2022/5/21, Sat.

 そういう考え方、理想、不屈の努力は、セテムブリーニにいわせれば、彼の家の伝統であった。祖父、父、孫の三人とも、各人各様に生涯と精神をそういうものに捧げてきたのである。その点では、父も祖父ジュゼペに決してひけをとらなかった。ただし父は祖父のように政治的煽動家、自由の戦士ではなく、物静かで柔和な学者、いつも机に向っている人文主義者だった。ところで人文主義とはいったいなにか。それは人間に寄せ(end329)る愛というものにほかならず、従ってまた政治であり、人間という観念を汚し卑しめるいっさいのものに対する反逆である。人文主義はその形式偏重の点で非難されてきたが、人文主義が美的形式を尊重するのは、唯ただ人間の品位のためなのであり、その点、人間憎悪や迷信のほかに、恥ずべき無形式に陥っていた中世に対して、人文主義は光輝ある対照をなしている。人文主義はその出発点から人間の権利、現世の利益、思想の自由、生の歓喜のために闘いつづけてきたのであり、天国はばか者どもに任せておけと主張してきたのである。(……)
 (トーマス・マン高橋義孝訳『魔の山』(上巻)(新潮文庫、一九六九年/二〇〇五年改版)、329~330)


 いちばんはじめ、六時ごろに覚めたおぼえがある。さすがにそれでは無理だとおもって寝つき、つぎに九時くらいからだんだんと覚めていった。まどろみながらも息を吐いたりして、一〇時前には意識がさだまり、一〇時一〇分で離床。足の裏をあわせたポーズで深呼吸すると太もものすじなどがうごめくから血がながれるようで、意識が晴れてくる。布団のしたにいる時点でそれをやっておいたほうがよい。小型消毒スプレーをティッシュに吹きつけてパソコンをちょっと拭いておき、廊下に出て洗面所へ。洗顔とうがい。トイレで小用もしてくるとベッドに帰ってホッブズリヴァイアサン Ⅰ』。ホッブズは聖書とか教会などについては微妙なたちばをとっている印象。神というものについては時代柄否定できないし、じっさいに信仰があるかないかはべつとして尊重せざるをえないが、聖書や教会にたいしてはもうすこし批判的に、冷淡にみている、というような雰囲気をかんじる。「化体」についてひとびとがいうことは不条理にほかならない(そして、ことばの誤用による無意味というのは狂気の一種にほかならない)と述べているところなど(109)。かれはやたらと小難しいことばづかいをして意味をなさず不条理としかおもえない文章を書く「スコラ学者」を一貫して批判している。スアレスの『神の関与、運動、助力について』の第六章表題を翻訳してみせたあと、「自分が狂気であるか、さもなくば他人を狂気にしようとの意図を持たないかぎり、全巻このような内容を持つ書物を書くことがありえようか」(108)とまでくさしている。イギリスにはやはりこういうところから来る言語的明晰さへの志向が伝統的にあるのかもしれない。岩波書店が出している「一冊でわかる」という欺瞞にほかならない謳い文句のシリーズがあって、これはOxford University Pressから出ているA Very Short Introductionというシリーズの翻訳であり、日本語版につけくわえられた欺瞞的な謳い文句のわりに平板な概説におちいらず著者の独自の色が出てけっこうおもしろい本がおおい印象なのだが、そのうちサイモン・クリッチリーが書いた『ヨーロッパ大陸の哲学』というタイトルの著作中で、たしかJ. L. オースティンとバタイユが会ってはなす機会があったのだけれど、あいてがなにをいっているのか互いにわからず、はなしがぜんぜん通じなかった、というエピソードを紹介していた記憶がある。フランスを主とした大陸哲学の文学的な非明晰性と、分析哲学に代表されるイギリスの明晰さのあいだに深淵があるという主旨である。というわけでいまEvernoteにアクセスして典拠をもとめたが、ちがったわ。オースティンではなくてA. J. エイヤーだった。

 ・・・<エイヤーとバタイユ>は、メルロ=ポンティを伴って一九五一年にパリのバーで会った。議論は午前三時まで続いたらしいが、議論されたテーマはいたって単純なもので、〈太陽は人類が存在する以前に存在したか〉というものだった。エイヤーは、太陽が存在したことを疑ういかなる理由もないとしたが、バタイユはこの命題全体が無意味だと考えた。エイヤーのように科学的な世界観に賛同する哲学者にとっては、太陽のような物理的対象が人類の進化以前に存在していたと言(end 46)うことは理にかなっている。しかし、現象学にいっそう精通しているバタイユにとっては、物理的対象が存在していると言われるためには、それが人間主観の立場から知覚されねばならない。したがって、命題で仮定されている時点で人類がまったく存在しないとするなら、人類より以前に太陽が存在したと主張することには意味がない。バタイユは次のように結論する。

昨日の会話はショッキングな結果を生んだと言わねばならない。フランスとイギリスの哲学者のあいだには一種の深淵があり、これはフランスとドイツの哲学者のあいだには見出せないものである。

 (サイモン・クリッチリー、佐藤透訳、野家啓一解説『ヨーロッパ大陸の哲学』岩波書店、2004年、46~47)

 内容としても、こちらがおもったような文学性の有無というより、科学的で実体的な世界観をとるか、にんげんの認識と癒着した相関的な世界観をとるかというはなしだった。ところでこの書抜きは二〇一二年六月末作成の記事から取ってきたもので、とうじはまだ省略符を(……)にさだめていないし、補足も [] でしめさずに大文字の<>をつかっている。
 あと、第九章「知識の種々の主題について」ではあらためて、「《知識》には二種類ある。その一つは「事実にかんする知識」であり、他は「ある断定の他の断定への関連にかんする知識」である」(112)と要約されているのだが、それにつづいて「前者は感覚と記憶以外の何物でもなく、「絶対知」(アブソルート・ノレッジ)である」とも断定されており、おい、ひとは「絶対的知識」にはいたれないんじゃなかったのかとおもった。そこできのうの日記にも引用した85ページの記述を読みかえしてみたのだが、きのう書いたこと(のいちぶ)はどうやら誤読だったようだ。「どのような論究も、過去や未来の事実にかんしての絶対的知識には到達しえない。なぜならば、事実についての知識は本来感覚であり、その後は記憶にほかならないからである」(85)というのをこちらは、感覚がそもそも絶対的なものたりえないのだから、根本的にはそれがベースや素材になっている論究もとうぜん絶対的な知識をえることはできない、と解したのだが、そうではなくて、「絶対的知識」を獲得できるのは「論究」によってではなくて「感覚」によるのみである、という主旨だったようだ。そのばあいの「絶対的」とはどういうことなの? というのが問題になってくるが、これもホッブズはさきにつづく85の記述、きのうも引いた箇所ですでにこたえていて、「また、連続関係についての知識が学問と呼ばれることはさきに述べたが、これとても絶対的ではなく条件的である。すなわち、論究によっては何人 [なんぴと] といえども、あることがらが、ある、あった、あるだろう、ということを知ることはできない。すなわち絶対的に知ることは不可能である」とある。だから、「絶対的知識」というのは、「あることがらが、ある、あった、あるだろう、ということを知ること」にあたるだろう。そのひとつの意味は、事実間の連関ではなく、もっぱら単一の事実についての知識、ということだろう。もうひとつ、ありうる意味は、その事実の存在についての知識、ということだろう。「絶対的」ということばの意味としてひとまず読み取れるのはそういうことで、だから、ホッブズがいう「絶対的知識」とは、普遍的に妥当する真理というような意味ではなく、むしろひとが感覚によって得た経験的知識とその記憶、という主旨になるはずである。112にもどれば、「絶対知」の説明として、「つまり私たちがある事実が行なわれているのを見たり、それが行なわれたのを想起するばあいである」とも付言されている。この「絶対」は普遍や確実性の意ではなく、たんに、相対的に成り立つものではない、べつの事実との類比や連関や並列によってではなく、それ単体でもたらされ、独立して成立する知識、という意味合いではないか。したがって、「絶対的」とは言い条、それはあやまっていることもありうる。もしくは、ホッブズの説明に即すならば、「「真」あるいは「偽」は、事物ではなく言語(スピーチ)の属性であり、言語のないところには「真」も「偽」もない」(43)のだから、「感覚」にほかならない「絶対的知識」は、「感覚」の水準にとどまっているかぎりでは真偽の問題にはなりえない。それを言語の水準に変換した時点ではじめて真偽が発生してくる。ということはつまり、他者もしくは自分自身にむかってことばをつかって体験を発話し、記述しようとしたその段階でこそ真偽の属性が誕生するということだ。だとすれば、真偽は単独ではなりたたない、共同的な性質である。言語を共有する自分もしくは他者が真偽の証人として必要だということになる。
 一一時ごろまで読み、一一時五分から瞑想。二五分ほど。座ってじっとしているだけという原点に立ち戻っている。上階に行ってゴミを始末し、ジャージにきがえてあらためて洗顔など。食事は五目ご飯にきのうののこり。新聞、アゾフスタリ製鉄所から避難したひとのエピソードが紹介されていた。二四歳の女性で、夫は海兵で「アゾフ大隊」に参加し、いまは捕虜として親露派地域に送られていると。製鉄所の地下では七〇人ほどがかのじょといっしょに生活していたらしい。子どもも一七人かそこらいて、当初はいちにち二回だった配給はしだいにいちにち一回になり、子どもたちは食べものの絵を描いて遊んで空腹をまぎらわせていた。かのじょが脱出したのは四月末くらいで、国連がかかわった退避だったようなのだが、製鉄所を出て連れて行かれたのは「選別収容所」であり、全裸にされて(ナチスをあらわす?)タトゥーなどがないか女性の係官に調べられたと。そのあとロシア軍の尋問。かのじょの夫が兵員だということはあちらですでに調べがついており、夫の情報を明かすようもとめられたが、離婚しようとおもっており、居場所は知らないと言い張って切り抜けることができたという。そうして安全なザポリージャに避難したと。夫をとりもどせるよう、ほかの避難者たちとも協力して政治家にはたらきかけているという。
 テレビは檜原村をとりあげていた。タカ&トシと温水洋一と橋本マナミによる旅番組。橋本マナミってこのひとかとおもった。なまえはきいたことがあるし、過去にみたこともあるはずだが、何者なのかぜんぜん知らない。なんかエロいみたいな、妖艶な色気がすごいみたいな評判が流通していた気がする。二〇一九年に結婚して二〇年に出産したという。真緑というかんじの、原色にちかいあざやかな緑一色のボトムスを履いていた。
 皿洗いと風呂洗いをして白湯を持って下階の室にかえり、Notionを準備してウェブをちょっとみたあとさっそく書きもの。きのうの記事をしあげて投稿し、きょうの分をここまで記せば二時二〇分。朝方にはおおきな雨が短時通ったときもあり、その後も降りがこぼれるひとときがあったが、いまは止んでいるようだ。とはいえよどみがちな曇りで気温も比較的低く涼しい。肌寒さはかんじない。


 この日の母親に頼んで車で送っていってもらうことに。ちょうど買い物に行きたいということだったので。雨もまた一時盛ったりして、面倒くさそうでもあったので。しかし三時五〇分くらいに出たそのときにはやんでいたはず。車のうしろに同乗。道中母親は、髪の毛ボサボサだともらし、白髪になっちゃって、髪を染めるやつ買いたいんだけど、そうするとマツキヨとサンドラッグ(だったかどうか)と両方行くようかな、とかいっていた。いざそとに出てみるとすこしでも足をうごかしてあるきたいきもちがあったので、すこしまえで降ろしてもらおうとおもったが、けっきょく街道沿いの、職場からたいした距離ではないところに降りた。アジサイの黄緑色の葉っぱが駅前の通りの壇におおきくなってきている。
 勤務。(……)
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 (……)そうして一〇時三八分くらいに退出。雨が激しく降っていた。地面の毛羽立ちがすごく、路面はすべてびしょびしょにみずに覆われていた。駅にはいって電車に乗り、最寄り駅から帰宅。坂道にも皺を帯びた水流が生まれるくらいの降り。帰宅後はたいしたこともなし。記憶にのこっていない。