2021/11/29, Mon.

 ジャック・ラカンは、以上のような、欲望の主体とシニフィアンの働きとの関係について、有名な定式を行いました。それは「シニフィアンは、主体を他のシニフィアンに対し(end138)て代表する」という命題です。ちょっとわかりにくい表現ですが、欲望を担っているような記号は欲望の主体をそのまま表すということではなくて、ひとつの欲望の記号は他の記号に対して欲望の主体を代理するものだという意味です。
 シニフィアンは、つねに他のシニフィアンとの差異のシステムをかたちづくっているわけですけれども、欲望の主体はひとつだけのシニフィアンで自己の欲望を意味することはじつはできないのだということが、ここには述べられているのです。なぜなら、ある特定のシニフィアン、自分の欲望を代理させている、その代理物としてのシニフィアンを欲しいと思わせている意味は、そのシニフィアンが他の様々なシニフィアンとの間に取り持っている関係に基づいてしか、じつは意味しない。
 具体例を考えてみますと、デパートの商品ディスプレーに並べられた色とりどりのパンプスというものがあるとしましょう。そのパンプスが、たとえば熱帯魚のように相互に輝きを反射して、キラキラと輝いているという光景を想像してみましょう。商品の相互の反映によって、**ほしいもの**としての価値を高め合っている関係だと考えてみると、その中のひとつをあなたが「ほしい」と思ったとして、その一品を熱帯魚を釣り上(end139)げるようにすくい上げたとしても、その手の中のパンプスの意味は、その前に相互にキラキラと別のパンプスとの間に作り出していた意味作用の反映をもはや担ってはいません。「欲望の主体」を大文字のS(SujetのS)、シニフィアンを小文字のs1, s2, s3 …, snのように表記すると図6-3のように表すことができる。
 この図式の分母に位置する「欲望の主体S」に対して、主体の欲望の意味作用を担うシニフィアン、s1, s2, s3 …, snは、相互にネットワークに結ばれて意味作用を作り出しています。このラカンの図式では、「欲望の主体S」に斜線が引かれていますが、これは、人間の欲望の主体というものは、言語を通して、すなわちシニフィアンを通してしか自分の欲望の意味を表すことができないということを示しています。「欲望の主体」は、自己の欲望を「記号」という、他の人々、他の話者、他の記号の使い手としての「他者の次元」を通してしか意味することができないという、精神分析でいう「原抑圧」の状況を表す図式なのです。
 (石田英敬現代思想の教科書 世界を考える知の地平15章』(ちくま学芸文庫、二〇一〇年)、138~140)



  • 一〇時に覚醒。太陽のすがたはあったが、きょうは晴れきらず、色は青いけれどやや雲が混ざりこんだ空でひかりの質感も弱かった。しばらく深呼吸をくりかえしてから一〇時二五分に離床。水場に行って用を足してくるといつもどおり瞑想。一〇時三五分から一一時一二分くらいまで。なかなかよろしい。さいしょのうち、窓外で幼児の泣きじゃくる声が聞こえていた。
  • 上階へ。便意が最高潮にたっしていたのだが我慢してジャージにきがえ、それからトイレに行って排泄。母親がカレーをつくっているところだったのでさきに髪をととのえて風呂をあらった。出てくると食事。カレーときのうの野菜スープののこり。新聞からは一面の、オミクロン株が欧州に拡散しているという記事を読んだ。きのうもベルギーで感染者が発見されたという報があったが(南アフリカへの渡航歴はなく、エジプトから帰国したひとだったという)、さらに南アフリカからオランダにはいった飛行機の客のうち六一人が陽性となり、そのうち一三人だかがオミクロン株だったという。ドイツ、イタリア、チェコデンマークでもそれぞれ発見されているようで、ヨーロッパにはもうひろく拡散していると見てよいだろう。ほか、いままで南アフリカの隣国ボツワナに、イスラエルと香港でも発見されており、ここでオーストラリアでも確認されたので、たぶん欧州のみならず世界各地にももうわりとひろがっているのだろう。そもそもさいしょ二六日に南アフリカで変異が確認されたのも九日に採取した検体だったというから二週間いじょうあいているわけで、そのあいだにオミクロン株の感染者が各地に移動していたとしてもおかしくないし、また南アフリカだけでなく世界のほかの地域でもほぼ同時的におなじ変異が発生するということもまったくないではないのではないか。いずれにしてもイギリス(イングランド)は規制緩和を撤回してマスク着用を義務化したし、各国とも外国人や一部の国からの入国を禁じたり制限したりしている。オミクロン株は変異の程度がおおきく、ウイルス表面の突起だけで三二か所の変異が見られたとかで(そのうちのいくつかはデルタ株などほかの変異と共通しているらしいが)感染力がつよいといわれており、ワクチンを二度接種していてもふつうにかかることがあるようだから、おそらくこれでまた世界的な再流行となり、とおからず日本にもそのながれが波及してくるのではないか。
  • もうひとつ、五月にイスラエルハマスの衝突があって空爆されたガザで、子どもたちが精神的な傷を負っているという記事を読んだ。ガザ地区の子どもは衝突前は三割ほどが精神的になんらかの傷をかかえているとみなされていたというが、いまではそれが九割までにたかまっていると。五月に空爆されたのは住宅が密集した地区や、いままで空爆の対象からまぬがれてきた地域がおおかったらしく、また、イスラエル空爆を事前に知らせて住民に避難をうながすための警告射撃がきちんとおこなわれなかったのではという情報もあるらしく、まえぶれなくとつぜん爆撃された恐怖の体験がひろくトラウマになっているのではないかとのこと。
  • 食事を終えると皿を洗い、白湯を持って帰室。LINEを見ると(……)があたらしい音源をあげていたので聞き、コメント。それからきょうのことをここまで記して一二時四〇分。きょうも四時からさいごまで労働なのでたいして日記が書けないのだけれど、きのうは起きたときからうすい怒りをおぼえたが、きょうはあきらめのおちつきみたいな状態にいたっている。ただできるだけのことをやればいいのだ。べつにしごとでもないし、だれにやらされているわけでもないし。これをやったところでとくになにになるわけでもないのだから。それは楽なことだ。
  • 出るまでのことで特段の印象事はのこっていない。三時四〇分ごろに家を発った。玄関を出て道を行く序盤、空気が妙にあかるい気がしたというか、もう四時ちかくだし空には薄雲が混ざっているしで陽の色もないからそういう意味でのあかるさではないのだけれど、視界が明晰にかんじられ、明晰といってものもののすがたがくっきり立っているということでもないのだが、なんだか開放的なあかるさがあった。それはたんに、気分のかるさということだったのかもしれない。木の間の坂に折れると道の両側には黄色っぽい淡さの落ち葉が無数にあつまって縁をかざる絨毯のように敷かれ帯なしていて、一見して印象派のえがく風景のたぐい、すすめば右手斜面うえの木立のなかにも黄に染まったあざやかな葉がさしこまれたさきに雲まじりの空は水色をのぞかせている。
  • 職場まで飛ぶ。(……)
  • 帰路や帰宅後はおぼえていないので省略。したに書いてあるように、食事と風呂を終えての深夜、一一月二五日の記事を書くのに邁進した。
  • いまちょうど三〇日の午前四時だが、やっとのことで二五日木曜日の記事を書ききることができた。二八〇〇〇字くらい。二六日いこうもほとんど書けてはいないのだけれど、この四日間はまあ平常でたいしたこともなく、とうぜんながら印象事もなくてもうだいたい記憶から逃げていったので、わすれたことはわすれたこととまかせててきとうにざっとやればよいとおもっている。まったくもって時間をかけすぎたが、さすがにこんなにかかるとはおもわなかった。やはり労働後に疲労に負けて書けないでいるとどうにもならん。