2022/10/5, Wed.

 旅行にぼくが我慢するわけはただそれが役所にとっても無益だったということです、もちろんそれは別の面でまたぼくの心を傷つけはしますが。結局のところ旅行全体は親戚訪問――ライトメリッツには親戚があります――におわってしまいました。ぼくが役所を代表することになっていた審理は三日前不定の時間、延期されており、役所には――なにか裁判所事務局の誤りで――知らされていなかったからです。その点から見ると、ぼくが急いでまだほとんど夜のうちに家から出かけて、結構な寒さのなかで通りを歩くということは特別な意味をもってきます――「ブラウエ・シュテルン」の、灯りはもうともってはいるがカーテンがひいてある朝食室のそばを通り、だれかがまたものほしげになにかを覗きこみはするが、だれもなかから通りを見ているものはいない――それからまた眠っている人たちといっしょに鉄道の夜の旅をするのですが、彼らは眠ってはいるけれど、相変らずまちがった意識をもっていて、ぼくが「冷」にくりかえししておく暖房を、眠りながら「暖」にくりかえし戻してしまい、暖めすぎた車室をさらに暖めすぎるのです。それから最後に半時間田舎の馬車に乗って(end150)霧のかかった並木道や雪がまかれたような畑や草地を走り――そしていつも不安、いつも不安なのです、たとえすべてを見ているぼくの視線の鈍さのせいであるとしても。それからやっと朝八時ライトメリッツのランゲ通りにある親戚の店に到着し、叔父(本当はまま [﹅2] 叔父、そんなものがあるとしてですが)の、子供のころから見覚えのある帳場のなかで元気と不相応な優越感を味わうのですが、それはやっとベッドからはい出て、フェルトのスリッパをはきながら、まだ開いていないつめたい店のなかで、いたずらに体を暖めようとする人のところにきた旅行者が感じるものです。それから叔母が(正確にいえば、もうずっと前に亡くなった本当の叔父の妻で、彼女は叔父の死後、番頭、つまりこのまま [﹅2] 叔父と結婚したのです)きましたが、彼女はいまは病気がちですが相変らず大変生々した、小さな、まるまるとした、金切り声の、両手をこすりあわせる、昔からぼくには好ましい人間です。
 しかしもうぼくは彼らを騒がせたままにしておかなくてはならない、隣室で午前三時を打ったので、子供は床につかなくてはなりません。最愛のひと、今日のお手紙についてはあなたにいうことがたくさんあります! どうかぼくをなにか奇蹟のように眺めないで下さい、ぼくらの愛のために、そうしないで。あなたはぼくを御自分から遠ざけようとされているようにみえますよ。ぼくは結局、ぼくだけに関するかぎり、またあなたがぼくのそばに現われないかぎり、大変哀れな不幸な人間です。ぼくについて常凡でないところは大部分悪い悲しい意味においてであり、それは、あなたがお手紙のはじめに終りまで考えないで正しく予感したように、主として、ぼくが無益にライトメリッツにいく代りに、明白な意図をもってベルリンにいくことができないという点にあるのです。最愛のひとよ、だからこのぼくの悲しい非凡さが許すかぎり、ぼくをあなたのそばに引き寄せて下さい。そしてぼくのなかにひそむ偉大なもののことなどしゃべらないで下さい。それともあなたは、二日間書きものを中断したせいで、もう書けなくなるというたえまない恐怖を感じながらぼくがこの二日間過してきたことを偉大だとお考えなのですか、ところであの恐怖は今晩が明らかにしたように、そう全く無意味ではなかったのですが。そしてぼくたちのあの晩に、ぼくがボール箱をいじっていたのは、そもそも媚態、臆病、そしておそらく社交上での絶望とそのなかのある気持よさ以外のなにものだったでしょうか。確かにあなたはあのときそれを、無意識ではあれ、認めもしたのですが、今日ではその記憶も薄れているのです。それではいけません。そしてぼくはこう言いたくなるのですが、すべての責任はぼくがあれほど長く送るのをためらったあのばかげた写真にあり、それは一つにはぼくの害になり、他方ではまだなにもぼくの役に立って(end151)いません。あなたの最近の写真は、もうとっくに出来ているはずなのに、まだ頂いていないのだから。最愛のひとよ、ぼくをお近くに引き寄せて下さい、近く、近く、ぼくが自分をあなたに押しつけるほど、旅行中ずっと、汽車で、馬車で、親戚で、裁判所で、通りで、野原で、ぼくがあなたに対していたほど近く。車室でぼくは隣りの客を座席からおろすよう想像し、その代りにあなたを坐らせ、二人はめいめいの席からお互いをじっと見つめていました。
 (マックス・ブロート編集/城山良彦訳『決定版カフカ全集 10 フェリーツェへの手紙(Ⅰ)』(新潮社、一九九二年)、150~152; 一九一二年一二月九日から一〇日)




 昨晩は(……)との駄弁りを終えたあと休もうとおもって布団に横になっているうちに、意識をうしなってしまっていた。四時ごろに覚めて、重たいからだをもちあげて扉ちかくのスイッチのところまで行き、明かりを落として就寝。目覚めた朝は八時三五分。きのうとまったくおなじタイミングじゃんとおもった。それから呼吸などをしてからだをセットアップするのに一時間くらいかかるのもおなじ。覚めた瞬間に、やはり睡眠をはさむと身がこごりかたまって緊張しているなというのが感じ取られて、過去にも起き抜けだけ妙に不安をかんじるということがときどきあったが、そういうことなんだなと理解された。きょうは各所を揉むより、あおむけでじっとしたまま深呼吸する時間をすこしおおくしたとおもう。それもよい。しかしやっぱり呼吸って大事なんだなと。言ってみればちからを入れすぎずゆっくりながく吐くだけなので、ひじょうにたんじゅんなのだけれど、それでからだがまとまるのだから人体というものも、じつに簡にして要を得ているというか、はかりしれない複雑さがうつくしい単純性に結実している。インダス文明五〇〇〇年のヨガの智慧も伊達じゃあない。そりゃダルシムも火くらい吐きますわ。
 覚醒直後にいちど身を起こして、布団の脇に置いてあるペットボトルの水を飲んだのだけれど、きょうはもうそのときに紺色のカーテンをあけてしまった。はやくあかるさを取りこんだほうがよいとおもって。とはいってもきょうの天気はまったき曇り、白さひとつで、太陽の気配もとおく、正午ぐらいにはチン、チン、とかキン、というような音が窓辺から聞こえたので、雨が降ってきたようだなと聞いたけれど、午後二時前現在ではやんでいるようだ。とおもっていま立ち上がり、窓をひらいて手を伸ばしてみたところ、かんぜんにやんではおらず、容易に視認はできないもののぽつぽつ落ちるものが手指にふれた。道も、水たまりがあからさまにはびこるほどではないが、濡れて沈んだいろあいになっている。向かいの保育園はお昼寝の時間で、こちらの部屋から真正面にあたる二階の室は明かりが消えて暗くなっていた。しかしそろそろ二時だから、せっかちな子どもからだんだん起き出すころだろう。
 九時半過ぎに離床し、椅子について水を飲みながらNotionを準備。トイレに行ったり顔を洗ったりして出てくると、布団のうえにもどってChromebookで過去日記。2021/10/5, Tue.は外出をせずいちにちずっと家に籠っているのだが、窓やベランダをとおしてそこそこ風景と交感している。どれも突出した記述ではないけれど、さらっとしていてそうわるくない。ひとつめはクラゲの比喩が、ふたつめは「かきみだし」のひらがなが、みっつめは「かおらせた」のやはりひらきがそれぞれ目にとまる。

一一時四五分ごろに正式な覚醒。きょうもまた空の青さとひかりがまぶしい晴れの日で、臥位からみあげた窓では細胞のような網戸の格子に光点がななめにながれてひっかかっており、宙にはふたつみっつ、爪のかけらよりもはるかにちいさい糸状の塵がしずかに浮かんで海月を真似ている。(……)

皿をかたづけ、その後しばらくベランダで陽を浴びた。日なたのなかで屈伸や開脚をして脚をほぐし、すわりこんで肌に熱を吸う。ひかりはなかなか旺盛で熱く、陽射しのなかにずっといればことによっては熱中症になってもおかしくないくらいのつよさとかんじたが、風が絶えずながれて身のまわりをかきみだし、暑気のわだかまりを散らしてくれる。空はあかるい水色だけれど意外と雲も乗っていて、ところどころに淡いすじがながれたり、青さのなかにぼやけた白さが沈みこんだようになっていた。

五時で上階へ。アイロン掛け。やはり一時間くらいかかった。五時二〇分くらいだったか、正面の南窓の空にも、右手のベランダのむこうにすこしだけのぞいた西空にも薔薇色をかおらせた淡い雲のすじがいくらかながれ、室内の明かりは背後の食卓灯だけで薄暗がりのうちにオレンジ色が弱くさしこまれてただよっていたのだけれど、そのなかにもそとの薔薇色のにおいがかそけく反映して混じっているような雰囲気だった。(……)

 その他したのようなこと。

(……)そうしてポール・ド・マン/土田知則訳『読むことのアレゴリー ルソー、ニーチェリルケプルーストにおける比喩的言語』(岩波書店、二〇一二年)を読みはじめたが、そうしているうちにやはり面倒臭さがまさってきょうは出かけないこころにかたまった。第三章の「読むこと(プルースト)」を読み終えたが、この章をもういちどさいしょから読むことにした。やはりわかりきっていない細部があるので。そうして冒頭から、精読とまではいかないが、よくわからない部分を何度もくりかえし読みながらすすめていると、なんだかんださいしょよりも飲みこめてくることが多くあった。文章を読んでいて言っていることがよくわからんなあというのはだいたいのところある語の意味やその範囲・射程がつかめないということと、前後の文、あるいはもうすこしひろい文脈のつながりかた・うつりかたがよくわからん、ということに集約されるとおもう(ということはつまり、範列的要素と統辞的要素ということか)。おなじ箇所をなんどもくりかえし読んでいると、ここまではわかるがここからがわからん、もしくはこの文のなかでこの語だけがどういうことなのかわからん、ということが明確に浮かび上がってくるし、それを踏まえてさらに読んでいると、おなじ段落内の前後やときには段落を越えた範囲で、この語とこの語がむすびついているなとか、ここがここの言い換えだなとか、そういう移行的・転換的な意味のネットワークがよりこまかく見えてくるので、だいたいそれで解決する。ある範囲の記述の意味がわかる、すっきりするというのは、そこで構築されている意味論的調和(すなわち総体における有機的な首尾一貫性)のかたちが見え、とらえられるということだ。それぞれの部品が全体のなかでどう配置され、どこにどう接続されており、それによってどういうかたちをつくりあげているか、また個々の部分がどのように動きはたらいているのか、すなわち記述の仕組み(「仕組み」というのは個々の小規模な部分の「形式」も、より総体的な意味での「構造」も、諸部分のあいだに生まれる連関的な「動態」も一挙に含意できる便利な語ではないだろうか)を(仮構的ではあるものの)俯瞰して把握するようなことである。したがって、言述とはいってみれば機械のようなものだ。ただ、その機械の部品はもちろん語であるわけだけれど、語の意味とはその本性上、点ではありえず、それぞれ特有の幅やかたち、もしくは範囲をそなえている。その固有のかたち - 範囲たちが群れなしつらなりかさなりあうことで、あるいは調和し相乗し、あるいは打ち消し合ったり干渉したり浸食しあったりしながら、多層化したり、変形したり、ばあいによっては破綻したりしつつ、全体としてもおのおの微妙にことなりあっている(ときにはきわめて複雑怪奇な)固有のかたちをつくりあげているというのが文章ということだろう。

     *

(……)夕刊の「日本史アップデート」は日本の朝鮮支配についてで、併合と植民地支配が朝鮮のひとびとの尊厳をそこなったことはいうまでもないが、最新の統計データを見ると産業的・経済的な成長というのはたしかに観測されており、米の消費量、身長体格の変化、衛生環境の情報などあわせてかんがえるとひとびとの生活の質が極端に低下したわけではなく、経済的な側面にかぎっていえば搾取収奪とまでは言えないだろう、と。ただしそれも戦争がはじまるまでにかぎってのはなしで、戦時中はいわゆる創氏改名など同化政策がより強力にすすめられたし、徴用工なども生まれて日本は朝鮮を無謀な総力戦に巻きこんだと。戦時日本の全体主義的・統制経済的側面は北朝鮮に(インフラもふくめて)そのまま引き継がれたいっぽう、韓国のほうはインフラは活用しつつも体制は自由主義経済のほうへ転換し、それがいわゆる「漢江の奇跡」と呼ばれる高度成長を生んで両国の差になったと。

 2014/2/27, Thu.も読んだがこの日はべつにという感じ。がんばっているようではあるが、またちょっとわざとらしい部分があったりしてやや恥ずかしく、鬱陶しい。その後ウェブも見て、起き上がるころにはもう一一時ちかくだった。屈伸をしたり、胸郭をほぐすために背伸びをしたり胸を張ったりとそれぞれやって、さいしょはいつもどおり椅子のうえで瞑想をしようとおもったのだけれど、座ってみて、左右の腕置きが膝に接触するような感じでちょうどすっぽりはまるような具合なのだが、これもやっぱり姿勢が窮屈になってよくないのかなとおもったので、きょうはひじょうにひさしぶりで布団のほうで枕に腰掛けてやってみることにした。そうするとそれもわるくない。あしたは座布団を折りたたんだうえでやってみよう。たぶんそれがいちばん尻や骨盤のすわりのバランスがよくなるんじゃないか。きょうの瞑想は一一時六分から三一分までで、ちょうど二五分。だいたい二五分くらいで安定してきている。深呼吸をよくやっておいたから楽で、くわえてまえよりも微細なところまでからだの感覚をみることができた。さいしょのうちは、背骨とか股間から喉にかけてとか、身体の中心線というのはとうぜん中心にあるわけだけれど、その中心線がすこし右、ちょうど首の右表面のあたりにずれてあるように感じられて、これはやっぱりなにかしらゆがみがあるのかなとおもった。じっさい、座っているうちに首から右肩のうしろにかけてのすじが、伸びるとどうじにちょっとピリピリ痛みだすわけである。そういうことはいぜんもわりとあった。だからじぶんのからだの癖がここになにかあらわれているのだとおもう。呼吸をしていてもからだの右側がすこしだけ重くてひっかかりがあるかのいっぽう、左側はもっとかるくて空のようにかんじられる。あとそれとはべつのこととして、胸から腹あたり、からだの中心になんか回転感覚をかんじたというか、このばあいは中心線がそこにただしくとおっているとして、それを軸としながら横向きでほんのちいさな円運動がなされている、というような感覚をおぼえた。ゆらぎですね。じぶんのからだというものもまだまだ未知の、しかし接触しうる領域がいくらでもねむっている。言語のなかにいままでだれも見出していない未知の生命が息づいているのとおなじことだ。このことばはヴァルザーが『盗賊』(ではなかったか?)のどこかに書いていたものだが。『盗賊』ではなくて、小説集の四巻目だったかもしれない。そういうわけでいまEvernoteを確認してみたが、やはりそう、四巻のほうだった。

 (……)わたしが遠慮することなく思いのままに物を書くようなとき、生真面目この上ない方々の眼には、少しばかり奇妙に映るのかもしれません。しかしながら、言葉の中にはそれを呼び覚ますことこそ喜びであるような未知の生のごときものが息づいている、そう願いつつ望みつつ、わたしは言葉の領域で実験を続けているのです。(……)
 (ローベルト・ヴァルザー/新本史斉、フランツ・ヒンターエーダー=エムデ訳『ローベルト・ヴァルザー作品集4』(鳥影社、二〇一二年)、213; 「わたしの努力奮闘」(Meine Bemühungen); 生前未刊行)

 窓外の子どもたちはいつもながらにぎやかでさわがしく、エネルギッシュである。瞑想を終えるとまたちょっとからだをうごかしてから食事へ。鍋を冷蔵庫から出して火にかけ、サラダもつくる。量はすくなめ。キャベツのもう半玉をつかいはじめたが、買ってから数日経っているのでいちばんおもての葉の端のほうはすこし茶色い染みが生まれている箇所がある。そのへんはちぎって取り、何枚か細切りに。そのほか豆腐とトマト。大皿と椀をパソコンの脇にならべて、きのうも読んだnoteにある藤田一照の仏教塾のレポート記事を読みながら食べる。食後はやはりまだすこし喉奥にかるい詰まり感みたいなものがある。それは胸郭とみぞおちあたりがじゅうぶんにほぐれていないということなのだ。胸を張って腕をうしろに伸ばすストレッチをおりおりやるようにしたほうがよい。皿を洗ったりして始末をつけると、LINEを見て音源を確認してコメントしたり、(……)さんに返信したり。きのう、いちにちはやく誕生日おめでとうのことばを送っておいたのだ。しごとはいくらでも休みたいとおもうがそのいっぽう、塾講師というのもずいぶんおもしろいしごとだとおもうようになった、ということを返信しておく。その(……)さんのブログもちょっと読んで、以下の記述が勉強になる。

 「対象」——さて、対象によって「欲動」の振動運動が喚起され、それは原初的主体となるが、この運動は原初的には対象の現前に依存していて、対象によって、対象とともに受動的に立ち上がる。つまり「欲動」という振動する皮膜は、対象によって贈与され、対象の周囲に配置され、皮膜とは対象の皮膜でもあって、「欲動」とは原初的には対象と一体の運動である。いいかえれば、「欲動」・振動としての原初的主体とは、「対象」そのものである。口唇対象である乳房が差し出された時にのみ口唇欲動と口唇運動としての主体は立ち上がり、そこでは乳房と分離した主体などなく、いうなれば乳房としてのみ主体はその場限りに存在する。主体とは欲動の運動であり、同時に欲動の対象である。
 主体はそれ自身(欲動の)対象であり、それ以外の場に主体は存在しないことは、精神分析的与件の理解にとって決定的に重要である(…)。主体が基本的に対象であることは、シニフィアンの整備とともに主体が乳児期から離陸し、言語によって意識し認識するようになった後でも、厳然たる下部構造として主体を規定し、さまざまな症候のもととなる。シニフィアンは対象とは別の次元に存在するので、シニフィアン(意識)の中に主体はなく、そのことは主体にとって苦痛であるゆえ、世界(=シニフィアン=意識)の中にはない自分自身を求めて、なおそれが世界の中にあると信じつつ、人間は無数の症候(擬似対象)を形成する。宗教、政治、芸術といった活動はすべてこの擬似対象の再形成と関わり、そこで神の視線(宗教)や社会的理想(政治)や作品(芸術)は、何らかの意味で対象としての原初的な主体の存在=基体であり、とはいえなぜそれが自分にとって必要かは、主体は意識と象徴世界の内部では欺瞞的にしか説明できない。より卑俗な例では、人は世界(意識)内での自らの営為に対して与えられる、勲章やメダルといった「小さな対象」(ラカンのいう「対象a」)を愛するが、その理由はイデオロギー的蒙昧さといったシニフィアンの次元では説明できず、より深い発生的動因に根ざしている。社会的地位に不随する他者の「視線」への欲望も、同様に対象への欲望である。
 糸巻遊びの例に帰ると、そこで放り投げては発見され続ける小さな糸巻は、欲動の対象であるとともに、放り投げる子ども自身である。この行為=対象を通じて求められているのは、母親である以上に、彼自身である。ただし、ここにはシニフィアンの萌芽と並行して、「欲動から幻想の領域への離陸」の契機があり、厳密な意味では糸巻は欲動の対象ではなく、糸巻が即彼自身であるわけではない。これは小さな勲章(そして種々の「対象a」)にも言えることで、それは名誉や絶対他者という、象徴世界(シニフィアンのレベル)で形成された神経症的形成物と結合しているので、単純な欲動の対象ではない。が、ともあれ、対象と主体の即応性のみが、象徴世界内部のさまざまな「小さな対象」的症候を説明し、放り投げられる糸巻は(厳密には後述するように「幻想」における)主体の確立と関わっていることを、ここでは記憶しておこう。なお、対象と主体の即応関係は、特に倒錯で顕著であり、そこではフェティッシュを通じて、主体は端的に対象と短絡する。
樫村愛子ラカン社会学入門』p.131-133)

 一時くらいにはきょうの日記にとりかかりだしたのだけれど、ちょっと書いてみてなんだかあんまり乗らないなという感じだったので、やっぱりことばを口から出して脳を回転させておくのが大事なのかなとおもい、音読をさきにすることにした。音読っつっても実声じゃなくてコソコソ言っているだけなのだけれど。でも、さいきんまたおもうけれど、黙読っていうのはやっぱりどこか退屈で、あたまのなかでことばがながれて処理されてしまうし、そもそも視認のみで意味はある程度取れるから脳内でいちいち一語ずつ発音しないこともままあり(こちらはそれでもわりと発音するほうだとおもうが)、それだとなんというか、言語を声に発したときに心身が受け取る抵抗感のようなものがきわめてうすいというかない。実声を出さないとしても口をうごかして言葉を発すると、音振動となったことばが帯びるその抵抗感のようなものが身に、あるいは意識にもそうかもしれないが、ふれて、それを受けて乗り越えつつことばを読むのが一種の快感になるし、それによってあることばの意味や、とうぜんながらリズムや、またニュアンスが、読んでいるとちゅうで偶然、より浮かび上がったりきわだったりすることもあって、とくに詩なんていうのはやっぱりそういう感じで口に出して読まなければほんとうのおもしろさはないものだろう。あたりまえのことをいうけれど要は読むことが精神や意識の領分をはみ出て身体的な行為になるということで、ここでブライアン・イーノが日本版ローリング・ストーン誌のインタビューで語っていたことをおもいだすのだが、かれの友人のなんとかいう、たしかドイツ人の画家だか写真家だかわすれたが芸術家が、からだというのはひとつのおおきな脳なんだ、ということを主張していたらしい。それを受けてイーノは、パソコンをまえにして読んだり聞いたりしているだけだと、首からうえしかつかわない、首からしたはまったくうごかず停滞することになってしまうわけで、それだとやっぱりよくない、脳としての身体のポテンシャルがぜんぜん活用されないことになってしまう、みたいなことを言っていたはず。というわけでこれもブログを検索して典拠をもとめたが、2021/12/6, Mon.に記事へのURLがあった。これ(https://rollingstonejapan.com/articles/detail/35164/4/1/1(https://rollingstonejapan.com/articles/detail/35164/4/1/1))ですわ。該当箇所は以下。

ーあなたは1995年、当時の『WIRED』編集長ケヴィン・ケリーとの対談で「コンピューターにはアフリカが足りない」と語っていましたよね。その認識は2020年を終えようとしている今もお変わりありませんか?

イーノ:ああ、今でもそう信じている。私は今も鉛筆を使って文章を書いたり、絵を書いたりしている。同時に、コンピューターも仕事でたくさん使う。音楽制作のほとんどはコンピューターで行なっている。そういう意味では、両方の世界に触れている。そこですごく感じるのは、鉛筆とコンピューターとでは、自分の体の違う部分を使っているということ。鉛筆を使うときは、身体を大きな脳として使っている。この「肉体は大きな脳」というのは、友人のピーター・シュミット(イーノがアイデア出しに活用したカードセット「オブリーク・ストラテジーズ」の共同発案者としても知られる画家)が何年も前に言ってた持論なんだけどね。

コンピューターの何が問題かというと、身体の首から上しか使わないことだ。あとはマウスをクリックする指が一本あれば事足りる。つまり、首から下を全く使わないということは、人間の知能の大きな無駄遣いなんだ。なぜなら、人間の知能は頭の中だけで機能しているのではなく、体全体で機能しているのだから。身体の動き、筋肉の動き、それら全てが知能の一部だ。種類の違う知能ではあるけど、それを使うのをやめてしまったら、潜在能力の大部分を無駄にしてしまっていることになる。そして、もし首から上の知能しか使っていないのだとしたら、その知能の使い方を放置したら重大な誤りを引き起こすことになるとも思う。単作(モノカルチャー)のようなもので、しばらくの間はいいのだろうけど、永久に他の知能、例えば共感や感受性、あるいは嗅覚などから影響を受けないということは、他にもいろいろある様々なチャンネルからの情報の流入を塞いでしまっているということになる。

我々はインターネットに接続すると、世界中の情報が指先の操作一つで全て手に入ると思うだろう。それ自体は素晴らしいことだし、ワクワクする。それは認める。しかし往々にして、身体全体から得られる情報と引き換えに行っていることが多い。世界中からの情報は受け入れるけど、自分の身体から得られる情報は無視する、という具合にね。使わないし、必要ないからと。私からすると、ドナルド・トランプのような人間を見ていると、彼に投票できる人はどれだけ正気からかけ離れてしまっているのか、と思ってしまう。あの男をどうしたら信じられるのか。自分が本来人間としてあるべき反応と繋がりをちゃんと持っていれば、自分の身体の訴えを少しでも信頼すれば、あの男が立派な国の指導者だと思えるはずがない。自分だけの情報チャンネルの情報を聞くのをやめれば気づくはずだ。そうすれば、ヘイト・チャンネルしか残らないのだから。なぜ人がトランプを好きになるかというと、彼が自分と同じ人を嫌っているからでしかない。だから支持するのだ。同じ者を嫌いな仲間として。これからの指導者を選ぶ理由としてはあまりに酷いよね。

 「なぜ人がトランプを好きになるかというと、彼が自分と同じ人を嫌っているからでしかない」。かんぜんにこれに尽きるとおもう。
 それで音読後にきょうの記事を書き出すとやはりおちついてちからを抜いてさらさらと書ける。ここまで記して二時四三分。きょうは(……)くんの添削や(……)の授業についての文書をつくって職場に送っておかなければなるまい。そのほかは日記をできるだけすすめられれば。あとは書抜きの終わっていないカフカ全集を再度借りに図書館にも行きたいが、それはまああした以降でもよい。


     *


 (……)さんのブログ、一〇月四日より。

 我々は、カントが提示した「行為」の概念を保持し、これを「境界侵犯」、「逸脱」、そして「悪」の問題と関連させなくてはならない。どのようなものであれ(倫理的)行為は、それが行為であるかぎり、必然的に「悪」であるという事実を認めなくてはならない。我々の言う「悪」とは何であるか、もう一度確認しておこう。これは、まさに行為の構造に組み込まれた悪であり、行為の名に値する行為が常にもたらす「境界侵犯」、「現にあるものごとの状態」における変化、という意味での悪である。それは、「経験的」な悪とは何の関係もない。他ならぬこの行為の論理こそ、すべてのイデオロギーにおいて「根源的に悪である」として非難されるものである。イデオロギーの本質は、この構造的「悪」に対して何らかの「形象[イミジ]」を与えるという所作にある。行為によって切り拓かれた空隙(つまり、ある行為のもたらす不可解で「場違いな」効果)には、すぐさまイデオロギーにより何らかの形象が与えられる。たいていの場合、これは受難の形象であり、「本当にこれが欲しいのか?」という問いかけとともに人々に提示されることになる。もちろん、この問いかけに対する答えはすでに与えられている——「君がこれを望んでいるはずがない、もし君がこれを望んでいるとしたら、これは実に非人道的な話だ!」。ここにおいて我々は、イデオロギーによって示されるこの(たいていの場合、恐ろしくも魅惑的な)形象と、我々が感じる不安の真の源——善なる行為の副作用、その望まざる二次的効果ではなく、まさにその本質であるところの「悪」——とを厳密に区別しなくてはならない。「倫理の名を騙るイデオロギー」が「悪」に抵抗するのは、おそらくそれが「善」、すなわち行為の論理それ自体に対して抵抗しているからである。さらに言おう——現在、社会にあふれている「倫理的ジレンマ」(生命倫理環境倫理、人種間倫理、医療倫理……)は、まさに倫理が「抑圧」された結果、つまり〈真実[ザ・リアル]〉の次元における倫理的思考の欠如の結果である。それは、より大きな悪を避けるための一連の規制以上の倫理、そんな倫理に向かう思考が欠如している結果なのである。このような状況は、「現代社会」のまた別の一面、すなわち我々の時代に特有の「社会病理」であり、「歴史の終わり」にいる「(ポスト)モダンな人間」特有の醒めた姿勢を醸し出す「憂鬱」とも関係している。ラカンの言葉を思い出そう——憂鬱とは、「精神の状態ではなく、ダンテ、さらにはスピノザが言ったように、道徳的欠陥である。それは罪、つまり道徳的な弱さである」。このような道徳的欠陥あるいは臆病風に対して、我々は、もう一度倫理そのものの次元を見直さなくてはならない。
(『リアルの倫理——カントとラカン』アレンカ・ジュパンチッチ・著/冨樫剛・訳 p.115-117)


     *


 いま二三時三六分。きょうはけっきょくずっと部屋のなかにとどまってしまったから、そうこまかく書くこともないはず。なにをやっていたかと言ってそんなに印象深いことがない。うえで二時四三分まで書いてあるんだよな。そのあとは飯を食って、四時過ぎからそこに書いたとおり、文書をつくりだしたのだけれど、添削ファイルをつくっているとまたなんか身が緊張しているというか、ストレスをおぼえてちょっと拒否しているみたいな、みぞおちのあたりがやや締まって腹のうちがうごめくような感覚が、先日のものよりもはるかに軽いけれど生まれだしたので(あと、背とか肩のあたりがとたんに凝ったようにかたまって張りはじめた)、これはよろしくない、(……)さんには金を稼ぐ必要がなくなったとしても、じぶんは週一、二回は塾講師のしごとをつづけるかもしれない、そうおもうくらいにはおもしろい、と書き送ったくせに、やはりそのじつ労働拒否者なのか、はたらきたくなくてからだが訴えるのかとおもい、ちょうど食後だったのでとりあえず二度目のヤクを飲み、しばらくはなれて身が落ち着くかどうか見ることにした。それでアンナ・カヴァン『草地は緑に輝いて』を読む。
 しばらく読んだりちょっと目を閉じてからだを落ち着かせたりしてから、どうかなともういちどGoogleドキュメントにアクセスしてみると、大丈夫そうだったので文書をつくり、そのまま(……)の授業について(……)先生につたえる文書もつくって、職場に送ったのが七時ごろ。
 夕食にはまたしても野菜スープ。タマネギ、ニンジン、大根、ネギ、キャベツ、豆腐。ちゃんぽん鍋のつゆが半分ほどのこっていたのを全部つかって、それだけだと量がすくないというか鍋いっぱいにならないので水を足して、鍋料理というのは炒めずにさいしょからもう煮ればよいはずなので、沸騰させてから野菜を投入してあとはもう煮ただけ。楽勝。たまに灰汁を取って豆腐をくわえ、味つけも味の素をちょっと振っただけでほぼ鍋つゆのみ。シーフードミックスを入れ忘れたな。それで煮つづけているあいだは一〇月三日の記事を記す。外出時のこと。鍋はきょうはもうさいしょからうどんを入れてしまうことにした。よい具合に煮えてしあがると、(……)さんのブログを見ながら食す。うまいといわざるをえない。椀の量で二杯食った。腹の感じも問題ない。喉の詰まり感はどうしても消えきらないが、胸を張って両腕をうしろに伸ばすストレッチをやればいちおう改善する。からだの感覚はほぼ平常。しかしさきほどしごとの文書に取り組みだしたときのようなこともあるから、まだまだ油断はできない。そもそもいまの状態も日に二回のヤクによってリラックス度が底上げされているはずなので、それをかんがえるとじぶんの恒常性というのはまだまだ安定度が低い。深呼吸・瞑想・ストレッチを着実にやって体質を改革したい。夕食後も三日の記事をすすめて、往路はなぜかよくおぼえており、ひさしぶりにかなりいろいろ書けた感触。わりあい満足感がある。しあげてさきほど投稿した。あと日記のノルマはきのうの夜の(……)との通話のことを書けばよい。日付も変わってしまったし、きょうはもうやらない。それにしても二日連続でそとにぜんぜん出ないというのはよくないな。それでおもいだしたが、きょうは扉のそとに出た瞬間はあって、鈴木大拙の『禅』が届くはずだからと夜に郵便受けを見に行ったのだ。夕刻前くらいから雨がやや盛んになって保育園の子や保護者たちが雨だ雨だと言っていたし、暮れ方のカーテンの向こうも青く濡れ、扉をくぐった宵にもまだまだ降っており、通路端からのぞく空は端的な煙色、階段を下りて行けば肌着にハーフパンツではたよりないくらいの涼気が水のおととともにのぼってきて一〇月の気だった。文庫本は無事にとどいており、回収。二〇〇ページくらいだし、会合の日までには問題なく読み終わるだろう。
 (……)


―――――

  • 「ことば」: 11 - 15
  • 「読みかえし2」: 87 - 100
  • 日記読み: 2021/10/5, Tue. / 2014/2/27, Thu.