- 一一時一五分ごろ覚醒。深呼吸して四五分ごろ離床。コンピューターをつけておいて水場へ。もどってくると、さくばん(……)から”(……)”の動画を確認してほしいとメールがはいっていたので視聴し、LINEにコメント。そうしてうえへ。快晴。気温もけっこうありそう。南の山のうえで空は水色に澄んでおり、近所の木々をながめるかぎりでは風もなくおだやかな冬の正午。この時間だともう瓦屋根のうえに白光が液体じみて溜まるさまは見られない。
- おじやがあったのでそれを電子レンジで熱して卓に持っていき、食べはじめたところで両親が帰宅した。ケバブのたぐいを買ってきたという。(……)の南側にあたらしく店ができたとか(「(……)」というパン屋があったところで、その店が変わったのかもしれないとのこと)。何人だかわからないが外国のひとがひとりでやっていたという。またそのちかくにアジア系の商店もできたらしく(ベトナム人の若い女性がやっているよう)、そこにも行っていくつか品を買ってきたと。(……)あたりだとアジア系の外国人も増えてきているのだろう。何年もまえに(……)でよく書き物をしていたときにも、韓国人らしきひととかフィリピン人らしきひととかをけっこう見かけたおぼえがある。
- 新聞は主に書評面。『エッセンシャル仏教』というみすず書房の本を中島隆博が書評。日本古代史の佐藤信は中公新書の『国造』。右ページでは加藤聖文がイアン・カーショーの『ナチ・ドイツの終焉』とかいう本をとりあげていた。白水社。白水社は数年前から二次大戦まわりででかい本をいろいろ訳していて読みたい。アンソニー・ビーヴァーとか。国際面からはベルリンで起こったトラックテロから五年と。後遺症にくるしんでいた四九歳だったかの男性がここで亡くなり、一三人目の犠牲者として事件から五年を期す追悼式であわせて追悼されると。パリでのテロの余波で、ISISの人間が欧州で起こした殺傷のうちのひとつである。南仏のニースでも同時期に起こっていたはず。一面には大阪の心療内科で起こった火事の続報。患者だった六一歳の男が火をつけたもよう。じしんも巻きこまれながらもいちおうたすかったらしいが、ただ(たしか意識不明の)重体らしい。
- テレビは『のど自慢』。松田聖子の”SWEET MEMORIES”をうたったひとがいたが、よくできた曲だなあとおもった。メロディのながれ、展開や細部の付加がじつにうまい。その松田聖子の娘である神田沙也加が札幌のホテルで転落死したという報も『のど自慢』のまえに見かけた。自殺のようだ。宮本亜門がTwitterに投稿したメッセージが紹介されていた。食事を終えて皿をあらいはじめたあたりで、つじあやのの”風になる”をうたったひとがいた(日の当たる坂道を自転車でかけのぼる歌)。先日(……)夫妻と池袋でカラオケにはいったとき、(……)がやなぎなぎというひとの曲をうたって(いまWikipediaを見たらこのひとはニコニコ動画の「歌ってみた」ブームの初期に動画を投稿していたガゼルで、つまりsupercellの”君の知らない物語”のボーカルだった)、それで記憶が刺激され、ジブリの『猫の恩返し』のテーマ曲うたってたひとだれだっけ? ときいたのだった。ひらがな五文字で記憶がかぶったらしい。”風になる”にかんしてはひとつ記憶があって、大学三年か四年のときだとおもうが、(……)にさそわれて、たしか(……)からしばらくあるいた(地域区分としては(……)だったような気がする)公民館的なところで音楽イベントがあってそこに参加したことがあり、とうじのじぶんはベースを練習していたのでギターではなくてベースを弾き((……)がギターボーカルで(……)の同級生である(……)さん((……)高校でバンドをやっていて、高二か高三のときの文化祭はじぶんたちの文化祭を抜け出してチャリで走って見に行ったし、高校時代から多少の面識はあった)がギター、ドラムをわすれたのだがたしか(……)ではなくて(……)だったかもしれない)、Red Hot Chili Peppersの”Snow”なんかをやった(じぶんはベースを弾きながらコーラスもやった)のだけれど、そのイベントのとりまとめ役的な立場の、音響も担当していたとうじ二〇代後半か三〇くらいだったとおもわれる金髪のややヤンキー風な男性がいて、リハーサルで音響をチェックしているときにかれがながす音源(Led Zeppelinとか)にあわせてわれわれがてきとうに弾いていたのだけれど、そのなかの一曲としてこのつじあやの “風になる”がながれて、たんじゅんな進行の曲なのですぐにコード進行がわかってベースもギターもそくざにあわせてつけたところ、つじあやののバックバンドのひとですか、とわらわれたことがあったのだった。ちなみにどうでもいい記憶をさらにつけくわえておくと、駅から公民館まであるいていく道のとちゅうに、おもてに面したカーブ的なちょっとつきだした土地にガソリンスタンドがあって、カーブをわざわざまわっていくのがめんどうくさいのでそのスタンドの敷地内をまっすぐ突っ切ろうとしたところ、店主のおっさんが激怒してしかりつけられたことがあった。どうもたびたびそういう通行人がいて迷惑していたらしいが、それにしてもずいぶん怒っていた。(……)はたしょう口ごたえをこころみていた気がするが、じぶんはその横でだまっていたはず。
- 皿洗いや風呂洗いをすませて蕎麦茶とともに帰室。ここまで書くと二時すぎ。
- 便所に行って大便をしてきてから、きのうしあげてあった一六日の記事を投稿した。これだけのながさのものをほぼとうじつと翌日で書き、しあげることができたのはなかなか勤勉ではないかとおもったのだが、はてなブログの投稿画面で見てみれば、せいぜい一四五〇〇字くらいで、いがいとすくないな、もっと書いたような感覚だったのだけれど、とおもった。とはいえ固有名詞もおおいし、Notionに書くときにここは検閲するというぶぶんは太字にするとともに赤に色を変えていて、そうすると投稿画面にコピペしたときアスタリスクでかこまれるのでそれをひろっていちいち手動で(……)におきかえていくのだけれど、これだけの分量でなまえがでてくる回数もおおいとそれだけでかなりたいへんである。
- アイロン掛けをしたり、夕食にジャガイモのソテーをつくったり、キャベツや大根などをスライスして手抜きのサラダにしたり。夕食時には横須賀で引きこもりつづけて孤独死した人間とその一家にまつわるドキュメンタリーが映っていて、たしょう見た。父親の苦悩が多数つづられた日記の文言の紹介がつづきつつ、親族や死んだ息子の兄の証言がはさまれる。引きこもり者は二〇代かそのくらいで職場でうまく行かなくなり、辞めてしまったのを機にずっとこもりつづけ、何歳だかわすれたが五〇代か六〇か、そのくらいで死んでいるのが発見されたらしい。父母が亡くなったあとどうやって暮らしていたのかわからないが(遺産というか貯蓄をとりくずしてなんとかやっていたのか?)、行政の支援者がたまに差し入れをしたりようすを見に行ったりして、しかし飯もまともに食っていなかったようで栄養状態がとにかくわるく、このままだと死んでしまうからいますぐ病院に行こうと説得していたのだけれど、じぶんで病院をさがして連絡してみる、じぶんのちからでできるところまでやってみたい、という返答でそれいじょう立ち入れず、じきに死んでいるのがみつかった。自殺だったのか餓死などだったのかは不明。弟というのがタクシー運転手をやっているひとで、兄との仲はしょうじき良くなくて、じぶんの生活のいそがしさもあり見に行ったりなにか対応をしたりしないままに孤独死に終わってしまったという。この弟がずいぶんなんというか落ち着いたしゃべりかたをするひとで、語調もしずかだがことばのひとつひとつははっきりしており、たとえばふつう会話では「~だけれど」といわずに「~だけど」とくだけるのがたいはんだとおもうが、そういうところをきちんというみたいなかんじで、まるで書いてある文章をゆっくり読んでいるかのような調子のはなしかただった。行政のひとが引きこもり者の自宅に訪問したときの映像がなぜなのかわからんがあって(孤独死の結末いぜんから引きこもりの問題としてこの番組が取材をしていたということなのか)、そこで戸口にすがたを見せたくだんのひとは髪ボサボサ髭ボーボーでいかにも仙人というかんじの風貌だったが、愛想は良く、甲高い声で早口ながらむしろほがらかなように応対していた。はじめて担当者が行ったときにも、市の役所のかたがそんなふうに気にかけてくれるなんておもわなかったもんでありがたいです、みたいなことを言っていたといい、それで、これはずいぶん口のうまいやつだなあとおもった、と担当者は微笑しながら証言していた。病院をじぶんでさがしてみるとこたえたように、じっさい死ぬすこしまえには親族をたよって病院をさがそうとした形跡があり、電話でなにをいうかということを記したメモがのこっており、そこには二四項目だかそのくらい、言うべきこと聞くべきことがこまかく挙げられており、ほとんど原稿みたいなものだったという。それでじっさい電話をかけたのだけれど、そのとき親族は外出していて出られず、そのまま終わってしまった。
- この日はひさしぶりに書抜きもおこなえた。