうるであろう感覚は、しかしとうぜん、あるいているうちにだんだんと馴らされ、まぎれ、いくらか薄れてはいく。
- このままどこかに行ってしまって、来た道をもどることなくさらに永遠にどこかに行ってしまいつづけたいな、というような気分が湧いていた。雨後のことで、十字路から通る小橋のうえでは、林の闇の奧に鳴っている沢の音のなかにポクポクという泡立ちの響きがいくらか聞き取れた。とぼしいながら虫の音もある。坂道をのぼっていくと狭い路上は街灯のひかりが拡散的に染みこんでかなり靄っており、ガードレールのむこうでは近間の樹々ととおくの山にまったく区別がつかず、完璧なまでの黒の平面としてただ溶け合っている。煙草の匂いがどこからか漂っていた。裏路地をすすんでいく。ここもやはり定期的に設置された街灯の暈が水っぽい宙に漏れ出して、大気がぼんやりと希薄化されている。空は非常に暗く、裸の枝々を天に突き立てた庭木のその先が暗色のなかに溶けこんで、眼鏡をかけていてすら見分けがつかないくらいだ。街道に出ればさすがに車はいくらか走っているが通るひとはない。西に折れておもてを行った。無人のガソリンスタンドがシャッターを閉ざし、うごかぬ機器を配置したあいだにひろい空間をさらしており、すこし先ではコンビニだけが、衛生的な、人畜無害ぶった蛍光灯のひかりをあからさまに誇示して夜のなかに白いオアシスをつくり差しこんでいる。駐車場の前に差しかかるとちょうど車がやってきて停まり、そこから降りたふたりはよく見なかったがたぶん中年くらいの男女だったとおもう。ほかにすでに停まっていた車は一台だけで、駐車場の片側にはあまりまっすぐな線には揃えられずにカラーコーンが配置され(端の駐車スペースを一部進入できないように区切っているふうに見えたのだが、そうだとして理由はわからない)、奥の敷地際に四つ設けられている看板(「お客様へのお願い」が記されてある)にもちいさな灯火が付属して文字を読めるように照らしていた。店舗入口のうえには乃木坂46の新作の予約開始だったかの情報が横に細長い紙で掲示されており、特典として生写真がつくとか書かれてあったとおもう。その奥の店内は天井に何本もの蛍光灯がまっすぐに複数列でならんだ下、ややクリーム色っぽいような白さのひかりが均一に満ちてまさにひとつの隈もなく空間を埋め尽くしており、この商店全体が切り出された石材じみて巨大な四角いひかりのかたまりであるかのようだ。店舗の横には空調方面のおおきな室外機や変電機がいくつか設置されて、発出するというよりはむしろ吸いこむような鈍い稼働音を立てており、その脇に立った電柱にはかなり古びた見た目の、消火器がはいっているらしい箱(表面に薄れた「消火器」の文字が記されてあり、毀損された赤の色で、棺のような印象を受ける)がとりつけられていた。コンビニを過ぎれば視界の最奥までまっすぐ伸びていく道路の左右にあるのはほぼ人家のみで、だから道沿いにひかりが漏れることもなく(家のまえまで来ればあかるんでいる窓もおりおりあるが、道を見通すかぎりでは左右から漏れ出すほどのひかりは見られない)、色味と言って途上の宙にふたつ浮かんだ信号のまるい青緑色と、正面へと走り去っていく一台が尻にともした赤い点くらい、その車が果てに消えればいまはながれがとぎれているところで静寂が満ちむすばれて、ピリリピリリというよりは、トゥウィットゥウィットゥウィットゥウィッみたいに聞こえる虫の声が通りの向かい(右側、すなわち北側)からあらわれる。建物がとぎれると左のかなたに川向こうの土地がひらき、山影を背後に負って這っている黒さのなか、一本のひかりの棒をこまかく砕いてパラパラばら撒いたような街灯の散在が見られるが、一部の山際にも霧のような乳白色のあかるみがぼんやり湧いて浮かんでいるのは、山の向こうの町の明かりが空に投射されているということなのか? 行く手には(……)駅があり、そこから何人か出てきて帰路につくのが見られ、ついで電車が発ってさらに奥へと去っていく音も聞こえたが、電車がこの駅に来るまでの響きをなぜかまったく聞かなかった。駅の前まで来ると横断歩道を渡って、来た道の反対側をそのまま引き返してあるいた。とちゅうに長く垣根がつづくところがあって、よくあるあのこまかくギザギザしたかんじの葉で一様に区切られているその向こうに庭木がやたらたくさん生えており、枝ぶりを詰められた裸木も常緑のうからもあり松の木などはざらつきながらもいくらか垂れ下がった葉にみずみずしく滴を帯びているが、ここは一家の所有している土地なのだろうか。それにしてはずいぶんひろく、内側に建物もいくつかあるようだったが。いままでまったく意識したことがなかったが、こんなところに土地持ちがいたのだろうか。
- 街道沿いをそのまま東へずっとあるいた。ゆるいカーブになったところで先から車があらわれるのを見たときに、むかしはここで車が車線をはずれてじぶんに突っこんできて死ぬのではないか、そういう事故が起こらないとはいえないという不安をかんじていたなとおもいだし、おもえばとおくに来たもんだ、というような感慨をえた。とおくに来たもなにも、まったく移動をしないまま、生まれた土地にだらだらとどまりつづけているのだが。(……)と(……)の境になるあたりに街道に接して花壇があり、いまはなにも植えられておらず濡れたシートがちいさな襞をつくっているのみだけれど、その台座となっている丸太様の木の側面におおきなナメクジがいてからだを伸ばしていた。(……)の前あたりで対岸、右手にむかって空間がひらき、短時とおくの市街のほうまで見通せるようになって、果てに何個か立ち上がっているマンションのあたまから根もとちかくまで、また側面をマーブル状にいろどっている光点のつらなりもあきらかに見え、それらが戴く空は鈍い墨の色に閉ざされているが偏差なく完全に曇っているためにかえってすっきりとひろがっているようにすら映る。(……)のそばまで来ると車のとぎれた隙に、林の樹々から、あるいはその梢のあいだを落ちる水滴の音がひかえめながらいくつも差し入ってきた。
- (……)のてまえで車が路肩に寄ってきて進路を一時ふさがれるかたちになり、それは乗り手がそこの(……)のひとで車を駐車スペースに入れるためだったのだが、それで足を止めたのを機に対岸にわたった。ここの(……)はたしか(……)さんというなまえだったはずで、それで夕方に父親が、(……)さんのお母さん、亡くなったってと母親につたえていたのをおもいだした。もしかしたらここのひとの親かもしれない。
- ほんとうはもうすこし遠回りして帰るつもりだったのだが、脚がつかれてきたので最寄り駅のまえから折れることにした。いつもの勤務後の帰路である。駅の待合室にある時計を遠望するとちょうど一〇時ごろだったから、四五分か五〇分くらいは歩いたわけだ。木の間の坂道はあたりから水滴のささめきが絶え間なく立つ。街灯のうちいくつかは枝葉がすぐそばにあって、葉っぱが至近からひかりをつよく直射されて白いかがやきを鏤められているが、そうなると台座の一枚一枚は緑とも見えず、もはや緑とか色とかそういうことではないな、とおもった。だからといってなんなのかはわからないのだが。色を剝奪された純粋な明暗の組み合わせということなのか? ありがちな言い分だが。
- 坂を出て自宅までの平らな道を行くあいだ、行きと同様砂のようなひかりでなめらかに均されたアスファルトや、道沿いの家々や葉群や屋根の裏の暗い空などを見やりつつ、これらのすべてが書くに値するのだとおもった。どんなものであれこの世にあるかぎり、そこにあるというだけでうたがいなく書くに値する、書くに値しないものなどこの世界には、原理的にはなにひとつ存在しない、そうとしかおもわれないし、そうでないということがわからない、という、例のむかしながらの確信がひさしぶりに回帰してきて、俺はまだこの信仰を捨てる気はないらしい、と理解された。それらがとくにうつくしかったりすばらしかったりするわけではない。ただ、ものは、したがってすべての瞬間は、ただそこにあるというだけですでに書くに値するのだ。そうおもえなかったり、それにふさわしく行為できなかったりするのは、たんに人間の無能力をしめしているにすぎない。あるものがそこにあるということ、あるいはかつてあったということ、それを、それだけをひたすらにつたえるのが書くということであるかもしれない。ひとりの人間が意識野にひろいあげて言語化できることなど、たかが知れているとすら言えないほどにとぼしい。だから全世界のあらゆる人間がじぶんの見たもの気づいたもの生きたことをおのおのじぶんなりにすこしずつ書けば良いとおもう。それらの無数の記録たちがつながりあったり補完しあったり、重なりあったり矛盾したり、あるいはすこしもそうならず、関連を持たずにただ平行したり、ともかくも原子の行き交いのようにおびただしく交錯し、そうして世界が書物化する。もしそうなったとして、その書物はこの世界のうちの一兆分の一よりも、果てしなくはるかにちいさなことがらしか記せないだろう。
- 帰宅すると手を洗い、帰室。きょうのことを加筆。一時間が消し飛んだ。一一時半くらいになって入浴へ。髭と顔の毛を剃った。髪もそろそろ切りたい。出ると零時一五分くらいで、部屋にもどるとふたたびきょうのことを書いた。散歩は一時間ほどだったわけだが、一時間の歩みのことを記すのにその倍いじょう時間がかかるというのはどういうことなのか? 二時前で腰がこごってつづけられなくなったのでいちど寝転がり、しばらく休んでから起き上がって、カップうどんを用意してきた。それを食ったあとまた加筆して、四時前でここまで追いついた。しかしきのうのことを記せていない。
- それからちょっとだけウェブを閲覧し、四時半で消灯・就床。