2021/11/11, Thu.

 ぼくは戦争のあいだずっと日本人を憎んでいた。
 ぼくは日本人を、文明がすべてのものに自由と正義をもたらして栄えてゆく(end20)ためには滅ぼさなくてはならない、人間以下の悪魔的な生きものだと考えていた。新聞の漫画ではかれらは出っ歯のサルとして描かれていた。プロパガンダは子どもの想像をかきたてるものだ。
 ぼくは戦争ごっこで何千人もの日本兵を殺した。ぼくは「タコマの亡霊の子供ら」(『芝生の復讐』所収)という短篇を書いたが、それはぼくの六歳、七歳、八歳、九歳、十歳のときの、日本人を殺すことへの熱中ぶりを示している。ぼくは日本人を殺すのがとても上手だった。かれらを殺すのはおもしろかった。

 第二次世界大戦のあいだ、ぼくは自分ひとりで三十五万二千八百九十二人の敵兵を殺し、ひとりも負傷者を出さなかった。子どもの戦争が必要とする病院は大人よりもずっと少ない。子どもたちはどうしても戦争をただ死があるだけという側面から考えるのだ。

 戦争がついに終わったときのことをぼくはおぼえている。ぼくは映画館でデニス・モーガンの映画を見ていた。歌の入った砂漠の外人部隊ものだったと思(end21)うが、いまは確かめようがない。とつぜんスクリーンに言葉をタイプした黄色い紙が出て、それは日本がアメリカ合衆国に降伏して第二次世界大戦は終わったというものだった。
 映画館にいたすべての人が心底から声をあげて笑いだし、無我夢中になった。通りにとびだしてみると車のクラクションが鳴っていた。暑い夏の午後だった。あらゆるものが大混乱におちいっていた。まったくの見知らぬ人どうしが抱きあい、キスしあっていた。すべての車のクラクションが鳴っていた。通りには人があふれていた。交通はすべて停止した。人々はむらがってキスしあい、笑い、クラクションを鳴らしつづける車に蟻のようにのぼり、車は有頂天になった人々でいっぱいになった。
 そうする以外に何ができただろう。
 戦争の長い歳月が終わった。
 すんだのだ。終わりになったのだ。
 ぼくたちは人間以下のサルである日本人を負かし、滅ぼした。正義と人類の権利が、都市ではなくジャングルにいるべき生きものに対して勝利をおさめた(end22)のだ。
 ぼくは十歳だった。
 そんなふうにぼくを感じていた。
 エドワード叔父さんのかたき討ちはすんだのだ。
 かれの死は日本の破滅によって清らかなものとなった。
 広島と長崎はかれの犠牲というバースデーケーキの上で誇らしげに燃えるろうそくだった。

 (リチャード・ブローティガン福間健二訳『ブローティガン 東京日記』(平凡社ライブラリー、二〇一七年)、20~23; 「はじめに さようなら、エドワード叔父さん、そしてすべてのエドワード叔父さんたち」)



  • 何度か覚めつつも一一時までだらだらと寝過ごす。ベッドでうめきながら深呼吸したり喉を揉んだりしていると、窓外で父親がネットに引っかかっているゴーヤの葉や蔓の残骸をかたづけているらしい音が立ちはじめたので、それを機に床に立った。瞑想はサボる。窓をはさんですぐ横でガサガサされてはさすがにやりづらい。それで上階に行き、洗面所で洗顔やうがいなどもろもろすませて、おじやで食事。おかずがなかったので冷凍庫をさぐると竜田揚げを発見したのでそれを三粒皿に乗せ、レンジであたためた。加熱をしているあいだは屈伸をくりかえして、起き抜けの鈍くこごっている脚に血と活力をおくる。そうして卓につき、新聞を見ながらものを食べた。いちばんうしろの社会面に細木数子の訃報が載っていたので、細木数子なんてなまえめちゃくちゃひさしぶりにおもいだしたなとおもいながら向かいの母親に、細木数子死んだってと知らせると、母親は細木数子ってだれだっけ、みたいな表情を一瞬取ったあとにおもいあたったようすで、何歳? と問うたので、八三、と告げ、それでその件は終わった。細木数子というのは、記事にも「歯に衣着せぬ物言いで人気を博した」みたいな評がみじかくあったが、「あんた、死ぬわよ」とかいう断定的で大仰なものの言い方で人気になり一時期テレビによく出ていた胡散臭い占い師で(そもそも占い師とは定義上、すべて胡散臭いのかもしれないが)、番組をやっていたのはたぶんこちらが高校生くらいのときだったろうか? 母親はたしか当時、その番組をわりと見ていたような記憶がある(というか要するに、夕食時のテレビにかかっていたような記憶がある)。いまWikipediaを見ると、二〇〇四年後半にはブームのピークをむかえたとあるので、こちらは一四歳、中学三年生だ(こちらははや生まれなので、一五歳になったのは中学三年生の三学期の一月ということになるはず)。ところでいま細木数子で検索したさいに、瀬戸内寂聴も九九歳で死んだという情報に行き当たった。細木数子にかんしてはとくになにもおもわないが、瀬戸内寂聴はすこし残念な気持ちをかんじないでもない。と言って、彼女の作品をひとつも読んだことがないのだが。単純に、九〇を越えて一〇〇歳ちかい高齢になっても文章を書きつづけていたというその一点のみで、なにがしかの尊敬の念みたいなものを勝手におぼえていたようだ。
  • 細木数子Wikipediaの経歴欄をざっと見てみたところ、「東京・渋谷に生まれた。 父・之伴の許には大野伴睦や、松葉会会長の兄などが出入りしており、暴力団関係にも幅広い人脈をもっていた」、「16歳のころにはミス渋谷に選ばれた。1955年、東京駅の高架下で「ポニー」というスタンドコーヒーの店を開く。成徳女子高等学校在学中に宝塚音楽学校に合格するが入学辞退したと言う。その後、高校を3年で中退し、店を切り盛りした。17歳~18歳の時だった」、「20歳で銀座にクラブを開くなど、若い頃から飲食店の仕事を行ってきた」という感じで、すげえなとおもった。「1982年に、独自の研究で編み出したとされる“六星占術”という占いに関する本を出版。1985年に出した『運命を読む六星占術入門』がベストセラーとなり、以降、「六星占術」に関する著作を次々に発表、「六星占術」ブームを巻き起こし、人気占い師となる」ということで、テレビに出るよりもはるかまえから人気を博していたらしい。そのつぎの段落には、「銀座のクラブのママであった1983年(45歳)に、政財界にも力を持つ事で知られる陽明学者の安岡正篤(1898年 - 1983年)と知り合い、結婚の約束を取り交わす。安岡の親族が反対するなか、安岡と交わした結婚誓約書をもとに単独で婚姻届を提出し、受理された。しかし、当時安岡は85歳と高齢であり、入院先の病院での検査では認知症の症状があったとも言われ[10]、安岡の親族が「婚姻の無効」の調停申し立てを行った翌月、安岡は他界した[8]。調停により、婚姻は無効であるとした和解が成立し、初七日には籍を抜くこととなった」というゴタゴタが記されてあるが、「陽明学者」という語にちょっと笑うというか、やっぱりそっち方面なのね、とおもった。この安岡正篤という人物についてはなにも知らなかったが、これもWikipediaを見てみると「日本主義の立場から保守派の長老として戦前戦後に亘って活躍した」ということで右翼の大御所みたいな存在だったらしく、逸話欄にたとえば、「戦前にあっては血盟団事件に「金鶏学院」の関係者が多く連座したため安岡も一時関与を疑われた。井上日召は、「血盟団事件の検挙の発端は、金鶏学院への波及を恐れた安岡が当局に密告したため」と、戦後に証言している[13]。また安岡が、五・一五事件二・二六事件の首謀者の一員とされる大川周明北一輝東京帝国大学時代に親交があったことからこれらの事件への関与を指摘する向きもあるが、安岡自身はこのことについて何も語っておらず、現在ではこれらへの関与を否定する見方が一般的である」などとあって、井上日召大川周明北一輝という固有名詞のならびにつらなってるのやべえなとおもった。「戦時中からすでに政治家や右翼活動家に影響力があったため、GHQより戦犯容疑がかかったが、中華民国の蔣介石が「ヤスオカほどの人物を戦犯にするのは間違いだ」とGHQを説得し逮捕されなかった」、「戦後にあっては、自民党政治の中で東洋宰相学、帝王学に立脚し、「実践的人物学」、「活きた人間学」を元に多くの政治家や財界人の精神的指導者や御意見番の位置にあった。安岡を信奉し、師と仰いだとして知られる政治家には吉田茂池田勇人[注釈 12]、佐藤栄作[注釈 13]、福田赳夫大平正芳など多くの首相が挙げられる[15]。岸信介以降の歴代首相(田中角栄三木武夫を除く)に施政方針演説の推敲を依頼されていたと言われる」、「晩年陽明学に傾倒した三島由紀夫は、自決の2年前の1968年(昭和43年)5月26日付けで安岡に手紙を書いている[18]。この手紙では、当時入手困難だった安岡の著作を、伊沢甲子麿を通じ安岡本人から贈ってもらったことへの謝辞を「(安岡)先生のやうな真の学問に学ぶことのできる倖せ」と言い表すと共に、朱子学に傾倒する江藤淳や徂徠学に傾倒する丸山眞男への批判が述べられている[18][注釈 15]。三島の自決後、安岡は新聞が論評した三島流の「知行合一」を「動機の純粋を尊んで、結果の如何を問わないなんていう、そんなものは学問でもなく真理でもない」と批判している一方、三島個人については「惜しい人物であった。もう少し早く先師(王陽明)に触れていたら・・・」と述べたという」などもろもろ。
  • 図書館に行きたいとおもっており、母親も出かけるようすだったので(夕方に図書館(彼女のばあいは分館のほうだが)にリクエスト本を取りに行くとのことだった)、乗せていってくれないかと頼んで了承を得た。その後、アイロン掛けをしていたさいちゅうに、四時ごろに出るということに決定。外出をおもいたったのはひとつには茶を買おうとおもったからで、というのはきのうだかおとといだかに開封した「辻利」の茶がぜんぜんうまくないものだったからで、母親もそう言っていた。われわれの舌が粗雑である可能性もあるが、入手元を聞けば(……)ちゃんの姉の家の母親(義母)だかが亡くなった葬式の返礼としてもらったということだったので、それならまずくてもおかしくはないと判断し、葬式の返しでもらう茶は基本的にぜんぜんうまくない、たまに例外があるが、基本的にはぜんぜんうまくない、と糾弾した。それで図書館に行くついでに「(……)」まで出向いて茶を買ってこようとおもったのだが、この茶屋は祖母など生前たぶんよく買っていたはずで、六〇〇円でも味が濃くて充実しておりわりとうまい茶があるということを知っている。図書館に行くのは新着などでなにかめぼしい本がはいっていないかひさしぶりに確認しておきたいという動機もあったが、いま読んでいるミシェル・ピカール『遊びとしての読書』がたいしておもしろくないので、いったんそれを中断してもう図書館でなにか借りてしまい、ガンガン読んでいこうとおもったのだった。さらに(……)でちゃんぽん麺を食いたいという欲求もあった。
  • それで外出までは「読みかえし」を読んだりミシェル・ピカールを読んだり、母親が洗ってくれたシーツを寝床に取りつけて整えたりなど。あとはストレッチもしっかりおこない、三時にアイロン掛けをすませてしまおうと上階に上がった。南窓の先はいくらか光度が減じたとはいえまだあかるさが満ちており、路上では日なたと蔭とが互いにななめに切りこみあって勢力をあらそっている。風はすこしもないようで、窓ガラスの下方に見られる梅の木のもう裸になった梢はぴたりと止まって鳥のおとずれすらなかったし、シュロの緑葉もその指先を揺らさずにしずまっていた。居間に人間はおらず、いまはうごいていないストーブのまえに洗濯物が小山をなして乱雑に放置されたままだった。アイロンを終えたらそれもたたもうとおもっていると、たぶん家のまえの掃き掃除をしていたらしくそとに出ていた母親がはいってきてたたみはじめた。腹を空かせた状態で外出してちゃんぽんを食い、茶屋まで腹ごなし的に歩いていき、もどってきて図書館を見ようという計画を立てていたが、しかしすでにあまりにも空腹で耐えられなかったので、バナナでも一本食ってちゃんぽんはあとまわしにしようともくろんでいると、昼に煮込んだ蕎麦ののこりがすこしだけあるというのでそれをいただくことにして、アイロン掛けをいったん中断して鍋を熱し、丼半分くらいの量をそそいで卓で食べた。それからまたアイロン掛けをおこない、米ももうなかったので新たに磨いでセットしておくだけはやり、もどるとここでようやくきょうのことを綴ったが細木数子Wikipediaなど見てしまったために二段落目を書いたところまでで時間が尽きた。身支度をする。歯を磨き、服を着替え、モッズコートを羽織り、リュックサックを持ってうえへ。四時一〇分くらいだった。母親もすでに外出の支度をすませて発てる状態だったので、赤い靴下を履き、ハンカチを尻のポケットにおさめて、父親に行ってくると告げてそとへ。四時を過ぎるとさすがに家のまえの道路にもはやひかりの色はなくなって林のつくりだす蔭があたりを占めていくらかさむざむとした雰囲気である。母親が車の用意をしているあいだにポストから新聞などを取って、一回鍵を閉めた玄関をあけなおしてなかに入れておき、道に出た車の後部座席に乗車。出発。母親は、きのう犬を連れた婦人が見ていたとおもわれる、(……)さんの宅跡の敷地に立っているイチョウについて、イチョウがすごいきれい、もう黄色くなってて、と言った。きのうあそこで、なんつうの? あの、なんか、家建てるまえにやるじゃん、祈りみたいな、と言うと、地鎮祭? という語が返ったので(母親は「じしんさい」と発音していたが)、地鎮祭やってたよ、なんかちいさい台みたいなの組んで、と知らせた。地鎮祭という語じたいは知っていたが、「祭」という語からもっと大規模にやるものだとおもっていたというか(たぶん、地鎮祭訴訟の漠然としたイメージもそれに影響していたのではないか)、あんなに小さくても地鎮祭と言って良いのかという疑問があってあれは地鎮祭なのだろうかと決めかねていたのだが、あのレベルでも地鎮祭と言って良いようだ。まあ、祭りの本義とは神に祈ること、祀ること、たてまつることなのだろうし。街道に出て走っていると、なぜか意外と道が混んでいてたびたび車のならびのなかに止まることになり、そうすると退屈をおぼえたのだが、それは顔の横の窓に覆いがかけられてあってそとのようすが見えないからで、それをはずして薄水色の空が見えるようにすればそれだけでもう退屈はしなくなる。そうして図書館の分館へ。駐車場に停まり、母親が本を受け取ってくるあいだひさしぶりに手帳にメモを取ろうとおもってモッズコートのポケットから取り出して、二項目ほど情報を書きつけたものの、すぐに面倒臭くなったというか、わざわざ書かないであたまのなかで記憶を振り返っておけばそれでいいのではないかというかんがえになって、目をつぶって水曜日のことや月曜日の通話中のことを反芻した。これはむかしわりとやっていたことで、いぜんはマジで一日のことをなるべく全部書くという強迫観念に憑かれていたので、おそらく二〇一五年頃だったとおもうが、一時期は毎晩寝るまえに寝床でその日の起床時からのことをできるかぎりこまかく想起するということを習慣にしており、一時間か二時間ねむれずにそれをおこなってからようやく寝つく、みたいなこともたまにあった。それをまたやってもいいかもしれないな、とおもった。じっさい手書きにしろパソコンに打つにしろメモを取るというのは面倒臭いのだが、じぶんのあたまをもうそのままメモにしてしまえばそれがいちばん楽なわけで、毎日寝るまえにやるまではしないとしても、おりおりの空き時間とか、風呂にはいっているときとかに多少想起の方向にあたまをまわしても悪くはない。過去の経験から実感しているが、じっさいいちど記憶をなぞっておくだけでことがらは格段におもいだしやすくなる。記憶力とは要するになにかをおぼえこむちからのことではなく、おもいだすちからのことであって、ひとがものごとをおもいだすにあたって有効な方策など反芻の一事いがいにありはしない。ものをすぐにおぼえてしまえるひとというのは、単純なあたまの能力とか意識の明晰さとかもあるにはあるだろうが、たぶん自覚的にか無自覚にか、瞬間的な反芻を高速で何度もしていたり、ちょっと時間が経ったあとにおもいだしたりしているのではないかとおもう。こちらのような人種が道をあるいていて見聞きしたことをその場であたまのなかで書いているのもそういうことで、いまはもうわざわざ能動的に全部おぼえておこうなどとはおもわないし面倒臭いので意識的にはやらないが、道をあるいていてなにか印象深いものに触れたさいにはやはりその場で勝手に言語化の機能がはたらくし、そこを過ぎても自動的に、また断続的に反芻がつづくことは多く、ずっと歩いていった先でふとまたおもいだしたり、また意味論的に見ておなじようなテーマの事物に出くわしたときにおのずと想起されることはままある(要するに、たとえばサルスベリの花を見てあそこのサルスベリはああだったなと思い返されたり、植物というテーマをつうじてべつの木や花のことが蘇ってきたり、たとえばなにか黄色いものを見てあそこのイチョウがあざやかに黄葉していたということがおもいだされるとかそういうことだ)。そういう想起の能力を意図的に訓練する方法として一日の終わりにその一日のことを覚醒時から順番にできるかぎりこまかく(見たものの視覚的イメージや、そこでじぶんがなにを感じかんがえたか、どういう印象を持ったか、こちらのばあいにはそのものをどう言語化し、どういった比喩であらわしたか、などもふくむが、とうぜんながら得た印象をその場で十全に言語化するなどできるわけがないので、のちほど文を書くときにあのときこういう印象の手触りを受けたなというその感覚をおもいだしながら、その感覚をうまくあらわすことばづかいを探すということはこちらにあっても他人にあってもふつうに多くおこなわれることで、というか体験を書くということはたぶんすべてそうなのだが、その想起された印象というのはその場で得た印象とはおそらくもうずれており、だから二次的な、ある種フィクショナルなものになっているのだけれど、ことばはそれを志向しながら組み立てられ、生成され、だから印象もそれを通して事後的に再生成されて座を占めることになる)おもいだしていくというのはとうぜんながらまあふつうに有効で、これを習慣化すればふつうに記憶力は上がるとおもう。
  • 母親はすぐにもどってきた。ふたたび出発。はしっているあいだもきのうのことなどおもいだそうとしたが、しずかでうごきのない状態でないとあたまが多方向の知覚や情報に引かれるのでなかなかやりづらい。車内にはラジオがかかっており、さいしょ、千葉県の津田沼高校の生徒がおのおのじぶんの夢を語ってパーソナリティがそれを応援するみたいなコーナーをやっていたが、そのうちに母親が番組を変え、(……)の踏切にさしかかるころには音楽がながれ、ハンマリングとプリングをちょっとからめた感じのすばやいギターリフがイントロとなっているややハードロック風味のそれはどことなく聞き覚えがあるような印象で、なつかしいような往年の雰囲気を持っており、あとSIAM SHADEの"1/3の純情な感情"にちょっと似ているような気もしたが、曲がはじまってちょっとすると母親が、これ吉川晃司? と言った。吉川晃司などまったく聞いたことがないのでわからず、判断がつかなかったが、まあそういうなまえが出たのはイメージとしてわからないでもない。ただこちらは、それかBOOWYじゃない? 氷室京介じゃない? と返して、これもボーカルの声とかギターの感じから受けたなんとなくのイメージによる当てずっぽうでそもそもBOOWYだって聞いたことはないのだが、サビにいたると鏡のなかのマリオネット、と歌われて、あ、マジじゃん、これやっぱBOOWYじゃんと判明し、じぶんでちょっとおどろいた。というかなぜこの曲がBOOWYのものだと知っているのか、それじたいじぶんで不思議なのだけれど、どこかで聞き知ったらしい。あとほかにも"ONLY YOU"だけはわかる。
  • 図書館につくまでは母親がなんやかやとはなすのにあまり反応をせず、聞き流しつつ目を閉じている時間が多かった。図書館に行くまえに、「(……)」で餃子を買いたいというので路肩に停めた車のなかで待ち、母親がすぐにもどってくると礼を言ってそこで降り、図書館に向かった。時刻は五時直前くらいだったはずで、西空の果てにもう希薄なオレンジ色がたゆたって、天上から放射状にひらき降って空間をかこむ淡青色に追いやられていた。図書館のビルのほうへ渡る横断歩道が青だったが急ぐのが面倒臭かったのであゆみをはやめず、その手前で(……)の脇にある階段をのぼって高架歩廊に踏み出し、そこを渡って図書館にはいった。もう入館時間を記録したりということはおこなわれていないが、入り口と出口は左右に分けられている。はいると足で踏むタイプの装置で手を消毒した。あとで退館の際にまた消毒したときに気づいたのだが、アルコールを足で踏んで出すタイプの消毒装置が多いのは、手で容器を押して出すと消毒前の手がたくさん触れることになり、しかも容器自体は意図しなければ消毒されないから、そこから感染がひろがる可能性を危惧してのことなのだろう。めちゃくちゃいまさらのことだとおもうが、いままでその点についてまったくかんがえたことがなかった。ただ足で踏む装置があるという認識でしかなく、その意味をかんがえたりとか、そこに疑問をおぼえたりすることがいちどもなかった。手の菌を殺してフロアをすすむと、いちおう文芸誌を表紙くらいは見ておくかというわけで左に折れ、瞥見。興味を惹かれる雑誌はない。唯一の例外は『現代詩手帖』であり、「ミャンマー詩は抵抗する」だったか、現代のミャンマー詩人の特集が組まれていたのと、また松本圭二のなまえが見えたのでそれで手に取った。松本圭二の新しい詩は「ジュライ・シンドローム」だったか、そんなタイトルだったとおもう(とおもっていま検索したが、「ジュライ・ラプソディー」のまちがいだった)。いくつかの篇による連作のようだった。それからいちおうCD棚のジャズの区画も、なにかまだ知らない目新しいなまえがないか見ておくかというわけで見分したが、とりたてたものはなし。そうして上階へ。
  • 新着図書。Bill Evansの晩年の恋人だったとかいう女性が書いた回想録的な本や、なんとかいう染色家の『失われた色を求めて』という本などを手に取って見る。また、KADOKAWAから出たルイーズ・グリュックの詩集のはじめての邦訳もあり、ひらいてみるとわりと良さそうだったのであとで借りてもいいなとおもわれた。装丁やデザインもけっこう良さげで、KADOKAWAって売れ線の本しか出していないイメージなのだが、こんな本出すんだなとおもった。まあ、ノーベル文学賞をとっているわけなので、これも売れ線といえばそうなのかもしれないが。ほか、中公新書の新刊として出た武井彩佳『歴史修正主義』があり、これは読むべき本だとおもわれる。武井彩佳というひとはホロコーストとかドイツユダヤ人とか、ホロコーストの記憶が戦後ドイツでどのように扱われたか、継承されたか、問題化されたかとか、想起の文化方面の研究とかをやっているひとだったはずで、それはこちらの興味関心から言ってきわめて重要な研究である。新着の見分を終えると哲学のほうへ。目新しいものはあまりない。ながめていていま借りて読みたいという気になるのは熊野純彦『カント 美と倫理とのはざまで』くらい。とくに、目次を見てみると、第八章のタイトルが「音楽とは一箇の「災厄」である」となっていて、これはたぶんカントのことばなのだとおもうが、格好良すぎない? とおもった。しかしいまその章の内容をちょっと覗いてみたところ、これはどうも肯定的な意味でもちいられた表現ではないようだ。カントからの引用として、「音楽には、高雅なありかたという点で、ある種の欠陥がつきまとっている。すなわち音楽は、とりわけその楽器の性状からして、求められる以上の影響を(近隣に)ひろげ、そのことでいわば押しつけがましいものとなり、かくてまた音楽会につどった者たち以外の他者たちの自由を毀損してしまう」ということばが見られるし(193)、おなじ引用内でカントはさらに、説明を嗅覚の比喩へと横滑りさせ、音楽のそうした防ぎがたい音響の「押しつけ」を、香水をふくんだハンカチによってひろがりそれをもとめない人間を「その意思に反して苦しめる」においになぞらえている。それを受けて熊野純彦は、「そのとき、音楽はひとつの災厄(Übel)となる。あるいは悪しきもの [ユーベル] となるのである。音楽が享受の一種であるかぎり、それは「たえまなく変化してゆく必要があり、くりかえし反復されるなら退屈を生まずにはおかない」(328)。ことが享受にかかわっているならば、反復とは退屈の別名であり、それはやがて「吐き気を催させる anekelnd」(326)ものとなる」と書いているので(194)、ここを読むかぎりではカントが音楽という芸術にくだしている評価は最底辺のものだとおもわれる。「音楽とは一箇の「災厄」である」という表現は、鮮烈な比喩だとおもったのに。はなしをもどすと哲学の棚でほかに気になったのは、斎藤慶典が東洋の論理みたいなものもしくは井筒俊彦について書いた選書がひとつ。あとはまえまえから気になっているものたちで、アガンベンの『哲学とはなにか』とか、ダン・ザハヴィの著作ふたつとか。
  • 哲学の区画を見終えるとその棚の反対側、フロアの一番端の通路にはいったのだが、それはサイードの『人文学と批評の使命』を再読したいような気がしていたからで、図書館のジャンル整理におけるいちばんさいしょ、すなわち全棚のはじまりの位置にある「総記」という区分にあたるこの場所(学問とは、知とは、みたいなおおきくて全般的な問題をあつかったり、教養主義とか人文学の復活みたいなことをとなえるたぐいの本がある)にいぜんこの本があって借りて読んだのだけれど、残念ながらもうなくなっていた。この著作はたしか岩波現代文庫にはいっていたはずなので、買っても良いといえば良い。山本貴光の『「百学連環」を読む』という書もここにあって、この本は出た当時くらいからけっこう気になっていたのだが、「百学連環」というのは西周のテクストで、この著作はタイトルどおりそれをじっくり丁寧に読んだものらしい。あらためてひらいて諸所を見てみると、全文を著者が訳して、みじかく区切りながら注釈や補足や考察を付してこまかく解説していく趣向のようだった。こういうしごとをじぶんもいつかやりたいなとおもった。あとでちゃんぽんを食っているときにもそのあたりかんがえたが、やるとしたらやっぱりTo The Lighthouseかなと。じぶんで翻訳しながら、本文からわかること、気づいたことを詳しく記すとともに、どうしてその訳、そういうことばづかいにしたのかなどを解説するというような。ひとが(ひとが、というか、一例としてのじぶんが、ということだが)ことばを読み、翻訳して文を書くというときに、あたまのなかでなにをかんがえているのか、そこでなにが発生しているのかを詳細に記述する実践としての読みというか。それはともかく、総記のところを見たあとはフロア壁際の新書を冷やかした。そこで気づいたのだが、窓際の学習席の利用はもう半分解禁になったらしく、座っているひとがけっこういた。それから政治学あたりを瞥見したあと、文芸のほうへフロアを渡る。瀬戸内寂聴が亡くなったので棚の側面にその特集がもうけられていた。とりあえずエッセイのさいごのほう、日記・紀行といちおうわりふられている区画を見るが、日記らしい日記はあまりない。そこから推移して漢詩のあたりを見たり(一休宗純の『狂雲集』とかちょっと気になる)、中国文学を見たり(閻連科と残雪)、英米にはいったり。ウルフの『波』は借りられているのか棚になく、平凡社ライブラリーで出ている『幕間』はあって、これを借りても良いなとおもっていたがけっきょくそうはしなかった。ここでたしか、ドナルド・キーンのことをおもいだしたというか、なんとなく日記を読みたいような気持ちがあったのだが、それで彼の『百代の過客』のことをおもいだし、これは日本人の日記文献をいろいろとりあげて論じたものらしいのだけれど、『ドナルド・キーン著作集』が批評あたりの棚にたしかそろっていたはずと想起して、そちらへ移動した。じっさいずらりとすべて揃っていて、さいしょの一巻をとってうしろのほうを見ると『百代の過客』は二巻三巻に収録されていることがわかり(三巻は近世や近代以降)、両方とも手にとって見てみたが、おもいのほかにピンとこないというか読むならやはり論より一次テクストかなという気もされて、今回は見送ることに。そのうち読みたい。それで海外文学のほうにもどり、ドイツ、フランス、ラテンアメリカ、イタリア、ロシアと順番にさらっていき、ユルスナールを読むか? とか、ガルシア=マルケスの『生きて、語り伝える』をまた読むか? とかおもいつつも通過して、棚のいちばん端のいちばん下にあるギリシャローマのところまで来て、中井久夫が編訳したリッツォスの詩集も棚に出ているうちに読まなくてはとおもいつつちょっとひらいたのみでもどし、最下段の端までくると国書刊行会が比較的さいきんに出したマヤ文学の作品が二冊あって、たぶん両方ともおなじ著者だったとおもうのだが、ひらいて見てみるとおもしろそうでこれを借りて読むかという気持ちに自然となった。ホルヘ・ミゲル・ココム・ペッチ/吉田栄人 [しげと] 『言葉の守り人』というやつ。もう一冊は、この本のいちばんうしろの「新しいマヤの文学」全三冊の広告ページを見るに、イサアク・エサウ・カリージョ・カン/アナ・パトリシア・マルティネス・フチン『夜の舞・解毒草』というやつだ。おなじ著者ではなかった。
  • それから振り返って、文庫棚。哲学をちょっと見て、宗教、政治、と瞥見しながら移行し、文学まで来るとそのあと日本の実作の区画にははいらず、単行本のほうへ。放っておくと日本の作家の作品をほんとうにぜんぜん読まないので、なにか現役のひとのやつを借りて読もうとおもっていたのだ。文芸誌に載ったのを単行本にしたやつならわりとすぐ読める分量のものも多いし。それであ行の区画から見ていったのだけれど、しかしいざこうして見分してみても、正直なかなか借りて読もうという気持ちが起こってこない。このときはスルーしてしまったが、いしいしんじとか、新聞の人生相談欄の回答を見るといつもけっこう良い感じのことを言っているし、口調も独特なので、もしかしたらおもしろいのかもしれない。蓮實重彦が『伯爵夫人』で三島由紀夫賞をあたえられたときにも、わたくしとしてはいしいしんじさんが受賞なさるのが順当だったとおもっておりますが、とか言っていたおぼえがある。金井美恵子もむろん読みたいは読みたいが、家に何冊かあるしなあとおもい(『目白雑録』シリーズがいぜんは何冊かあったはずなのだが見られなくなっており、『スタア誕生』と『カストロの尻』とあと一冊なにかの三冊しかないようだった――『カストロの尻』はむかし読んだことがある、というか金井美恵子の小説作品でじっさいに読んだことがあるのはまだそれだけだったような気がする)、川上弘美なんかも評判はいいがどうも手をのばす気にならず、黒川創も手に取ってはみたものの借りるほどの気は起きず、どうしようかなとおもいながら推移していって、坂口恭平の名を見たところで坂口恭平はいいんじゃないかとおもった。それで三冊あったのを見分し、『家の中で迷子』と『建設現場』と、あと『家族の哲学』とかいう文言がタイトルにふくまれている一冊があったのだが、『家の中で迷子』がなんとなくいちばん気になったのでこれを借りることに。表紙の写真も良い。
  • これでだいたい借りるものは出揃った感があった。すなわち、ルイーズ・グリュック『野生のアイリス』、熊野純彦『カント 美と倫理のはざまで』、ホルヘ・ミゲル・ココム・ペッチ/吉田栄人『言葉の守り人』、坂口恭平『家の中で迷子』。それで通路を出たところで、あと蓮實重彦の『「私小説」を読む』があったはずだからこれもこの機会に借りて読んでおこうかなとおもい、文庫のほうへもどった。この講談社文芸文庫の本はむかしいちど読んだはずだが、そのときはあまりわからなかったはずだし、とちゅうで挫折もしくは中断したような記憶もかすかにないではない。先ほど日本文学のところを見たときに目に留まらなかったので、もしかしてもうなくなっているかとおもったが無事発見されたのでそれを保持し、そうして哲学のところで熊野純彦を、新着棚からグリュックを回収して貸出機に寄り、手続きをした。付属のペンで画面をタッチしていると男性がひとりやってきて機械の横で番を待ちはじめたので、手続きの終わった五冊をつかんで会釈しながらはなれ、リュックサックに本を入れると、来たときにもむろん視界に入れていたが「古典の日」特集とかいう台が組まれてあり、そこにアーサー・ウェイリー訳『源氏物語』をさらに日本語に訳しかえした全四巻が置かれてあったのですこしだけ手にとって見た。これも読みたいとはおもっている。クリムトの絵を活用したきらびやかなデザインも、ちょっとけばけばしすぎるといえばそうかもしれないが、これにかんしてはうまくはまっているような気がする。
  • そうして退館へ。フロアをくだり、出口へとだらだら歩き、とちゅうで雑誌の区画の端にふっと寄って『現代思想』と『思想』のバックナンバーをちょっと見分しておいた。『現代思想』はさいきんマックス・ウェーバー特集をやっていたようだ。主に見たのは『思想』のほうで、棚の下に積まれてあるバックナンバーを取って各号の表紙をながめ、寄稿者名や論考名を確認したが、どこかの号に中島隆博の名があった。ほか、知っている名も知らない名も。後者のほうがやや多いような印象。知っている名といっても、じっさいにその文章を読んだことがないひとが大半だったはず。
  • 退館すると道に下りる。階段で若い女性ふたりとすれ違い、なんとなく中国人だろうかという気配をおぼえたが、べつにそんなことはなかったかもしれない。下の道に下り立つとバーガーかなにか食いながらあるいている高校生くらいの男子ふたりがあらわれて、彼らとすれ違って表に出ると通りを北へ。駅から発してまっすぐ伸びたいちおう目抜き通りというべき筋にあたるのだとはおもうが、田舎町のことでそんなレベルには達していない。あるきはじめてすぐの道端に女性がひとり、待ち合わせにはずいぶん半端な場所だが誰かを待つ雰囲気でたたずんでいた。クレープ屋のまえでは眼鏡をかけた地味な男性が品ができるのを待っている。すすんでいって横断歩道にかかると、向かいの角に「(……)」とかいうジムができていて、ここはたしかまえはゲームセンターがあった場所だったとおもうのだが。いままで生きてきてゲーセンであそんだことはほとんどない。したがって、レバーをガチャガチャ操作してうごかすアーケードゲームというものをやったこともほぼない。ここにあったゲームセンターも、小学生か中学生のときにいちどか二度行ったのみだったとおもう。しかしゲーセンによくあそびに行っていた子どもは、もしかしたらああいうところで世の猥雑さというものを多少知ったのかもしれない。いきがったヤンキーに絡まれてカツアゲされたりということもたまにあったようだし、脱衣麻雀をやっているおっさんがいたりとか、競馬を模して金もしくはコインを賭けるゲームなんかもあったはずだから。そこを過ぎてまっすぐ北上。田舎町とはいえこのあたりはおもてで車もつねに通るし、道路の左右にある建物は人家ではなく主にさまざまな店のたぐいで街灯も多く、午後六時の夜空はひかりの裏で黒々と色を深め、そこに見えるのは貼りついている半月だけで、星は地上から宙にひろがるあかるみによってかき消されている。街道にぶつかってさらに渡り、もうすこし北にすすんで茶屋へ。入り口に置かれていたスプレーを手にかけ、入店。右手、レジのほうにふたりがはいっており、左手では箱を開けて商品を整理しているようなようすの女性がひとり、レジのほうもふたりとも女性だがこちらのほうが若く、左手の女性は中年いじょうだった。はいってすぐ目の前に茶がそろえられており、ちょっとあたりを見回ったあと、そこから八〇〇円の品と一二〇〇円の品を取り、和菓子なんかも売られてあるので少々見たがとくに買おうとはおもわなかったので会計。会計をしてくれた女性は若いほうのひとりで、若いといってよほど若くて高校生くらいと見えたからバイトではないか。ものを買って出ると道をひきかえし、すぐちかくにあったスーパー「(……)」にはいったのはさいきんまた音読をよくするようになったし、職場でもしゃべるわけなので、龍角散のど飴を買っておきたかったからだ。はいって籠は持たずに通路を行き、区画を見つけてのど飴をゲットすると、夜食用にパンでも買っておくかということでそちらへ移動し、チョココロネと「ランチパック」の卵のやつを取って会計へ。間隔をあけてならぶ。品を持ったままなにをするでもなくあたりに置いてあるものを見たり、レジのスタッフのうごきを見たりしながらしばらく待って会計。五〇一円。礼を言って品物を受け取り、台にうつるとリュックサックに入れてなかをちょっと整理し、退店へ。このときにすれ違った店員の女性が(……)さんのように見えたのだが、もしかしたらここでバイトしているのかもしれない。そとに出ると駅のほうへと引き返していき、街道にまたぶつかるところで信号は青だったが面倒臭いのでいそがず見送り、先に横方向に通りをわたって縦の通過に許可が出るのを待った。ここはいちおう街道で幹線といって良いのかわからないが車はひっきりなしに目の前をとおりすぎていき、風切り音と道路をこするタイヤの音がなかなかさわがしい。横方向に渡ってきたときの目の前、角には「(……)」という安いラーメン屋のたぐいがあり、その店舗の脇の駐輪スペースにひとり男性が自転車を停めたところだったが、そのスペースが建物に比してあまりにもちいさくて三台か四台くらいしかはいらなそうだったので、ここは従業員用の場所なのか? とおもったくらいだが、たぶんあの男性は客だったとおもう。店内はまあたいしてひとがはいっていないが、女性の二人連れなんかがあかるい顔で談笑している。南に向かって街道を渡るとそのまままっすぐあるいていき、(……)の横まで来たところでなかにはいってフードコートへ。フードコートといっても名ばかりのじつにちいさな室ではあるが、はいってすぐ、手前のほうには高校生くらいの男女がテーブルやカウンターにけっこうあつまっており、駄弁るなり勉強するなりしていたようだ。そこから正面にすすめば右に折れるかたちでフロアはL字型をなしており、折れた先のほうは二人席のテーブルが主でひともほぼいなかったのでそちらに座ることにして、(……)でちゃんぽんを注文。半チャーハンをつけた。それで席につくとさきほど借りた蓮實重彦『「私小説」を読む』の冒頭をちょっと読みながら飯ができるのを待ち、もらっていた呼び出し用のベルが卓上で振動してガタガタ音を立てると(唐突におおきな音が立ったのでちょっとびくっとなった)品物を受け取りに行き、着席してコートを脱ぎ、腕時計とマスクをはずすと食事。まわりを見るとスマートフォンを見ながらものを食っているひともけっこういて、いまわりとそういうひとがおおいとおもうが、じぶんもむかしは飯を食うときに携帯を片手にしていて(しかしそこでいったいなにを見ていたのかまったくおもいだせないのだが)、祖母にきちんと食べな、味がわからなくなる、みたいにたびたびたしなめられたなとおもいだした。いまになればわかるが、たしかに飯を食うときは飯を食うことに集中したほうが良い。とはいえ、家では携帯のかわりにいまは新聞を読むことが多いし、このときのようにそとで食っても、たとえば上記したTo The Lighthouseのことをかんがえたりしていて、そんなに口内の味に集中しているわけではなかったが。
  • 食べ終えるとちょっとだけ息をついてさっさとその場をあとにする。返却棚に返却して礼を言って去り、通路に出るとトイレに行った。用を足し、やたらと泡立つ石鹸水で手をよく洗い、ハンカチで水気を拭きながら通路をあるいていくと(フードコートを出た目の前あたりになにか時計のベルトとかなのか小間物をなおすみたいな店がひとつあるのだけれど、そこの番をしているおっさんは客がぜんぜんこないのだろう、いつもサボっているというか、カウンターに突っ伏して寝たりしているし、この日は顔をうつむかせてやや身をかがめながらカウンターの下を見ていたが、たぶんあれはそとから見えないように携帯をいじっていたのではないか)、出口のそばにペット保険の広告が立っていたのだがそれをじっと見つめているサラリーマン風の中年男性がいた。その横からそとに出て、通りをわたって駅へ。ロータリーを回っていき、警官がふたり入り口にならんで立ってはなしながらロータリーのほうを見ている交番のあたりまで来ると(……)行きが来るというアナウンスが駅内に聞こえ、だからここで急げばふつうに間に合ったのだが急ぐのがいやなので足をはやめずに階段をのろのろのぼり、改札を抜けてエスカレーターに乗ると(……)行きから降りてきたひとびとがぞろぞろ反対側をのぼってきた。そのむこうで電車が発つにまかせ、ホームに降り立つと先のほうへ。ベンチの端がさいしょは埋まっていたのだが、タイミング良くすわっていたひとがひとり立ったのでそこにはいり、本を読もうかとおもったがそういう気にもならなかったので目を閉じて電車が来るのを待ち、着くと乗って同様に瞑目。(……)へ。乗り換えても目をつぶってこの日のことかきのうのことかを思い返していたのだが、意識がやたら明晰になっており、これはかえってすこしあやういかもなと予感していたところ、電車が発車するとじっさい緊張というかそうとうひさしぶりに小発作めいたことになり、身のうちで熱と動悸と不安が高まってドクドク言い出して、それにはそこそこボリュームのある飯を食ったばかりで腹が重くなっていることも寄与していたとおもうのだが(要するに嘔吐恐怖がすこしだけあったとおもうのだが)、ひさしぶりにその場から逃げ出したいというくらいの気持ちをかんじて目を閉じたままじっとしていることもやや困難で、座席の端についている手すりをつかんで姿勢を変えたり目をちょっとひらいては閉じたりしていたのだけれど(目をつぶったままでいると身中の不安と変化にまともに向き合わなければならないからだが、目をひらいて外界の視覚情報がはいってくればそれはそれでまたすこし緊張する)、けっきょく覚悟を決めたというかそこまでのことではないが瞑目のままじっとやりすごしていると、たしかに不安は高くなっていて逃げたいかんじもあるし動悸もつよく打ってはいるのだけれど、その不安がからだの厚い輪郭線にとりかこまれてしっかりそのなかに抑えられ(ガードされ)、多少あばれてはいるが枠内でうごめいているだけでそこから溢れ出てくる気配はなさそうだと判断されて、それで落ち着き、まもなくほぼ平常に復した。発作めいたことになりながらもそれが明晰に対象化されてガードされるというこれはいままで経験したことがなかった感覚で、というか経験したことじたいはあるのかもしれないがいままでになくガードが強固だったので経験したことがないような種とかんじられて不思議だった。俺のからだもここまで来たか、とおもった。
  • それで最寄り駅に降りるころにはなにごともなくなっていた。帰路をたどり、家のある通りまで来るとここはひかりがすくないし頭上もひろいから空があまりみだされることなく銅板めいた青さがあらわに見て取られ、弦のなかほどあたりがすこしへこんで暗んでいるためにまさしく半円型のかんざしのように見える半月や、方々に散っておのおののリズムでかすかに身じろぎしまたたいている星々らもあきらかに映っていた。帰ると手を洗って部屋に帰り、借りてきた蓮實重彦『「私小説」を読む』(講談社文芸文庫、二〇一四年/中央公論社、一九八五年)を読んだのではなかったか。そのあとのことはもう記憶にのこっていない。一一月八日の日記をしあげて投稿することはした。翌九日ももうできていたので投稿し、一〇日の水曜日はこの日はまだ完成しなかったのだったか。