2022/6/15, Wed.

 (……)歩行は、身体を本来の限界へふたたび還元する。しなやかで、敏感で、脆弱なものへ。一方で、道具が身体を拡張するように歩行は世界へ延びてゆく。歩行の拡張が道をつくる。歩くために確保された場所はその追求のモニュメントであり、歩くことは世界のなかに居るだけでなく、世界をつくりだすひとつの方法なのだ。ゆえに歩く身体はそれがつくりだした場所に追うことができる。小道や公園や歩道は、行為にあらわれた想像力と欲望の軌跡であり、その欲望はさらに杖、靴、地図、水筒、背嚢といった物質的帰結をつくりだす。歩くことが事物の制作や労働と同じように備えている決定的な重要性とは、身体と精神によって世界へ参画することであり、身体を通じて世界を知り、世界を通じて身体を知ることなのだ。
 (レベッカ・ソルニット/東辻賢治郎訳『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社、二〇一七年)、53; 「第二章 時速三マイルの精神」)


 れいによって六時台だったか七時台だったかにいちど覚醒。再度ねつく。つぎに気づいてかたわらの座布団のうえに置いておいた携帯をみると、九時ごろだった。きょうは(……)くんが注文してくれたニトリの机と椅子が届く日で、そのお届け時間が9:20~11:20のあいだということなのでそろそろ起きなければならなかった。さすがに九時二〇分ちょうどには届かないだろうとおもっていたが、起きてたしょう身繕いをし、受け取る準備をしておきたかったのだ。それでちょっと過ごしてから九時一〇分ごろ起き上がり、背伸びをしたりしていると窓のそとにトラックらしき車が停まるおとが聞こえて、もしかしてもう来たのかなとおもいながら洗面所にはいってとりあえず顔を洗っていると、果たしてインターフォンが鳴ったので、ずいぶんはやいなとおもった。二〇分ぴったりどころか、まだむかえていなかったかもしれない。それで室を出てはいといいながら扉をあけると、配送員が立っていたので礼を言い、段ボールが三つあるというので了解。さいしょにかれがもっていた机の天板を入れてもらい、扉はストッパーなどないし開けっ放しにできないのでなにか支えをとおもってきのう買ったカーテンを入れっぱなしのリュックサックを持ってきたところが、重さが足りなくて扉を開けたままにできず、けっきょくこちらが押さえてそのあいだに運びこんでもらった。ワークチェアのおおきな段ボール箱と、机の下部の部品がはいったもの。配送員はふたりか三人いたようだ。やりとりに出たひとは戸口から部屋のなかをちょっと見て、フローリングのうえに置かれますかねときくので肯定すると、それじゃあ床を傷つけないようこれをつかってくださいとフェルト製のほそながい保護シートを渡してきたので礼を言い、納品書とともに受け取って別れ。なにはともあれ届いてしまったので組み立てることにした。箱はかなり重い。ほとんど引きずるようにして部屋のなかのほうに持っていき、椅子から開封。部品をそれぞれとりだして包装も取る。きのう床保護用の透明なビニールのマットを買っておいたのでそれを開封して敷き、そのうえで作業。だいぶ骨が折れた。組み立て説明書にしたがって各部を同梱のレンチとネジで留めていくかたちだが、座面と背もたれをくっつけるときに反対にしないとやりづらいのだけれど、両方とも重いし、とくに重い座面を背もたれの下部のうえに支えて保持することが難しい。説明書にも、かならずふたりいじょうで支えながらやってくださいと書いてあるのだが、あいにくひとりである。それでなにか台はないかとおもい、さいしょは収納スペースのうえに座面を乗せて接合部をはみ出させ、したから背もたれをちかづけるかたちでこころみたのだがこれだと高さの関係でやりづらい。それから、まさにこれらがはいっていた段ボールをつかえばよいではないかとおもいつき、箱を閉じてそのうえに座面を乗せて、なんとか接合することができた。そのあと足のほうをつくる。五又にわかれた銀色の足のさきにそれぞれキャスターを押しこんでとりつけ、ひっくりかえすと中央に伸びる棒に座面と接合するための棒を差す。そのあと上部(座面および背もたれ)をうえからその棒にさしこむのだが、これもかなりたいへんだった。まだ起き抜けで血がめぐっておらずからだの準備がととのっていないし、なにも食っていないところに重いものをもったりうごかしたりしなければならなかったのですでに疲労していたのだが、上部がかなり重くてからだがぷるぷる震えてしまい、穴と棒の位置をあわせるのにけっこう苦労した。しかしなんとか差し入れて、そのあと両側のアームもとりつけて完成。さらに机のほうも開封して作業にとりかかったところが、最下部、両側の足ふたつとそこから伸びる縦棒を接合し、縦棒のさきからはステンレスの細い棒が横に出ているので両方のそれのあいだをまたべつのステンレスの細筒でつなげるかたちなのだけれど、そこまで行ったところで説明書を確認すると、縦棒に左右のべつがあることが判明し、みれば左右逆につけていた。このままでも行けるのでは? とおもってさきの工程もみてみたが、穴の位置の関係でどうも駄目そうだったので、もう疲れて気力がなくなったしきょうは勤務で猶予もないから机はいったんここまでにして、帰宅後かあした以降にまたやることにした。ともあれ椅子ができたのでよい。
 その時点でもう一一時。腰がめちゃくちゃ疲れたので一時寝床に避難して、座布団を布団と背のあいだにはさみ、腰を押しつけながら左右にぐりぐりやる感じでやわらげる。あいまはピエール・アドを読んでいた。すこしだけで切って起き上がると屈伸し、腰に手をあてて背をそらしたり、両腕をまっすぐうえにあげてそのまま静止したりもした。そうして食事。さくばんコンビニで買った鮭のおにぎりとチョコチップの混ざったスティックパン。チョコチップスティックパンは小学生のころ好きでよく食っており、我が家では「長いパン」と呼ばれていた。せっかくなのでつくったばかりの椅子を収納スペースのほうに向け、収納部にたいして椅子の高さは足りないのだが座りながら食った。そのあとここさいきん郵便ボックスにはいっていた市議候補らのチラシをちょっと読んだ。投票はできないわけだけれどまあいちおうどんな感じなのか見ておこうかと。共産党のものがひとつあり、これは候補のなまえを直接書くのではなくて日本共産党の何歳男性というふうにぼかしているのだが、公職選挙法のどういう規定でこうなっているのか詳細は知らない。公示前にも配れるようにということなのか? その他立憲民主党。(……)というこのひとは市議候補ではなくて衆議院議員なのだが(過去に参議院でも六年つとめていたよう)、立憲民主党から出ている市議候補五人を応援しているということでこのひとじしんのチラシもはいっており、とちゅうまで読んだのだけれどすくなくとも裏面の「国会活動」という区画のところは文章がちょっとなあ、と。文章力の問題ではなく、というかまあ文章じたい、内容は措いても一文の、また数文の構成の面でピリッとしないという感じもあるはあるのだが(こういう政治方面のチラシはだいたいどれもそうである)、それはべつとして、たとえば「消費者の権利実現法案」についての説明のところで、「立憲民主党案は(1)「包括的つけ込み型勧誘取消権」の創設 (2)特商法預託法等改正案に含まれていた契約書面の電子化の削除 (3)成年年齢引き下げに対応した若年成人のクーリング・オフ期間の1週間延長のとるつめ3本柱から成り立っています」とあって、「とるつめ」ってなに? とおもったのだ。誤字だろうか? と。「とるつめ3本柱」という謳い出しなのか、それか余計な四文字が入ってしまったのか。いま検索してみると校正用語で「トルツメ」というのがあるらしいので、つまり余計な字を取って詰めるということだろうが、それを比喩的につかった名称なのかなとおもったのだけれど、それよりもむしろもしかすると、ここに校正段階で「とるつめ」という指示がはいっていたのをそのまま本文に載せてしまったということなのではないか? 立憲民主党が「とるつめ3本柱」という名称を公式に謳っているとすれば検索で出てくるはずだがみたところないので、たぶん誤記なのではないか。この点はちょっとあいまいとしても、そのしたの「子ども総合基本法案 提出」という小見出しのぶぶんは、小見出しでは「子ども」と漢字入りなのに本文では「こども総合基本法案」となっているし(くわえてそのあとの「子どもコミッショナー」という機関名は漢字入りになっている)、「市区長村」というこれはあきらかな誤字もある。こういう調子なので、すくなくともこの区画をつくったひとは文章をあんまり読み直さなかったんじゃないかな? という印象を持ってしまう。


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 そのあと出勤までは瞑想をしたり、束子でからだをこすって乾布摩擦したり。二時三五分ごろ出立。スーツは灰色のベストにスラックスで黒いジャケット。靴べらがないので革靴を履くのが意外とたいへんだ。実家にながいものではなくてポケットに入れられる携帯用のちいさなやつがあったので、それを持ってきたいが。部屋を出ると鍵を閉め、階段を降りてそとへ。通路の入り口、集合郵便受けのしたになにかものが置かれてあって、みればトイレットペーパーだった。二〇二号室の「(……)さま」と書かれてあったとおもう。ネットで注文したのだろうが、そんなところに置く? とおもう。戸口まで持っていってやれよ。そとに出るときのう買ったみずのペットボトルを自販機のゴミ箱に捨て、みちへ。ひだりに折れて公園のほうから行ったほうが駅まではちかいのだが、きょうもなんとなくみぎのみちに出た。西へ。つきあたって渡るとちょっとみぎへ。みちばたにアジサイが咲いている。豆腐屋のまえでひだりに折れて裏にはいり、直進。曇天だが雨はまぬがれている。気候はやや涼しめで、ジャケットを着ていてちょうどよい。街道だかおおきめのみちに当たると左折し、ぷらぷら行っているとすこしまえでガードレールに寄った小学生がこちらをむいて、こんにちはと会釈しながらあいさつをかけてきたのでこんにちはとかえした。なぜこちらに声をかけたのかわからないが、だれにでもあいさつするようにいわれているのだろうか。とおりすぎてすすみ、右にわたるかたちで横断歩道を越え、スーパーの脇をはいってまっすぐ行けば駅である。きょうも音楽がきこえたのだが、やはりスーパー内からかかっているようにきこえる。しかし店内にはいったときにあんな音楽がかかっていたおぼえはないのだが。ソウルっぽいやつだ。瞑想もして心身をほぐしたしどうにかなるかなとおもっていたのだが、駅がちかづくと自動的にからだが緊張を帯びる気配があった。どうにもならん。大気の圧力が急に厚くなったように、まえにすすむそのうごきにも抵抗が増える。それでも駅にはいり、階段通路でむこうにわたり、ベンチにつくと


 いまは早引けしてきた帰宅後の、時計をみればもう二四時まえなのだけれど、コンピューターをまえにして(日中組み立てた椅子に座り、ワークチェアのはいっていた段ボール箱をパソコンの台にしているのだが)打鍵しているとそれもどうやらストレスになるようで、腹がしくしくするとともに喉のつかえがまた生まれるので、うえまで書いたところでやめることに。ともかくも心身が回復しなければどうにもならん。体調と健康優先だ。きょう、あした以降の休みを申し出たのはマジで正解だったというか、そうでなければ死んでたな。しかし休めるのはひとまず日曜日までなわけで、来週までにどうなっているかわからん。健康にはたらけるようになっているかどうか。追加の休みも頼めばもらえるとはおもうが。ともかくきょうはもう休んだほうがよい。けっこうきついぜマジで。むかしよりは余裕があるけれど。


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 いまは翌日、一六日木曜日の午後一時。一一日以降をあまり書けていないので、とりあえず時系列順に一一日からとりくもうかなとおもっているのだが、この日のことでひとつだけさきに書いておくと、うえの二段落をつづるまえ、ひさしぶりにnoteをみると前回投稿した「風景」の記事(一八八番)にコメントがあって、その主は「(……)」というハンドルネームのひと、このひとは毎度こちらの文章を読んでくれているらしく、「風景」を投稿するたびに「スキ」ボタンを押してくれているのだけれど、今回はじめてコメントをもらった。「しかしじぶんもまもなくその風景の一片になるのだとおもい、じっさい右手からひかりを受け取って頬をあたたかくされた。」というこちらの一節を引きつつ、世界を描写することばとして散文が存在することの証であるみたいなことを言い、「それは人の胸に深い呼吸と勇気を与えるものだ。控え目に言ったとしても。そして、同時にそれは言葉を読むこと/書くことの愉悦をもたらす。その無上の歓び。ありがとう。」と絶賛をくれており、ずいぶんおおげさに称賛されたものだなとおもったがともかくもありがたい。それでうえの二段落を書くまえに以下のようなコメントを返しておいた。

どうも、こんにちは。返信、遅くなってしまって申し訳ありません。いつも文章を読んでくださっているようで、ありがとうございます。

じぶんの日々を書くのが好きで毎日書いているのですけれど、そのなかでもとりわけ見聞きしたもの、風景を書くことにはなぜなのか昔から一貫してつよい魅力を感じています。

ものや時空や存在がそこにあること、それだけのことがこの世でもっとも不可思議であったり、印象的であったり、すさまじかったりする、という思いを得ることがときにあります。とりあえず「風景」と題されているこの一連の断片的な文章は、(いつもかならずではありませんが)世界にたいするじぶんのそのようなおどろきの記録であると言えるかもしれません。

そうした意味で、じぶんの文章がこの世界を描写しえているという感覚をあたえるとすれば、それはうれしく、光栄なことです。過分な評言をいただいたとおもっていますが、今後もたのしんでいただければ幸いです。どうぞ、おつきあいください。


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 いまは一七日の金曜日、午後一時一二分。この日のことはもう先取りしてまえの記事に書いているが、一三日につづいて電車内や職場で緊張のためにまた吐きそうになったというのがメイントピックである。この日はいよいよやばかった。この前日の一四日には街に出ながら、そこそこ楽な気分だったので、この分ならあしたはどうにかなるだろうとおもっていたのだが、それは甘い見通しで、ぜんぜん駄目だった。じぶんはだいじょうぶだなどとおもわないほうがよい。あらかじめじぶんは駄目だとおもっておいて、予測誤差にそなえておいたほうがよい。(……)線に乗っているあいだは、この日はたしか座れずにだいたい扉際に立っていたのだけれど、やはり腹がうごめいたりいたんだりし、また喉元がつかえたり詰まったりするような感じで、ときおり嘔吐感というか喉の奥に実体のない感覚のみの圧迫が押し上がってきて、それをやりすごすのが難儀だった。へんなはなし気持ち悪いというのとはちょっと違って、つまりこの時刻(午後三時台)にはもう胃のなかみもおおかた消化され終わっていたはずだし、胃が悪かったり車に酔ったりしたときの気持ち悪さとは違って、ただ吐きそうなのだ。気持ち悪さがないままに、ただ吐きそうになる。からだが勝手にそういう作用を起こし、そういう方向にうごく、という感じだ。喉元のつかえというのは感触としてはけっこう実体的で、これはじっさいに痰が出てきてひっかかっているのでもあろうが、症状としては梅核気と言ってよいだろう。喉や食道にじっさいには不調がないのに、喉になにかが詰まっていくら飲みこんでも取れない感じがする、というものだ。とうぜんながらそれは緊張とか不安とかストレスとかで引き起こされるものである。きょうはロラゼパムももうなかったので森田療法の精神で身をゆだねながらやりすごすしかなく、そうしてなんとか電車を乗り切って職場に行ったのだがここでもやはり喉のつかえや吐きそうな感じはつづいているから、授業前に(……)さんに声をかけてやっぱり体調がけっこうやばそうで、と言い、あしたと土曜日の勤務を休ませてもらえないかと打診した。すぐ了承が来るのでありがたい。しかも、この日は二コマの授業だったのだけれど、なんだったら一コマだけでもいいですよとすら言ってくれて、このときはとりあえずやってみますと受けたのだけれど、授業がはじまってからすぐにこれはやはり駄目だな、一コマのみで帰らせてもらったほうがいいなと判断されたのでそのように頼んだ。マジで助かったとおもう。二コマやっていたらふつうに吐いていた。じっさい一コマのみの授業のさいちゅうにも生徒((……)くん)とやりとりしながらあと一歩で吐くくらいまで感触があがってきたときがあったし、全般的にもちろんはなしづらいわけである。座ると腹がちょっと圧迫されるためか余計に吐きそうになる気がしたので、めずらしく、というかひさしぶりに、おおくの時間を立ちながら授業した。ただ焦燥感とか危機感とか逃げ出したい感じというのはそこまではなく、この点がむかしのパニック障害の発作とはすこしちがっているところだが、とはいえいまにも吐きそうではあるからたびたび時計をみながらはやく終われとはもちろんおもっていた。まあ、あのコンディションでむしろよくやったとおもう。やりとりをすると吐きそうになるからことばが短くなったり、指示を出したらすぐにはなれていつもよりそっけない感じになったり、生徒のほうもなんかいつもとちょっと違って変だなとは感じていたかもしれないが、いちおう体裁は保てたとおもう。ちなみに当たったのは(……)くんのほか、(……)さんと(……)くんである。(……)くんとはひさしぶりの邂逅だったのでもっといろいろはなしたり、突っ込んだ質問をしたりしたかったのだが。それで授業後もいよいよやばいというわけで(……)先生と(……)さんと情報共有をしているあいだもふうふう息をつきつつ、やばいですと漏らすような始末で、いちおう報告をするのだけれどそれも消耗したような低い声でことば短かにいうほかなく、そのあと(……)先生がしゃべっているあいだに吐きそうになったのでちょっと入り口のほうにうごいて片腕を顔のまえに掲げてやりすごしたのだが、それからもどってすいません、いまマジでもう吐きそう、というと(……)さんが、だいじょうぶですよ、トイレ行っていいですよというのでそうした。個室にはいるとひとまずズボンを脱がずに履いたまま便座に腰をおろし、しばらく目を閉じて心身がたしょうおちつくのを待った。たぶん五分くらいか。そうして出て講師スペースのほうにもどると、(……)先生に、もう帰りますわと低く告げ、(……)さんも、(……)先生、もう帰りましょう、あとやっとくんで、ぜんぶそのままでいいんで、というのでそうさせてもらい、ペン類を引き出しにしまって、ロッカーからバッグを取り出し、じゃあ、すいません、お疲れさまです、とはあはあいいながらあいさつして退出した。マジでたいへんだったな、という感じ。たださきにも書いたように、むかしのパニック障害のときとは違って、消耗感とか絶望感とかはさほどではなく、気力がうばわれきったという感じはなかった。とはいえこのあとまた電車に乗って帰らなければならないわけで、そのことをおもうとやはり吐きそうではあったが、というかじっさい電車に乗っても吐きそうではあったが、もはやあきらめのきもちがまさってどうにでもなれという感じになっていたので、座席について瞑目し、ときおり喉元につきあがってくるのをやりすごしながら到着を待った。乗客がかなりすくない時間だったのでたすかった。これが満員とかだったら吐くどころかばあいによっては倒れていたかもしれない。あととちゅうで財布にのこっていたワイパックスを一錠飲んだのだけれど、これはSSRIだし即効的に不安をおさえる安定剤としての効果はさほど高くなかったはずで、というところで検索したのだけれどワイパックスではない、ワイパックスロラゼパムとおなじものだ。このとき飲んだのはスルピリド、すなわちドグマチールだ。そんななまえわすれてたわ。これはやはり不安抑制効果は高くないようで、とくに効き目は感じなかった。しかもSSRIは副作用に吐き気があるわけで、あとになってそういえばそうじゃんとそのことに気づいたのだった。今次のじぶんのばあい、スルピリドはたぶん飲んでもあまり意味がなさそうだ。とにかく安定剤がほしい。ともかくもそうして(……)に着き、(……)まで乗り換えて電車で行こうか、それともこれいじょう電車に乗るのはけっこうきついし歩いて帰ろうかとおもいつつも、ひとまず(……)線のホームにうつってみたところがまもなく発車の停まっている電車は満員にちかく、これはやめたほうがよいだろうなとおもって歩いて帰ることにした。三〇分くらいのはず。ここさいきんの経緯やこのあたりのながれ、またこの翌日の記事に書いたがすれ違う通行人にたいして暴力的なイメージが湧くことなど、さいしょの発作のときや二〇一八年のときの要素をぜんぶあわせて小規模に反復しているようなおもむきがある。そして過去のそういう経験上、こういう状態を放っておいてもわるくなるばかりなので、とりあえず精神安定剤で心身をガッと落ち着けにかかって良くない状態の連続を断ち切らないととまずい気がするのだが、そのヤクがないのが現状である。ともあれ改札を抜け、南口にむかって駅を出た。駅前では日本共産党の(……)氏が演説していたようで、こっちはそれどころではないからよくみなかったが、スタッフによって配られているチラシはなぜかいちおうもらっておいた。もうすでに先日ポストにはいっていたのだが。高架歩廊を行くあいだに吐き気のみならずカッとなにかがひらめくような、一瞬だけ不安が高まってくらっとくるような刹那もあり、ばあいによっちゃ倒れるぞとおもったが階段をおりてしたのみちに行き、まあ開放されたそとなので電車内よりはまだましで、とはいえばあいによっちゃというのを絶えず感じつつ夜道をあるいた。みちは正確には把握していなかったのだがおおまかな方向はわかるし、基本的には東にむかってそのうちどこかで南に折れればよいわけだし、たしかこの通りを行けば(……)の実家があったはずという記憶もあったのでそのみちを歩いた。それでじっさいああここはおぼえがあるぞという角にホテルが建っている交差点にも当たり、それからまたしばらくすすめば(……)の実家もあったので、そこを過ぎてみちを折れると知った界隈になってきた。あるきながらかんがえるに、やはりストレスというものがあるのだろうと。ひとり暮らしにうつったことのそれもあるだろうしもろもろあるだろうが、ともかくストレス、圧迫というものが、明確には感知できないところで心身をおかしており、それがいまキャパシティというか閾値をたしょう越えているのだろうと。にんげんの心身というのは生きているだけでそういう不安やストレスをつねに感じつづけており、それはふつうは抑圧されているのだが、じっさいには伏在しており、もしその不安が全面的に解放されて意識や自我の領分にすべてあらわれたとしたらじぶんはおそらく狂うのだろうと。とくにものめずらしい考え方ではなく、精神分析理論の簡易版みたいなことだが、そういうことを実感としてかんじたような気はした。
 それでアパートにたどりつき、その後の夜のことはもう一一日の記事にたしょう書いてしまったのだが、とりあえず市販薬で対応するしかねえとおもって検索し、半夏厚朴湯 [はんげこうぼくとう] という漢方が不安症状に古来つかわれてきたということでこれを近くのサンドラッグで買ってすぐさま飲むぞとおもったところが、けっこう休んで心身を回復させてからきがえてでむいてみるとこれがないわけである。サンドラッグにいるあいだもあいかわらず喉はつかえていていやな感じだったので、ないならしょうがねえと見切りをつけてさっさと退散した。それで帰ってAmazonで注文。半夏厚朴湯と、あと胃のほうに来るストレスには加味帰脾湯 [かみきひとう] というのがよいというのでこのふたつを飲んでみようと二品注文した。届くのは一七日。そうして、もうきょうは大変だったしはやめに寝ようとおもって零時半には消灯した。