2022/1/3, Mon.

  • 九時半ごろに覚めて、一〇時すぎに離床。まあまあわるくはない感触のめざめではあった。瞑想もおこなう。うごかずにからだをかんじる時間をつくることがやはり大切だと再認。
  • 食事はジャガイモやハムやコーンを炒めたものや、昨晩の鍋ののこりなど。父親はきのうからなぜか蕁麻疹みたいな症状が出ており、それで全身かゆくなったので医者に行っているらしい。新聞、資本主義が岐路に立たされているという趣旨の連載がはじまっていた。一面では住宅市場の復活とそこにおける格差について記されており、アイダホ州やニューヨークの例が出ていた。アイダホ州ではサンフランシスコとかシアトルとかのIT系企業ではたらく高所得者がテレワーク用の家を買って拠点にすることが増えているという。会社は一〇〇〇キロくらいはなれているわけだが、じっさいに出社するときには飛行機に乗って一~二時間かけていくと。どうなってんの? とおもった。金持ちすぎでしょ、と。ニューヨークはマンハッタンの九六階建て高層ビルの物件などはもっとおそろしくて、最上階の部屋は一九四億円だかで売りに出されているらしい。企業家とか弁護士とかがそういう物件を買うという。政治面の識者に聞くみたいなシリーズにはまた安倍晋三が登場していたので、え、また? とおもった。
  • きょうもさいしょに「読みかえし」を読み、その後、西谷修『不死のワンダーランド 戦争の世紀を超えて』(講談社学術文庫、一九九六年)。きのうはけっきょく第Ⅴ章の終わりまで読み、あとは第Ⅵ章をのこすのみとなって、七〇ページほどしかあまりがなかったのできょうではやばやと読了するつもりだった。それでとちゅう休みをはさみつつも三時で読了。おもしろかった。バタイユを読んだりかれについていろいろ知りたくなる。ブランショも、蓮實重彦が、ブランショが偉いというのがどうしてもわからない、『カフカ論』のようなモノグラフィーはべつとしても、時評のしごとなどしているとき、こいつ元のテクストを読んでいないだろというのが見え見えなんです、わたくしはデリダは嫌いだとはいいませんが、ブランショにかんしてははっきり言って嫌いですと(かれを特集した『ユリイカ』のインタビューで)言っていたので、たしょう警戒するところがあり、それでなくてもやたら晦渋らしいからあまり手を出す気が起こらずにいたのだけれど(そのくせ『踏みはずし』と『来るべき書物』はもっているのだが)、この本でとりあげられているかぎりではぜんぜんおもしろそうだし、テーマ的にもこちらの性分にかなり合ったものなので、読んでみたくもなる。
  • ハイデガーは「存在忘却」(およびその忘却さえもが忘却されている現代の状況)を危機ととらえて、わすれさられうしなわれたその「存在」(というのがいったいなんなのか、まだいまいちつかめていないのだが)との本来的な関係を回復することが人間にとっての急務だとかんがえたわけだが、それは構図的にはもしかしたらプラトンのいわゆる想起説とかさねあわせることができるのかもしれないな、とおもった。想起説では、たとえば幾何学的な図形の操作や理解を例として、ひとはイデアにあたる知をあらかじめすでに(つまり先験的に)知っているのだが、ただそれをわすれている、とかんがえられていたはずである。わすれられているものを現在にとりもどし、回帰させる、というもっともおおまかな枠組みにかんして、漠然と得た類似の印象にすぎないが。ちなみに想起説では、ひとがそのようにものをまなんだことがない無知な状態でもたとえば数学的真理にかんして(篇中ではソクラテスによるみちびきをたすけとしつつ)理解をえられるという事実が、魂の不死性、すなわち魂が輪廻転生していることの根拠として据えられていたはずである。
  • 腹が減ったので上階に行き、食器類をついでに洗っておきつつ、炒めものののこりをあたためて持ち帰った。食して歯磨き。すると四時。ここまで書いて四時一二分。おとといきのうは読み物にやたら邁進してしまったが、あしたから労働もまたはじまるし、二八日以降の日記をできるだけすすめておかないとまずい。
  • アイロン掛けをおこなった。そのあいだテレビはNHK大河ドラマの名場面をふりかえり、なんにんかの俳優にとうじのことをきく、という番組。渡辺謙内野聖陽宮崎あおい渡辺謙は二〇代のころ、『独眼竜政宗』という作品で主演をつとめて伊達政宗を演じたらしい。映像をみるとあたりまえだがずいぶんわかくて、体格もいまよりはほそく、顔の線もややするどいように端正で、きりっと冴えたような、新鮮なちからのある顔貌だった。豊臣秀吉役が勝新太郎内野聖陽は『風林火山』で武田家につかえた軍師山本勘助役を演じたが、これはじぶんもみていたのでわりとおぼえている。二〇〇七年だというので高校三年生のころだ。大河ドラマは祖母とかが毎週わりと見る習慣で、こちらも食卓でいっしょになって目をむけていた。宮崎あおいが主演した『篤姫』くらいまでは見た記憶がある。小松帯刀瑛太西郷隆盛小澤征悦大久保利通原田泰造和宮がわかかりしころの(といって宮崎あおいもそうだが)堀北真希だったはず。いま歴代作品一覧をみてみると、二〇〇六年の『功名が辻』もわりとみていた気がされ、『風林火山』、『篤姫』とつづくが、そのつぎの『天地人』(妻夫木聡直江兼続をやったやつ)からはほぼみていない(柴咲コウが主演した二〇一七年の『おんな城主 直虎』だけはなぜか多少の映像の記憶があり、翌年の『西郷どん』も鬱症状におちいってとくだんのおもしろみもおぼえないまますこしみていたおぼえがある。それにしても、『天地人』が二〇〇九年だというのが信じられないようなかんじで、なぜかもっとさいきんのような気がするのだ)。二〇〇六年いぜんもみていないので、だから高校時代の三年間だけなぜかみていたらしい。ここ三年間の『いだてん』、『麒麟がくる』、『青天を衝け』にかんしてはほんとうにまったく目にしておらず、なにも知らない。
  • 内野聖陽山本勘助役のイメージがつよいし、その後もなんだったか、『臨場』とかいう題だったか、検視官役の刑事ドラマだかをやっていた記憶があって、クールだったりダークだったりニヒル風だったりする役回りの印象がおおきいのだけれど、このときのインタビューでは声色にも重さがなく、役とはぜんぜんちがって、腰の低いひとというようすだった。
  • 日記に邁進。みじかく縮約して書こうと苦戦するが、一二月三〇日三一日の二日分はどちらも三〇〇〇字程度におさまってうまく短縮できた感。一月一日二日もある程度書いてあったし、とくだんによみがえってくることもないしもういいだろうというわけで、二八日から二日まで一気に投稿。たまっていたノルマが解消できて安堵した。
  • LINEで(……)についてやりとり。夕食時の新聞では「岐路の資本主義」とかいう連載のつづきが国際面にあったのでそれを読んだ。高校を出たらひとり暮らしをしてしっかりはたらきアメリカン・ドリームにむかって邁進するみたいな伝統のつよかった米国でも、親と同居する若者が増えているという。一八歳から二九歳までのひとのなかで半分くらいの割合と書かれてあったとおもう。例としてはサンフランシスコでIT企業だったかにつとめている若い男性が出ていて、かれは母親とふたり暮らしなのだが、親と同居していると「ママっ子」とみなされてネガティヴなイメージをいだかれるのは事実だとみとめながらも、いろいろな面でたすかるし親子双方満足していると言っていた。とくにサンフランシスコのような大都市では物件もたかいわけで、ベイエリアと呼ばれる人気の湾岸部では家賃の相場が月々三八万とか書かれていた。ほかの地域もそう変わりはしない。このひとは年収も日本円にして一〇〇〇万を超えていたか、わりと高所得にもおもえる数字だったのだけれど、それでもやはりきついと。もうひとりの例は『ティーン・ヴォーグ』の編集長をやっていたという四三歳の女性で、母親が病気になったのを機にそれまでも多少通っていたのを同居に切り替えて、かのじょの世話や手助けをするため編集長の地位もみずからしりぞいたのだが、むかしは最先端のことがらを追うのが幸せだとおもっていたけれど、母親といっしょにいて都心の喧騒からはなれているいまはかのじょと幸せとはなにかについてなどはなしあうようになり、むかしはむかしでよかったがそういうことを語り合えるいまのこの生活も幸せだとみとめられるようになった、みたいなことを述べていた。
  • 翌日が朝から晩までずっと労働で六時には起きるつもりだったからさっさと寝ないとやばかったのだけれど、けっきょく消灯は二時まえになってしまった。したがって睡眠は四時間ほど。