2022/5/10, Tue.

 ボーイングは放たれた矢のように雲ひとつない地中海上空に舞いあがると、イタリア半島にそって下り、その南端を横切ってアドリア海を一飛びし、ロードス島キプロス島上空で高度一万メートルの夕焼けを背に負っていた。零下何十度という凍った成層圏に映える夕焼けは、レーザー光線をつかった前衛芸術のようであり、その茜色の空間は神々しい。実際、美の巨大な浪費を思わせるその境界では、もっとも素朴な天地創造の神秘感に圧倒されてしまうのだった。だから、東から迫ってくる夜(end28)のとばりの中を飛行してゆく時、永遠に地上に帰りたくないという島人の気持もわからないではなかった。窓外には、七色の光彩で飾られた焼絵ガラスの高層雲がおりかさなり、世界があたかも讃嘆と祈りのためにつくられた七堂伽藍であるかのような美的幻想にみちているのだった。そして、このような人間を超えた美を忘れ薬 [ネパンテス] のように味わった者にとって、地上のどのような街も、惨めな汚濁の廃園でしかないだろう。だから人は清浄な美の楽園に憧れて、宇宙ににることをめざし、太陽の都 [﹅4] をつくろうと試みて、ついには自然の戦慄的な美しさが私たちからあまりにも遠いものであるという嘆きに終ってしまうのであろう。
 (井上輝夫『聖シメオンの木菟 シリア・レバノン紀行〈新版〉』(ミッドナイト・プレス、二〇一八年/国書刊行会、一九七七年)、28~29; 「Ⅰ 聖シメオンの木菟――シリア紀行――」)



  • 「英語」: 242 - 281
  • 「読みかえし」: 748 - 751


 一〇時五〇分に覚醒した。天気は晴れ晴れというほどではなく空はみずいろをしたに透かした白っぽさにおおわれているが、とおりぬけてくるひかりのつやもあって穏和な風情。足首を前後に曲げながら息を吐くことで脚のすじを伸ばし、布団のしたでしばらくすごして一一時二〇分におきあがった。背伸びをし、水場に行ってくるとクロード・シモン平岡篤頼訳『フランドルへの道』を読んだ。さいしょしばらくは立ち、じきに臥位になって脚をもみつつ読む。ジョルジュやブルムやイグレジアがいるばしょが「収容所」であることが明言されたが、この語でその場がなざされることはそれいぜんになかった気がする。気づいていなかっただけかもしれないが。正午ぴったりから瞑想した。れいによって便意がだんだんと肛門のあたりにたまってくるので二三分くらいしかすわれず。姿勢を解くとコップやゴミ箱をもって上階に行き、ゴミを始末しておいてからトイレでクソを垂れた。ジャージにきがえる。いえうちは無人で、父親はきのう山梨に行き、母親は歯医者。のちほど一時ごろに、映画をみてくるから洗濯物をたのむというメールがはいっていた(じっさいには「洗たく機」をたのむとあったが、洗濯物とまちがえたのだろう)。食事にはレトルトの中華丼があったのでそのパウチを電子レンジで加熱し、あいまに洗面所でよく洗顔。櫛つきドライヤーであたまもたしょうなでておき、中華丼の素があたたまると丼に盛った米にかけ、その他即席の味噌汁とキュウリやトマト。新聞一面をみると対独戦勝記念日にさいしてプーチンが演説したが「戦果」の誇示はなかったと。述べたことは従前からの主張と変わりなく、二月二四日いぜんには欧米によって危険がたかまっていた、責任はかんぜんに欧米側にあると強弁。軍事作戦はゆいいつのただしい選択だったみたいなことも言ったらしく、まったく関係ないのだがその文言から、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの「たったひとつの冴えたやりかた」なんていうタイトルをおもいだしてしまった。ロシア兵にたいしては、みなさんは国家の安全をまもるためにたたかっていると称賛を投げかけ、作戦の目的はナチスを排除することであるという点、ウクライナのゼレンスキーはナチであるという言もくりかえしたと。軍事パレードはクリミアをふくむ各地でおこなわれ、モスクワのそれはさすがにさくねんよりいくらか規模がちいさくなったという。マリウポリやヘルソンでは「市民の行進」がおこなわれたというが、これは反対の行進ということなのか、それともロシアがむりやり動員してやらせたということなのか? と疑問におもっていたのでいま検索してみたところ、親露派市民の行進ということのようだ。マリウポリのアゾフスタリ製鉄所からは女性や子どもや老人がすべて避難したと七日にウクライナのイリナ・ベレシュチュク副首相が発表していたが、アゾフ大隊の長は八日に、全員避難できたかどうかは確認できていないと表明した。いずれにせよ避難活動に従事していた国連の車列がドンバス州をはなれるのにあわせてロシア軍は製鉄所への攻撃を再開したと。東部のなんとかいう村では九〇人ほどが避難していた学校が空爆され、二七人が救出されたものの六〇人ほどが瓦礫の下敷きになって死亡した可能性があるという。
 食事を終えるとたちあがって背伸び。立つと南窓のむこうがみえやすくなり、さらさらとした若いみどりの葉叢がいくつも微風にゆれながら空間をいろどっている。なかにひとつあれは春モミジなのか、シソの葉のような、酸味でもふくんでいそうな渋い赤紫の木もあったが、その紅さもやはり秋のものではなく初夏のそれとうつる。食器を台所にはこんで洗っているあいだカウンターをとおしておなじ窓からこんどは鯉のぼりがみえ、風はゆるいようで垂れ落ちて竿に寄っているときもおおいが、いくらかでも泳ぎだすと身をくねらせるうごきのなかに襞のかげが生まれるとともにときおりあかるみを浮かばせて、風のたすけでもちあがって横向きになると鱗にあたるぶぶんはややひかるくらいに白さをはなった。
 風呂も洗うと白湯をもって帰室。コンピューターとNotionを用意し、音読。一時くらいから。さいしょのうちは座ってボールを踏んでいたがじきに立った。とちゅうインターネットにちょっとそれてしまい、二時になると洗濯物をとりこみにうえへ。ベランダの端には日なたがかかり空気につめたさはなく、鳥たちの声がそこらじゅうに散ってときたま笛のような、ものがすばやくこすれたりひっかかったりしたかのようなPのおとをさしこんでいた。タオルのみひとまずたたんで洗面所にもっていっておき、白湯をおかわりしてもどると「読みかえし」ノートのつづきを読んで、そのあときょうのことをここまで記述。三時。物件契約のために金を振りこまなければならないのだが、もうこの時間になってしまったし、あした労働に行くまえに郵便局によればいいかなというあたまになっている。

 ベッドで脚をもみつつ休息。そのあと書抜きをした。井上輝夫『聖シメオンの木菟 シリア・レバノン紀行〈新版〉』(ミッドナイト・プレス、二〇一八年/国書刊行会、一九七七年)の手帳にメモしてあったほう。すべて終了。五時をこえてうえへ。母親も帰宅しており、天麩羅をやるという。こちらはアイロン掛け。足腰をきたえようというわけで座布団を敷かず、しゃがんでかかとを浮かせてつま先で立つような姿勢でおこなった。かかとまでつけるしゃがみかた(いわゆるうんこ座り)だと高さがあわずに作業がしづらいのだ。シャツいちまいをかけるあいだそうしているだけで脚の筋肉はけっこうつかれて、かけ終えたものを物干し竿に吊るすためにたちあがったあと、そのたび屈伸したり膝のうらをかるくもんだりした。六時まえに切り。それからさきほどたたまなかった洗濯物をたたみ、もどってきてここまで加筆。腹がめちゃくちゃ減っている。もう食事にするつもり。あとそういえば三時ごろに携帯をみたところメールがきていて、だれかとおもえば、というか急遽出勤の要請ではないかと推してそうだったらめんどうくせえなとおもいながらみると(……)で、(……)が海外に引っ越すことになったからそのまえに会うとあり、五月ちゅうで四日候補がしるされていた。二五日いがいならどこでも行けるという腐れフリーターの自由度である。そのように返信。きのうだかおとといだかに(……)にまつわって(……)のことをおもいだして文化祭時のエピソードを記し、また(……)のなまえもどこかに書きつけたところで、奇遇の感がある。


 いま午後一一時すぎ。風呂を出てもどってきてから七日の日記をすこしだけ書き足したあと、音楽をきこうかなというきもちになり、それもあたらしいやつではなくて文句なしにすばらしいとすでに知っているやつをきいて英気をやしなおうとおもい、Jesse van Ruller & Bert van den Brink『In Pursuit』から”Love for Sale”をきいた。データをもっているがハードディスクをつないだりアンプにつながっているケーブルをChromebookからこのパソコンにさしかえたりがめんどうくさかったので、YouTubeできいた。あらためてきいてみてもBert van den Brinkというピアノがとにかくすごいなという感が支配的で、さいしょからさいごまで通り一遍にながれるところがひとつもなく、どこをとっても緊密に締まりきっており、各部のアプローチも多彩豊富でつぎつぎと手管をみせてくれて飽きようがなく、おもいついたことできることをぜんぶいれこんだというおもむきながら、それが無理にではなくデュオのながれと合致してむしろ推進力をつくっており、しかも洒脱さをけっしてうしなわずこともなくというかに余裕をのこしている。Jesse van Rullerのプレイだってすごいけれど、先行するかれのソロのあいだはバッキングにもかかわらずvan den Brinkが主導権をとって牽引しているようにきこえてしまう(とくにピアノが低音でのウォーキングをやっているあいだはギターのフレーズがややもごもごしていまひとつはっきりせず、どう弾こうか迷って決めきれていないようにきこえる)。ピアノソロのすごさはうたがいがない。バッキング時もそうだがコードのさしこみはぎゅっと詰まっていてすぱっと切り落とされた断面のように輪郭の立ちがあざやかだし、タイム的にも完璧なまでに正鵠を射ておりすばやくするどい。とくにこの”Love for Sale”は七拍子の弾力的なリズムで演じられているので余計にするどさがきわだつもので、和音にしてもある種の単位フレーズにしても箱型のブロック感がつよいのだが、その硬さ充実ぶりはほとんどてざわりのようにして耳にきこえる。
 ついでにさいごに収録されているライブ音源の”Stablemates”もきいた。これもいぜんになんどもきいてめちゃくちゃすごい演奏だとおもっており、ここにあるすべてを記憶したいくらいだが、ただきょうはなぜかまえほど迫ってはこなかった。とくにピアノが意外にもぐわっとこなかったのだが、それはなんとなくYouTube音源の音質のせいだったような気もする。とはいえすさまじいライブ演奏に変わりはない。ただいぜんはえもいわれぬ緊張感にみちみちているようにきこえ、きいているこちらの心身もおのずとそれに同じていたが、あらためてきけばたとえばテーマがはじまってまもないころのピアノなど、リズムが意外とよれているというか、意図的にニュアンスをつけたのか、ジャストではなくてちょっとはやくさっとながしたりつっこんだりということがなんどかみられて、そのあたりはライブのおもむきがある。二者の接し方も、どこをとっても緻密だしすごいところはとことんすごいけれど、ときにわずかすきまが生じるようでもあって、組み合いかたの安定感でいえば、”Love for Sale”のほうが終始より一定に緊密さの感覚がいきわたっているような気がした。しかし先発であるピアノソロのなかば以降、とりわけ演奏がもりあがってくる曲の後半はすさまじく、うえにふれたピアノのするどさはふんだんに発揮され、Bill Evansがよくやる数音単位で段階的にのぼっていく音取りをより苛烈にしたようなたたみかけもみられてめざましい。これぞジャズだといいたくなるような、そのとき発せられたおとにしか存在根拠をもたず、つかのまのたまさかのむすびつきによってのみ不安定に支えられ、なにかがちがえばとたんにくずれて消え去ってしまうような、そんな時空ができあがっている。
 ”Love for Sale”は立ってきいていたのだがさすがに脚が疲れてききづらいので、”Stablemates”からは座った。せっかくだし六一年のBill Evans Trioの”All of You”もきいておくかとおもってテイク1をAmazon Musicできいたが、きょうも混沌をかんじた。これほど流動的に、融通無碍にきこえる音楽はない。とくにピアノソロちゅうMotianとLaFaroがフォービートをはじめるまえ、まだ走らずにいる時点がそうで、なにか巨大な鍋のなかの重い液体をかきまわしているような、演奏がひたすらにかきまぜられているような感触をおぼえるのだが、その後のEvansのきららかさよりもこのあたりがこのトリオの本領なのではという気がする。フリーへと超えない地点でできる最大限の流動性を生んでいるのではないか。フォービートに移行するとLaFaroが比較的なりをひそめてMotianに同じ、Evansも走り出してここは尋常のピアノトリオにかなりちかくなるが、それでもどこかなにかちがう感触もやはりおぼえる。終盤にあるMotianのドラムソロは、その三周目というかワンコーラスを四分割したときの三列目がいつもふしぎで、ロール風にシンバルを連打する直前からリズムがとりづらくなり、連打に入るそのながれかたとそこからの抜けかたがどうなっているのか、どういう感覚であれをやっているのかいつも理解できない。もうなんどもきいているので抜けたあとの拍頭はわかるし、ロストすることもないのだが、それはあたまでかぞえたような理解で、違和感なくきけるよう感覚としてなじんで腑に落とすことがどうしてもできない。
 ところでAmazon Musicはブラウザできくと基本標準音質にしかならないようで、この”All of You”だとSDというマークがでており、アプリ版でみてみるとHDだったのでちがうものかなとそちらでももう一周きいてみた。たしかに一回目よりもすこしだけあざやかに、どのおともちかく迫るようにきこえる気がしたが、気のせいといわれればそうともおもえる程度で、SDとHDのちがいを自信をもっていえるほどじぶんの耳はきたえられてはいない。


 夕食をとったあとの夜は七日の日記を書いたりまた書き抜きをしたりベッドで休んだりうえのように音楽をきいたり。さして印象事はない。書き抜きはトーマス・マン高橋義孝訳『魔の山』(上巻)(新潮文庫、一九六九年/二〇〇五年改版)。書き抜きも一向に減らずむしろ増えるばかりだからどんどんやっていかないと。立つ時間を確保するとかんがえてなるべくまいにちやっていきたい。七日の日記はおもったよりもすすまず。まだ東中野をあるいているあいだまでしか行っていない。就床は四時だった。そろそろ四時にかかるとカーテンがうす青くなる季節をむかえている。