ぼくたちは規則を守ってゲームをしたのではなく
規則そのものを完璧に演じたのだ
違反なしであり 罰もなかったゲームは終わった
それとも
はじまろうとしているところか?(リチャード・ブローティガン/福間健二訳『ブローティガン 東京日記』(平凡社ライブラリー、二〇一七年)、173; 「不正な恋」 Illicit Love; 東京 一九七六年六月二十八日)
- 作: 「ねむらずの街のほとりで夜を投げ星を殺そう朝が来ぬよう」
- きょうは正午までだらだらと寝床にとどまってしまった。天気は曇りで、薄白さが空の全面をおおって青さもないが、窓の右端のほうにより濃い白のひかりのボタンめいた太陽のちいさなすがたも見られた。深呼吸をくりかえしてから起き上がると瞑想はサボって上階へ。父親は階段下の室で農業の動画を見ていたよう。母親はきょう、(……)さんとランチをしに行っている。ジャージに着替えて顔を洗ったりうがいをしたり、もろもろすませると食事。ソーセージと卵のソテーに野菜スープと白米。米はもうさいごのほうで、やや固くなっていた。払うと炊飯器に水をそそいでおく。食事を取りながら、文化面に藤井聡太関連の記事がまたあったので読んだ。芦沢央 [よう] という八四年生まれのミステリー作家(さいきん将棋を題材にした小説を書いたという)が観戦経験をもとに書いていたが、ほかのプロ棋士が言ったという藤井についての評言で、「将棋で食べているのではなく、将棋を食べている」ということばがあった。筆者は、タイトル戦というのは藤井にとって目的なのではなく、将棋の真理にいたるための手段なのではないかと言っていて、まあそりゃそうだろうとおもう。
- 食器と風呂を洗って茶をつくり、帰室。もどるまえに、まだ一時まえだったのだけれど、天気も良くないしこんななかで出していても乾かないだろうとおもって洗濯物はもう取りこんでしまった。Notionを用意し、Oasisをながして「読みかえし」を音読。その後、なぜか何年かまえに買ったゲンロンカフェの東浩紀と浅田彰の対談動画のことをおもいだし、なんとなくすこしだけ再視聴してみるかという気になった。それでVimeoにアクセス。ログイン情報がわからなかったというか、いまつかっているgmailのアドレスでははいれず、アカウントをつくったときにだいたいメールが来るはずだからと情報をもとめてgmailにアクセスしたのだが、検索しても出てこず、いまはもうまったくつかっていないもうひとつのアドレスを入力してみるとこれが通った。それで視聴。いぜん浅田彰にやたら興味を持っていた時期があり、そのときにゲンロンカフェで彼がやったトークの動画はすべて購入してあった。今回見たのは二〇一四年の、東日本大震災もしくはいわゆるフクシマは思想的課題になりうるかというテーマのやつで、ほかに中沢新一も入れて鼎談したやつ、千葉雅也と東浩紀が浅田の還暦を祝ったイベントのときのやつ、あと浅田はいないが中沢新一と東浩紀のふたりで対談したやつと、全部で四つの動画が保存されてあった。それでダンベルを持って腕をあたためたり、ベッド縁にすわった状態で足先をもういっぽうの腿のうえに乗せ、先端をつかみながら引っ張ってすじを伸ばすストレッチをやったりしながら、36:45時点まで閲覧した。スツール椅子にPCを乗せるとぴったりはまってイヤフォンを挿しこむすきまもなくなってしまうとおもっていたが、単純にすこし椅子の角度をずらしてジャック部分を露出させることができたのでそれで解決。これで映画なんかも気軽に見ることができないでもない。
- その後、ここまでつづって三時。きょうは休みなので、なんとかできるだけ日記をすすめたい。一四日以降がまだまだ未完成。どの日のどのことをさきに書くかとか考慮せず、まえから現在にむけて単純に順番につづっていくという愚直さにまたもどろうかなという気になっている。それで間に合わず忘れてしまったものはしかたないと。いまもわりと忘れてしまっていることは多いし。まあそう言いながら、きょうのここまでの部分はさきに書いているのだが。
- いまもう一九日の午前三時前。きょうは一四日のながながしい日記をしまえることができてなにはともあれ良かった。たぶんきょうで四時間くらい書いたのではないか。そんなについやしてはいないか? はてなブログの投稿画面で出た表示によれば、二四〇〇〇字くらいになったよう。きょうつづったのはたぶん一万字くらいか? 坂口恭平がウェブ記事で、一日一〇枚、一年で三六五〇枚書くのを日課としており、いまは一日で五〇枚くらい書いていると言っていたが、一日一〇枚、つまり四〇〇〇字くらいだったら、こういう文章ならわりと余裕ではある。しかし五〇枚、二万字となると一日ではきつい。一五日、一六日は記憶がもうさだかでなかったので、ほぼすでに書いてあったところまでで終了とし、投稿。一七日以降はあしたがんばりたい。基本的にやはり、直近の記憶がうすれてしまうということを意に介さず、ひたむきに過去から順番に書き記すという単純さに回帰しようかなとおもった。この段落も、それに反して先に記している部分だが。ついでに触れておくと、おとといあたりにながしたMichael Feinberg『Hard Times』をいままたながしているが、これはなかなかちからがはいっていて良いジャズのようにおもわれた。
- 午後三時以降はまず一四日の記事に取り組んだような気がする。いや、ちがうか。いつもどおり「読みかえし」を読んだのではないか。それでやはりいつもどおりベッドに身投げして書見したはず。ルイーズ・グリュック/野中美峰訳『野生のアイリス』(KADOKAWA、二〇二一年)。五時にいたるまえに一四日をすこし書き足したような記憶がある。五時を間近にしてそろそろ上がろうと携帯を見ると、母親からメールがはいっていて、六時ごろになるとおもう、小僧寿しを買うとあった。そうして上階に行くと、野菜スープは少量のこっているし、サラダも昨晩につくられたものがたくさんあったので、あとは米がもうないから磨いでおき、餃子でも焼けば良いだろうとおもい、まず炊飯器の釜を洗って米をあたらしく用意した。六時半に炊けるようセットしておき、つづけて餃子も焼く。水をそそいで蓋を閉じ、蒸し焼きにしたあと、強火で水気を飛ばしながらフライパンを振る。できるとアイロン掛けへ。さほど数はない。四枚ほど。かたづくと五時四〇分くらいだった。階段のとちゅうに衣服をはこんでおき、じぶんのワイシャツは自室のほうへ。それからまた一四日の日記を書きすすめた。七時過ぎまで。
- 夕食時にたいした印象はない。寿司は海鮮丼。新聞から米中関係の記事だかを読んだのだったか? よくおぼえていない。そういえば(……)の(……)が来年家を出るらしいというはなしがあった。いまもうすでに付き合っている女性のところにたびたび行っているらしく、兄の(……)とおなじパターンである。どこに住むのかときいたが、その点は聞かなかったと。食事を終えると帰室して、またもや一四日の記事に取り組んだ。九時半だか一〇時くらいでさすがにからだがこごってつかれたので倒れ、だらだらしたあと、一一時まえに入浴に行った。湯のなかでは静止して心身を落ち着かせる。あとさいきんまたきちんと束子でからだをこするようにしているが、これも気持ちが良く、リフレッシュできる。基本的に疲労というのは皮膚表面においてかんじられるものだ。
- 出るともう零時を過ぎた。すこし日記を書くか、あるいはウェブを見るかしたあと、先ほど食わなかった餃子を白米に乗せた丼を用意してきてエネルギーを補給。その後、一四日の記事をすすめてさいごまで終えることができた。一五日と一六日もてきとうにかたづけて、それから歯磨き。口をゆすいだあとに便所にはいって腹を軽くしようとしたのだが、めずらしく便秘というか、出るものがなかなか出てこず、けっこう時間をつかった。トイレを出ると三時半だった。そのあとは夜ふかしをして、就床するのはまた四時五〇分ごろになってしまった。もうすこしはやくしたい。