2022/9/24, Sat.

西脇順三郎訳『マラルメ詩集』(小沢書店/世界詩人選07、一九九六年)

●56(「エロディヤード」; Ⅱ 劇; エロディヤード)
 私の髪は人間の苦悩を忘れさす
 香りを放つ花でなく、黄金でありたい、
 香料の残忍な光の中でも、鈍い薄明の中でも、
 金属の不毛の冷寒を保つ黄金でありたい、
 それは私の孤独の幼時からの懐かしい宝――
 生家の城壁よ、武器よ、花瓶よ、
 お前たちを反映してきた黄金でありたい。




 七時ごろにいちど目覚めた。雨降りはつづいており、カーテンを閉めていれば部屋のなかがだいぶ暗い朝である。もうすこし寝ようとおもってあおむけに直り、寝ついてつぎに覚めたのが一〇時ごろだった。ゆめをけっこう見て、おおまかには二種類に分かれていたのだが、ひとつはBill Evansにかんするもので、かれが沖縄に住んでいてその演奏を聞いたというもの。おそらく米軍の一員としているような設定で、かつ時代はいまよりもかなりむかし、Bill Evansのだいぶ若いころに据えられていたようで、演奏がおこなわれた野外の通りというのは沖縄という認識だったが、じっさいには地元の街道のとちゅう、角に交番がある(もうないのだったか?)(……)の五叉路のあたりがモデルになっているようだった。Evansが演奏していたのはさいしょは”All of You”だったはずなのだが、これも聞いているうちに、あれこれはなんだっけ、この進行の感じは、”There Will Never Be Another You”じゃないかな、というふうに更新された。そのほかEvansが飯屋の店員として、ポテトがいっぱいに盛られた皿をさわやかげな笑顔ではこんでいるカットも記憶している。もう一種類のゆめはよくおぼえていないのだけれど、体育館でバスケの試合を見ているようなものだった気がする。
 意識がいちおうかたまるとカーテンの端をめくり、真っ白な空を目にふれさせて覚醒をさらにさだかにする。腹を揉んだり、息を吐いたり、足首を前後に曲げて脚のすじを伸ばしたり、あたまを左右にころがしたり。胎児のポーズもやっておいた。一〇時半ごろに離床。カーテンを開け、洗面所に行くよりさきに椅子について水を飲む。ちびちびやりながらコンピューターをティッシュと消毒スプレーで拭き、立ち上げてNotionを用意。それから便所に行くとクソを垂れ、顔も洗って出るとうがいをした。蒸しタオルもきょうはやっておく。そうして寝床に帰ると一年前の日記の読みかえし。2021/9/24, Fri.である。冒頭の熊野純彦の引用は、きのうもふれたレヴィナスの〈近さ〉についての説明になっている。

 〈近さ〉とは、しかしなんだろうか。〈近さ〉は第一に「幾何学的に」測られるものではない。空間的に近接 [﹅2] していることそのものが〈近さ〉なのではない。「主体は空間的な意味に還元不能なしかたで〈近さ〉にまきこまれている [註164] 」(129 f./157 f.)。――〈近さ〉は、また一致 [﹅2] を意味しているわけでもない。むしろ、とレヴィナスは書いている。

 〈近さ〉とは差異であり、つまり一致し - ないことであって、時間における不整脈である。それは主題化に抵抗するディアクロニー、つまり、過去の諸相を共時化する想起にたいして抵抗するディアクロニーなのである。〈近さ〉とは物語りえないものなのだ! 他者は物語られることで、隣人としての顔を失ってしまうのである(258/301 f.)。

 (註164): 逆に空間それ自体もまた「透明さと存在論」によって汲みつくされるものではない。空間そのものには「人間的意味」が、また人間的意味を超えるものがあるのである(275/321)。

 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、243; 第Ⅱ部、第三章「主体の綻び/反転する時間」)

 ニュースはロシア下院選まわりなど。

また、ロシア下院選で「新しい人々」という新党が議席をえると。きのうだかおとといにこの選挙の暫定結果をつたえる記事があって、むろん与党統一ロシアの圧勝なわけだけれど、とはいえ与党は三三四議席から三二四に減らすことになり、また自由民主党もだいぶ減ったいっぽう、「公正ロシア」だったかそんななまえの左派と共産党議席を増やし、くわえてこの新党があらわれていたのだ。一三議席くらい取るもよう。新党の素性はしれなかったが「新しい」とわざわざうたっているからにはすくなくとも反プーチンではあるはずだろうとかんがえ、だからいちおうリベラル派、反プーチン派が伸長したという結果にはなっているのだなと理解したのだけれど、きょうの記事によればFISHMANSの曲みたいななまえのこの党はやはり反プーチン勢力で、たとえば比例代表では改正憲法に反対した極東サハ共和国ヤクーツクの市長を候補に立てたりしているらしい(この都市は兄が何度か行っていたはずだ)。しかしそれも一抹あやしさがただよっているらしく、有力紙の報道によればこの新党のバックにはプーチンがいるとかで、党首とプーチンにちかい有力者らの関係が取り沙汰されており、結党からわずか三か月で選挙参加をみとめられたのも異例だから、政権側が批判の受け皿として用意した「官製野党」なのではないかという見方もあるようだ。

 往路帰路の記述は以下のようなもので、往路のほうはけっこう書いてはいるのだけれど、読んでいてそんなにおもしろくは感じなかった。なんというか、意外とながれていないというか、リズム的に単調というか、やはり見聞きしたものを順番にならべているだけの感があるというか、そういう意味でこれだけこまかく書いても意外とうごいていないというか。単線的なのだろうか。感覚やニュアンスのようなものが生じない。それに比べて帰路のほうは、「秋の夜風が絶えず生まれて路上をさらさらおよいでいき、精霊のような涼しさがつねにひらひら舞い踊っては頬やからだをなごませる」と、このさいしょの一文からして、なにかできているなという感じがあった。「秋の夜風が絶えず生まれて路上をさらさらおよいでいき」というこのはじまりの部分だけで、もうじぶんの文、じぶんのリズムだなという感覚がある。

着替えて出発へ。空にはやはり雲がおおくこびりつくようにはびこっているが、水色が見えないわけでなく、雲も全体に青味をふくんでひろがっており、あたりに陽の色はないものの暗い空気というわけではない。坂道をのぼっていくと左右の端に色変わりした落ち葉が溜まって縁なしており、そろそろそういう時季である。駅について階段を行くに、若青さをはらんだ稠密なビリジアンの樹々の向こうで北西の空はほとんど雲に埋められており、かこいこまれたすきまから太陽のあかるみがどうにかというかんじでわずかに洩れ出て周囲の雲を青く染め、目をふった先の東では雲の色味はいくらか落ちて、空の水色のうえに部屋の四隅の埃のような薄灰色が群れをなしている。ホームにはいって先へ行き、線路のほうをむいて立ち尽くせば、風がながれて歩行にあたたまった肌をなだめてくる。もうセミは死滅したものだとおもっていたが、さいきんの好天にさそわれたのか丘の林のほうからツクツクホウシの鳴きがまだひとつふたつほそく聞こえ、電線を飛び立ったカラスは鈍い青雲にかき乱された西空のなかを黒くはばたき、先日見かけたヒマワリの隊、労役囚めいてうなだれながら影色に枯れていたあの残骸たちはもはや消え去って、空っぽになった空間の奥に林の緑とその脇の家が視線を受け止めるばかり、そうして見ているうちにあたりの空気がいつの間にか暮れていて、黄昏の青さをかすかに先取った五時二〇分のしずまりのなか、線路沿いのオシロイバナが低みで風になでられながら赤紫を点じている。


秋の夜風が絶えず生まれて路上をさらさらおよいでいき、精霊のような涼しさがつねにひらひら舞い踊っては頬やからだをなごませる。夜に歩くに良い季節となった。中秋節を過ぎて右上が欠けた月は濃厚な黄味をたたえたすがたで背後の東空にのぼり、雲にかくされたりあらわに照ったりしているがその存在感はいつもあきらかで、裏道の中途でひろい空き地に接して見上げれば南空の雲のかたちもありありと浮かび、砂糖かなにかの粉末を押しかためたようにひろくを占める乳白色の、ひび割れたほそいすきまの淡青のなかに星もひとつ、きらめいていた。白猫は車のしたにいなかった。表通りに出るとコーラでも買うかというわけでローカルなコンビニみたいな商店の横でペットボトルを買い、街道沿いを行くが、その間今夜は聖なる静寂はおとずれず、タイヤの音が背後のとおくに去っていったと聞くのもつかのま、まだすがたの見えぬまえからながく伸びた先触れのひびきが空間のなかにはいってくる。(……)

 二〇一四年のほうも読んだ。2014/2/19, Wed.。とくにおもしろいことはないが、勝手口まわりが雪で埋まって出られないので屋根からしたたる水を受けながらそこをがんばって始末していたり(このときのことはわりと記憶にのこっている。真っ青なジャンパー的なものを着ていたはずだ)、三時限の労働に辟易したりしている。「三時限の労働は疲労ももちろんだが拘束時間が長くなるのが何よりも許しがたい。この時期にいたってはみなリハーサルとして五十分をはかって過去問をやるわけだが、まだ忙しいほうがよくて、生徒が問題を解いているあいだの待ち時間などやることがなくて退屈極まりなく、どうにか仕事を見つけてプリントをコピーしてみたりするものの、そんなものはすぐに終わってしまって結局はぼけっとすることになると、なぜ自分はここにいるのかという疑問が持ち上がってくるのだった」と言っており、この時期はまだまだ自己中心主義にとらわれているから、労働による拘束にはけっこうなストレスを感じていたはずである。徒歩で出勤しながら無性にいらいらして、だれかを殴りつけたいような、刃物で刺したいようなふつふつとした怒りを胸底に感じたというか、このままだとそういう行為に出てしまいかねないのではないかというくらいの怒りをおぼえたこともあった。労働者、というか塾講師としての技量やこころがまえや器もまだまだで、「やることがなくて退屈極まりなく」などとほざいているのはおのれの無能をあかしているにすぎない。やることがない状況など、よほどでなければない。なければないで生徒のようすを見たり、まわりを見たり、じぶんで過去問を解いてみたりすることもできる。
 ところでこの日の日記の欄外には、「書くことは孤独なことであるという言葉の意味が以前よりもよくわかるようになった昨今である。文章を通じて人とつながる、それも悪くはないが、つながりたい欲求は容易につまらない承認欲求に堕する。くそくらえだ。SNSで互いの作品にいコメントをしたりされたり、小さな仲間同士のグループ内で褒めあって悦に入ったり、そんなことをするために書いているんじゃない。誠実、真摯でなければならないのは読者や他人に対してではない。おのれに誠実であれ。そして何よりも文学や言葉に対して誠実であれ」、「黙々とただいい文章を書くことだけを目指せ」というじぶんを奮起するための述懐が記されており、いかにもかぶれたものの切実さをひびかせていてわりあいに暑苦しい(めちゃくちゃどうでもよいのだけれど、鬼束ちひろの”月光”に、「そんなことのために生まれてきたわけじゃない」みたいなフレーズがなかったか?)。欄外の書きつけがあるのは一七日、一八日も同様で、一七日にいわく、「「人生って、それに触れたり、他人に示したりできる、そんなものとは違うんじゃないのかしら――七十余年の人生は。私はただこの現在の瞬間をとらえるだけだ、と彼女は思った」。「私はただこの現在の瞬間をとらえるだけだ」! そのとおりだ。私はただこの現在の瞬間をとらえるだけだ!」というこれはたぶん、『ダロウェイ夫人』か、それか『歳月』の一節だとおもう。後者のほうかな。ダロウェイ夫人はまだ七十余年も生きていなかったはずなので。また、「学者が誠実であるべきなのは、(おのれでも?)読者でもなく、何よりも学問、知という営みに対してではないのか」というのは與那覇潤『中国化する日本』を読んでの反応だろう。とてもではないが学問や知という営みにたいして誠実な本だとは、とうじのじぶんにはおもえなかったということだ。一八日のほうには「『族長の秋』をこえるもの、少なくとも方向はちがっていても同じくらいの強度と完成度を誇る作品を書けたら死んでやってもいい、そのくらいの気概でいないといけない」、「自己言及をやめて書く機械になれ。黙々と書くだけだ」とあり、なかなか意気軒昂できらいではない。いまのじぶんにはもはや失われてしまった威勢の良さで、SNSでつながりあって内輪褒めしてそんなのはくそくらえだうんぬんというのも、まあいまも積極的にやろうとはおもわないけれど、いちおう仲間もいくらかはいるしnoteに投稿してもいるし(投稿するだけで交流はまったくしていないが)、いまやそんなにかたくなな態度をまもっているわけではない。いちおうはもっと軽薄化している。こういう一匹狼をつきつめてつらぬこうとする威勢の良さは好ましいものだが(まあ、こんなことを言っておきながらじっさいに書いている文がこれじゃあなあ、という感じもあるにはあるが)、こういうことをわざわざ書きつけるということはあきらかにじぶんにそれを言い聞かせているわけだから、じっさいにはやはりおのれの営みを他人から認められたいという承認欲求をかかえて鬱屈していたことをあかしているだろう(日本語において「証す」と「明かす」が同音であるというこの二重性には、毎度つかうたびになかなかたいしたものだなとおもう)。その軽いルサンチマンの反動として、くそくらえだみたいな威勢の良さが出てくるわけで、いまは身のほどを知り、じぶんがそんなに他人から認められるべき存在だとはおもっていないから、くそくらえだというほどのこともない。とうじのじぶんはとにかく黙々と書きつづけること、粛々と日々書きつづけることだけが大切なことだと一途におもいこんでいたようだが、それはいまもまあそんなに変わっていないと言えばそうだ。継続主義者であるじぶんは、すくなくともこの日記にかんしては、日々それを書きつづけることこそが重要であると、継続そのものが目的であるという自己目的化の不毛さをおそれない。というかそもそもこちらが日記を書いているのは日記になにか書きたいことがあったり日記でやりたいことがあったりするわけではなく、ただ日々を死ぬ当日まで(なるべく詳細に)記録したいという欲望にしたがっているものなのだから、継続そのものが自己目的化するというよりも、はじめからそれこそがほんらいの目的だというべきだろう。ところで一九日の書きつけにはまた、「世界のすばらしさを特別なものとして書くのではなく、すばらしかろうが醜かろうが、世界はそれ自体ですべて書くに値するということだ。原理的にはこの世のすべての物事は平等に書く対象となる」とあるのが注目されるところで、書きものを本格的にはじめて一年少々、この時点ではやくもすでにれいの「信仰」がはっきりと表明されている。こんなにはやかったか、という印象。二〇一五年くらいからかなとおもっていたのだが。現在の瞬間にたいする志向も(おそらくはヴィパッサナー瞑想を経由して)さきのウルフの文への共感にすでに明確化されているし。
 一一時半ごろにふたたび離床して瞑想。二〇分。からだはけっこうこごっている感じがあった。それなのでひさしぶりに息を弱くゆっくり吐きながら体操というかからだをうごかして、各所を伸ばす。それから食事へ。そろそろ煮込みうどんをつくって食おうとおもっているのだが(皮がしなびかけている大根もそれにつかえばよいし)、このときはまだいつもどおりサラダとウインナーがはさまったnipponhamのナンにした。サラダはキャベツにセロリに豆腐にトマト。シーザーサラダドレッシングののこりがすくなかったので、容器を逆さにして振ったり尻のほうを叩いたりしてなるべくぜんぶ出すようこころみたが、内壁に付着したものをすべて垂らし尽くすことはできない。(……)さんのブログを見ながら食事。九月二一日分。冒頭は以下で、著者がこれまでの論のながれをわかりやすく要約してくれた記述なのだとおもわれ、じっさいわかりやすいが、「心術の選択」というのがどういうことなのかという点だけ、ここまででいまいちつかめていない。

 こうして我々は、カントの議論の後半部——人間は彼が信じているよりもずっと不自由であるが、同時に、彼が知っているよりもずっと自由である——にたどり着く。我々の行為に関する決定論の道をたどりきってしまった時、我々はある自由の剰余に出会う。我々は、〈他者〉の内の欠如に、心術とは選択されるものである——もちろん、全く空虚な場所から、である——という事実の中にたち現れる欠如に、出会う。主体を倫理的主体として再構成することが可能となるのは、まさにこの地点においてである。倫理的主体は、二つの欠如が出会う瞬間に現れる。それは、主体の内なる欠如(「強いられた選択」の瞬間における主体の自由の欠如)と〈他者〉の内なる欠如(〈他者〉の〈他者〉は存在しない、原因の〈原因〉は存在しない、という事実)が出会う瞬間に現れる。(…)
 出発点は、「強いられた選択」——「自由か〈他者〉か」という二者択一——である。ここで主体は、自由を選ばざるをえない。なぜなら、〈他者〉を選択するということは、S——「主体化されていない主体の原料」——の選択という不可能な選択、すなわち「不在」あるいは「非-存在」の選択に他ならないからである。こうして我々はS/——分裂した主体、自分が自由であると信じているが、実際この自由から疎外されている主体——へとたどり着く。ここでカントは「脱-心理学の要請」、あるいは「決定論の要請」を導入する。この一手により、主体は当初不可能であった選択肢へと送られ、〈他者〉の意志の対象としての、単なる機械的心理的因果律の歯車のひとつとしての主体自身に直面させられることとなる。しかし、さらにカントは心術の選択という第二の議論をここに導入し、主体の自由の次元を切り拓く。確かに自由の主体は〈他者〉の産物であるが、この主体が〈他者〉の内にある原因の結果であるという意味においてではない。そうではなく、主体とは、〈他者〉の中にはけっして見つけられない原因があるという事実の結果、この原因の不在の結果、つまり〈他者〉の内なる欠如の結果なのである。
 第一章の終わりで立てた問いを思い出そう——倫理的行為への駆動力、誘因が同時にその結果であるということを我々はどう理解すればよいのか? どうしたら自由が自由の必要条件であるということが、自律性が自律性の必要条件であるということが、可能なのか? 今や我々は、れらに答えることができる。これらの循環構造は、主体というもののあり方、性質そのものである。すなわち、主体の存在なしに自由はありえないが、この主体の誕生は、すでに自由な行為の結果である。これらの問いに見られる実践理性の「循環」論理は、主体の構造を考えることによって、みな説明できるのである。
 (『リアルの倫理——カントとラカン』アレンカ・ジュパンチッチ・著/冨樫剛・訳 p.56-58)

 食後は食器類をすぐさま洗い、ドレッシングの容器も水や洗剤を入れて振り、なんどもゆすいできれいにした。開口部をはめているプラスチック器具は切れ目がないと取るのがたいへんだが、このときは爪をひっかかりにして引っ張ると意外とかんたんに外すことができた。席にもどると音読。「読みかえし」ノートからは以下の情報など目に留まる。

岡和田晃「北海道文学集中ゼミ~知られざる「北海道文学」を読んでみよう!~: 「北海道文学」の誕生とタコ部屋労働(4)~羽志主水「監獄部屋」」(2018/9/30)(https://shimirubon.jp/columns/1691800(https://shimirubon.jp/columns/1691800))


565

岡和田 『常紋トンネル』 [小池喜孝『常紋トンネル 北辺に斃れたタコ労働者の碑』] の恐ろしいところは実話だったというところがすごいわけですよ。北見はやはり苛烈なところだったというのが伺えますね。『常紋トンネル』の112ページ113ページにタコ部屋の歴史区分というのがあります。1890年から1946年には消滅しています。これはGHQの命令で解散させられたということになっているわけです。

長岡 GHQの影響だったんですね。

岡和田 1925年から28年というのはだいたい再編成期と沈静期という、タコ部屋が社会問題になって命令が出ていた時期ということなんですよね。こういうふうな歴史区分というのがあります。ちょっと戻っていただいて32、33ページでは常紋トンネルの生き埋めを目撃した人というのがいたわけですね。
 タコ部屋っていうのは使えなくなったら生きているのも死んでいるのもトロッコに入れて、トロッコごと投げて捨てるというのが書いてあります。生きているタコでも弱いものはトロッコに積まれた、反抗もできないというようなことが書いているわけです。


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 在日朝鮮人の人が実際に強制連行で朝鮮人狩りに北海道であって、そして寝込みを襲われてタコ部屋に入れられるっていうのがあったわけですね。
朝鮮人のタコには精錬はやらせず、監視の目の届く露天掘りと坑内の仕事をやらせた。そして坑内から出た水銀の猛毒を含んだ蒸気で歯をやられ、内臓を蝕まれて廃人になるため、坑内作業には朝鮮人中国人を添えさせたわけですね。こういう記憶がやっぱり朝鮮人墓地が心霊スポットとなるような、なんというか悪いことをしたという集合的無意識に繋がっているんじゃないかと思われます。
 去年出た、石純姫『朝鮮人アイヌ民族の歴史的つながり』というとてもいい本があります。ここではタコ部屋のような強制労働から逃げ出してきた在日朝鮮人アイヌ民族がかくまったという実例が各地で報告されていて、これはサハリンでもあります。樺太にもいっぱいタコ部屋があったので。ここでは、人間と思えぬ虐待や酷使、国による強制連行、強制労働をした朝鮮人アイヌコミュニティが受け入れたという事例がいろいろ語られます。
 一方『常紋トンネル』では、けっこう地元の人達が隠れているタコを見つけて突き出すという例がかなり語られるんですね。要は見た目が汚らしいし、突き出すと報酬ももらえたんでしょう。ただアイヌ民族の人が突き出したという例はひとつも見たことがないですね。
 あったらひとつくらい聞かれてると思うんですけど、語られるのゼロなんで、実際マイノリティとして共感するところは多分にあったんじゃないかと思われます。
 それでもう少し話を戻すと、タコ部屋の棒頭というのは沼田流人の小説では平気で人を殺すサイコホラーの怪人のように描かれていて、『常紋トンネル』では棒頭に勇気をつけさせるために、わざと人の肉が混じったやつを食わせたということも語られていて、実際にあったみたいですけど、そういうこともしていたということです。
 タコ部屋暮らしで管理側、棒頭の側の生き残りというのが当時いたわけですね。山口さん、1907年。ネットでは名前は伏せられていますが、ここで実際に郷土を掘る会の人がタコ部屋の生き証人として呼んだら、「タコは金で買った奴隷ですよ、奴隷に人権なんてないですよ。そんな甘い時代じゃないんだ」ということで、タコ部屋の棒頭を正当化し始めたというすごい例なんです。
 逃走者が出ると人夫を飯場に閉じ込めて、幹部が一斉に捕まえて出勤する。「何しろタコほどいいものはない。女を抱いて酒飲んで三百円の前借りでタコ部屋に入る。そこのタコ部屋が悪ければ逃げると。逃げてるんだからね、そしてまた中島遊郭に行くんだろう」と。
 それは前借りだから、まぁあほだから自業自得だって話ですよ。捕まえて逃げて帰ってくれば優秀な幹部になるので、積極的に捕まえに行くわけです。タコが死んだ場合は逃走届を一枚警察に出せば良い。だから逃走率というのは死んだ率が多分かなり入っているんですね。


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渡邊 夏目漱石の「坑夫」っていう話があって、あれもインテリの子が地下に潜っていって坑夫と出会ってっていう話なんですよね。

岡和田 あれも一種のサバルタン(従属的被支配階級)でしょ。私も実際に三年くらい建築現場で肉体労働をしていて、六本木ヒルズが現場だったこともあります。よく労働者の間で、一ヶ月くらい前に足場から二人くらい落ちて死んだみたいな話とか聞きましたね。

渡邊 よくありますね。実際工事現場に入ると上から屋根がバンと落ちてきて、歩いてる奴が怒られるっていうね。僕もそういうのよくやってたので。

岡和田 だから、語られないだけであるんじゃないかと。渡邊さん、プロですからね。

渡邊 西成に行って、立ちんぼして、トラックに乗せられて現場に行って。お弁当は出る。それを楽しみにしてて。まぁトンネル掘ってたんですけど、お弁当が来たっていってばって開けたらご飯があって、コンニャクの炊いたやつだけが入ってる。完全に冷えてるから、それを食べるわけです。朝は電通みたいな人たちが来てですね、「ここの計画はこうなっていて」っていうのを僕らも聞かなきゃならないわけですよ(笑)。

一同 (笑)

岡和田 昔の漫画とか読んでると、そういう日雇いっぽいおっちゃんが日の丸弁当食べてるっていうのは本当にけっこうありました。

渡邊 コンニャクかぁ~……って思いましたね(笑)。

マーク 塩気もない。

渡邊 しょうゆで味付けするんですよ。
 前の晩に泊まった人は朝ごはんを食べていいわけですけど、僕らも平気で朝そこに乗り込んで食べて。見つかったら袋叩きにあうわけですけど、全然平気で食べて。密入国してきた外国語しか喋れない人たちがいて、そこに入り込むんですよね。そうすると誰も話しかけてこないから。で、来いって後ろから棒とかで突かれて、行くんです。その方が楽だったっていうのもあります。

 584番までたくさん読んで、それからきょうのことを記しはじめた。ここまで書けば二時半過ぎである。洗濯も、あしたは一時から美容室だし、その後は実家に寄るし、晴れたとしても干しづらいぞとおもって、雨降りだがもうきょう洗ってしまうことにした。機械はすでに稼働を終えている。胃やみぞおちのあたりとか、喉の詰まりの感覚とかはわりとおちついてはいるのだが、ないわけではなく、みぞおちの、肋骨の接合点のきわを押すとちょっと痛いので、ここがなにかしらのクリティカルポイントであることはまちがいない。この痛みがなくなればまあひとまずOKと見てよいだろう。炎症ができているのか、それともヘルニア的になっているのか。ほんとうは医者に行ったほうがよいのだろうが、その気は起こらない。この分なら、ヤク二錠の助けを借りれば月曜日には問題なくはたらけるだろうとはおもう。さてきょうはそうすると休みをもらって一日自由ではあるので、二一日と二二日の日記をかたづけてしまいたいところだ。あと書抜きもしたいのと、ドレッシングがほぼないので(コブサラダドレッシングだけほんのすこしのこっていたはず)買いに行きたい感もあるが、それはべつにあしたでもよい。きのう籠ったしあるきたいきもちもないではないので、(……)まであるいていって本屋で鈴木大拙を買うのもよいかもしれない。


     *


 そのあとなんとなくギターをいじる気になってしばらく遊んだ。まあまあ。わるくはない。音のうごきがそこそこ見えた。そんなに熱中もせず、てきとうなところで切り上げたのち、二一日および二二日分の日記にとりかかった。六時過ぎくらいに飯を食ったおぼえがあるのだが、それまでに二日間とも完成したのだったか。いずれにしてもこの日で二三日分までしあげて投稿することができ、ほぼ現在時に追いつけたわけなのでよろしいことだった。六時過ぎくらいに食った夕食というのは煮込みうどんである。ようやく食べることができた。先日スーパーで稲庭だという二つ入りの安い生麺を買ってあったのだ。まず鍋に水を汲んで火にかけたのは、麺をいちおうさっと湯がくためである。煮込むのでべつに湯がかずにそのまま入れてもよいのかもしれないが、やはりなんとなくいちど湯にとおす。それで水が沸騰するのを待つあいだに投稿作業を済ませようとおもったところが、検閲してブログに文章をアップするより沸騰のほうがはやかったので、そうかとおもいながら火力を弱めたおぼえがある。このとき投稿していたのが二一日分だったような気がするので、二二日分は食後か散歩のあとにしあげたのかもしれない。いずれにしてもブログに記事を投稿すると火をまたつよめて麺を投入し、割り箸でほぐしたり混ぜたりしながらちょっと茹でて、ザルにあげる。実家にいたころはコンロが三つあったし鍋も複数あったから、さきに汁の鍋で野菜を弱火でじっくり煮込んでおいて、ということができたのだけれど、この部屋はコンロがひとつしかないからそうもできない。鍋もザルもひとつしかない。それなので麺をザルにあげてからようやくタマネギや大根を切り出す始末だ。すこしだけのこっていたそのふたつと、あとキャベツもたしょう切って、麺つゆと顆粒のあご出汁と鰹節で味つけしたつゆのなかに投入する。ほんとうは弱火でじっくり煮込みたいのだけれど、そうしているとザルに取ってある麺がかわいてしまうから、しかたなく時間を短縮して、てきとうなところで麺もさっさと入れてしまった。それでちょっと煮込んで完成。丼もないので木製の椀ですこしずつ食べる。やや薄味だったがともかくも煮込みうどんをようやく食えたことで満足である。あたたかい麺料理はうまい。胃がそんなによくないから、無理にぜんぶ食わずにのこしておいてあした食べてもいいなとおもっていたが、けっきょく平らげてしまった。椀のおおきさにたいして二杯+αというくらい。
 食後は洗い物をさっさと済ませたあと、日記を書いたのだったかなにをしたのだったかおぼえていないが、腹をこなしながら過ごし、八時ごろにいたると夜歩きに出ることにした。ほんとうならきょうのことを書いて現在時に追いつけておくべきところだが、なにか歩きに行きたいというきもちがまさったのだ。それで歯を磨き、このあともう雨は降らないのか否か、天気予報の雨雲レーダーをみて降らないようだと確認し、ジャージにきがえてマスクとともにそとに出た。まだ午後八時台、それも土曜日とあって、路地にも自転車の通りや犬の散歩があり、車道沿いの歩道に出ても帰宅するひととよくすれ違う。出口のないような不思議な夜、土曜日の夜である。アパートから南にまっすぐすすんで路地を出るところでは、さらに南に家並みを越えてそびえるおおきなマンションの灯があかるく、黄味っぽいものと白のと二色がそれぞれ縦に走ってかわるがわる、正確にはそのあいだにより沈んで淡い白の列もときにはさみながらならんでともっていた。右折をすれば行く手は西、みあげる夜空の大半は雲で、きょうはあかるい夜らしく、籠もり詰まった音のような白さがよくみえるなかにほつれて細くひらいた地の暗さが、かえってそちらのほうが雲めいた浮遊の相にうつる。マスクはいちおう顔につけてはきたものの、野外だし夜気を吸いたいから口からははずしている。ドラッグストアの横まで来ると、子連れで犬を散歩している母親がおり、女児はこっちから帰ろうよーとかなんとか言っている。この夜はまだ髪を切っておらずぼさぼさだったし、髭も剃っていなかったので、あまりよい人相にはみえなかっただろう。ちょうど青だったみじかい横断歩道をさっさと渡り、一路西へ、車道沿いをまっすぐあるく。この時間だとまだまだ車の通りがおおい。雨はすでに止んでいるが、そのへんの駐車場に停まっている車の表面をみるに、水気が車体か大気かまだどこかにのこってでもいるものか、ひかりの反映や像のうつりこみがつるつると、すべるような質感をどこか帯びてかんじられる。しかし車道をみれば路面ははや乾いており、歩道の足もとは街路樹のおかげで濡れあとをわずかのこしているものの、信号の色を引っ張ってくるほどのちからもそれにない。踏切りのちかくまで来るとさきほど細いほつれだった雲の間が拡張して、岬や小島をいくつもいだいた複雑な地形の湖めいてきており、しかも下端からは水路がひとつ垂れながれているそのさきを追えば西の向こう、低みでは雲が消えて晴れの夜らしく、青さの地帯がひろがっていた。踏切りを越えて行けば(……)病院の敷地、草っ原となっている空き地横を過ぎて病院前までやってくると風がまえから生まれて涼しく、ああ風だ、とつつまれればそこに立っている低い木の枝先が、ふわりふわりとやわらかに揺れて、建物のまわりには浅い緑が茂って低くひろがっているのが設置された電灯に斉一で、みているうちにあれはどうもヒマワリもまだのこっているなと、しかし花はもうさすがに、と垂れてそむいた首を遠目にしたのもつかのま、歩道ちかくに出現したものはまだ弁の黄色も顔もきちんとたもっていた。
 家を出てきてしばらくはあるいていてもやはりどことなくみぞおちや胸のなかがちくちくして、胃液や内容物が腹のなかで揺れているのだろうという感じだったが、折り返したあたりから胸郭もよほどゆるんだらしく違和感がほぼ消えていた。病院や文化施設を越えて(……)通りに行き当たると右に折れる。パトカーのサイレンがはじまって響き、まもなくあらわれた赤ランプの車は車体も真っ赤だったが、拡声された声が協力への礼を述べながら過ぎ去っていく。焼肉レストランの正面頭上、ネオン管の表示のうち、「肉」の字の一部が消えかかっており、バチバチジージーいうような音を立てながら痙攣的にひかっていた。そこを過ぎてまもなく右折すれば一本ずれた道でもとの方角にもどることになる。自転車レーンがつくられているここにはそのレーン沿いに紅色のサルスベリがずっと植えられているが、さすがにもう色はない。右手の病院敷地の縁に植えられているムクゲのほうはまだ白さをけっこう散りばめており、その向こうから、あるいはまわりから、エンマコオロギの声が湧いてくるけれど、いくつもひっきりなしなのでどの方向から来るのか、まわりのどこからでも鳴いているような感じがした。ここも風が吹き、まえからからだをまるごとつつんで肌をさらっていこうとする。じきに駅前のマンションが駐車場の向こうにみえてくる。てまえのひとつは横にひろく端のほうは階段状になっており、薄黄色だったり乳白だったりいずれにしてもおしなべてカーテン越しの淡いあかりが窓をいくつも染めてはひろがった輪郭をかすませながらまだら模様を生み出していて、奥のもうひとつはこちらがいつも駅のホームからみやったり前を通ったりしているものだが、ベランダの区切りがより明確で線が太いので明かりもいくらかかたまっているけれど、双方茶色っぽい壁のどちらも装飾された巨大なケーキのようにみえなくもない。駅そばの踏切りを渡って、煙草を吸う男らがそとで談笑している飲み屋のまえを過ぎ、(……)通りにあたると渡って左に移行して、いつもの帰り道である裏の路地にはいった。とちゅうで猫が一匹右手からあらわれて、さいしょは猫というよりも焦茶色の丸細いうごめきにしかみえなかったが、猫だとおもってあゆみをすすめると回転する円筒のように道を渡るそいつはちょっと足をはやめるのみで、こちらのちかづきに気づいていないわけがないがことさらいそいで逃げるでもなく、左の家の門を抜けてはいっていった。アパートの通りまで来ると、これでたぶん四〇分くらいあるいたはずだが、あっという間だったな、ほとんど一瞬だった、一瞬は言い過ぎにしても、数分くらいでしかないような、ほんとうにあっという間に帰ってきたような感じがする、とおもった。じっさい階段をのぼって部屋にはいり、パソコンをみてみれば二一時八分で、出の時間はおおよそ八時半だったはずだからやはり四〇分だ。
 二二日や二三日をかたづけたのはこのあとだったかおぼえていないが、このさきの夜にたいしたことはない。カフカ書簡の書抜きをしたり、湯を浴びたり、ユーディット・シャランスキー/細井直子訳『失われたいくつかの物の目録』をちょっとだけ読んだくらいだ。翌日は昼過ぎに地元の美容室に行くことになっており、そのため七時には起きようとおもって、アラームをしかけて一時二〇分くらいには床についた。ストレッチをしたりあるいたりしたためだろう、胸はわりとほぐれている感じで、肋骨の接合部をちょっと押しても生じる痛みがちいさくなっていた。


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  • 「ことば」: 6 - 10
  • 「読みかえし1」: 564 - 584
  • 日記読み: 2021/9/24, Fri. / 2014/2/19, Wed.