2022/8/8, Mon.

[ジョン・マーティン宛]
1991年7月12日午後9時39分


 ヘンリー・ミラーが有名になって書くのをやめたという記述を読んだ。それはおそらく彼は有名になるために書いていたということだ。このことがわたしにはわからない。紙の上に綴られる文章以上に魅惑に満ちて美しいものなど何もない。そこにすべてがある。そこにすべてがあった。書くというそのことこそが最大の褒美だ。有名になってからが単なる続きでは終わらないのだ。誰であれ書くことをやめた作家のことをわたしはまったく理解できない。自分の心を取り出して糞と一緒に流してしまうようなものだ。誰かにいいと思われようが思われまいが、わたしは息を引き取る最後の瞬間まで書くことだろう。始まりとしての終わり。わたしはこんなふうになるさだめだった。見てのとおり単純にして奥深い。こんなことを書くのはもうやめさせておくれ、そうすればもっとほかのことが書ける。
 (チャールズ・ブコウスキーアベルデブリット編/中川五郎訳『書こうとするな、ただ書け ブコウスキー書簡集』(青土社、二〇二二年)、293)




 覚めて携帯を見るに、八時半。睡眠としてはみじかいが、息を吐くともうからだが覚醒しだす体質になっているので、おのずから覚めてくる。呼吸しながら腹やら眼窩やら各所を揉んで過ごした。窓外では保育園に子どもたちがあつまってきているところで、保護者と保育士と幼児のあいさつの声がひっきりなしに聞こえる。天井の端のほうにはカーテンの上部から漏れたあかるみが影のすじをなかにうっすら引きながらやどっていて、そのほのかなあかるさが増減するものだから、きょうは太陽と雲のまじわりがあるらしいとみた。九時一〇分で離床。カーテンをあけると、粉をはたいたような雲も混ざっているが、空には水色がよくみえる。洗面所に行って顔を洗い、用を足したあと、さくばん放置したながしの洗い物をかたづけておいた。カフカ全集をちょっとだけひらきながら冷たい水を飲み、蒸しタオルをこしらえて顔に乗せると寝床に帰還。一年前の日記と二〇一四年のものを読みかえした。2014/1/25, Sat.には「風呂のなかでは『族長の秋』をぼそぼそとつぶやいた。冒頭から五頁はほぼまちがいなくいけるが、六頁目の途中からどうしても曖昧になるのだった」とあるので、マジで暗唱できたらしい。冒頭から五ページというと、たぶん、その秋のはじまりのころだったが、大統領が死体となって発見されたことはまえにもいちどあった、みたいな感じで本格的に物語にはいっていくあたりだろうか。そうして影武者であるパトリシオ・アラゴネスのはなしにつうじていく。二〇一四年のじぶんはさらに、「一日を通して一頁も本を読んでいない日でそれだけで生きている甲斐がないし、あれほど長く外にいたのに観察力が働かずこれを日記に書きたいと思うことが、もっと言えばその場で頭のなかで書きはじめる例のプロセスが駆動することがなかったし、日付が変わってから書きはじめたこの文章をきちんと書く気力もなかった」とつづけており、カフカみたいなことを言っている。
 日記の読みかえしのあとはきのうも読んだ共通テスト模試から竹西寛子「管絃祭」のほうも目をとおしておいた。広島出身の作家らしく、この作は被爆者の戦後の生を書いたものらしい。けっこうみじかい一文で改行することのある作家だなとおもった。じぶんにはないリズムを感じる。とりあげられている部分の終盤では厳島神社の管絃祭なるものについて説明的に、また回想的に語られているのだが、その祭りのようすには(……)さんの『双生』をおもいおこす。そういうもよおしが厳島神社にあることはまったく知らなかった。

 夏を厳島で過すのは、家族の誰一人もまだ欠けていなかった頃、日中戦争も勝ち戦だった頃の村川家のならわしであった。陰暦六月十七日の夕刻から深夜にかけて、鳳輦 [ほうれん] に載せられた厳島神社御神体が、御座船 [ござぶね] で近くの摂社末社めぐりをする、一年に一度のいわゆる海上渡御の夏祭が管絃祭なのである。
 この日は、由緒ある近村から選ばれた若者たちが、櫓と櫂をあやつって曳船 [ひきふね] を漕ぐ。鳳輦には神官が従い、幟や幔幕で飾られた御座船は、その曳船に導かれてゆっくりと大鳥居下を出発する。
 前夜から幟を立てて神社のまわりに集ってくる物見船、屋形船は数知れず、御座船が曳き出されるのに合せてそれらの船もいっせいに動き出す。花火が打ち上げられる。御座船では篝火が焚かれる。火の粉が枝垂柳のようになって海面に降り注ぐ。
 屋形船に乗らないうちは、研一たちにはまだ夏が来ないのも同じであった。管絃祭が終ると、それだけでもう夏はたけなわの感じになった。

 竹西寛子の小説をとりあげたこの第2問の問5は、川西政明という批評家の文章(「『管絃祭』の構造」)を【資料】として掲載し、それと小説本文の双方を踏まえたうえで問いにこたえろ、というつくりになっているのだが、その【資料】のさいしょで川西政明はつぎのように記している。

 《春の彼岸である。東京は、まだ寒い。》
 これが「管絃祭」の書き出しである。
 おそらくこれは実際の描写であろう。春の彼岸の東京は、まだ寒いというのは村川有紀子が味わった実感である。この実感には季節感をこえるなにかがこもっている。言葉でいえば「寒い」に力点が打たれるなにかがある。この「寒い」は広島を生きた母の暗喩となっているかのようなのだ。母がもっただろう寒さを胸に抱いて、寒さを暖めはじめたとき、「管絃祭」の言葉が生み出されてきたのではなかったか。

 しかし、じっさいの「管絃祭」の書き出しは、

 春の彼岸である。
 東京は、まだ寒い。

 と一文目と二文目のあいだに改行がはさまれている。この改行の存在を無化した時点で、この川西政明という批評家の書く文章には信用が置けないという印象をいだいてしまったのだが、じっさいそれにつづく記述を見ても、「この「寒い」は広島を生きた母の暗喩となっているかのようなのだ」という、安直このうえない解釈というか印象を述べている。
 この二文のあいだに改行をはさんで読んだばあいと、それなしでひとつづきの一行として読んだばあいとでは、読むほうの受ける感覚もかなり違うし、書き手の意識としてもそこにおおきな差があることはまちがいがないだろう。川西政明がその行替えを勝手にけずって一行に縮約してしまった点に、テクストのもとのかたちを尊重するという姿勢の欠如をみる。ただしく正確に引用することは、あきらかに、批評家なる存在がそなえるべきもっとも基本的な資質のひとつである。川西政明がなぜここをちぢめてしまったのか、理解ができない。せめて、《春の彼岸である。/東京は、まだ寒い。》というふうに、改行があることを示す代理記号をはさむべきだったとおもう。
 しかもそのあとに語られる解釈もうえのように、もっとも通有的なたぐいの理解なのだ。「東京は、まだ寒い」の「寒い」が、「広島を生きた母の暗喩となっている」ということは、もちろん作品本文には明言されていないし、それを言語的にあとづけられるようなたしかな語群も、見たところではふくまれていない。川西政明じしんも、「この「寒い」は広島を生きた母の暗喩となっているかのようなのだ」と事実的な断言を避けているように、これはかれがいだいた印象にすぎないものである。それはそれでよい。だれもが作品に書かれたことばを読んでなにがしかの印象をじぶんのなかに発生させるし、それを確定的な事実を僭称することなくじぶんの印象として書く分にはなにも問題はない。とはいえ、川西政明のこの印象、もしくは解釈が、ひじょうに退屈な、きわめて通俗的な比喩的理解であるというおもいは禁じえない。きわめて通俗的な比喩的理解が問題なのは、文章の具体性を捨て去り、その作品がその作品であることを尊重しようとせず、矮小化するからだ。そこに種類はすこしちがえど、うえに記した「テクストのもとのかたちを尊重するという姿勢の欠如」とつうじあうものをおぼえる。
 ついでにもうひとつ違和感をおぼえたのは、ここの問い(「小説の冒頭に「春の彼岸である。東京は、まだ寒い。」とあるが、この表現からどういうことが読み取れるか。」)の選択肢の文で、たとえば一番の文章は、「春と寒さという異質なものが共存する東京の彼岸は、作家・竹西にとって、戦前と戦後で大きく異なった生き方を強いられることになった母の人生と重なり合うものに感じられたということ」と書かれているが、それと同様どの選択肢も、「作家・竹西」ということばがふくまれ、かのじょがどう感じたか、が問題となっている。村川有紀子ではない。しかし、うえの【資料】の文中で川西政明は、この寒さをかんじたのは竹西寛子だとは述べていない。「春の彼岸の東京は、まだ寒いというのは村川有紀子が味わった実感である」とはっきり書いている。「おそらくこれは実際の描写であろう」という推測もそのまえに付されてはいるけれど、それだけでは村川有紀子と竹西寛子を同一視して、ここの寒さを竹西の感慨へと還元する根拠とはならない。それを問題作成者は、選択肢文のなかで、なんのことわりもなく、村川有紀子を「作家・竹西」に置き換えている。この問題をつくったにんげんはしたがって、すくなくともこの箇所において、竹西寛子の文章も尊重していないし、川西政明の文章をも尊重していない。
 じぶんは竹西寛子についてぜんぜん知らなかったのだけれど、おそらくこれは、竹西寛子が広島出身で原爆体験者であり、「管絃祭」はそのみずからの体験をもとにして書いたもので、だから村川有紀子はほぼ竹西寛子じしんとみなしてよい、という理解が一般的に流通していて、それが前提になっているのだろう。それならそれでよい。それにしても、川西政明の文章を読むに、蓮實重彦がかれを特集した『ユリイカ』の巻頭インタビューで、「批評空間」でやった「近代日本の批評」座談会にふれて、あのころはみなさん、批評家がいちばん偉いとおもっていた、とりわけ渡辺直己さんなどわたくしのひとつしたの世代にあたるひとはそのように確信していたようですが、わたくしはさいごまでどうしてもそうはおもえなかった、どんなに下手くそな作家であっても、批評家よりは偉いものじゃないかと、そういうおもいを捨てきれなかった、それがかれらとわたくしのあいだでさいごまで共有できなかったことです、みたいなことを述べていたけれど、それはまったくほんとうだなとおもった。ここにとりあげられた竹西寛子の小説の一部を、じぶんはとりたてて良いとおもったわけではないけれど、それについて書いた川西政明の文章の退屈さときたら比較にならない。
 一〇時半ごろまでものを読んで布団をはなれると、椅子について瞑想した。きょうもさいしょにしばらく鼻から深呼吸する。そうして静止。わるくない。このところのいくらか涼しかった曇天とちがい、きょうは暑くなりそうな空気の感触。わすれていたが寝床にいるあいだにまた洗濯をやってしまい、このときはすでに終わっていた。二五分くらい座って目をひらき、姿勢を解くと、ちょっとしびれた脚が回復するあいだにコンピューターを用意しながら水を飲み、そうして洗濯物を干した。きょうはすくない。集合ハンガーにつけたタオルにパンツ、あとバスタオルとシャツだけなので、三つしかかけるものはない。それから食事へ。キャベツとパプリカとトマトと大根とタマネギのサラダをこしらえて生姜ドレッシングをかけ、ハムを二枚乗せて、そのほか椀に入れた豆腐ときのう買った冷凍のたらこパスタ。ウェブを見ながら食し、食べ終えたあとクソを垂れてからきょうのことをここまで記した。するともう二時一二分になっている。きょうは労働なので四時台には出る。
 あとそういえば、瞑想のまえにおととい買ってきた箒で掃き掃除をしたのだった。休みの日でないし満足にはできないが、さすがにそろそろ床がきたないとおもってすこしだけでもとやる気になったのだった。洗濯機や冷蔵庫のまえ周辺、それに椅子や机のしたを掃いた。なかなかやらないのだがいざやりだしてみるとちょっとでは満足せずにけっこうやってしまうのがじぶんの性分である。椅子のしたに敷いてある床面保護用の透明なシートもめくりあげて、とうぜんそのしたも掃いたり、シートの裏もこすったりする。机のしたのコットンラグがいちばん手間がかかった。ここを掃除するならあきらかに掃除機のほうがよい。箒で掃くと繊維のすきまにひそんでいた微細な埃の粒子があつまってちょっとおおきなかたまりをつくるのだけれど、繊維の肌理によってその移動が妨害されるし、それが箒のさきにいちどついてももういちど布にふれると繊維のほうにうつりもどってしまうということもたぶん起きているっぽいし、奥からてまえへなんどもなんども箒をうごかさないとちりとりまでやってこない。それでも時間をかけてそこそこきれいにはした。シーツのうえはまたこんど。おととい店で見た時点でうすうす気づいていたのだが、この箒とちりとりのセットは職場にあるものと同一の品である。(……)さんもニトリで買ったらしい。店舗ではなくて、ふつうに発注したのかもしれないが。掃除に切りをつけたあと、屈伸とか背伸びとかからだをやわらげているともう一一時四五分になっていた。洗濯物を干したのは瞑想のまえだった気がする。  


     *


 出るまでになにをやっていたのかぜんぜんおぼえていない。たしょうカフカ書簡を読んだり、ストレッチをしたりはしたが。あと、五日分の日記をしあげたのだったか。四時二〇分ごろに出発。いちど道に出てあるきだしたものの眼鏡をわすれたことに気づいたので、すぐにひきかえして部屋に入り、リュックサックにケースをくわえてあらためて発った。空気は暑いが雲が多く、ひかりが射してくることはない。公園の木で鳴いているセミの声がどことなくかるいようで、夏もそろそろたけなわかとおもわれた。右折して正面にのぞく西の空には陽のいろがみられるが、雲にかこまれるようになって道まで降りてはこない。北方面は青さがややひろく、しかし頭上から反対の南にかけては雲がおおかたを占めていてさながら塩の原、細道を行くに真正面にはひとつかたちをなしており、積まれたようになっているその端がひかりに触れられてほのかに色づきながらもまんなかから溶け出して逆側は空と一体に沈んで見分けがつかず、かたちを浮かばせた部分は雪をかためたようでもあるが厚みは欠いており、それでいてかたまりの感はたしかに確保されて映っている半端な様相がかえってうつくしかった。
 退勤後のことをさきに記すと、職場を出たのは一〇時一〇分ごろで、駅にはいってホームに上がり、先頭車の位置まで出て電車が来るのを待ったが、いったんとおりすぎてきた自販機にもどってカルピスを買い、その場でぜんぶ腹に流しこんだ。来た電車に乗るとはじめのうちは瞑目に休み、じきにもってきたカフカ全集をとりだして(……)まで読んでいた。降りて乗り換え。(……)線のホームにうつり、ここでも端の車両に乗りこんで、扉際に立って目をつぶる。数分待って発車し、しばらくすると(……)へ。降りる。降りた目のまえには緑色の柵があり、その向こうは一段下を草が茂って埋めており、フェンスのさきはマンション脇の通路や広場になっている。ホームをあるきだすとまえから風がゆたかに吹いたのでマスクを外し、空気のやわらかさと無臭を吸った。夜空にはおおきめの、歪んだかたちの月が見え、それに至近で接してすがたをあらわにされている雲は皮膚のうえにはびこって根を張った黴のよう、改札を抜けると細道を行く。タクシーがはいってきて飲み屋のところで止まり、店のまえに出ていたひとがなかに向けて、タクシー来ましたよとかけていた。その車を避けて道の端に寄ると一瞬肥溜めのようなにおいがしたが過ぎればすぐになくなり、客を乗せたタクシーが背後からまた来るのを受けてスーパーの店舗縁にある段に上った。店内からはあいかわらず往年のソウル風の音楽がもれきこえてくる。通りを渡って裏にはいっても夜気はよくながれて、といってたいして涼しくもなく背は汗で肌着を吸いつけている。道のとちゅうに茶色がかったおおきな葉っぱが一枚落ちていたが、そうしてひとつきりぽかんとあると、いまは化石でしか見ることのできない古代の生物が生身でそのまま死骸となっているかのようだった。夜空の右側には月が浮いており、雲のかたちはいまかなりおおまかなくの字をえがき、ヒレがながく突出した高級な金魚か翅の縁がこまかく波打った蝶でもかたどったように変容していて、月はそのいちばん右下にかがやくおおきな斑点のように触れているが、じきに雲とのあいだにすきまをつくってはなれていく。アパートのある通りまで来てゆっくり歩いていると、左にしずまった保育園、右に下宿を置いて、道の向こうはいちどひらきつつまた建物をともないながら奥に伸びていって空をのぞかせる夜の空間が、一秒ごと一歩ごとにうつりかわっていく写真のようにみえた。


     *


 いま八月一五日、この日からすでに一週間経っており、さすがにこの日のほかのことをもうおもいだせず、よみがえってくる印象や記憶がないのでここまで。


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  • 日記読み: 2021/8/8, Sun. / 2014/1/25, Sat.


 2021/8/8, Sun.より。

きょうはやや遅くなって、一二時二〇分の離床。瞑想もサボる。あがっていくとテレビは女子バスケットボールの試合。アメリカに負けて銀メダルという結果になったようだ。食事は炒飯ほか。新聞の書評欄はきょうは、すこやかになれる本、みたいなテーマで各書評委員が一冊をえらんで紹介する形式だった。尾崎真理子は福岡伸一ダーウィンにならってガラパゴスかどこか行ったときの記録みたいな著作をあげていた。おもしろそう。苅部直田村隆一関連のもの、大家と店子という関係で彼の家に間借りだかしたひと(女性だったはず)が書いた本をあげていて、政治学者なのに現代詩方面までカバーしているのだからさすがだなとおもった。ほか、成田龍一が寄稿というか「あすへの考」でかたっていたのでそれも読む。戦争体験世代を三つに分類していた。ひとつが大正デモクラシーを経験しており日本に根づいていた民主主義が軍国主義によって破壊されたとかんがえた世代で、この代表が丸山眞男(一九一四年生まれ)であり、彼らは戦後民主主義を推進しようとした。もうひとつが青年期に学徒動員されて出征したひとびとで、この代表が三島由紀夫。さいごが戦時体制のなかで少年少女として育ち、国のために尽くして死ぬという道徳を教育された世代で、この最年少世代は敗戦を機に軍国主義から民主主義に即座に転換した大人たちを裏切り者とみなしながらも、いずれその立場を理解するにいたるが、青年として戦争に出た世代は戦後民主主義の問題とか欺瞞とかを看過できず、それに懐疑をいだきつづけ、その象徴が三島事件であると。

(……)プルーストは194からはじめて223まで。ルグランダンのスノッブぶりがあらわになる一幕が滑稽でおもしろい。ルグランダンは技師として成功しつつ、しごとにはまったく関係ない、いくらか似非っぽいような文学的芸術的教養を持っているひとで(112)、話者の一家とは散歩のときによく出くわし、遭遇するといつも子どもの話者にたいして妙に気取ったような、いかにも鼻持ちならない勘違い野郎の通俗的詩的表現みたいなことばを吐くのだけれど、彼は近間に城をもっているという貴族(これがゲルマント家のひとかどうか、まだ確定的ではない)の女性と交際していたり、彼の妹はバルベックのほうでカンブルメールという貴族に嫁いでカンブルメール若夫人になっていたりするのだけれど、そういう上流階級者との交際にブルジョア階級である話者一家をかかわらせたくないという気持ちがありながらももちろんそれをあまり表立って直接にあらわすことはできないから、滑稽な振舞いを取ることになる。おりしも話者が祖母といっしょにバルベックに海水浴に行くというはなしがもちあがったさい、ルグランダンが妹をわれわれに紹介しようとするかためしてみようと父親はもくろみ、散歩で出会ったときに都合よくバルベックのうつくしさをペラペラかたりはじめたルグランダンに、「おや! バルベックに誰か知ったかたがおありですか?」(219)と問うて妹のことを引き出そうとするのだが、「ルグランダンは、私の父にじっと目をそそいでいた瞬間に、ふいにこの質問を受けて、その目をそらすことができず、友情と率直さとのようすをつくろい、面と向かって話相手をながめることをおそれないといった態度で、一刻ごとに強さを増して相手の目を見つめ――しかも悲しそうにほほえみながら――まるで相手の顔が透明になり、その顔を通してそのときはるかかなたの背後にあるあざやかに色どられた一片の雲を見ているかのように思われた」(220)といったようすをしめしてやりすごそうとする。しかし話者の父親は、あちらに友だちがいらっしゃるんですか、と、もういちどおなじ質問をさしむけて追撃し、ルグランダンはなにかしらこたえなくてはならなくなるのだが、そこで口にするのが、「私の友達ならどこにでもいます、傷つきながらまだ屈せず、たがいに身をよせあい、自分たちをあわれんでくれない冷酷な天に向かって、悲壮な執拗さで、いっしょになって哀願している木々の群があるところなら、どこにでもいますよ。」(220~221)という時宜を得ないインチキ詩人みたいなセリフで、こいつなに言ってんねん、というかんじでこれがおもしろかった。そのあとも彼はうだうだとおなじような調子で質問への返答を回避しつつ煙に巻くような言をつづけ、はじめはそのうつくしさを称揚していたバルベックを、「まだ気質ができあがっていない子供には、やはり不健全ですね」(222)と言って前言をひるがえし、バルベックに行くのはやめたほうがいいと言い残して去っていく。

     *

マルセル・プルースト井上究一郎訳『失われた時を求めてⅠ 第一篇 スワン家のほうへ』(ちくま文庫、一九九二年)より。

203: 「(……)私がうっとりしたのはアスパラガスのまえに立ったときで、それらは、ウルトラマリンとピンクに染められ、穂先はモーヴと空色とにこまかく点描され、根元のところにきて――苗床の土の色にまだよごれてはいるが――地上のものならぬ虹色の光彩によるうすれたぼかしになっていた。そうした天上の色彩のニュアンスは、たわむれに野菜に変身していた美しい女人たちの姿をあらわにしているように私には思われたが、そんな美女たちは、そのおいしそうな、ひきしまった肉体の変装を通して、生まれたばかりのあかつきの色や、さっと刷きつけられた虹の色や、消えてゆく青い暮色のなかに、貴重な本質をのぞかせているのであって、そのような本質は、私がアスパラガスをたべた夕食のあとにつづく夜にはいっても、まだ私のなかに認められ、そこに出てくる変身の美女たちは、シェイクスピアの夢幻劇のように詩的であると同時に野卑なファルスを演じながら、私のしびんを香水びんに変えてしまうのであった」

205: 「身内のものを除けば、彼女 [フランソワーズ] から遠く離れている人間の不幸ほど彼女のあわれみをそそったことを私は知った。新聞を読んでいて、彼女が見知らぬ人たちの不幸に流すおびただしい涙は、すこしでも明確に当人を思いうかべることができると、たちまちとまってしまうのであった」

209: 「ルグランダンの顔は、異常なまでの活気と熱意とをあらわしていた、彼は深く腰を折って挨拶をしてから、つぎにうしろに反りかえり、それを急に最初よりは反り身の位置にもどしたが、これは彼の妹のカンブルメール夫人の夫から教えられたものにちがいなかった。このすばやい姿勢の立てなおしは、私がそれほど肉づきがいいとは思わなかったルグランダンのお尻を、隆々と盛りあがった一種の激浪のように逆流させた、そしてなぜだかよくわからないが、この純然たる物質のうねり、精神性をあらわす何物もなく低劣さに満ちた慇懃な動作が暴風雨のように荒れ狂っているこの完全な肉の大波は、私たちが知っているルグランダンとは全然ちがったルグランダンがいるのかもしれないという感じを、ふと私の心に呼びおこした」

209~210: 「彼はまるで夢のなかにいるようにうっとりとしてほほえんでいた、それからあたふたと婦人のほうにひきかえしたがいつになく足を早めて歩くので、両肩はこっけいなほど左右にゆれ、またほかのことは念頭になく、すっかり幸福に身をゆだねているので、その姿は惰性で動い(end209)ている幸福という名の機械仕掛のおもちゃのように見えた」