2022/4/19, Tue.

 革命後レーニンが電化を強く訴えたため(レーニンは「共産主義とはソヴェト権力プラス全国の電化である」と定式化した)、一九二〇年代には農村でも水車などによる発電で電灯(「イリイチのランプ」)が灯されたところが少なくなかった(ヴラヂーミル・イリイチレーニンは、敬意と親しみを込めて「イリイチ」と呼ばれた)。しかし、集団化とクラーク絶滅政(end149)策のなかでこれさえ失われたところが多く、第二次大戦前夜に電化されていたのは二五のコルホーズに一つだけだったと指摘されている。独ソ戦による被害もあって、急速な戦後復興を経た一九五〇年代でも、電化されていたのは約六つのコルホーズに一つだけだったと言われる。電気も水道も電話も通じておらず、公衆浴場も医療所も小学校もない集落は一九六〇年代になっても少なくなかったし、実に一九八〇年代になっても稀ではなかった。
 ゴルバチョフは一九五〇年代半ばのスタヴロポリ地方の様子を回想で次のように描いている。「スタヴロポリ市から遠い地区には汽車で行くか、通りがかりのトラックに乗せてもらうかして行かなければならなかった。行った先ではほとんど自分の足だけが頼りだった」。当時の出張で大変だったのは食事だった。「軽食堂もカフェも食堂も、ビュッフェさえもなかったのだ」。「食事以上に困ったのがどこに泊まるかだった。地区の中心地はともかく、農村部に足を踏みいれると、ホテルはもちろん宿泊所もなかった」。「その当時、ほとんどの農村はまだ電化されておらず、ラジオが普及していなかった。……テレビの誕生は話としてだけ伝わっていた。新聞は大幅に遅れて配達され、書籍はめったに来なかった」。
 一九八〇年頃の農村全般の様子についてはゴルバチョフの回想に次のような記述がある。「農村部は都市部にくらべ、道路、学校、医療施設、公共サービス、新聞・雑誌、映画館、(end150)文化施設といった面で整備が遅れていた」。このような問題が特に深刻化していたのが非黒土地帯を中心とする約三〇州だった。こうした州では工業部門に過大な比重を置き、農業部門を軽視した。その結果「農民は農村を捨て、明りが輝く都会に流出していった。都会では労働時間が決まっており、収入も多かった。……生活環境はあらゆる面で整っていた」。他の農村部も大同小異だった。農村を捨てた農民の代わりに臨時労働者が農村にやってきた。農作物の播種、成育の世話、収穫とその運搬、農業機械、自動車の修理も臨時労働者が担当した。こうした臨時労働者は近隣の都市から送り込まれた。「人間と土地の関係をこのような状態にすることは常識では考えられないことだ。農村の非農民化が生じたのだ」。
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、149~151)



  • 「英語」: 601 - 620
  • 「読みかえし」: 665 - 671


 なんどかさめながら最終的に一一時二〇分ごろ起床した。曇天。のちには一時雨のぱらつきも。水場に行ってもどってくると臥位で書見。南直哉『「正法眼蔵」を読む』のつづき。一二時すぎまで読み、それから瞑想した。二五分くらいだったはず。わるくはない感触。
 上階へ行ってあいさつしながらジャージにきがえ、コップに水を汲んでうがいをしたあと食事へ。フライパンにたけのこや鶏肉が炒めてあったのでそれと、ケンタッキーフライドチキンもほそいやつをいっぽんもらってレンジで加熱。その他ニンジンなど野菜をこまかくおろしたスープと白米。新聞一面にはロシア軍がウクライナ全土三一五箇所にミサイル攻撃をおこなったとの報。事前に一〇〇箇所ほどに攻撃すると通告していたらしいが、じっさいにはその三倍になったと。マリウポリはもうほぼ制圧されたようすだが製鉄所を拠点にウクライナ軍とアゾフ大隊の一〇〇〇人ほどが抵抗をつづけており、投降しなければ全滅させるというロシア軍の最後通告も拒否して抗戦をえらんだ。市民らも一〇〇〇人ほどが避難して生活しているらしい。というのもこの製鉄所の地下にはソ連時代につくられたひろい領域があって(図からすると複数階層になっているようだった)、園芸所とかカフェとかもそなえられているといい、市内のほかの地下施設にもつながっているとか。ロシアがわはあたらしい市長の就任をいっぽうてきに発表しており、かんぜんな制圧を待たずに統治をはじめるもようと。
 母親は図書館で予約する本をスマートフォンでみていたようだ。二時半から歯医者だという。父親はソファでねていた。食器を洗って風呂場へ。蓋をハイターで漂白したというのでそれをまずシャワーでジャージャーながし、それから浴槽を洗った。出ると白湯をもって帰室。ウェブをみまわったあとに「英語」記事と「読みかえし」記事を音読した。それで二時くらいだったか。
 ねころがってだらだらしつつウェブをみたり(……)さんのブログを読んだりして、三時すぎからまた瞑想。どうもあたまがこごってかたかったのだがこれはきのうながい労働でずっと眼鏡をつけていたためだろう。さくばんはそこまでかんじなかったのだけれど、明けてきょうになってからむしろ頭痛が出てきた。じっとすることでそれをほぐし、そのあと頭蓋を揉んだりも。四時ごろからきょうのことをここまで記して四時半。


 夕食前にElizabeth Kolbert, “The scientists releasing cats in Australia”(2021/3/25)(https://www.bbc.com/future/article/20210324-assisting-evolution-how-much-should-we-help-species-adapt(https://www.bbc.com/future/article/20210324-assisting-evolution-how-much-should-we-help-species-adapt))をとちゅうまで。まだ序盤。ぜんぜん読んでいない。深夜にもまたすこし読んだが、さいごまでは行かず。


 いま風呂をすませてきて一〇時。きのうの日記を書こうとおもい、イヤフォンをつけてBGMもながそうという気になって、Thelonious Monk『Monk Alone The Complete Columbia Solo Studio Recordings: 1962-68』をえらんだ。さきほどMonkの独奏のコンプリート盤というのはどれがあるのかなとしらべておいたのだけれど、それで出てきたうちのひとつ。もうひとつ、『Solo』という、五四年から六一年までのコンプリート編集盤があるようなのだが、これはAmazon Musicにはないっぽい。それでうえの『Monk Alone』をながしたところが冒頭の”Body And Soul”からよくて、Monkのソロピアノはとにかくめちゃくちゃよく、なぜこんなによいのかわからない。


 五時まえに上階にあがってアイロン掛け。玄関の戸および居間からそちらにつづく扉はあけっぱなしになっており、父親は玄関内の小ベンチ的な座席にこしかけてスマートフォンをいじっていた。じきに歯医者や買い物に行っていた母親が帰宅。麻婆豆腐にするという。アイロン掛けを終えると台所にはいり、米を炊いたほうがよいだろうというわけでまずそのための準備。つまり食器乾燥機のなかに詰まっていた皿などをとりだして戸棚などの各所にもどし、それから洗い桶に浸かっていたほうれん草を絞って切る。メインとなる軸をいっぽん手にとったそのうえにさらにほかの葉っぱをいちいちむきをそろえてくわえていくかたちで束をつくり、両手でぎゅっとつぶしてしぼるとまな板に乗せていくつかにきりわける。それがすむと洗い桶をあらってザルで米を磨ぎ、六時半に炊けるようにセット。それから麻婆豆腐をつくった。中村屋のやつ。ソースをフライパンに押し出し、豆腐をひだりの手のひらにのせて、切り分けると投入。フライパンをかたむけたり木べらでかるく押したりしながらいくらか煮たあと、ネギを鋏で切って入れ、ポテトサラダにつかう用らしいエンドウマメもいくつかくわえた。青いものがなにかほしいとおもったからだが、母親はそれならレタスを入れればいいじゃんと言って、麻婆豆腐にレタスじゃあなあとおもって反対したもののききいれられずバラバラ投入されたのを木べらで混ぜつつまたしばらく加熱した。ごま油はすでにかけてあった。絹の豆腐だったし下茹でもしなかったのでくずれそうな気がしたのだが、おもいのほかにしっかりしていて、へらで押してもあまり欠けたりこわれたりしなかった。それで完成。
 その他この日はだいたいのところきのうの月曜日の日記をすすめることに費やされた。書きものに本格にとりくんだのはやはり夜から。とくに入浴後にけっこうがんばって、中断もはさみながら三時くらいまでやっていたはず。文を綴ることにたいするやる気を出すにはからだをととのえて血をめぐらせるにしくはないということを再認識した。瞑想は瞑想で心身がほぐれてなめらかにかるくなるので調律として不可欠なのだが、下半身のストレッチも活力を呼ぶには大事だ。「胎児のポーズ」がその点いちばんやりやすい。ねころがったままできるので、書見中とかにおりおりはさむだけでよい。つねにからだの調子を充実させて無理せずともいつでも文を書けるという状態をうみだしたい。