2022/6/13, Mon.

 (……)成人後の生活でキェルケゴールが客を招くことはほとんどなく、実に生涯を通じて友人といえる者はほぼ存在しなかった。しかし知人は多い。姪のひとりによれば、コペンハーゲンの街は彼の「応接間」であり、そこを歩き回ることはキェルケゴールの日々の大きな楽しみだったという。それは人と暮(end43)らすことのできない男が人びとに交わる術であり、束の間の出会いや、知人と交わす挨拶や、漏れ聞こえる会話から幽かに伝わる人の温もりを浴びる術だった。ひとり歩く者は、居ながらにしてとりまく世界から切り離されている。観衆以上の存在でありながら参加者には満たない。歩行はその疎外を和らげ、ときに正当化する。そのおだやかな懸隔は歩いているからこそであり、関係を結ぶことができないためではない、と。ルソーと同じように、歩行はキェルケゴールにとって思惟への沈潜を助けつつ、日常に隣人との交歓の機会をつくりだすものだった。
 ちょうど文筆活動をはじめたころの一八三七年に、次のように記している。

実に奇妙なことに、わたしの想像力は大勢の人びとのなかで、ひとり座っているときにもっともよく働くのである。騒音や人びとの声のせいで、想像力の集中を持続させようとするならば根こそぎの意志の力が必要となるような場面だ。この環境なしには無限に湧いてくる思念を受け止めることができず、想像力は血を流して死んでしまうだろう。

 彼は、この同じ喧騒を街路に見出した。それから十年以上を経たのちの日記にはこう述べられている。

わたしのような精神の緊張に堪えるためには気晴らしが必要となる。通りや裏道での偶然の出会いによって気を逸らすのである。なぜなら、数名の限られた人物との交流ではまっ(end44)たく気晴らしにならないから。

 キェルケゴールはこの日記やそのほかの文章で、精神がもっともよくはたらくのは周囲に気を散らすものがあるときだという考えを記している。周囲の喧騒から隔たってゆく過程ではなく、自らのうちに退いてゆく過程において集中力が発揮されるのだ、と。「まさにいま、通りではオルガン弾きが演奏しながら歌っている。素敵だ、これこそが人生という重要事における無意味な随伴物なのだ」。都会生活の騒乱に身を浸しながらそう書くこともあった。
 (レベッカ・ソルニット/東辻賢治郎訳『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社、二〇一七年)、43~45; 「第二章 時速三マイルの精神」)


 六時台か七時台にいちど覚醒。アラームを設定したのは八時である。したがってまだ目をつぶって睡眠を確保。六時台にいちど覚めて、七時半くらいにももういちど覚めたのだった気がする。それでもうおおかた覚醒はたしかだったのだが、瞑目のままアラームを待った。布団の横に座布団を置いており、そのうえに乗った携帯がふるえるとおもったいじょうに振動がつたわってきて心臓がちょっとびくっとした。作動をとめ、ちょっと過ごしてからおきあがった。したがって、八時一〇分か遅くとも一五分には離床していたはず。さいしょになにをしたんだったかな。とりあえず洗面所に行って顔を洗ったことはまちがいない。ペットボトルのみずもすこし飲んだはず。水道水は地元とはちがってやはりちょっとにおうようで、そのままでは飲みたくない。兄に浄水ポットをおくってもらわなければ。八時半くらいからまた床について書見した。さくばん読みはじめたピエール・アド/小黒和子訳『生き方としての哲学』(法政大学出版局/叢書・ウニベルシタス1138、二〇二一年)である。20くらいからはじめて、通話後も読んでいま56。インタビューにこたえて自伝的な内容を語る形式の本。もともとカトリックの家に生まれて神学校で教育を受け、司祭となったいっぽうソルボンヌでまなんでいたが、教会の反近代的・前時代的なありかたへの反発などから宗教界をはなれたという。ミシェル・フーコーコレージュ・ド・フランスの教授にするよう推薦したらしい。フーコーが『性の歴史』を書くにあたって典拠としたのがこのひとの研究というはなしだった気がするのだが、よくおぼえていない。56あたりでは聖職者の少年愛の問題にまつわって、教会の「超自然主義」とでもいうべき傾向について述べ、批判している。
 九時五〇分くらいまで読み、通話へ。Galaxy 5G Mobile Wi-Fiの電源を入れ、コンピューターを収納スペースのうえに乗せて、鮭のおにぎりを食った。さらにハムタマゴのサンドも食いつつZOOMにつなぎ、通話がはじまってからもおりおりミュートにしつつむしゃむしゃやる。通話中のことはれいによってあとにまわすが、来週からTo The Lighthouseではなくてエマソンの文章を読むことになった。そのいっぽうで、エマソンを読んでさらに余裕のあるときにはホイットマンの詩もすこしずつ読むと。
 一二時過ぎに通話は終了。きょうは好天で、白いレースカーテンのうえにさらに白さがかさねられてそとはまぶしそう。気温も高く、窓をあけていれば室内に熱がこもるというほどでもないが、あたたかな感触が肌につたわってくる。天気予報をみればあしたは雨だというのでまた手洗いで洗濯をしておき、出勤時刻(四時過ぎには出なければならない)まで干しておこうとおもい、通話を終えるとまず洗面所で洗い物をした。きのうと同様洗面台にみずをためて「エマール」を少量混ぜ、ここ数日シャワー後にからだを拭くのにつかっていたバスタオルを洗えていないのがいちばん気になっていたので、それから押し洗いした。ある程度押したり揉んだりすると、すぐひだりにあるバスタブの縁をまたぎこえ、なかにはいってしゃがみながら洗面器にみずを落としてゆすぐ。そうして洗剤のかんじがとれるとまたまたぎこえて便器や洗面台のまえにもどり、浴槽のうえでタオルを素手で絞る。バスタオルはおおきいので何箇所かに分けて絞らなければならない。それから室を出たそこに敷いてある足拭きのうえでちょっと足踏みして裸足のみずけをとり、バスタオルはふつうのハンガーの肩にかけるようにして、洗濯ばさみで両側をとめた。窓のそとへ。もどってさらにさくばんつかったフェイスタオルや靴下(一一日に履いた白いカバーソックス)も洗っておき、これらふたつは円型の集合ハンガーにとりつける。きのう干したやや厚手の黄色や茶色が混ざって帯状になった靴下も、もう乾いているのだけれど、ついでにつけたまままた陽にあてておいた。麻の白シャツも出したのだけれど、これはもうみずけがなくて軽いから風に押されて物干し竿のうえをすべってしまい、落ちそうでまずかったので、というかじっさいバルコニー(と称されているただの柵)のうえにひっかかるようなかたちで落ちていたので(したのみちに落ちなくてよかった)、こりゃだめだなとおもって室内にいれておいた。きのうと同様、レースカーテンの後ろ側でカーテンレールにかけておき、網戸からはいる風を浴びせる。バスタオルと集合ハンガーはその後だいたい危険なく位置をたもって順調に乾いたのだけれど、二時くらいからつよい風がはしるようになり、そうするとやはり棒のうえを滑ったり、おおきくかたむいてバスタオルなんてほぼ横向きにもちあがったその身が竿にあたるくらいだったので、そろそろやばそうだなとさきほど(いまは午後三時直前)室内に入れた。麻の白シャツはもうたたんでしまい、かわりにバスタオルと集合ハンガーを網戸のまえでレールにかけている。集合ハンガーがおおきくてカーテンをしめられないのでちょっとだけ室内がのぞけるようになっている。したのみちを通るひとはもしかしたら打鍵しているこちらのうしろすがたをみられるかもしれない。むかいは保育園なので午前から子どもたちがにぎやかにさわがしくしているのだけれど、正午をすぎてはやいうちはおそらく昼寝の時間だろう声が消え、すこしまえからまた活発にはじまって、泣きであれ笑いであれ悲鳴がよくきこえる。これ風のつよい日はふつうに洗濯物落ちるよなということはまえからおもっていたのだが、予想通りになったわけだ。ガムテープでも買ってきてハンガーのうえを棒に貼るかたちでどうにかしようかなとおもっている。あるいは百円ショップとかにこういう問題を解決する道具がなにかしらあるのかもしれないが。ハンガーがすべらないとしても、あれくらいの風だと軽いものなんかはハンガーから引き剝がされてしまいそうで心配だ。
 そういえば通話中に飲むヨーグルトは無事飲み終わった。通話後にはそのパックもみずを入れてゆすぎ、そのあと洗剤(「キュキュット」)をちょっと垂らしたうえからさらにそそいで内部を泡で埋め尽くしたかたちでいまはながしに置いてある。プラスチックカップも洗っておいた。あと、(……)市のゴミ捨てルールとカレンダーをきのう市のホームページからPDFでダウンロードしてみておいたのだが、毎週火曜日がプラスチックゴミの回収日だという。朝の八時までに出してくださいとあったが起きられないので、きょうの夜、勤務から帰ってきたあとに出しておけばよいだろう。それでいままで出てひとつのビニール袋にためておいたプラスチックゴミを始末した。このあいだサンドラッグで市指定の燃やせるゴミと燃やせないゴミの袋をそれぞれ買っておいたのだが、プラスチックゴミはまたべつの区分で、これは透明もしくは半透明の袋に入れて出すようにとある。それで部屋にあるビニール袋をみてみると、五日に(……)がマクドナルドを買ったその袋をくれたそれが半透明だったので、これをつかおうと決定し、コンビニやスーパーで買ったサラダがはいっていたパックとか冷やし中華の容器とかを実家から持ってきたキッチンバサミでそれぞれ四分割くらいに切っていった。その他おにぎりやサンドウィッチがはいっていた包装とあわせて袋へ。あとこのあいだコンビニで買ったちいさな飲むヨーグルトの容器を洗っていなかったのでこれも洗っていまながしにある。その後、書見と瞑想のあと二時すぎに、さくばんスーパーで買った包装型のサラダを食った。常温で保存だとやはり開封時にちょっとにおいがつよくなっているような気がしたので、これはもう食ってしまったほうがよいなとおもって、ごぼうサラダとサツマイモ・カボチャのものと両方食った。そのパックもみずをいれてゆびをつっこんでこすりながらゆすぎ、そのあと洗剤をちょっと垂らしたうえでさいどみずとゆびを入れてゆすぎ、これもいま流しの内に逆さにするかたちで干してある。とにかくやはりまず冷蔵庫だ。そして野菜を食いたい。ただ料理とまで行かずとも、野菜を切って皿をつかって食うとして、食器とか道具をどこに置くかというのがまたくせものである。乾燥機があれば楽だがスペースが狭いのでものを増やしたくはなく、あまり気が向いてはいない。となればむかしながらのかたちで洗ったあとに布巾などで拭くとかだが、そのあと食器を置いておくばしょにも困る。なにか食器を入れられるものを買うか、だがそれならもう乾燥機を置くのと変わらないのではないかという気がする。野菜を切るといっていまのところまな板を置いて切るスペースすらないから、それ用の簡易テーブルみたいなものもいるだろう。ところがそれを置くばしょもとぼしい。ながしのひだりは洗濯機置き場である。そのさらに左隣に冷蔵庫を置こうとおもっているが、調理時は洗濯機のまえあたりにテーブルを出すか、それかながしをまえにして右、扉や靴を脱ぐスペースのまえに、ながしとは垂直のむきで置くようにするか。あるいは洗濯機のまえに置くのとほぼ変わらないが、ながしのまえに立って振り返ったところ(洗面所につづく扉のまえ)にながめのテーブルを置き、たびたび方向転換して料理をするかたちを取るか、そのあたりだろう。
 飯を食ったあとにきょうの日記を記述。いまうえまで書いたあたりで便意がきざしたのでトイレに行き、便意がきざしたわりになかなか出なかったのだけれど、これぜったい常温で置いておいたサラダ食ったからじゃんとおもった。とはいえ気分がわるいというほどのことはない。糞をたれながらというか待ちながら、不思議なもので独居をはじめれば家事等ぜんぶじぶんでやるようだから負担が増えて読み書きがそんなにできなくなるとおもっていたのだけれど、むしろここに来てからのほうがまいにちよくやっている気がする。まあきょうからまた労働がはじまるので、それでどうなるかわからないが。問題はやはりそこですね。いま基本週三ではたらいているのだけれどそのペースだとだいたい一か月八万円くらいしか稼げないわけで、この部屋の家賃が三万三〇〇〇円である。だからのこりは四万七〇〇〇円。国民年金を払うのなら一万六〇〇〇円くらい引かれるから三万しかのこらないわけで、それではさすがにきついだろう。国民年金はたぶん免除とかができる気がするのでそれはそうするとして、四万七〇〇〇円でもふつうにきついだろうが、じっさいのところこの部屋でひとつき生きるのにどれくらいかかるのかがわからないので、三か月くらい暮らしてみて概算をとりたい。そのために家計簿をつけなければならないだろう。何年かまえは実家にいてもつけていて、その月の支出をEvernoteでいちいちひとつのノートにメモって(いまもまいにちの日記の下部に支出があればメモり、その月の総支出をその都度出して、収入との差もそのしたに記録して赤字黒字がすぐわかるようにしているが、それらのデータをわざわざべつの記事にまとめるということはしなくなってしまった)、月ごとの総収支とか一年の総収支とかを出していたが、面倒くさくてやらなくなってしまった。それをまた再開せねばなるまい。


―――


 すでに一一日の記事に先取って書いたが、この日は勤務で、職場にむかう電車のなかではげしい緊張におそわれて吐きそうになった。(……)から(……)までの区間のみならず、最寄りの(……)駅ではやくも緊張がはじまっていたとおもうのだが、駅には若い女性が多く、年齢やかっこうやようすから見るかぎり、それはどうも近間にあるらしい(……)大学の学生らのようだ。(……)線の電車内ではたしか席に座っていたとおもうのだが、緊張が高まって喉元がつかえるような、内側から押しあげられるような感じであり、これはやっぱりまた精神科に行って安定剤をもらったほうがよさそうだなとおもったのだが、そこで財布にむかしのやつがのこっていたのではないかとおもいつき、見ればロラゼパムが二錠あったので(ちなみにワイパックスもあって、こちらは一五日に服用することになる)一錠口に入れて飲みこみ、それでわりとなんとかなった。とはいえその後職場について講師スペースで椅子にすわりながら準備をしていてもからだがなんだか不安定で違和感ありありであり、とりあえずきょうのこの二コマをなんとか乗り切って(……)さんに体調がどうもということをつたえようとおもったので、一錠のこっていたロラゼパムを追加で服用し、そうするとれいの浮遊感、ちょっときもちのいいようなふわふわした感じがおとずれたので、ああこれだこれだとおもった。それで勤務はいちおうつつがなく済んだ。しかしその内容はあまりおぼえていないので省く。帰るまえに(……)さんにちょっと相談がありましてと声をかけ、相談というか体調のことで、もともとパニック障害ってのをもっているんですけど、ときりだすと、(……)さんからなのかだれからなのか、聞いてましたという返答があった。それでさいきんどうもすこし再発っぽくなっていて、きょうも電車で来るときに緊張して吐きそうになったということを伝え、精神科に行ってまた薬をもらってやっていこうとおもうのだがいま保険証がないので行きづらい、ということをはなした。べつにそれいじょう、ばあいによっては休ませてもらうかもしれないということは言わなかったのだが、それは暗黙のうちにふくまれているし(……)さんも了解しているわけで、じっさい一五日にはその旨つたえることになった。この日のことはそのくらいしかおぼえていない。帰りは(……)駅のすぐそばにあるファミリーマートで飯を買って帰った。(……)