2022/5/30, Mon.

 国際サナトリウム「ベルクホーフ」では、安静ホールでも私室のバルコニーでも、読書はかなり盛んだった。とくに療養当初の患者や短期滞在の患者が読書したが、幾カ月、何年も滞在している患者となると、気晴らしとか頭を使うとかしないでも、時間を潰し、それを精神的な技巧で処理する術を身につけていて、時間潰しに本にしがみつくなどということは、無能な人間の不器用というものだときめつけていた。本などというものは、(end565)せいぜい膝の上、あるいはかたわらの小卓に一冊のせておけば十分で、それで結構安心した気持になれるというのである。(……)
 (トーマス・マン高橋義孝訳『魔の山』(上巻)(新潮文庫、一九六九年/二〇〇五年改版)、565~566)



  • 「英語」: 639 - 650
  • 「読みかえし2」: 833 - 835
  • 「読みかえし1」: 1 - 6


 九時四〇分ごろに覚醒した。きょうもあかるく、空気の暑い初夏の日。しばらく布団のしたで腹を揉んだりあたまを左右にころがしたり、耳のまわりを揉んだりしてから起床。一〇時をまわったところだった。ティッシュに消毒スプレーをつけてコンピューターを拭き、水場に行ってみずを飲んだり洗顔したり。トイレで小用したあとうがいもすこし。もどると書見。さくばん寝るまえからJ. D. サリンジャー野崎孝訳『ライ麦畑でつかまえて』(白水社白水uブックス51、一九八四年)を読みはじめている。いま44まで。いまのところのめだった特徴、魅力となりうるかもしれないぶぶんとしては、一人称での語りが(とうぜんちょっと古いかんじではあるが)生意気なティーンエイジャー、不良少年っぽい口調になっているということと、まあ会話ややりとりがちょっとおもしろいくらいか。解説をちょっとのぞいたところでは、この作品は一九五一年に発表されたらしく、その文体は、「五〇年代アメリカのティーン・エージャーの口調を実に的確に捕えていると推賞され、遠い将来には、この時代の口語を探る絶好の資料としても読まれるであろうと評されている」という(338)。それを日本語に翻訳することはとうぜん困難で、こころみがうまくいったか否かは読者の判断にまかせるほかはないみたいなおさだまりのことを訳者は述べているが、原文のかんじをうつしえているかどうかはべつとしても、日本語の文としてすごくうまく行っているようにはいまのところかんじられない。現在の若者の口調としてはややそぐわないし、「~なんだな」というかんじで、語尾に「な」をつける箇所がおおすぎるとおもう。あとそう、サリンジャーを読むよりまえに、きょうの授業にそなえて河合塾の英語長文500を読んだのだった。一〇番から一三番。立教の過去問からとったらしい一三番の文章が、グローバル化とmobilityの高まりのいっぽうで見過ごされていることみたいなはなしで、シモーヌ・ヴェイユとかエマソンとかを引いていてすこしだけ抽象度が高いかなという印象。たぶんこのレベルだと(……)くんはどういうことを言っているのかよくわからなくなるのではないか。かれのばあいはおそらく日本語で読んでもそんなにピンとこない気がする。現代文の勉強でとにかく文章をたくさん読んでほしいのだが、そのへんたぶんあまりやっていないとおもう。
 一一時をまわって瞑想。みじかめに切ってしまった。二〇分ごろまで。暑い。夏日だ。上階へ行き、ジャージにきがえて、食事は母親が素麺を茹ではじめるところだったので、洗面所でまた顔を洗ったりしたあと、さきに風呂を洗ってしまうことにした。きのう入浴したときにやはり浴槽内の下端にちょっと洗い残しがあったので、きょうは念入りにこすった。鏡の縁のすこしだけものを置けるほそいスペースもついでに。ほんとうは窓ガラスまえのおなじような枠部分も洗おうとおもっていたが、めんどうくさくなったのでそこはあしたやることにした。まいにちのもろもろのルーティンをこなすときに、まいかいつうじょうよりすこしだけ、ひとつだけでも余計にしごとをやるようにすれば物々が自然とととのうのだろうが、なかなかできないことも多い。出ると食事。素麺を熱いつゆにつけて食ったり、あとはケンタッキーのさいごのあまりなど。母親と引っ越しについてたしょうのはなし。そとからみずがながれるおとが聞こえているのにはこちらも気づいていたが、母親は撒いてんのかななどといいつつ勝手口をあけて確認しにいき、そうすると、なによー! 出しっぱなしだよー! もったいない、と高い声をあげて室内にもどり、階段をおりてしたの物置きを経由して、家の横にある水道をとめにいった。父親が畑や植木にみずをやるのにつかっていたところが、ホースがはずれてながれっぱなしになっていたらしい。ホースがついていれば蛇口をあけたままでも問題ないので、あとでまたつかうつもりでそのままにしていたのだろう。畑のほうにいるらしい父親にむかって母親がホースがはずれていてみずがジャージャー出しっぱなしになっていた、もったいないと声を放っているのがきこえてきた。そうして母親がもどってきたあたりで席を立ち、台所にうつって洗い物。母親はもうそろそろしごとに出るようなのでその分も洗っておき、かのじょがこれゆすいでと台布巾を渡してくるのをゆすぐと卓を拭いて、電気ポットがなんだか汚れているのが目についたので、除菌スプレーをつかってそれも拭いておいた。天気は明朗きわまりないが、母親は洗濯物を入れていったようだった。天気予報で雨の情報をみたのに影響されたのだろう。しかしそれは西日本のはなしで、東京はまだきょういっぱいくらいは降らないようすだったのだが。
 白湯とともに帰室すると太田胃散を飲んでおき、Notionを用意。音読。「英語」を読み、現行の「読みかえし」をさいごまで終え、「記憶」ノートを「読みかえし1」となまえを変えてそれもいくらか。実に暑いので、BGMをながすなら窓を閉めなければならないがそれもなかなかつらい。エアコンをつけようかなといちどはおもって今年はじめてオンにしたけれど、それもなんだか気分に合わず、とちゅうで音楽をとめ、窓をあけて無声音で読んだ。それもよい。むしろふつうに声を出すより疲れずに軽く読めるからそのほうがよいのかもしれない。一時過ぎまで読み、それからきょうのことをここまで記述していま一時四〇分。きょうは五時前には職場にいなければならない。もともと歩いていこうと思っていたのだけれど、しかしみちに出るのは四時台とはいえこの陽気では西陽が粘るように熱くなかなかたいへんだろうから、電車にきもちがかたむいている。そうすると四時五〇分くらいにつくので五時まであまり猶予がないのだが。(……)の母親との面談(たぶん本人も来るとおもうが)に同席する予定で、もしはなしが長引くと六時からの授業の準備ができない可能性があるので、面談前にやってしまいたいのだ。


 それからちょっとベッドに避難して(……)さんのブログを読んだ。五月七日分をさいごまで。そのあとストレッチをほんのすこし、胃に圧迫がかかるので軽くやり、二時過ぎから瞑想しようとしたのだが、窓のすぐそとで父親がなにか作業をしておりガサガサいっているのが、さすがにその近距離だと邪魔くさく、いったんはなれてきのうの記事を綴った。それからカーテンをしめればよいではないかというたんじゅんな解決策に気づき、レースだけでなくその外側をなすもういちまいのストライプ柄のカーテンもまとめて閉めて、そうして座った。二五分ほど。瞑想をしていると内臓がうごくためか胃から空気があがってきたり、腹のあたりにうごめきが起こったりして、かえってよくないのだろうか、副交感神経が優位になると消化活動がうながされるとかいうからそれでかえって胃液が分泌されるのだろうかという疑問をもつのだけれど、しばらくすぎるとむしろ楽になるような気もする。しかしきょうはきのうよりもすこしだけ腹のあたりが重いというか、からだにひっかかるようなかんじがある。麻婆豆腐を食べてしまったからかもしれない。三時ごろうえへ。母親がしまった洗濯物は一部と下階のベランダにあった布団だけで、大部分は出ていた。それらをとりこみ、たたんで、仏間や洗面所に配置。ついでに先日から居間の片隅、ベランダに出るガラス戸の脇で新聞がボックスからあふれだしているのが目についていたので、それをしばっておくことに。たくさんかさねてそろえたかたまりのまわりにテープをあてて長さを確認し、切るとしばった。わりとゆるくなってしまったが。あとで出勤するときにそとの物置きに入れておけばよいので階段口の横に置いておき、それから食事。昼間に食ったタマネギやズッキーニやパプリカのソテーのあまり少量と、きのうのサラダののこり。あとヨーグルトをひとつ。大根がもうのこりわずかだったのでぜんぶサラダのうえにおろしてしまい、胡麻ドレッシングをかけて二皿をもち、ヨーグルトとスプーンはジャージのポケットに入れて自室に帰った。それで他人のブログをみながら食事。食うと食器と太田胃散の分包をもってあがり、乾燥機のなかをかたづけ、胃薬を飲んでおいてから皿洗い。時刻は三時半ごろ。飯の支度をどうするかなにか一品だけでもやるかとおもっていたが、素麺をつけたつゆがあるし、米ものこっており、サラダもいちおうきのうの分がまだそこそこある。冷蔵庫をのぞけば豚肉とアジのひらきがあって、肉を炒めていくかとおもったが前者の期限は六月一日、後者が五月三〇日できょうまでだったので、これなら父親が焼くだろうと勝手にみこんで出勤までののこりの時間を書きものにあてることにした。そうしてここまで記せば三時四三分。昼間のあかるい晴れから一転していまは雲が空をあまねくおおって曇っている。西日本をおそっているであろう低気圧の余波が着実に東京までも届いているらしい。しかし蒸し暑さの感触にとくだんの変化はない。


 勤務中のことだけすこし書いておきたい。(……)
 (……)
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 (……)