2022/10/8, Sat.

 ぼくは笑うこともできます、フェリーツェ、疑わないでください、それどころかぼくは大の笑い手として知られているのですが、この点では以前はずっと気違いじみていました。ぼくの局の総裁とおごそかな会談をしているとき――これはもう二年前のことですが、局のなかで伝説となりぼくより生きのびるでしょう――笑いはじめたことさえありました。それも大々的に! あなたにこの人物の意味を説明するのは大変でしょう。だから、それは大変大きくて、普通の局員はこの人が地上ではなく雲の上の存在だと考えていることを信じてください。われわれは一般に皇帝と話す機会はあまりないのだから、この人物が普通の局員には――ちょうどすべての大きな組織でそれに似通った現象がありますが――皇帝と会うに等しい感情を与えます。もちろんこの人物も、その地位が必ずしも自分の功績に負ってはいない人間がしごく明晰な一般的観察に曝された場合すべてそうであるように、滑稽さをたっぷり身につけていました。しかしそんな自明のこと、この種の自然現象のため、ましてこの大人物が居合わせるところで笑いにそそのかされるとは、すでに神に見放されたことに違いありません。ぼくたち――二人の同僚とぼく――は当時あたかも昇格したばかりで、おごそかな黒い礼服で総裁に感謝する(end213)ところでした。その場合忘れてならないのは、ぼくが特別な理由から総裁には最初から格別な恩義を蒙っていることです [*1] 。ぼくら三人のうち最も高位の人が――ぼくは最年少でした――謝辞を述べ、人柄にふさわしく、簡潔で分別があり、引き締った調子でした。総裁はいつもの、儀礼的な場合にとっておきの、皇帝の謁見の態度をいくらか思わせる、実際(言ってみれば、こうしかいいようはありませんが)おそろしく滑稽な態度できいていました。両脚をかるく交叉させ、左手を拳にしてテーブルの突端に支え、頭をたれて、そのため白いあごひげが胸の上で折り曲げられ、その上、大きすぎないまでも前方に突き出した腹をすこし揺りながら。そのときぼくは余程抑制のきかない気分だったにちがいありません、こうした態度はぼくはもう十分知っていたし、とぎれとぎれではあれ、軽い笑いの発作に襲われる必然性は全くなかったのです。もっともその発作はまだ咳の刺激とたやすく説明できる程度で、殊に総裁は目を挙げていませんでしたから。また、ひたすら前方を見て、ぼくの様子に気づいてはいたでしょうがそれに影響されなかったぼくの同僚の明瞭な声は、ぼくを制禦するには十分でした。ところがそのとき同僚の謝辞が終ったあと、総裁が顔をあげ、一瞬ぼくは笑いを忘れ恐怖に捕えられました。いまこそ彼はぼくの表情を見て、残念ながらぼくの口から漏れた笑いは決して咳でないことを容易に確かめることができたでしょうから。しかし総裁が口を切り、それがまたしてもありふれた、とっくに分り切った、皇帝風に形式張った、重い胸声を伴う、全然無意味で根拠のない話で、しかも同僚が横目を使って、今しも自制しようとしているぼくに注意しようとし、それが反って少し前の笑いの楽しさを生々と思い出させたとき、ぼくはもう自制できず、いつか自制できるだろうという希望はすべて消え去りました。最初はただ、総裁がところどころに挟んだ一寸した穏やかな冗談に合わせて笑いました。しかしこんな冗談にはただ敬意を表して顔を歪めるのが掟なのに、ぼくはもうげらげらと笑い、同僚たちが感染を恐れておののいているのが分り、ぼく自身より彼らに同情しました。しかしぼくはなすすべもなく、身をそむけたり、手で口を蔽うこともせず、途方にくれて総裁の顔を凝視し、顔もそむけませんでしたが、それはおそらく、なにも良くすることはできず、ただ万事悪くなるだけだから、一切の変化は避けるのが一番だと感情的に想定していたためでしょう。もちろんぼくは、もうこうなった以上、ただ現在の冗談に対してばかりでなく、過去の、将来の、なにもかもすべての冗談に対して笑ったのですが、一体ぼくがなにを笑っているのか、だれにも分らなくなりました。みんな当惑しはじめましたが、ただ総裁だけが比較的無関心で、さまざまな世事に通じている大人物には、自分のような人間に尊敬を欠く可能性など(end214)決して理解できないことでした。われわれがこの時点で抜け出していれば――総裁も話をすこし切りつめたらしいし――まだ万事がかなりうまくいったでしょう。ぼくの振舞いはなるほど疑いなく失礼なことでしたが、この無礼はあからさまに口に上せられなかったでしょうし、この問題は、そうした一見とんでもない事柄ではよくあるように、それに関与したぼくら四人の暗黙の了解によって片づけられたでしょう。ところがいま不幸なことに、これまでぼくが触れなかった同僚(ほとんど四十歳の、丸い童顔ながらひげを生やした男で、大のビール党ですが)が、全く思いがけない短かい話をはじめました。一瞬ぼくには全く理解できないことでしたが、彼はもうぼくの笑いですっかり取り乱し、笑いを抑えて頬をふくらませながら立っていたのでした、そして――いま彼は真剣な話をはじめたのです。が、彼にしてみれば、それはよく理解のいくことでした。彼は非常に空虚な、熱し易い性質で、すべての人に承認される主張を情熱的に限りなく代弁することができるのです。こうした話の退屈さは、その情熱の滑稽さや好もしさがなければ堪えがたいでしょう。ところで総裁はなんの他意もなくある発言をしましたが、それはこの同僚にはあまり都合のいいものではありませんでした。その上彼はたぶんぼくのもはや絶え間のない笑いを見ることに影響され、自分がどこにいるかを少しばかり忘れました。つまり彼は、自分独自の見解を披瀝して、(他人の語ることすべてにもちろん死ぬほど無関心な)総裁を納得させるにふさわしい瞬間がきたと思ったのです。だから彼がいま手を振り動かし、なにか(一般的にいって既にそうですが、いまは特別)子供じみたことをしゃべり続けたとき、ぼくはもう堪えられなくなりました。それまではとにかくおぼろげに目前にあった世界がぼくから全く消え去り、非常に大きな、容赦のない笑い声をたてました。それは心からの笑いで、おそらく小学生だけが教室でそんな笑い方をするでしょう。みんな黙りこみ、やっと今ぼくは笑いによって、承認された中心となりました。もちろんそのとき笑いながらぼくは恐怖のあまり膝がはげしく震えました。同僚たちもいまは思いのまま一緒に笑うことができましたが、長い間準備され訓練されたぼくの笑いの恐しさに、彼らは到達することはなかったし、比較的に気づかないままでした。いくらかは自分の罪を意識して(贖罪節を思い出しながら)、いくらかは抑えこまれた多くの笑いを胸から駆り出すために、右手で胸を叩きながら、ぼくは笑ったことでさんざん詫びをしました。それは大変みな説得的なものでしたが、その間に新しくたえず湧いてくる笑いのため、全く理解されませんでした。いまは総裁さえむろん困惑の態でしたが、ただこうした人々にすでにあらゆる応急手段とともに生得備わっている、すべてを可能なかぎりまるく収めようという本能的感(end215)情のなかで、彼はぼくの大笑いになにか人間的説明を与えるお定まり文句を口にしました。それはずいぶん前に言った冗談に関連したことだったと思います。それから彼は急いでぼくらを退出させました。屈服はしないで、大笑いとともに、しかし死ぬほど不幸な思いをしながら、ぼくはまっさきに広間からよろめき出ました。――この事件は、ぼくがそのあとすぐ総裁に出した手紙や、ぼくの親しい総裁の子息の仲介によって、さらにはまた時の経過によってようやく大部分は和らげられましたが、完全なゆるしはもちろん得られなかったし、これからも得られないでしょう。しかしそれは大した問題ではありません、おそらくぼくはあのとき、自分が笑えることを、あとでいつかあなたに証明できるためにのみ、そうしたのでしょう。

 (*1): 労働者災害保険局の総裁は当時オットー・プシーブラム博士であった。総裁の息子、エーヴァルト・プシーブラムとカフカギムナジウム時代の終りごろと大学生時代、友人関係にあった。一九一三年三月一〇日から一一日のカフカの手紙参照。

 (マックス・ブロート編集/城山良彦訳『決定版カフカ全集 10 フェリーツェへの手紙(Ⅰ)』(新潮社、一九九二年)、213~216; 一九一二年〔一九一三年〕一月八日から九日)




 七時半ごろに覚醒し、九時に起床。深呼吸とかはいつもどおり。ルーティンも変わらず。起きたときには白い曇りだったのが昼頃には一時雲がまばらになってあいだに水色がのぞいたのだけれど、午後一時四〇分現在だとまた一面の白曇りになっている。しかしきょうはきのうおとといよりも気温が数度高く、最高気温は二四度といわれている。雨も降らないようだ。きょうこそ図書館に行きたい。
 Chromebookで日記の読みかえし。一年前は二回目のワクチン接種を受けたあと(……)に出て本屋に行っている。描写がいくつか。ひとつめは自宅から最寄り駅までのあいだ。まあわるくないのでは。

眼鏡をかけるととうぜんながら事物の表情がよく見えて、午後二時の浮遊的なひかりを受けて憩うているとおくの山の襞のぐあいとか、そのすがたをほがらかにうすめているあかるみの膜の色合いなどが鮮明に映る。陽射しはこの時季にしてはやはりつよめで、汗を避けられない。団地に接した小公園の樹々の葉は濃緑のかわきかたに老いの感覚を少々ひそませ、もう枝にすくない桜の木の葉は色をあたたかく変えてたがいのあいだに宙をひろく抱き、道の端の地面には落ちたものらがいろどりをややうしなって薄くおとろえながら頭上の後続を待っている。

 ふたつめは、「夕刻がちかづいてかたむきくだった太陽が西の空にはえばえとおおきくひろがっており、あまやかな色味をやや増したひかりは地上をななめにさし駆けて水のように身のまわりをながれていた」というやつで、これはワクチンを接種された体育館を出たときの文なのだけれど、書いた数日後になにかの拍子に読みかえして、完璧な一文を書いてしまったと自画自賛したおぼえがある。いま読んでみれば、わるくはないけれど、べつにそんなことはない。
 三つ目は(……)に出て(……)まえの高架歩廊をあるいているあいだに見上げた情景で、ちからをこめてながなが書いている。この空の景観を目にしてすげえなとおもったことはもちろんおぼえており、ビルまで短い距離をあるきながらたびたび見上げて、その様相を記憶しようとしたのだった。「コーヒーのなかのミルクのすじめいた青と白の混淆で襞をつくりながら直上から西の先までくだっているというべきなのかのぼっているというべきなのか」の「西の先まで」で一回点を打つべきだったな。いま口に出して読みかえしてみると、ここで息がつづかない。

歩道橋をわたり、歩廊を(……)のほうに折れると西が正面となり、眼下は風に葉をそよがせる街路樹にはさまれて道路が歩廊とおなじく前後に伸びており、したがって頭上の空がひろく開放されてあらわになるが、その空はいま青さをのこしながらも雲が圧倒するような勢力をほこってなかば以上をおおっており、背景の青さをすこし透かして地と混ざりながらあいまに無数のひびや溝をはしらせている白のシートは鱗の様態で、場所によってひとつひとつの鱗のおおきさが変異しており、最小の泡の集合めいたもの、飛沫のようなものとありながら、途中からはおおかたクラッカーのように四角くくぎられた部屋のならびとなっていて、コーヒーのなかのミルクのすじめいた青と白の混淆で襞をつくりながら直上から西の先までくだっているというべきなのかのぼっているというべきなのか、それすらわからずただ一挙にひろがりなだれるような雲の動きの、端的に壮観であり、いままであまり見たことのない奇観のようでもあった。

 書店ではポール・ド・マンとかロドルフ・ガシェのド・マン論とか、そのへんを買いこんで散財している。2014/3/2, Sun.は特段のこともなし。ウルフの”Kew Gardens”を訳そうとしている。
 一〇時過ぎに寝床をふたたびはなれて、水を飲んだりしてから瞑想。二七分くらい。まあまあ。いちどめの食事は昨晩買った鮭のおにぎりとサラダ。サラダは残り物のキャベツ、リーフレタス、豆腐と簡素なとりそろえ。なにも食っていないとやはり身が寒いので、なにかあたたかいものが飲みたいなとおもったが、味噌ももうほとんどないし汁物をつくるのもめんどうだったので、白湯でいいやと鍋で水道水を煮沸して食後にマグカップにそそいだ。それをちびちび飲みつつ、清水穣「文化時評5:ヴォルフガング・ティルマンス『To look without fear』@ニューヨーク近代美術館 我らはどこから来たのか、我らは何者か、我らはどこへ行くのか」(2022/9/17)(https://icakyoto.art/realkyoto/reviews/86832/(https://icakyoto.art/realkyoto/reviews/86832/))を読んだ。食事中には(……)さんのブログを読んでいた。
 それで食器類を洗って一二時くらい。cero『POLY LIFE MULTI SOUL』をまたしばらく聞く。”Modern Steps”, “魚の骨 鳥の羽根”, “ベッテン・フォールズ”, “薄闇の花”, “遡行”と五曲目まで。意識がそんなに冴えず、印象深く迫ってきたことがらは特別ない。”薄闇の花”のバックとメロディの交錯がやはりいいなとおもったのと、あらためて歌詞を聞いてみればやはり川とか滝とか水とかそういうテーマがどの曲にもふくまれていて通底している。”薄闇の花”だけそのいろが薄いようだが、それでも後半で、川をわたるひとどうのこうのみたいなことを言っていた気がするし。
 またしても野菜スープというか鍋的料理をつくることに。きのう、スーパーで味噌鍋のスープを買ってきていたのでそれをつかう。もったいないのでぜんぶはつかわず、半分くらいを鍋にそそいで、水で嵩増し。火にかけて熱をくわえるあいだ、まずあまっていたもうやる気のない大根を切り、タマネギもひとつ切って鍋に投入。その後、ニンジン、エノキダケ、ネギとくわえていって弱火で煮込む。つかったまな板などを即座に洗い、トイレにはいって小便をすると灰汁が湧いているので取り除く。
 それから体操をちょっとして、シャワーを浴びることに。そのまえに窓辺に吊るしたままだった洗濯物を取ってたたみ、かたづけた。タオルなど鼻をちかづけると湿ったにおいがかすかにのこってはいるものの、しかたがない。気候からしてそろそろハーフパンツも不要になってくるだろうし、衣服のかたづけ場所ももうすこしうまくさだめて部屋を整頓したいところだが。ジャージもいま一着しかないので、もう一着はほしい。冬服もまったくない。持ってきた上着はジャケットふたつくらいで、そのしたの厚さがきのう着たブルゾン。それだけ。ジャケットいじょうのジャンパーとかコートとかがまったくない。古着屋でも行って調達したいところだが。
 湯を浴びて出てくるとからだを拭き、短い髪をさっと乾かして、鍋に豆腐をくわえた。最弱の火でひきつづき炙りつつ、きょうのことをここまで記して二時六分。あとわすれていたが、日記の読みかえしをしたあとにGuardianでウクライナの状況の概報を読んだ。ロシアはザポロジエにも「カミカゼ」ドローンをつかいはじめ、ハルキウではロシア軍撤退後に五三四人の死体が見つかっている。Iziumという町が最多で、四四七人。二二の場所が“torture rooms”としてつかわれていた証拠もあるという。ノーベル平和賞ベラルーシの反体制活動家であるAles Bialiatskiというひとと、ロシアの人権組織Memorial、またウクライナの人権組織Center for Civil Libertiesにあたえられた。また、〈A member of Vladimir Putin’s inner circle directly confronted the Russian president over mistakes and failings in the war in Ukraine, the Washington Post has reported, citing US intelligence.〉という観測もあると。バイデンも「アルマゲドン」の語を口にしてキューバ危機以来最大の核戦争の危機にあると述べたようだし、二月三月いらいずっと言われているけれど、マジでプーチンがキレて核兵器をもちいるかもしれないというおそれはつねにある(さいしょからいきなりウクライナとかに撃ちこみはしないとしても)。ちなみに、ノーベル賞のことをぜんぜん気にしていなかったが、文学賞はアニー・エルノーというフランスの作家にあたえられたらしい。


   *


 いま帰宅後の八時前。鍋にうどんを入れて煮込み、それを食いながら(……)さんのブログを読んだ。したの箇所のさいごの一文は吹き出して笑ってしまった。

 身支度を整える。第五食堂へ向かう。棟の一階に降りると出入口を塞ぐようにして電気スクーターが三台も停車している。二台はまだわかる、ときどきそこに停めて充電しているのを見かけるので。しかし追加の一台がマジで意味不明。そいつのせいで体を横にしてカニ歩きしながらでないと出入りできない、というか奥に停めてあるこちらの自転車なんて絶対に出すことができない。結局こいつも爆弾魔のところのババアなんではないかと思う。ああいうがさつな足音と声色の持ち主であればこういうことだって平気でするはずだ。本当に死ねばいい。いまプーチンよりもあのババアのほうが嫌いかもしれない。

 以下の部分には、おお、ちゃんとした教師だ、とおもった。じぶんはこういうことたぶんできない。生徒よりむしろこちらのほうがいつもへらへらしているので、へらへらし合いながらなあなあな感じで、あいてのペースにとにかく合わせてしまい、その範囲でできることをやろうとしてしまう。むかしは生徒を叱るというかちょっと怒るようなこともたまにあったし、キレることもあったのだけれど、それはたんじゅんに態度のわるいやつとかわがままな子とかにイライラして機嫌が悪くなったというだけのことだった。ぶっちゃけたはなし、いまはもう生徒にたいしてちゃんとやらせようとかあんまりおもっていないし(ただ、せっかくわざわざ塾に来るのだから、なにかしらの意味で良い時間を過ごしてほしいとはおもっている)、こちらが口にする咎めのことばといえば、「だめだよ?」とか、「だめです」くらい。それも真顔で言うことはなく、だいたいにやにやしながら言っている。たぶん真面目に怒ろうとするとこっちの胃が痛くなるとおもう。それでもだいたいの生徒は、その子なりに、それなりにちゃんとやるのだから、学習塾という場とか、そこでの講師 - 生徒という役割もたいした拘束力や魔力みたいなものを持ってんなあ、と。塾をサボろうが授業中に携帯でゲームをやっていようが、ノートに落書きをしていようが、室長がいないときにこちらが準備中にFISHMANSや中村佳穂をながしていようが、そんなことはたいしたことではない。子どもたちにはむしろそういうことを理解してほしいですね。それを理解したうえで主体的に真面目にやってほしい。むかしはヤンキーみたいなやつとか、ヤンキーまで行かなくてもうるさいやつとかいたのだけれど、近年はなぜなのかほんとうにそういう子は来なくなった。

 (……)で、そのあいだに移籍組の(……)さんと(……)さんのところにいく。先々週の授業で0から10000まで数が読めるように練習しておいてくださいとわざわざ三人だけのチャット上で告げておいたのだが、(……)さんは万はなんと読むんだっけといまになってはじめて知ろうとするような態度で周囲に中国語で質問しているし、彼女よりはまだやる気のあるようにみえるし実際作文もまだかたちになっている(……)さんですら手始めに見せた80という数字すらろくに読めない様子だったし、しかもそうした状況をへらへら笑って押し通そうとするようだったので、あ、締めるのであればここしかないな、と思い、きみたちちゃんとやっておけって言ったよね? と真顔で問い詰めた。ふたりとも当然ろくに聞き取れないわけだが、こちらが表情を崩さないまま前回グループチャットでふたりに送ったメッセージを表示したスマホを見せると、それでちょっとやばいという感じにはなったのかもしれない、とにかくこちらはその時点でふたりのために用意しておいたiPadを閉じて、あとは自分たちで勉強しなさいと言い残して席を離れた。

 したのはなしもさすがに笑う。

 南門を通りぬける。(……)くんの寮は老校区にあるわけだが、話したりないのか、こちらの寮までついてくる。彼女はいわば「地雷系」みたいなものだというので爆笑する。なんでそんな言葉知っとんねん。先生「地雷系」知ってるのかというので、このあいだ地雷系のAVをはじめて見たと受けると、(……)くんも爆笑。毎日5時間くらい通話しているという。通話といっても、ただ電話回線をつなぎっぱなしにするだけでずっと会話するわけではない、つないだままお互いに好きなことをする、要するに互いの生活音を相手にきかせるようにしているだけのアレで、こういうのは日本の若者も友達同士恋人同士でよくやると聞いたことがある。こちらとしてはそんなこと絶対にしたくないわけだが。あとは寝る前に物語を語るのが最近の習慣になっているという。せがまれるがまま、子供向きの童話みたいなものを語るのだ、と。おまえらそろってアホか? と言いかけるが、ぐっとこらえる。(……)くんはけっこう良い声をしているので、日本と同様、声フェチの多い中国の女子としてはそれも一種のご褒美なのかもしれないが。しかし(……)くんが地雷系女子相手に物語を聞かせる一方、こちらは上階のババアに向けて殺すぞと叫んでいるのだから、二十代がはじまったばかりの若者とアラフォーのおっさんの対比としてこれほど完璧なものもないな。

 したのふたつはおもしろい。勉強になる。

 ここで「移行対象」と「幻想の設立」のためには、「他者(対象)」が適切なリズムとパターンをもって、協調的に出現することが不可欠である、というすでに述べた前提を想起しよう。
 ここでは二つのことが問題となっている。まず第一に、今日制御工学が素描しつつあるように(鈴木1991)、主体の随意運動は、フィードバックによる逐次訂正的な遂行過程ではなく、目的に至る軌跡を確立した上で逆にその微分値として個々の瞬間の筋肉運動を決定していくような運動で、それは運動の種別性に応じてあらかじめ確立された運動アルゴリズムを要求する。このアルゴリズムは学習とともに確立され、この学習の初期過程では、対象として出現し遊びを誘導する他者の運動(例えば母猫の尻尾)が、運動の適切な全体像とそれを構成する運動過程を主体に提示し、アルゴリズムの確立に特権的な作用をなしている。第二に、生物神経—情報工学が明らかにするように、生体の運動はいかに高度なものでも、発生的には基本的に振動運動への変換—変位の積み重ねとして成り立っている。例えば単純な反復的吸引運動の発展物として、対象物指向的な咀嚼運動があり、さらにその上に、差異化された口腔—発生運動(言語)が構成される。言うなれば、どのような随意運動も、その端緒は欲動的な反復運動で、その展開の途上にない運動を主体は獲得できない。そして他者(母親)は主体と身体的に同種なので、獲得されるべき運動の可能かつ最適なアルゴリズムを主体に先立って獲得しており、それを上述のように欲動に上乗せ可能な適切なリズムとともに主体に贈与する。つまり他者は主体の制御アルゴリズムの進化において、欲動から高度な制御運動に向けて、進化の時間を先取りして縮約し、主体に一挙に贈与する。
(…)
(…)つまり他者によって主体は自己の身体制御アルゴリズムを贈与されるが、その他者は、自己と同じく欲動=振動からより高度な運動に離陸した存在であり、それゆえにその離陸の過程を圧縮して、主体に贈与し、対象の欠在=外傷、つまり身体制御の不能状態を主体に克服させるからである。つまり他者は欲動という原始的な身体状態を、より高度な組織に現実的に「翻訳」する。
樫村愛子ラカン社会学入門』より「コミュニケーションと主体の意味作用」p.143-145)


     *


起床したのが遅かったこともあり1時すぎに寝床に移動してからもしばらく『創造と狂気の歴史』。すごく面白い記述に行き当たった。ラカン精神分析学者のラプランシュがヘルダーリンとシラーの関係について論じている文章について解説している箇所なのだが、まず《「転移」(Übertragung)は、精神分析の概念であり、過去(幼少期)における養育者(父親や母親など)と自分との関係が、現在の人間関係のなかで再現されることを指します。たとえば、精神分析を開始すると、分析家に対して好意をもつようになったり、反対に攻撃性や悪意を抱いたりするようになりますが、これは過去(幼少期)における養育者との関係が、分析家や他者とのあいだに再現(=転移)されていると考えられます。言い換えれば、転移とは、過去(幼少期)における重要な人物との関係が、一種の「スタンプ(原版)」となり、そのスタンプが現在の人間関係においても反復され、複写されることなのです。》(251頁)。ところで、ヘルダーリンは〈父の名〉が排除された主体である。ゆえに、その前に〈父〉としてのシラーが現れたところで、うまく転移関係を形成することができない。そして(一時期の)ラカンの理論によれば、精神病とは〈父の名〉が排除された主体が〈父〉の機能を呼び出す必要にせまられるライフイベント(結婚、昇進、出産……)をきっかけに発病するものである。よってヘルダーリンはこれをきっかけに発病する。《すでに何人かのラカン派の論者が指摘しているように、ラカンのいう「一なる父(Un-père)」とは、おそらくはその同音異義語である「無対(impair)」を含意していると考えられます(Vicente 2006)。つまり、もしヘルダーリン神経症の構造をもち、父のイメージを原版として刻み込まれていたなら、新たに出会ったシラーという父性的な人物を、かつての父親像とペア(対)にすることができたのですが、実際に彼に現れた第三項としての〈父〉たるシラーは、誰かと転移的なペアにすることが決してできないような〈父〉であり、そのような〈父〉をラカンは「一なる父」と呼んだと考えられるのです。》(254頁)。〈父の名〉が排除されている主体(原版を持たない主体)が、第三項としての〈父〉と遭遇することがあっても、両者は転移関係を形成することができず、〈父〉は「一なる父」とならざるをえない。そしてここに注釈として引用されている内海健の考えがまた非常に面白いのだ。《内海健は、転移の特徴の一つとして「二重登記」をあげており、転移によって現在が過去に回付(refer)=二重登記されることによって現在の「事象そのものがもつリアルさが和らげられる」ことが精神の安全装置になっていると指摘しています。ゆえに統合失調症において転移が機能しないということは、「いかなる過去の経験にも照合されない」ものを経験するということであり、もしそのような経験を素通りすることができなかったとすれば、それは同化不可能な、表象(re-presentation=再現-代理)不可能な経験となり、統合失調症の病理の核心を形成することになります(内海 二〇〇八、 一四五—一四七頁)。この考えは、ラプランシュ=ラカンの「一なる父」という考えと非常に近いものです》(360頁)。ここで語られている「転移」は、「現実界」に対する「象徴界(+想像界)」、「物自体」に対する「言葉(統覚)」が負っている役目とほぼ等しいと考えることもできる。ある原初的な関係がまずあり(原版)、以降、主体はその原版との重なりにおいて、あるいは類似と差異のスペクトラムにおいて、続く関係を経験することになると、そう考えてみると、これはほとんど「双生」について語られている事柄ではないかという気すらしてくる。もちろん「双生」は、精神分析的な図式に則りつつもそこからの内破をはかるべく、かなり無理な接木をいくつも施してはいるのだが。

 ふたつめの引用の「原版」というはなしをみておもったのだけれど、ノースロップ・フライの文芸批評ってこういう理論と親和性が高いのではないか? とはいってもぜんぜんよくしらないし、記憶もめちゃくちゃあいまいなのだけれど、『批評の解剖』でだったか、フライはたしか文学作品を四種類だかにおおきく分けていたはず。そのうちのひとつにSatireとかいうのがあって、たしかメルヴィルの『白鯨』なんかがそれだとされていたような気がするが(これは『柄谷行人蓮實重彦全対話』のどこかで柄谷行人が言っていたはずだが)、それはまたべつのはなしで、『批評の解剖』とはべつの著作でなんか聖書にもとづいて物語のそれこそ「原版」みたいなものを確定し、それをベースにして文学作品を見ていくみたいな、言ってみれば神話学的批評みたいなことをやっていると聞いたことがあるような気がする。で、フライだけではなく、アメリカの、たぶんニュークリティシズム方面の一部とか、あと聖書研究とかでそういう手法がつかわれていて、その「原版」みたいなものをなにかべつの言い方で言っていたとおもうのだけれど、このへんのはなしは巽孝之の『メタファーはなぜ殺される』でそんなに詳しくではないが扱われていたはず。そういうわけでいま典拠をもとめてEvernoteにアクセスしてみたが、以下の部分にそういうはなしがあった。そう、「予型論」だ。

 モダニズムはもともとロマンティシズム批判として定着した。今日でも、たとえば作品をめぐる人間情緒的な読みを排し、冷静沈着な分析を好むタイプのモダニズム的な批評は残存しており、人間的条件を回避しさえすれば、ロマンティシズム的な呪縛から免れるはずだと、それこそ人間的に盲信する疑似モダニストは、決して少なくない。ただし、モダニズムの淵源には、まさにエリオットに明らかなように、カント、コールリッジと続く、極めてロマンティックな芸術有機体説の伝統がある。これが新批評にも反映して自律的芸術作品の概念が誕生するのだが、その背景には、作品をいわばロゴス、起源[オリジン]、声[パロール]、神の悟性、無限の理性、人間の理性、論理性、合理性、また人間理性の一形態たる意識といった、一様に形而上的真理の下へ収束する諸概念の充満せる本体論的言語構築物とみなして、その立場から、批評が作品の複合性(ヘーゲル的に言う弁証法的統一性)をもたらす詩的機智[ポエティック・ウィット](テンション、アイロニーパラドックス、等)を追究し、究極的には教育的[ペダゴジック]な目論見としても成功していくのを期待する方向があった(なぜなら批評とは、とりもなおさず学生が文学解釈の訓練をする場であるから)。要するに、元を辿れば新批評とは、ピューリタン的聖書直解主義をしっかり踏まえている点で、アメリカ的な、あまりにアメリカ的な産物だったと言えよう。
 前述したノースロップ・フライは、右の新批評的形式主義を継承しつつ批判的に発展させた人物である。わけても彼の『批評の解剖』は、構造主義の介入で体系化した深層心理学文化人類学の成果を最大限応用(end35)して神話批評の金字塔を打ち立てている。しかしそれが即、新・新批評とならないのは、フライに至ってもやはり、彼の『世の精神』(一九七六年)、『世俗の聖典』(一九七六年)、『大いなる体系』(一九八二年)が示すように、あくまで聖書的予型論[ビブリカル・タイポロジー]とロマンティシズムを基幹とするロゴス信仰が根強いからだ。神話への信頼からも窺われるとおり、フライの文学宇宙は起源に基づき、完全な秩序を築こうとするものである。ということは、素朴な構造主義特有の閉鎖的・静止的な時間空間になる運命を免れ得ない。だから、フランク・レントリッキアがいみじくも『ニュー・クリティシズム以後の批評理論』と名付けた研究書の中で『批評の解剖』を「詩学的伝統の究極的到達点」であると同時に「かような伝統へのポスト・モダニスト的反応を今後待ち望むもの」と位置付けたのは、実に適切であった(二六頁)。畢竟するところ、フライは新批評を構造主義で補うことで、新批評以後、構造主義以後を決定する礎石となったのである。
 こうして、フライ支配の下にあったアメリカ現代批評は一つの峠を越し、一九六〇年代に入る。ここで見逃がせないのが、一九六〇年代中葉の危機だ。
 ジョンズ・ホプキンズ大学にて一大シンポジウム「批評の言語と人間科学」が行なわれたのが一九六六年。この場で、当時未だ国際的名声を博する以前にあった元祖・脱構築主義者ジャック・デリダが初めてアメリカ新批評に登場、「人間科学のディスコースにおける構造、記号、戯れ」なる論文を読んだ。それが当時、未だ吟味不充分だったソシュールを徹底批判し、かつフライ以後の主流となりつつあったジョルジュ・プーレに真向から対立し、構造主義以後の到来を高らかに叫ぶものであったため、後述するイェール大学脱構築派に大いなる衝撃を与え、その年の内に〈イェール・フランス研究〉が発刊、一九七二年創刊の〈バウンダリー2――ポストモダニズム文学研究誌〉の先鞭を着ける。ここでデリダが試みたのは、ソシュール以降の(end36)構造主義で抱かれていた「中心」があって「構造の構造性」が保たれるという観念を粉砕し、同時にその「中心」をこそ最後のよりどころとしていた新批評的伝統における「ロゴス中心主義[ロゴサントリスム]」へ異議申し立てを行なうことであった。
 言語にはもはや還元されるべき同一性などあり得ない。差異性のみがある。新批評的な有機体説は脱構築され、目的だった「教育性[ペダゴジー]」も今やニーチェハイデガーに根ざす「戯れ[プレイフルネス]」に代替される。言うなれば、本来構造主義の神託だったソシュール構造主義以後の文脈で非神話化されたのであり、その結果、ヘーゲル的「弁証法的統一化」の理念がデリダ的「脱構築的差異化」の方法で転覆させられたのである。(……)
 (巽孝之『メタファーはなぜ殺される ――現在批評講義――』(松柏社、二〇〇〇年)、35~37)

 「予型論」についてはもう一箇所。

 アメリカの父祖、ピルグリム・ファーザーズ。だが、一七世紀以後アメリカを実際に築いてきたのは、ピューリタンそのひとというよりもピューリタンの修辞法だった。ペリー・ミラーやアーシュラ・ブラムに(end125)よる伝統的なピューリタン研究が聖書予型論[タイポロジー]への注目によって成立したゆえんはそこにある。キリストの予型[タイプ]はアダム、アメリカ植民の予型[タイプ]は出エジプト記――このような予型論的比喩体系を完成へ導いたのは、今日最大のピューリタン学者サクヴァン・バーコヴィッチだが、彼の出発点もまた、当時最大の宗教家コットン・マザーにおける歴史意識と修辞技術が主題の地道な博士論文であった[註1: 予型論的発想は、当然アメリカ救済史の構築を導く。Sacvan Bercovitch, The Puritan Origins of the American Self (New Haven: Yale UP, 1975).]。ただしそのような形でのアメリカ研究は、批評がフランス系哲学の摂取にかまけている間は、ほとんど死角に没していた。
 しかし八〇年代後半、脱構築を継ぐ形で勃興した新歴史主義批評は、そんなバーコヴィッチ自身の研究にひとつの派手派手しい転機を与えてしまう。ポール・ド・マン脱構築に鑑みて「文学批評はいつもすでに修辞学[レトリック]だった」事実を指摘したが、同時にミシェル・フーコー流にいう「我々が知ることができるのは歴史そのものではなく、常に歴史に関する言説にすぎない」という言説が息を吹き返す。歴史とは、つまるところ歴史を描くための修辞法と同義であること。文学作品の言語分析には、そのような作品を可能ならしめた歴史自体の修辞分析が要求されること。だとしたら、ピューリタニズムをピューリタンに関する修辞法の歴史と捉えて長いバーコヴィッチの立脚点も、完璧に保証される。ピューリタニズム、それはとりもなおさず予型論の歴史だったのではないか。(……)
 (125~126; 第二部「現在批評のカリキュラム」; 第三章「ポストモダンの倫理と新歴史主義の精神 ミッチェル・ブライトヴァイザー『コットン・マザーとベンジャミン・フランクリン』を読む」)


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 四時頃外出。図書館に行って書抜きの終わっていないカフカ全集一〇巻を借りてくるつもりだった。いつもだったらあるいていくところだが、きょうは月曜日の勤務復帰にむけて電車に乗ってもだいじょうぶかどうか、調子をみてみようとおもっていた。まあさくばん買い物に出ただけで緊張していた感じからするとあまり期待は持てないなとおもっていたが、それでも最寄り駅まで道を行くあいだはとくに問題は見当たらなかった。アパートを出て左折すると、道の先の公園がまだとおくて園内がすこしも見えず、縁に立っている木々のみ視界にはいっているあいだから、はやくも子どもたちの歓声がおおきくさんざめいてつたわってくる。園のまえまで来てなかを見ると、滑り台にたくさんの男児女児が群がっていて、まわりを駆けたり、のぼったりとりついたりとうごきまわっていた。右折。細道では戸口で立ち話をしている家が二軒ある。道をわたってさらに裏道をすすんでいくと、ヒヨドリの叫びがあたりから立ち、二羽がしきりに鳴き交わしている。どこにいるのかと声の聞こえるほうに漠然と目を向けていると、一羽が一軒の庭からすがたをあらわしたが、もう一羽は庭木のどこかにいるらしいもののさいごまで見えなかった。互いにキューゥイ! キューゥイ! という感じでおおきな叫びをはなち、あきらかになにかの意味か意思かを交換しているらしい。
 最寄り駅まで来てはいるとやはりからだが緊張をはじめたのが腹のあたりのひりつきから即座に感じ取られて、階段通路を行ってホームを渡るあいだもなんとなく不安、ホームにはいるとベンチについて休んだが、電車はすぐに来る。乗って扉際。この行きではまだしもひとがすくなめだったからそう苦しくはならなかったが、つねに底からおびやかされている感覚はぬぐえない。おりると階段口に向かうひとのながれを横切るようにしてホームを向かいに移動し、そこから横方向にうつってひとつ隣の口に向かった。そうして上がり、フロアを行って改札を出ればそこは人混み、この大量のひとのなかにいてもその圧力にからだが負けて揺らぐような、そういう緊張の不安定感をおぼえる。ばあいによっては立ち止まりかねないと、そういう苦しさに通じかねないとも一瞬おもわれたくらいだ。北口を出て図書館に向かう。道中へんなもので、からだが緊張していれば歩道橋で高みから眼下の道路を見下ろしたり、右手先に見える交差点やその果ての空をながめたりするときに高所恐怖があるはずなのだが、この日はなぜかそれは感じなかった。高架歩廊をすすんでいって図書館へ行き、入館。リサイクル資料の棚のまえで身をかがめて熱心にみている眼鏡の男性がいる。こちらもその脇で、もしくはそのうしろからちょっとながめたが、たいしたものはなさそうだったので、アルコールスプレーで手を消毒してゲートのあいだをくぐった。図書館内でも、フロアのちょっとスペースがひらいた部分を横切るときとかに、緊張をすこし感じないでもない。通路にはいって海外文学の棚をながめていればそれも意識されなくなる。書抜きを済ませていないカフカ全集の第一〇巻を借りるつもりでそれはすぐに保持したが、そのうえにある、あれはたぶん国書刊行会から出ているシリーズかとおもうけれど、ドイツロマン派集みたいなならびをちょっと見分した。たしかハイネがあってハイネも読まなきゃなあとおもったし、旅行記をあつめた巻にもハイネがはいっているしこれも良さそう、ハイネなら『ハイネ詩集』というのもふつうに棚にあったはずだとしゃがんでいたのを立ち上がって、所在を確認しておいた。それできょうはカフカ全集しか借りる気はなかったのだが、道元の伝記があれば見ておきたいなと通路をたどって個人伝記のばしょに行き、しかし見当たらず。ミネルヴァ書房から出ていたはずなので、それがあるだろうとおもっていたのだが。そのまま哲学、というかそのさきの心理学や精神分析にもながれてちょっと見分し、さらにフロアの一番端にあたる宗教の列にもくりだそうとおもったところが、図書館はきょう五時までであと一〇分で閉館ですというアナウンスがはいったので、それならもう帰ろうと貸出手続きに行った。
 来るまでからだの感覚があんな調子だったわけだし、帰りに電車に乗るのもちょっと厳しいだろうと理解してはいたのだが、調子がどんなものか確認しておきたかった。それで駅まであるいてもどると、改札をくぐって(……)線のホームへ。ちょうど来ている電車に乗るが、時間がすこしくだって五時を過ぎたから帰路に向かうひとでそれなりに混んでおり、扉際もそう空いてはおらず、一箇所にはいって手すりをつかんで待っているうちにも背後で乗ってくるのが感じられる。そうして発車するとやはり内から駆り立てられるような、いますぐここから逃げ出せという命令を受けながらどうしてもそれが果たせない焦燥のような、そうした感覚がすぐに生じ、動悸が一気に高まって、呼吸をしぜんにまかせようにもおおきく吸わなければ苦しくてしぜんもクソもない。これはちょっとまだだめだなとおもった。どうにもなかなかうまくいかない。帰ったら(……)さんにさっさとメールを送って、休みの延長を打診しようとおもった。こちらの見込みでは一〇日の月曜日からまあ復帰できるだろうという予測でいたのだが、そうは行かず、この日のからだの反応をみるに、これは意外ともっと長期戦になるかもしれない、いっそ一〇月いっぱいくらい休んでしまったほうがいいのかもしれない、というかもうわりと休みたいし、服薬にかんしても今年いっぱいどころか来年いっぱいくらいまでかかるかもしれないなと、過去の経験をこまかくかんがえるのではなく漠然と肌感覚で参照しながら、そういう予想を立てた。
 帰宅後はひとまずもう一週間様子見させてほしいというメールを送っておき、これは翌日了承された。この夜はあと書抜きをたくさんおこなって、借りてきたカフカ書簡のあまっていた箇所を一気にぜんぶかたづけてしまった。なぜそんな気力が湧いたのかよくわからないのだが、BGMをかけながら打鍵しているうちに、いまこうしているじぶんの現在にふっと焦点が合う瞬間があり、そこからなにかここちよいような、こころおちつくような、おだやかに生きているような感覚がながれて、その調和感にのせられてそのままさいごまでやってしまったのだった。
 あと、どこかでDorian Lynskey, “The forgotten story of America's first black superstars”(2021/2/17)(https://www.bbc.com/culture/article/20210216-the-forgotten-story-of-americas-first-black-superstars(https://www.bbc.com/culture/article/20210216-the-forgotten-story-of-americas-first-black-superstars))という記事を読んだが、これはおもしろかった。史上さいしょにブルースを録音した歌手はMamie Smithという女性シンガーで、ブルースの最初期はそういう女性らが活躍し、きらびやかな衣装をまとった都市のショーでバンドをバックにいわばキャッチーなブルースを歌っていたのだけれど、それはいまやほぼ忘れ去られている。そのころ(一九二〇年代)のなまえでいまだにかろうじてきかれるのはBessie Smithと、あとこちらは知らなかったがMa Raineyというひとくらいで、どうしてそうなったかというと戦後にブルースを発掘した好事家みたいなひとびと(むろん男性連中)が、やはりデルタ地域の、ミステリアスな雰囲気をただよわせながらひとりで歌う孤高のブルースマンみたいな、そういう土着的なほうにある種の神話性を見てしまい、それがほんものだということにされて(Real Folk Blues!)、活躍当時は大衆音楽として人気を得ていた女性たちの存在は一段したに置かれてないがしろにされたのだと、そんなはなしだった。三〇年代になるとBillie HolidayElla Fitzgeraldが、四〇年代にはSarah Vaughanが出てくる。


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  • 日記読み: 2021/10/8, Fri. / 2014/3/2, Sun.


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Helen Sullivan, Léonie Chao-Fong and Martin Belam, “Russia-Ukraine war latest: what we know on day 226 of the invasion”(2022/10/7, Fri.)(https://www.theguardian.com/world/2022/oct/07/russia-ukraine-war-latest-what-we-know-on-day-226-of-the-invasion(https://www.theguardian.com/world/2022/oct/07/russia-ukraine-war-latest-what-we-know-on-day-226-of-the-invasion))

Russia has targeted Zaporizhzhia with explosive-packed “kamikaze drones” for the first time, as the death toll from a missile strike on an apartment building in the city on Thursday rose to 11. The regional governor, Oleksandr Starukh, said Iranian-made Shahed-136 drones damaged two infrastructure facilities, in the city. He said other missiles also struck the city again, injuring one person. On Monday, the Iranian foreign ministry spokesperson Nasser Kanani denied supplying the drones to Russia, calling the claims “baseless”.

In the northeastern Kharkiv region where Ukrainian forces regained a large swathe of ground in September, the bodies of 534 civilians including 19 children were found after Russian troops left, Serhiy Bolvinov of the National Police in Kharkiv told a briefing. The total included 447 bodies found in Izium. He also said that investigators had found evidence of 22 sites being used as “torture rooms”.

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The 2022 Nobel Peace Prize has been awarded to human rights advocate Ales Bialiatski from Belarus, the Russian human rights organisation Memorial and the Ukrainian human rights organisation Center for Civil Liberties. Putin should face an “international tribunal”, the head of Ukraine’s Center for Civil Liberties said after the award. Writing on Facebook, Oleksandra Matviychuk called on the Russian president, the Belarusian leader Alexander Lukashenko, and other “war criminals” to face an international tribunal in order to “give the hundreds of thousands of victims of war crimes a chance to see justice”. Matviychuk also called for Russia to be excluded from the UN security council “for systematic violations of the UN charter”.

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A member of Vladimir Putin’s inner circle directly confronted the Russian president over mistakes and failings in the war in Ukraine, the Washington Post has reported, citing US intelligence.

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The UN nuclear agency chief travelled to Kyiv to discuss creating a security zone around Ukraine’s Zaporizhzhia nuclear power plant, after Vladimir Putin ordered his government to take it over. “On our way to Kyiv for important meetings,” the International Atomic Energy Agency (IAEA) head, Rafael Grossi, wrote on Twitter, saying the need for a protection zone around the site was “more urgent than ever”. Grossi is also expected to visit Moscow in the coming days to discuss the situation at the plant. The IAEA said it had learned of plans to restart one reactor at the plant, where all six reactors have been shut down for weeks.


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Dorian Lynskey, “The forgotten story of America's first black superstars”(2021/2/17)(https://www.bbc.com/culture/article/20210216-the-forgotten-story-of-americas-first-black-superstars(https://www.bbc.com/culture/article/20210216-the-forgotten-story-of-americas-first-black-superstars))

On Valentine's Day 1920, a little over a century ago, a 28-year-old singer named Mamie Smith walked into a recording studio in New York City and made history. Six months later, she did it again.

The music industry had previously assumed that African Americans wouldn't buy record players, therefore there was no point in recording black artists. The entrepreneurial songwriter Perry Bradford, a man so stubborn he was known as "Mule", knew better. "There's 14 million Negroes in our great country and they will buy records if recorded by one of their own," he told Fred Hagar at Okeh Records. When a white singer dropped out of a recording session at the last minute, Bradford convinced Hagar to take a chance on Smith, a Cincinnati-born star of the Harlem club scene, and scored a substantial hit. Bradford then decided to use Smith to popularise a form of music that had been packing out venues in the South for almost 20 years. On 10 August, Smith and an ad hoc band called the Jazz Hounds recorded Bradford’s Crazy Blues. Thus the first black singer to record anything also became the first to record the blues.

Rarely has the music industry’s received wisdom been upended by a single hit. By selling an estimated one million copies in its first year, Crazy Blues was like the first geyser of oil in untapped ground, instantly revealing a huge appetite for records made by and for black people. As labels such as Okeh, Paramount and Columbia rushed into the so-called "race records" market, they snapped up dozens of women like Smith, ("Queen of the Blues"), including Gertrude "Ma" Rainey ("Mother of the Blues"), Bessie Smith ("Empress of the Blues"), Ida Cox ("Uncrowned Queen of the Blues"), Ethel Waters, Sara Martin, Edith Wilson, Victoria Spivey, Sippie Wallace and Alberta Hunter. "One of the phonograph companies made over four million dollars on the Blues," reported The Metronome in 1922. "Now every phonograph company has a coloured girl recording. Blues are here to stay." The classic blues was African-American culture's first mainstream breakthrough and, for several years, it was effectively a female art form.

A century later, however, it's a different story. The reputation of Bessie Smith, the subject of a newly updated 1997 biography by Jackie Kay, was kept alive by prominent admirers such as Janis Joplin and Nina Simone, while Rainey's was revived by August Wilson's 1982 play Ma Rainey's Black Bottom and, more recently, by George C Wolfe's movie adaptation. The rest are largely forgotten. The history of the blues is dominated by men.

This eclipse is the result of a concerted effort by cultural gatekeepers, across several decades, to valorise certain aspects of the African-American experience while denigrating others. The female blues singers were on the losing side of a long, complicated argument about what the blues should be.

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The man who published the sheet music for Crazy Blues was WC Handy, a songwriter, businessman and self-proclaimed "Father of the Blues". In 1903, he recalled in his 1941 autobiography, he was sitting in a railroad station in Tutwiler, Mississippi when he heard a man playing "the weirdest music I had ever heard" on a guitar, using a knife blade as a capo. Handy's anonymous musician now resembles the archetypal bluesman: a solitary, enigmatic vagrant, singing songs of "suffering and hard luck" to nobody but himself. In 1920, however, a loner with a knife wasn't going to help the commercially savvy Handy break the music industry's colour barrier. He turned instead to the flamboyant women who had honed their craft on the vaudeville and tent-show circuits, where the blues would be mixed up with comedy songs and dramatic routines – professional entertainers who knew how to delight a crowd.

One such woman was Gertrude Pridgett, aka Ma Rainey, who had been performing the blues for more than 20 years when she recorded her first session for Paramount in 1923 at the age of 37. Her journey from Georgia to Chicago in Ma Rainey's Black Bottom represents the Great Migration of hundreds of thousands of black people from the rural South to the urban North during that period. Those migrants craved music that built a bridge between their old and new lives. The classic blues, sometimes known as "vaudeville blues" or "city blues," was a hybrid of rural folk and urban pop, southern roots and cosmopolitan panache. Broadly speaking, the playing was slick, the rhythms hot, the songwriting polished, the lyrics tough and ironic, the stagewear glamorous and the stars overwhelmingly female. As one 1926 study observed, "upwards of 75% of the songs are written from a woman's point of view. Among the blues singers who have gained more or less national recognition there is scarcely a man's name to be found.”

August Wilson's Rainey calls the blues "life's way of talking". For black, working-class women, the classic blues was an unprecedented new arena of self-expression which gave voice to overt sexuality, the peril of abusive men (like Bessie Smith's husband), and even queer perspectives. Bessie Smith had affairs with several chorus girls while Ma Rainey sang, in 1928's Prove It on Me, "I went out last night with a crowd of my friends/ It must've been women, 'cause I don't like no men/ Wear my clothes just like a fan/ Talk to the gals just like any old man." One musician even claimed Rainey and Smith were romantically involved at one point.

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Smith's versatile blues encompassed gallows humour (Send Me to the 'Lectric Chair), social commentary (Poor Man's Blues), salty innuendo (Kitchen Man) and lusty good times (Gimme a Pigfoot). The Harlem Renaissance poet Langston Hughes wrote that Bessie conveyed "sadness… not softened with tears, but hardened with laughter, the absurd, incongruous laughter of a sadness without even a god to appeal to." In concert, Smith and her peers sang directly to the women who heard themselves in these songs and responded with cries of "Say it, sister!”

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But many scholars of African-American culture, black and white alike, were horrified by the rise of the Victrola record player and the music it played. In their eyes, the mechanical reproduction of the blues symbolised the spiritual corruption of black people by cities, factories and commerce – in short, the modern age. For the writer Zora Neale Hurston, “His Negroness is being rubbed off by close contact with white culture."

These scholars and folklorists saw the "real" blues, by contrast, as a vanishing oral tradition from the rural South that needed to be captured and preserved before it disappeared completely. "The songs may live," wrote one critic in 1926, "but the best thing of all, the free impulse, the pattern of careless voices happily inventing as they go, if it dies it cannot be resurrected." Whereas the likes of Ma Rainey travelled to the city to record their music, song collectors moved in the opposite direction, taking their recording devices to the South in order to capture what the leading folklorist John Lomax called "sound-photographs of Negro songs, rendered in their own native element".

This preservationist instinct may have been valid but the assumptions that underpinned it were often paternalistic and segregationist: derived from the singing of slaves, the oral blues was the product of naive, untutored imaginations that would wither on contact with modernity, so they had to be protected, like rare orchids. While black people who migrated from the Jim Crow South were looking for a better future, the folklorists sentimentally fetishised the agony and mystery of the past they had left behind. This problematic assumption has since resurfaced in writing about soul music and hip hop: the sound of suffering is considered more powerful and real than the sound of defiant enjoyment; pain is more authentic than pleasure.

This obsession with the "genuine" black experience proved fatal for the classic blues. In 1926, Blind Lemon Jefferson became the first solo singer-guitarist to have a hit record (Paramount's advertisement promised "a real, old-fashioned blues, by a real, old-fashioned blues singer") and he set a new fashion for earthier "country blues," followed by Blind Blake, Big Bill Broonzy, Lonnie Johnson and Furry Lewis. With no need for backing bands or stage costumes, the men were much cheaper, too. As Jackie Kay puts it in her biography, "These old bluesmen are considered the genuine article while the women are fancy dress." At the same time, the classic blues singers were too working-class and sexually frank for some of the urban middle classes. Black Swan, the first black-owned record label, rejected Bessie Smith for being too vulgar, while a leading black newspaper, the Chicago Defender, complained that these "filth furnishers" and "purveyors of putrid puns" were "a hindrance to our standard of respectability and success".

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As a new generation of black female singers broke through in the 1930s – Billie Holiday, Ella Fitzgerald, Memphis Minnie – some of the first wave sought refuge in other branches of showbusiness. Victoria Spivey appeared in King Vidor's 1929 movie Hallelujah, one of the first studio pictures to feature an entirely black cast. Ethel Waters became, at one point, the highest-paid actress on Broadway. Only a handful were still making blues records in the 1930s. Mamie Smith retired in 1931. Rainey was dropped by Paramount in 1928 and returned to the Southern tent circuit, her stolen gold necklace replaced by imitation pearls. Bessie Smith recorded one last session in 1933, for one-sixth of the fee she used to command, before she died after a car crash in 1937.

As if their enforced retirement weren't bad enough, these women suffered the double indignity of being retrospectively sidelined. The "Blues Mafia" clique of record collectors (all white, all men) who established the blues canon after World War Two scorned the 1920s hits as commercial junk and sought out the obsolete flops that nobody else cared about. They sincerely loved this music but its unpopularity certainly enhanced its mystique, as did the murky sound that came from recording it on cheap equipment and pressing it on cheap plastic. It sounded like music from the margins, unloved and misunderstood. As the leading collector James McKune wrote, it was "archaic in the best sense… gnarled, rough-hewn and eminently uncommercial." Delta blues singers such as Charley Patton, Skip James, Son House and Robert Johnson slotted into the post-war counterculture's worship of untameable outcasts who lived tough, rootless lives a million miles away from bourgeois conformity. Like the man WC Handy spotted at Tutwiler station, their alienation guaranteed their authenticity.

Ironically, the records that the Blues Mafia dedicated themselves to rescuing from obscurity have become far more famous than the smash hits of the 1920s. Male country blues resonated with rock's singer-songwriters in a way that the classic blues never could. While a few women, notably Victoria Spivey and Edith Wilson, lived long enough to return to the stage during the 1960s blues revival, the likes of Bob Dylan, Led Zeppelin and the Rolling Stones were far more interested in the hardbitten men of the Delta. "It is surely no accident that so many of the early blues performers that revivalists scorned as inauthentic were women; to them, authenticity had a male voice," writes Hamilton.