2022/10/22, Sat.

 彼の書いたものには、ちがった空気が流れていたのか、ちがった根のせいで、彼は書いたのか? しばしば彼にはそう思われたであろう。そのとき彼にとって「真の」生活は、仕事机を守ることにあり、幸福はただよく書くことのなかに(そして憂鬱はまずく書くことに)あり、書きなずむとき、不吉な思いに悩まされた。小説が進まないと、恋の幸福が失われたように彼は嘆いた。小説は遠ざかり、彼をはねつけ、同意してくれない。しばらく書かないと、彼は「無のなかに」おちこむ。「書くことは深いところに重心を持つ」と、一九一三年六月二六日フェリーツェに述べている。そして相手を傷つけるとわかっているのにうっかりして言う――自分があんなに嫌っている職業と、彼女との共通点は、彼女もまた上の方に、生活のなかにいること、だから彼女との結婚はおそらく「オフィス」にはふさわしいが、書くことのもつ低い重心とは一致しないだろう。(……)
 (マックス・ブロート編集/城山良彦訳『決定版カフカ全集 10 フェリーツェへの手紙(Ⅰ)』(新潮社、一九九二年)、16; エーリヒ・ヘラー「まえがき」)




 いま午後六時半過ぎ。昼前、医者に行ってきた。(……)にもどってきてからは図書館にも。きのう返した二冊を借り直すとともに、ついでに井上正蔵訳『世界詩人選8 ハイネ詩集』(小沢書店、一九九六年)と中村朝子訳『パウル・ツェラン全詩集Ⅰ』(青土社、一九九二年)も借りてしまった。そのほかリサイクル資料を見てみたところ、今回は雑誌が大量にならべられていたのだが、そのなかから『季刊 未来』(二〇二〇年夏号)、『現代思想 特集: 和算の世界』(二〇二一年七月号)、『科学』(二〇二一年七号および八号)、『Harvard Business Review ハイブリッドワーク/中国とどう向き合うか』(ダイヤモンド社、二〇二一年八月号)をいただいておいた。『未来』というのはならんでいるなかでなんかちょっとだけ雰囲気ちがうなとちいさくて薄いやつを発見したのだが、取ってみてみれば加藤尚武がどうのとかあったり、湯浅博雄が寄稿していたりして、それでこれって未来社が刊行している雑誌なのかとわかった。小林康夫の著作とかをよく出している出版社で、あと「ポイエーシス叢書」というシリーズでフランス現代思想の方面もいろいろ出されている。『現代思想』は和算だからいいかなともおもったのだけれど、まあとりあえずもらっておくかと。『科学』とかハーヴァード・ビジネス・レヴューも同様で(それにしてもこれがダイヤモンド社から出ているということはいま書いているときにはじめて気づいたのだが、ダイヤモンド社って電車の七人がけ席の端のところの壁に取りつけられた広告に出ているような、俗っぽい自己啓発本のたぐいばかり出している印象で、なんかうさんくさいよなあとおもう)、しょうじきこれもらっても読むか微妙だとはおもったものの、こういうところからよりあらたな分野の知にふれていけないかというこころである。『科学』は七号が「「水の国」の現在――〈異変〉と〈治水〉」という特集で、八号が「つくりだされる〈安全〉」。表紙の絵のデザインがずいぶん洒落ているというか、科学を名にかんした雑誌のわりにいかにも芸術的だなとおもったのだけれど、みてみれば岩波書店から出ている雑誌なのでなるほどとおもった。「今月の表紙」というページをいまのぞいてみたところ、どちらも藤嶋咲子という画家の手によるものらしい。この雑誌は表紙にsince1931とあるからずいぶん歴史がながい。すごい。ところで『現代思想』はふつうにあるとしても、『未来』なんて入れている図書館なかなかないのでは? きのう来たときに雑誌コーナーもほんのざっとみてみたのだけれどどこにあったのかわからない、というか実質、それぞれの棚の側面に貼られたそこにある雑誌名一覧を見ただけなので、もっと詳しく見分してみればよかった。問題はこういうのをもらってきてもなかなか読まないということと、置く場所がないということですね。
 ともあれさきにもろもろの引用に言及してしまうと、一年前の天気や風景は以下。

(……)マスクと眼鏡を顔につけて出発。きょうもまたなかなか寒く、もうコートを着たりマフラーをつけたりしてもいいとおもうくらいの気候になっている。雨はしとしとと、あるいはじわじわ、じりじりと聞こえるようなひびきでしずかに浸透的に降っており、水たまりをつくるほどではないが一面濡れたアスファルトの微細なおうとつに街灯の白い砕片がはいりこんでやはりじらじらとうごめいている。公営住宅前に出るとそこのアスファルトはまだ比較的あたらしくてなめらかなため、よりこまかく洗練された襞のうえをひかりは粗く砕かれずに伸ばしひろげられ、雨でも降らなければ視認できないほどのわずかさでへこんで水気のおおく溜まった部分が黒い帯となり密な縞模様をつくっている道のおもてを、横断歩道をわたるがごとく触手めいた白光のすじがつらぬきとおっていた。

     *

(……)そのうちに電車が来たのでなかでもおなじことをつづけ、最寄り駅へ。(……)で待っているあいだには屋根や線路を打つ雨音がすこし高くなったときがあり、だからここでも降っているだろうとおもってすぐに傘をひらけるような格好で降りたところが止んでいた。発車した電車のパンタグラフが電線にこすれて一瞬とはいえバチバチとおおきな火花を発するのにけっこうおどろくのだが、あれはあれでいいものなのだろうか? 階段通路をとおって駅を抜けるとここですこし降り出したので傘をひらいて帰路を行った。木蓋にふさがれた坂道では周囲の草ぐさから打音が立ち、足もとの路面は氷のなかに封じられながらも意に介さず活発に生きのこっている微生物のように、一色の万華鏡めいた白光の反映がこまかくちらちら揺れうごいて、そこだけ見ていると視界がスローモーション化したかのような感覚が起こる。

 2014/3/16, Sun.のほうは、昭和記念公園をおとずれていろいろ書いている。(……)駅のほうから行くとゲートにたどりつくまえ、敷地にはいってすぐにだだっぴろいグラウンドがあるけれど、そこの斜面に置かれた横倒しの石柱みたいな座席に腰を下ろし、周囲のようすをながめていろいろ書いている。ずいぶんこまかく記しているので、たぶんその場で手帳にメモを取っていたのではないか。さいごのほうに、「メモノートに残された過去最大の記述量を前にして気後れし」ともあるし。この羅列的な記述はたぶん、保坂和志が『未明の闘争』のうしろのほうでやっていたのを意識していたのではないか。読んだときに、じぶんでもこういうのやりたいとおもっていたとおもう。記述としてはたいしたものではないのだけれど、読みながら、この時期のじぶんの情熱とそれが満たされたときの充実感というか、いまここで見えているものをできるだけ書きたい、書くんだという、つき動かされたようなそのきもちと、苦戦したりひいひいいったりしながらも、いままでよりもおおくのことや、なにかあたらしいことを書けたというだけで楽しかった、そういう感覚がちょっとだけよみがえったような気がした。あのころはそうだったなあ、と。一段落だけ引いておくが、それは、この茎とか枝のなかをひかりがするする移動するさまをよくおぼえていたからで、ここにさしかかるまえに、そういえば池のところでああいう光景みたなあとおもいだしていたくらいだ。けっきょくあれがどういう現象だったのかわかっていない。マジで血管中をながれるみたいに移動していたのだけれど。

 来た道を戻って、池の前を先とは反対側に進んだ。ボートも入れず隔離された池の一角には鴨たちが浮かび、ほとんど静止したような時間があった。水の動きは穏やかで、波が立つのは、ホイッスルのような声の水鳥が鳴きながら泳ぐときだけだった。池の縁に立ち生えるススキめいた植物の茎やその上に垂れ下がった木枝のなかを、まるで血管中を養分が移動していくかのように、下から上へと光が揺れて流れていった。反映した陽光が水のかすかな流れに沿って宿ったものらしく、水面に映った木々の影は深緑の像となってゆらめいていた。

 あとめちゃくちゃどうでもよいのだけれど、帰りの電車内で見かけた女性、「左前の扉脇には大学生くらいの女性が立っていた。茶髪のショートカットで、マスクをつけ、淡い桃色のコートの前をしっかりと閉じ、ブーツを履いていた。美人と言っていいけれど、眠たげな目は愛嬌のある垂れ目というよりは、抑うつをのぞかせるような暗い目だった」と書かれているかのじょは、アトピーかなにかなのか首のあたりの肌がずいぶん荒れていたんじゃなかったか。痒そうにして、神経質そうに掻いていたような記憶があるのだけれど、もちろんこのひとがじぶんの文章を読むことはありえなかっただろうとはいえ、女性の容姿にかんしてそういうことを書くのはこのとうじのじぶんには気が引けたのかもしれない。ただ、アトピーっぽかったのはべつのときにみかけた女性だったような気もして、もしそうだとしたらどこかほかの日に書いてあるかもしれない。
 (……)さんのブログから冒頭のやつ。この本はわからない部分もおおいけれど、だいたいどの引用もおもしろくて、毎回なにかしらなるほど! そうなのか、という部分がふくまれている。

(…)もちろん、このような問いに対しては、次のような反論が予想される——〈もの〉は、跡形もなく消え去りはしない。象徴界への移行にあたっても、シニフィアンによる「殺戮」にあっても、常に〈もの〉の一部、その残滓は残るはずである。このような残滓の議論は誤解のもとだ。それは「進化論的」思考の落とし穴、つまり、まず〈もの〉があり、次いでシニフィアンがやってきて、最後に〈もの〉の残滓が現れる、という議論に陥りかねない。ラカンの立場は、これよりはるかに深いものである。彼が対象aと呼ぶ「残滓」は、単なる〈もの〉の残滓ではなく、シニフィアンそのものの残滓、遡及的に〈もの〉の次元を切り拓くシニフィアンの残滓である。それは、シニフィアン象徴界にもち込めない何か「実体」の残滓ではなく、シニフィアンの自己言及作用それ自体の残り滓、そこから棄てられたもの、その「唾」である。象徴界の機能、その記号化作用はけっしてうまくいかない。それは常に残滓を残す、という命題は、このような意味で理解されねばならない。ひと通り記号化がなされた後に、「記号化できない」何か、記号化の網を「すり抜ける」何かが残るのではない。完全に、完璧に行われるこの記号化作用それ自体が、その行き止まり、それを内側から「蝕む」剰余を生み出すのである。ヘーゲルの言葉を借りよう。この残滓とはまさに精神の骨であり、精神が完全に食い尽くすことのできないような、外部にある何かではない。
(『リアルの倫理——カントとラカン』アレンカ・ジュパンチッチ・著/冨樫剛・訳 p.216-217)



 すべての倫理の中心には、それ自体は倫理的でない(と同時に「非-倫理的」でもない)何か、倫理の領域に属さない何かがある。この「何か」にさまざまな名前が与えられてきているが、我々はその内の二つだけをとりあげよう。ひとつは、ラカンの言う〈真実[ザ・リアル]〉、もうひとつはバディウの言う「出来事」である。これらは、「出会い」というかたちでのみ——「我々にふりかかる」何か、我々を奇襲し、「脱臼」させる何かとしてのみ——現れる。それらは、常に所与の連続性における断絶、亀裂、中断として現れる。ラカン曰く、〈真実〉は不可能である。たとえ「それが(我々に)起こる」としても、「不可能」である。〈真実〉は不可能なものとして、象徴界をひっくり返し、その再編成に導く「不可能なもの」として、我々の身にふりかかる。それゆえ、〈真実〉の不可能性は、それが可能なものの領域に影響を及ぼすことを妨げるものではない。倫理が問われるのは、まさにこの時、〈真実〉との出会いの中において、である。私は、私を「脱臼」させるこのものにしたがって行為するのか? 私には、これまで私の存在基盤であったものを組み換える覚悟があるのか? バディウは、このような問いかけ、あるいは姿勢を、「出来事に対する忠誠」、「真理の倫理」と呼ぶ。ラカンにとって、これは第一に欲望の問題である(「君は、君の内に宿る欲望にしたがって行動してきたか?」)。なぜなら、欲望こそ〈真実〉に向かうものだからである。ただ、後にラカンは、欲望を享楽に対する防衛として、つまり妥協の手段として、扱うようになる。我々は、享楽という〈真実〉に出会いたくないがために、無限につづくシニフィアンの連鎖に身を委ねる、というわけである。当然、中心的な役割を果たす概念も変わってくる。今やそれは、欲望ではなく、(主体とその享楽の関係を示すものとしての)「欲動」である。
(『リアルの倫理——カントとラカン』アレンカ・ジュパンチッチ・著/冨樫剛・訳 p.268)



 欲望と欲動には、単なる欲求(ニード)とは異なるという共通点がある。欲望と欲動、どちらのレベルにおいても、与えられた対象すべてに対して、主体は「これは〈それ〉じゃない」と感じる。このことは、欲望について強調されることが多いので、欲動に関するラカンの言葉を引用しよう——「自らの向かう対象をひったくりとって、初めて欲動はそのようにしても自分が満たされないことを知る」。しかし、欲望と欲動の間には、ある根源的な差異がある。欲望は、自らを満たされない状態に保つことによって、自らを維持する。これに対して欲動は、「そのようにしても自分が満たされない」ことを学びながらも、その中の「どこかに」満足を見つけつづける。欲望とは違い、欲動は、「そのようにしても満たされない」にもかかわらず満たされていることによって、自らを維持するのである。欲動は、その目標に達することなく満たされる、というこの逆説を、ラカンは次のように説明する——「口——欲動のレベルに開く口——に食べ物を詰め込んだ時、その食べ物が満足を与えるわけではない。言うなれば、モグモグする口の快楽が満足を与えるのだ」。この言葉は、享楽が「一未満の〈欠如〉」というかたちで現れるという命題を、視覚的に説明している。我々は、言わば、口をいっぱいにすることなく——つまり、欠如の対極にあるものを得ることなく——口を満足させる。我々が口いっぱいにものを詰め込んだ時、その口いっぱいのものが我々を満足させるさせないにかかわらず、欲動は満たされている。我々の食べるものが「それ」であろうがなかろうが、口を動かすという行為の内に、「それ」の一部が生み出されているのである。この「それの一部」こそ、欲動の真の対象である。
(『リアルの倫理——カントとラカン』アレンカ・ジュパンチッチ・著/冨樫剛・訳 p.276-277)

 出かけるまえと、帰宅後に飯を食ってから「読みかえし」ノートを音読をしたのだけれど、熊野純彦レヴィナス』の解説がやはりおもしろく、また重要なようにおもわれるので。255からは毎項目引いてしまったが。このながれで順番に読んでいると、レヴィナスの時間と主体と感受性についてのかんがえの道行きがよくわかるなとおもった。ちなみに一年前の日記でもおなじあたりを読んでおり、258番なんてちょうど去年の一〇月二二日にも載せられてあった。

251

 1 いっさいの存在者は、それが存在者であるかぎりでは、〈なにものか〉としての同一性 [﹅3] をそなえたものとしてあらわれる。そのときどきの射映が揺らぎ、対象のアスペクトが変位し、イマージュが移ろったとしても、そのおなじ [﹅3] 〈あるもの〉は変容しない。
 存在者がそれ [﹅2] としてあらわれる同一性が、一般に意味 [﹅2] と呼ばれる。存在者の意味は揺らぎとことなりを、また時間の隔たりをとりあえず超えている。〈語られたこと〉としての意味は、かくてひとつのイデアリテ [﹅5] (理念性)なのである。
 「存在のあらわれ」からは、「諸構造の整序」が、「同時性、すなわち共 - 現前」が切りはなしえない。存在があらわれるということは、存在者がおなじ〈あるもの〉として、意味において経験されることであり、意味とは現在を再 - 現前として構成しながら、諸構造を同時性 [﹅3] のなかで形成するものであるからである。そこでは「主体」が「散逸」を「現在にあって、同時性において修復する」(209/243)。つまり、さまざまに現出するあらわれが、おなじもの [﹅5] のあらわれとして、現在にあって統合される。――だが、修復 [﹅2] されるということばは、かえってあらかじめ在る [﹅7] 破れ目をしめしてはいないだろうか。そもそも、時の散逸 [﹅2] を主体がすべて集約し修復するなどということがありうるのであろうか。
 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、194; 第Ⅱ部、第二章「時間と存在/感受性の次元」)


     *


253

 イマージュの散乱、射映の揺らめきを〈語られたこと〉においてとらえ、それになまえをあたえること、つまり「命名すること」が、存在者の同一性を「指示」し、意味を「構成」する。ことばとはそのかぎりで「名詞の体系」にほかならない(61 f./76 f.)
 そうだろうか。感覚は揺れうごき、感覚的経験は移ろう。その感覚的次元につきしたがっているかぎり、言語もまたたんなる名詞にとどまりうるであろうか。そこでは、ことばとは「むしろ動詞の異常な増殖」(61/76)となるのではないか。動詞 [﹅2] であるのは、感覚的経験がまさに刻々とかたちをかえるからであり、動詞が異常 [﹅2] に増殖 [﹅2] するのは、その(end198)移ろいには休止も終止も存在しないからである。あるいは、こうもいえるのではないだろうか。

 感覚的質がそこで体験される諸感覚は、副詞的に [﹅4] 、より正確にいえば、存在するという動詞の副詞として響くのではないか。
 このように、諸感覚を〈語られたこと〉のてまえでとらえることができるとするならば、諸感覚は他の・もうひとつの意味作用を顕わにするのではないだろうか [一文﹅] (*ibid*.)。

 「感覚的生」とは「時間化」であり、「存在が存在すること」(essence de l'être)である(*ibid*.)。その感覚的な生にあって諸感覚は、「存在するという動詞の副詞」となる。どういうことだろうか。「他の・もうひとつの意味作用 [﹅12] 」とはなにか。順を追って、論点をすこしだけ具体的に考えてみよう。
 感覚的諸性質はたんに「感覚されたもの」ではない。それは同時に「感覚すること」でもある(56/70)。とりあえず「情動的な状態」(*ibid.*)については、ことがらはあきらかであろう。喜ぶことと喜ばしいものはわかちがたい。ひとは喜ばしいものを喜び、悲しむべきことを悲しむ。つよい情動を感じる [﹅3] ことと、感じられた [﹅5] 激しい情動は区別できな(end199)い。情動的な状態は感じられるものであると同時に感じることである。
 感覚的性質一般についてはどうだろうか。痛みにかんするベルクソンの例をとってみる [註114] 。右手でもったピンで左手のゆびさきを突きさしてみる、としよう。まず接触感があり、やや遅れて鋭角的な痛覚があって、鈍重な痛みの拡散が生じる。このそれぞれの段階にあって感じられているのは、ゆびさきに刺さったピンの感覚 [﹅5] であるのか、それともピンが貫いたゆびさきの感覚 [﹅7] なのか。痛みを感覚する [﹅4] ことと、感覚される [﹅5] 痛みとはこの場面でもわかちがたい。ここでも「なにごとかが対象と体験とに共通している」(56/71)。
 ベルクソンの例は、継起する感覚がかならずしも質において連続的ではないことを示していた。(おおきくは痛みとして括られる)ピンもしくは [﹅4] ゆびさきの感覚は、刻々と推移し、質を変容させる。ふくまれている論点をはっきりさせるために、べつの場面で考えなおしてみよう。触覚を例にとる。暗闇のなかを壁づたいに手さぐりですすんでゆく、としよう(廣松渉の挙げた例 [註115] )。歩をすすめるにつれ、感覚の変容が感じられる。壁の亀裂と凹凸にそって、手のひらの感覚が移ろい、入れ替わってゆくことだろう。
 確認しておきたい論点が三つある。第一の論点は、ベルクソンによる例のばあいと共通である。ゆびさきに感じるざらついた壁 [﹅6] の感覚は、壁に触れたゆびさきがざらつく [﹅9] 感覚でもある。ざらつきを感覚することと、感覚されるざらつきは不可分である。第二の(end200)論点が、さきの引用の理解にかかわっている。壁はところどころ脆く、場所により窪みがあるとしよう。感覚し・感覚される「諸感覚」はここでは「副詞的に [﹅4] 」あたえられる。「より正確にいえば」、感覚があたえる副詞はすべて「存在するという動詞の副詞」として響いて [﹅3] いる(前出)。壁はときどき「柔かく」感じられ、ときおり「凹んで」感じとられる。壁は「ぐにゃりと」存在 [﹅2] し、「抉られて」ある [﹅2] のである。――最後に、最大の論点がのこる。「印象が時間化する」こと、自己差異化する [﹅7] ことのうちに「存在するという動詞」(既引)があらわれる。「感覚的生」とは「時間化」であり「存在が存在すること」であった(同)。ここで存在する [﹅4] とはなんであり、時間が時間化する [﹅8] とはどのようなことなのか。
 さきの例にもどる。私の掌につぎつぎと、壁の起伏が感じられる。ここで起伏は副詞的に [﹅4] 感じられ、壁は「突き出て」存在 [﹅2] し、「窪んで」ある [﹅2] 。そのばあい、壁の感覚はおなじ [﹅3] 感覚として継起し、しかもことなって [﹅5] ゆく。同一のものが差異化している。つまり「感覚的印象が、異なることなく異なって、同一性において他のものとなっている(autre dans l'identité)」(57/71)。――同一性における差異化のありかは、副詞が不断にえがきとる。あるいは、動詞としても表現される。壁は掌を押しかえし [﹅5] 、ゆびを引きこむ [﹅4] 。壁はそのとき凹凸である [﹅3] 。壁に起伏が存在する [﹅4] 。このある [﹅2] 、存在する [﹅4] 、という動詞そのものはなにを示しているのであろうか。(end201)
 動詞「ある」を修飾する副詞が示すのは、とどまるところのない感覚的変容のさまである。これにたいして、Be動詞がえがきとっているのは、「感覚が現出し、感覚され、二重化されながらも、みずからの同一性を変化させることなく変容する」過程そのものである。この変化なき変容 [﹅6] である「時間的変容」が、「時間の時間化」、つまり時間が時間であるということであり、「存在するという動詞」なのである(60/75)。存在する [﹅4] (*essence*、もしくは「存在する [﹅4] という語の動詞的な意味」をつよく示すために、正書法からの逸脱をデリダに倣ってあえて犯すとすれば、ess*a*nce avec *a* [註116] )とは、時間が時間化する [﹅8] ことである。時間の時間化とは、同一性そのものの変容、同一性の自己差異化なのだ。
 カントの超越論的感性論ふうにいえば、時間とは、それをあらかじめ(ア・プリオリに)考えることで同時性と継起とがはじめて意味をもつにいたる「純粋な形式」である [註117] 。個々の感覚は継起する。だがしかし、継起する感覚の質の変化それ自体が時間ではない [﹅2] 。時間とは継起ということがらそのものであって、それ自身は継起し変容しながら、しかも変化しない [﹅2] 。存在すること [﹅6] が、時間であることそのものであるとすれば、感覚的経験があかす、それぞれの存在者から区別された存在そのものとは「時間的な奇妙な痒み」(61/76)にほかならない。だからこそ、時間 [﹅2] (の時間化)と(存在者の)存在 [﹅2] はさしあたり解きがたい謎なのである。――静まりかえった夜の闇のなかで、家具がわずかに軋む。(end202)それはほとんど「無声の摩滅」である。いっさいは「すでに質料を課せられて、生成」し、時のなかで「剝がれ落ち、みずからを放棄して」ゆく。すべての〈もの〉は、ほんとうは(色が輪郭をはみだし、輪郭にとどかない、デュフィの絵画のように)じぶんとそのつどずれて [﹅3] おり、みずからと重ならず、たえず移ろっている。時間とはだが、よりとらえがたく「形式的」な、「すべての質的規定から独立の、変化も移行もない《変容》」なのである(53/67)。

 (註114): Cf. H. Bergson, *Essai sur les données immédiates de la conscience*, 155ème èd., PUF 1982, p. 31 f.
 (註115): 廣松渉『世界の共同主観的存在構造』(勁草書房、一九七二年刊)一三九頁参照。同書は、講談社学術文庫(一九九一年刊)で再刊されているほか、『廣松渉著作集』第一巻(岩波書店、一九九六年刊)に再録されている。言及した論点は、それぞれ、文庫版では二〇二頁、著作集版で一四四頁以下。
 (註116): E. Lévinas, De la déficience sans souci (1976), in: *De Dieu qui vient à l'idée*, p. 78 n. 1. 講義録にも「存在が存在する [﹅2] こと」(l'ess*a*nce de l'être)とある。Cf. E. Lévinas, Dieu et l'ontothéologie, in: *Dieu, la mort et le temps*, Grasset 1993, p. 147.
 (註117): I. Kant, *Kritik der reinen Vernunft*, A 30-32/B 46-48.

 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、198~203; 第Ⅱ部、第二章「時間と存在/感受性の次元」)


     *


255

 不断に移ろいゆくものが、〈なにものか〉としてとらえられ、変移してゆくものの同一性が構成される。その同一性 [﹅3] こそが、〈語られたこと〉が告げる意味 [﹅2] であった。「同一化」はこうして、「これをあれとして」了解し、宣言する。存在者にかんする「知」が、この了解のうちでなりたつのである。射映の散乱をとりあつめ、存在者を意味として「諒解」(entendre)するこの「悟性 [﹅2] 」(*entendement*)はしかし、「感覚的なものの純粋な受動性」のうちに、ほんとうにすでに孕まれているのであろうか。感覚されるものは、いわば自生的な秩序をたどって意味へと到達し、受動的なものは、能動的な意味づけのうちへことごとく回収されてゆくのだろうか。感覚的なもの、感受されるもの [﹅7] の純粋な受動性はかえって、「〈語られたこと〉と相関的な〈語ること〉 [括弧内﹅] 」によって「断絶」させられてしまうのではないだろうか(cf. 101/123)。そうであるとするならば、いまだ知へと結実しない沈黙の次元が、「感覚的なもののうちにある最初の《能動性》」(101/124)の、さらにてまえにある受動性の次元が手繰りよせられなければならない。
 たしかに、「知は感性的な直観から産出される」。そのかぎりでは、「直観はすでに理念 [﹅2] となりつつある感受性である」といわねばならない(100/123)。だから、「感性的直観はすでに〈語られたこと〉の秩序にぞくしている。それはイデアリテなのである」(102/125)。見てきたとおり、感覚的体験 [﹅2] も意味づけをまってはじめてひとつの経験 [﹅2] としてなりたち、感性的なものもまたイデアリテを、つまり理念性 [﹅3] を懐胎している。〈語ら(end210)れたこと〉という秩序は、感受性のすみずみにまで紡ぎこまれているようにおもわれる。――だが、そうだろうか。つづけてレヴィナスは書いている。

 理念は、感性的なもののたんなる昇華ではない。感性的なものと理念とのことなりは、認識の精度の多少をわかつ相違でもなければ、個別的なものの認識と普遍的なものの認識とを区別する差異でもない。知られたかぎりでの個別的なものはすでに脱感性化され、直観のうちで普遍的なものへともたらされているからである。感性的なものが固有に意味することがらについていえば、それは享受や傷といったことばで記述されなければならない。のちに見るように、それは〈近さ〉のことばなのである(*ibid*.)

 カントのみるところでは、ライプニッツは、感性的直観をたんに「混乱した」表象の様式とみなし、現象を「悟性化」してしまう [註125] 。それは直観と概念の、感性と悟性との混同にほかならない。「理念」は混濁した「感性的なもののたんなる昇華」などではない。カント自身も、とはいえまた、カテゴリー(純粋悟性概念)の客観的妥当性の根拠をもとめ、演繹論の解決をたずねて、受容性 [﹅3] としての感性の基層に、能動的な結合と総合の始原をさぐりあてたといってよい。じっさい、直観の多様から統一が生成するためには、(end211)多様が多様として見わたされ、統合されなければならない。いわゆる「覚知の総合」は、感性的直観の基底にはたらく、そうした始原的な自発性 [﹅3] なのである [註126] 。カントにあってもたしかに、「知られたかぎりでの個別的なものはすでに脱感性化され、直観のうちで普遍的なものへともたらされ」つつあるのである。

 (註125): I. Kant, *Kritik der reinen Vernunft*, A 270f./B 326 f.
 (註126): Vgl. *ibid*., A 99 f.

 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、210~212; 第Ⅱ部、第二章「時間と存在/感受性の次元」)



256

 だが、「感性的なものが固有に意味することがら」を、脱 [﹅] 感性化されたことば、知 [﹅] をかたどる用語でえがきとることはできない。それは、「享受や傷といったことばで記述されなければならない」。どうしてだろうか。まず「享受」(jouissance)という面からみておこう。
 感覚されたものは、さしあたり生きられるのであって、認識されるのではない。感覚そのものがただちに知であるわけではない。初夏の緑に目をやり、秋の夕日をながめるとき、「この葉の緑、この夕日の赤といった感性的性質を、ひとは認識するのではなく生きる」。「感覚するとは〈うちにある〉こと」であり、あたえられて在る [﹅2] ものにたんに満足 [﹅2] することだ。「感受性とは享受なのである [註127] 」。――だがそれにしても、感性的性質を生きる [﹅3] こと、純粋な感受性の次元にとどまっていることが、認識ではない [﹅6] のはなぜだろうか。
 たんなる感受性とは、「実詞を欠いた《形容詞》」を、「基体を欠いた純粋な質」を享受する [﹅4] ものであるからである [註128] 。空の青さ、風のそよぎ、光のかがやきは「どこでもないと(end212)ころから到来する」。しかも「不断に到来する [註129] 」。空の青さはなにかの基体 [﹅2] に貼りついたものではない。一瞬ふきわたり、吹きすぎる風は、存続する [﹅4] 実体ではない。光はふと煌いて、過ぎ去ってゆく。ひとはそれらのすべてをたんにひととき享受するだけである。そこでは同一的なものについての知、さまざまにことなって現出するなかでおなじ [﹅3] でありつづけることがらにかんする認識がいまだ成立していない。抜けるような青さや微かな風、あえかな光は、意味づけのてまえで [﹅4] 生きられている。
 《風景を味わう》(jouir d'un spectacle)、《目で食べる》(manger des yeux)といった表現は、たんなる「比喩」ではない(109/133)。食べ物を口にし、文字どおり享受するとき、現に享受へと供されているものは、咀嚼され、輪郭をうしなってゆく。食べる [﹅3] とは、享受されるものとのさかいめ [﹅4] を不断に抹消してゆくことである。だが、感覚的に享受することが一般に、「隔たりを食いつくす」ことなのだ(117/142)。空の青さにこころを奪われるとき、空はへだて [﹅3] られて、かなたにひろがっているのではない。私はふかい青さのなかに吸い込まれてゆく。凪いだ夏の一夕に吹きわたる風が、からだを吹きぬける [﹅3] ことをこそ、私は享受 [﹅2] する。揺らめく陽光に身をあずけているとき、光の煌きと私とのあいだに〈距離〉などありうるだろうか。
 享受のさなか、隔たりは「近さ」のなかで、「接触のなかで睡ろんでいる」(122/148)。この近さそのものは意識されることがない。近さがめざめ、近さが意識されるとき、近(end213)さはむしろ消失し、かえって対 [﹅] 象との隔たりが生成されているからだ。緑が葉の緑として [﹅4] 、赤が夕日の赤として [﹅4] 意識されるなら、〈近さ〉は〈隔たり〉に、享受は知に変容している。(……)

 (註127): E. Lévinas, *Totalité et Infini*, p. 143 f. (邦訳、二〇〇頁以下)
 (註128): *Ibid*., p. 173. (邦訳、二四三頁)
 (註129): *Ibid*., p. 150. (邦訳、二一〇頁)

 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、212~214; 第Ⅱ部、第二章「時間と存在/感受性の次元」)



257

 視覚は見られるものを、聴覚は聴かれるものを「愛撫」する。「接触」はおしなべて「存在へと曝されていること」(128/154)なのだ。見ることができる眼は、同時に [﹅3] 、強烈な光線に射抜かれる器官でもなければならない。先天性の視覚障害者の開眼手術の記録がしめしていたように、視覚の対象もまずは文字どおり目にふれ、ときに視覚器官に傷を負わせる [註134] 。〈傷つきやすさ〉こそが、おしなべて感覚をそれとして可能にしている。だか(end219)ら、第二の異論にかんしていうならば、〈傷つくことができる〉ということが、かくて視覚それ自体をもふくめて、感覚的経験一般が可能となる条件である。「感受性とは〈他なるもの〉にたいして曝されていること(exposition à l'autre)なのである」(120/145)。(……)

 (註134): 哲学史的にいえば、これはいわゆる「モリヌークス問題」にかかわる論点である。最近の論稿としては、古茂田宏「魂とその外部――コンディヤックの視覚・触覚論によせて」(『一橋大学研究年報 人文科学研究』第三四巻、一九九七年刊)参照。

 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、219~220; 第Ⅱ部、第二章「時間と存在/感受性の次元」)



258

 感受性の次元にあって、感覚するとはそのつど「留保 - なしに - すでに供されて - しまって - いること」(un avoir-été-offert-sans-retenue)である。諸感覚をつうじて世界にたいして開かれているかぎり、感受性は「防御帯」をもっていない。「感受性としての〈曝されていること〉は、惰性体の受動性よりもなお受動的である」。裂けやすい皮膚は防御帯にはならない。だが、皮膚が傷つきうることがないなら、皮膚はなにものも感受しえない。「〈留保 - なしに - すでに供されて - しまって - いること〉にあって、〔avoir-étéという〕過去の不定法が、感受性が現在では - ないことを、感受性がはじまりでは - ないこと、イニシアティヴでは - ないことを強調している」。ここに〈曝されていること〉の意味がある。大気の変容に気づいたときすでに [﹅3] 変容した大気を吸引してしまっている [﹅6] 以上、嗅覚による感知は現在では - ない [﹅2] (non-présent)。あるいは現在に追いついてはいない [﹅2] 。ゆびさきの痛みを感じるときもう [﹅2] 皮膚が裂けてしまっている [﹅6] かぎり、触覚の感受ははじまりでは - ない [﹅2] 。爆音が耳を切り裂くとき、聴覚にはイニシアティヴが(end222)ない [﹅2] 。感受性における現在への遅れ、端緒の不在、イニシアティヴの欠落は「いっさいの現在よりもふるい」受動性をしめしている。その受動性は、「作用と同時的で、作用の写しであるような受動性」ではない。その受動性は「自由と非 - 自由のてまえに」あるもの、留保のない [﹅5] ものなのである(120/146)。
 惰性体の受動性とは、「ひとつの状態にありつづけようとすること」であるにすぎない。それは端的な非 - 自由にほかならない(*ibid*.)。だが、感受性はそうした惰性、自己のうちに憩らうことではない。それはむしろ「自己のうえで憩らわ - ないこと」、つまり「動揺」なのである(121/146)。感受性が動揺 [﹅2] であるのは、感受性が現在を欠いており(non-présent)、すでに過ぎ去ってしまったものに追いつこうとして、しかしけっして追いつくことがないからだ。傷つきやすさとしての、傷つくこととしての感受性は一箇のとり返しのつかなさ [﹅9] である。
 「〈私〉が根源的に端的にみずからに固有の存在を定立する [註138] 」ならば、いっさいは〈私〉のうちにあり、私のうちに存在するものすべては、いわばすみずみまで〈私〉そのものであって、つまりはすでに私の [﹅2] 現在にぞくしている。あるいは、つねに私による再現前化のおよぶ範囲のなかにある。「だが、フィヒテにとって根源的なものとみえた命題とは反対に、意識のうちにあるもののいっさいが意識によって定立された [﹅5] ものではない」(159/188)。感受性としての私は、現在ではない [﹅15] 。〈傷つきやすさ〉としての感受性はむし(end223)ろ「私のうちなる他 [﹅7] 」(198/229)であり、すでに過ぎ去ってしまったものである。感受性を織りあげほつれさせるこの時間構造、あるいは綻びとしての感受性のうちに紡ぎこまれたこの時間性こそが、感受性とは本来なんであるかを告げている。

 (註138): フィヒテの第一根本命題。J. G. Fichte, *Sämtliche Werke* Bd. Ⅰ, hrsg. v. I. H. Fichte, S. 98.

 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、222~224; 第Ⅱ部、第二章「時間と存在/感受性の次元」)



259

 享受はいわば「享受の享受」(118/143)であった。味わうとは、味わうことを味わうことである。享受はいわば「自己言及的」である [註139] 。享受としての感覚は、だが、「傷つきやすさ」を条件とする。他方、享受がそもそも可能であることが逆に「感受性が〈他にたいして〉(pour-autre)あることの条件であり、感受性が他へと曝されていることであるかぎりでの、〈傷つきやすさ〉であることの条件」(119/144)となる。
 「感受性が〈傷つきうること〉、他者に曝されていること、あるいは〈語ること〉でありうるのは、それが享受であるからである」(119/145)。〈私〉はこの〈傷つきうること〉において他者との関係 [﹅6] を受胎している。レヴィナスはつぎのように書いている。

 同一性のこうした中断――存在することの意味することへの変容、すなわち〈おきかわること〉への変容――が、主体の主体性であり、いっさいにたいする主体の隷属である。主体の〈感応しやすさ〉、〈傷つきやすさ〉、つまり主体の感受性なのである。
 主体性――それは、こうした破産が生じる場所であり、非 - 場所なのであるが(end224)――は、いっさいの受動性よりも受動的な受動性として、生起し・過ぎ去ってゆく。おもいでや歴史による表象によって回収されえないディアクロニックな過去、現在と共約不能な過去に、自己が引きうけることのできない受動性が対応し、応答している。《Se passer》という表現は貴重なものであって、その表現によって、《能動的総合》なく老いゆくことのように、自己を [﹅3] 過ぎ去った過去のようなものとして自己 [﹅2] をえがきとることができる。〈責め〉であるような応答は――それは、重くのしかかる、隣人にたいする〈責め〉なのであるが――主体性の、この受動性のうちで、存在することからのこの離脱のうちで、感受性のうちで響きわたる(30 f./41)。

 みられるとおり、引用には前章いらい考察してきたいくつかの主題が入りくんで織りこまれている。ここではとりあえず「主体の感受性」が「いっさいの受動性よりも受動的な受動性(passivité plus passive que toute passivité)として、生起し・過ぎ去ってゆく」こと、主体の感受性はそのことによって「自己が引きうけることのできない受動性」であることにのみ注目しておこう。――とらえがたく過ぎ去ってゆく [﹅7] (se passer)ことが、感受性と他者との関係をしめしている。感受性としての私は、他者の現在にけっして追いつくことがない。にもかかわらず、私は〈他者との関係〉につねに・すでに巻きこまれ、私は関係そのものを懐胎してしまっている。関係はとり返しがつかず [﹅8] 、他者(end225)との関係は済むことがない。あるいは、済まない [﹅4] ということが他者との関係をあらかじめ枠どっている。他者との関係を受胎した感受性、〈傷つきやすさ〉は、だからいっさいの受動性よりも受動的な [﹅15] 受動性なのであり、引きうけることのできない [﹅12] 受動性なのである。
 問題の焦点は、かくて〈他者との関係〉へと移行する。感受性、あるいは「その〈傷つきやすさ〉」は、「知」のなかで「抑圧」され「中断」されている(104/127)。感受性の次元そのものは知のてまえ [﹅3] にあるものであっても、対象にかかわる感覚的経験それ自体はいずれ脱感性化されて、知へと整序されてゆく。いまや、いかなる意味でも知を溢れ出してゆく経験、つまり「概念なき経験 [註140] 」が問題となる。

 (註139): 港道隆『レヴィナス』(講談社、一九九七年刊)七九頁参照。
 (註140): E. Lévinas, *Totalité et Infini*, p. 103. (邦訳、一四六頁)

 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、224~226; 第Ⅱ部、第二章「時間と存在/感受性の次元」)

 あと、したのはなしは鈴木大拙『禅』のなかにもおなじことが出てきており、一五日には(……)くんがここで言っていることがぜんぜんわからんと言ったので、あいまいな記憶だったけれどこういう理屈だろうと説明した。たしか岩波新書の『西洋哲学史』のほうでもこのはなしをしている箇所があったような気がする。とおもっていま検索してみたが、あるのは「ある」のみであると語るときにすでに「ない」があらわれてしまうというはなしまではふくまれていなかったようだ。

260

 パルメニデスは、存在は存在するとかたりうるのみであると主張しながら、同時にそれは存在したのでもなく [﹅2] 、存在するであろうということでもない [﹅2] とかたっていた。これはとりあえず奇妙なことがらにみえる。ある [﹅2] をかたりだす局面で、すでにない [﹅2] が、存在 [﹅2] をかたどるときにあらかじめ無 [﹅] があらわれ、存在と無が絡みあっているかに見えるからである。
 問題のこの場面で「父殺し [註143] 」を敢然とくわだてたのは、ソフィステース篇に登場する「エレアからの客人」であった。よく知られているように、ソフィステース篇は、虚偽が存在する以上、なんらかの意味で非存在が存在する、つまりあらぬ [﹅3] ことがある [﹅2] と論じていた。ある [﹅2] ものは、他のさまざまなものもあるのに応じてあらぬ [﹅3] 。ある [﹅2] ものは、それら他のものではない [﹅2] からである。したがってあらぬ [﹅3] とは、他の在るものとのことなりであり、或るものがあらぬ [﹅3] とは、他の或るもの、他である [﹅3] ものがある [﹅3] ということにほかならない。非存在とは他とのことなりであって、〈無〉とはむしろ〈他〉の存在であるにすぎない。
 非存在は差異にすぎないとするプラトンの認識は、多くの哲学者たちにわかちもたれてきたようにおもわれる。ここでは、『創造的進化』の論点のひとつだけを取りあげて(end228)おこう。たとえば、こういう場面を考えてみる。街にでると、見なれた風景が一変している。そこにある [﹅2] はずの建物がない [﹅2] 。私はそこに一箇の不在、非存在を、つまり無を見るようにおもわれる。――だが、そうだろうか。建物はない [﹅2] 。そのかわりに [﹅4] しかし、瓦礫があり、青空がある。建物も瓦礫もある [﹅2] こと、存在することについてはなんらかわりがない。視界をかぎり枠どっていた建物が消失したことで、青空は以前よりなおさら近くにあるほどだ。ひとが無をみとめるとき、現にあるのは、客観的には存在の「置換」であり、主観的には「好み」であるにすぎない [註144] 。「空虚 [﹅2] 」とみえるものもつねに「充実 [﹅2] 」している。空虚があるかにおもわれるのは、私のがわに「願望あるいは悔い [﹅8] 」があるからである [註145] 。「絶対無」をみとめず、「部分無」のみを主観的な気分として承認するベルクソンの所論にはもちろん、いっさいを「不断の生成」のうちにみる、その基本的な立場が反映されているわけである(cf. 160 n.1/343)。

 (註143): Platon, *Sophistes*, 241 D.
 (註144): H. Bergson, *L'évolution créatrice*, 4ème, éd., PUF 1989, p. 282.
 (註145): *Ibid*., p. 283.

 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、228~229; 第Ⅱ部、第三章「主体の綻び/反転する時間」)

 鈴木大拙の記述は以下のとおり。

 人は問うかもしれない。「こうした矛盾はなぜか」と。答えはこうである。”タタター”(如)ゆえにかくのごとし、と。かくのごときがゆえにかくのごとし、であって、ほかには何の理由もない。したがって何の論理もなく、分析もなく、また矛盾もない。万物は、ありとあらゆる形の矛盾をふくめて、すべて永遠に”タタター”である。「A」は「A」ならざるものに対しないかぎり、「A」ではありえない。「A」を「A」であらしめるためには、「非A」が必要であるが、これは、「A」の中に「非A」があることを意味する。「A」が「A」自体であろうとする時には、それはすでにそれ自体の外にある――つまり、「非A」である。もし「A」がその中にそれ自体でないものを持っていないなれば、「A」を「A」であらしめるために、「A」から「非A」が出てくることはできない。「A」はこの矛盾ゆえに、「A」である。そしてこの矛盾は、われわれが論理化を行なう時にはじめて出てくる。われわれが”タタター”の中にいるかぎりは、何の矛盾も存しない。禅は矛盾を知らない。矛盾に遭遇するのは論理家であるが、かれらは、矛盾は自分たちが作ったものだということを忘れている。禅は、一切をあるがまま [﹅5] に受け入れる。(……)
 (鈴木大拙/工藤澄子訳『禅』(ちくま文庫、一九八七年)、183)

 「「A」の中に「非A」がある」というときの、「の中に」の内実がどういうことなのかやや微妙ではあるけれど、これは直接的にはうえの260番とおなじはなしをしているはずだし、そこからひいてはレヴィナスのように自己差異化の論点が出てもくるはずだ。一五日にはまた、パルメニデスっていうやつがいて、こういう議論があって、とややおぼつかなげに説明したあと、ヘーゲルもたしかおなじこと言ってんだよね、なんつったかな、絶対矛盾的自己同一みたいな、とつけくわえたのだったが、いま検索してみるとこれは西田幾多郎の概念だったし、それがこのはなしとおなじことを言っているのかもよくわからない。ヘーゲルもなんかこういうはなしをしているというのを、『レヴィナス』のなかでだったか、どこかしらで読んだような気がするのだが。たぶんこれだ。「単一なものの絶対的に差異的な関係」。ここに「絶対的な」ということばがはいっていたので、おそらく「絶対矛盾的自己同一」と混同したのだ。

214

 この世界のいっさいが、一瞬一瞬、創造と破壊を、生誕と死滅とを反復している。「諸瞬間はたがいに差異なくむすびあっているのではない」(前項の引用 [E. Lévinas, *Totalité et Infini*, p. 316. (邦訳、四三七頁以下)] )。この [﹅2] いまと他の [﹅2] いまは、けっして縺れあい、絡みあうことがない。瞬間と他の瞬間とを「絶対的な」、つまり孤絶した「あいだ」(intervalle absolu)(同)がへだてている。瞬間の連続とみえる(end177)もののうちに「死と復活」が孕まれ、死滅と再生の反復が「時間」をかたちづくる。「時間は不連続である [註74] 」。――この時間観は、一見そうおもわれるほど不合理なわけではない。また、経験的事実とただちに背反するわけでもない。その時間論はむしろ、時間をめぐる難問にたいするひとつの回答でもあるのである。すこし注釈をくわえておく必要がある。
 いっさいは現在 [﹅2] のうちにある、としよう。だが、いま [﹅2] はつぎつぎと流れさり、現在は過ぎ去ってゆく。この〈いま〉がおなじ [﹅3] ものであると考えても、ちがう [﹅3] ものであるとしても、悖理をまぬがれない。前者であれば、端的に時間は流れず、後者であるとすれば、流れの連続性そのものが破壊される。おなじ [﹅3] でありつづける〈いま〉は(時間ではなく)かえって永遠をかたちづくり、つぎつぎと異なってゆく〈いま〉は(流れる時間を構成するのではなく)むしろたえず流れを断裂させてしまう。これが周知のアポリアである [註75] 。時間論としての連続創造説は、アリストテレスが挙げたこの難問にたいするいちおうの解答となっている。要は、ちがう [﹅3] いまが時々刻々と生滅する、そのことによっておなじ [﹅3] いまが流れているかにみえるのだ、とこたえているわけである。――この応答はちなみに、経験的事実とも両立可能である。たとえばディスプレー上に浮かぶ文字は、ほんとうは無数の素子が不断に点滅しているにすぎない。世界の総体をそのような光点の明滅と考える余地がある [註76] 。そのばあい、素子の点 - 滅をへだてている、知覚閾値下の間隙が「存(end178)在と無のあいだ」(既引)、明 - 滅のあわいとなるのである。連続創造説は、いまと [﹅] いまのあいだ [﹅3] に間隙を、つまり(存在と無との)〈あいだ〉を挟みこむことで、難問を回避したのであった。だが、これはじつはアポリアの解決にはなっていない。あるいは、アポリアの解消が時間そのものの消去という代償を支払っているようにおもわれる。
 難問の根を絶つためには、(アリストテレスを意識した、ヘーゲルの体系草稿の表現をつかえば)いま [﹅2] を「単一なものの絶対的に差異的な関係(differente Beziehung) [註77] 」と考えなければならない。現在はみずからとことなり [﹅4] つづけることで、じぶんとおなじ [﹅3] もの、すなわち〈いま〉でありつづける。〈いま〉の自己からの隔たりが時間の流れを形成し、〈いま〉の自己同一性が流れの連続性をかたちづくる。現在が自己差異化しつつ同一性をたもつことが、流れる時間の本性である。現在という同のうちで他が懐胎され [﹅11] 、〈他〉であることが〈同〉となるありかたについて思考されなければならない。

 (註74): E. Lévinas, *Totalité et Infini*, p. 317. (邦訳、四三九頁)
 (註75): Cf. Aristoteles, *Physica*, 219 b 9-15.
 (註76): 廣松渉「時間論のためのメモランダ」(『事的世界観への前哨』勁草書房、一九七五年刊)二五九頁以下参照。『廣松渉著作集』第二巻(岩波書店、一九九六年刊)では、四〇一頁。
 (註77): G. W. F. Hegel, *Jenaer Systementwürfe Ⅱ Logik, Metaphysik, Naturphilosophie* (1804/05), *Gesammelte Werke* Bd. 7, S. 194. イエナ期ヘーゲルの遺稿の、この部分の理解とアリストテレスとの連関については、熊野純彦「歴史・理性・他者――ヘーゲルをめぐる問題群によせて」(現象学・解釈学研究会編『理性と暴力』世界書院、一九九七年刊)七五頁以下参照。なお、この語句は、デリダが論文「差延」において、différance 概念の導出にさいして言及した文言である。Cf. J. Derrida, La différance, in: *Marges de la philosophie*, Minuit 1972, p. 14 f.

 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、177~179; 第Ⅱ部 第一章「物語の時間/断絶する時間」)

 ちなみに『レヴィナス』の解説で佐々木雄大もそのへんのはなしに触れている。「〈異〉と〈同〉との原基的統一態」。廣松渉もこのあたりの論点で、なんかやたら固くてながったらしい概念つくってた気がするんだよな。

 次に挙げられるのが、意味を存在の「余剰」として捉える点にある。〈もの〉が単にそれだけで存在するだけでは、そこに意味は生じない。例えば、ハンマーは釘を打つための道具として現れ、インクの汚斑が文字として意識されるとき、〈もの〉は意味をもつ。このように、ある〈もの〉の意味とは、〈もの〉が単なる〈もの〉以上の或るものとして [﹅3] 、〈もの〉以外の或るものとして [﹅3] 現前することである。それゆえ、意味とは存在にとって余剰であり、存在からのずれである。また、享受の場面でそうだったように、感覚的な所与は時や場所に応じて変転し、多様なアスペクトで与えられる。これに対して、意味は、様々な対象に当てはまるのだから普遍的であり、反復して語られるのだから時間や場所を超えたイデアリテ(理念性)という性格をもつ。
 このような所与と意味とを結合する「として」の構造を、廣松渉は「等値化的統一」と呼び、いわゆる「認識の四肢的構造連関」の最奥部に据えたのだった。それは、ヘーゲルの「同一性と非同一性との同一性」にも準 [なぞら] えられる、〈異〉と〈同〉との原基的統一態(end339)であり、イデア論以来の〈一〉と〈多〉をめぐる困難に対する一つの解答である。熊野は、こうした廣松の課題を引き継ぎながら――『戦後思想の一断面』第二部で提起されるように――、この〈異〉と〈同〉との統一 [﹅2] に、むしろ根源的な自己差異 [﹅2] 化を看取する。この所与と意味との間の差異、あるいはずれは、本書では「遅延」と表現されている。すなわち、時間の問題として捉え直されるのである。
 (熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、339~340; 佐々木雄大「解説」)

 ひとまずきょうのこれまでで引用はそのくらいで、いまもう七時半過ぎ。きのうはたいそうひさしぶりのことで、日記本文をいきなり書くのではなく、記憶がうしなわれないうちにとメモ的におおざっぱな印象事をきれぎれのことばで記しておいた。それは夜、日記をやろうにも、きょう医者に行くために早起きしなければならなかったからどうせいくらも書けないし、またたくさんあるいて疲れていたので無理だなとおもい、のちに書くときの補助となるように、軽く楽にざっとだけメモっておくかというやりかたになったのだった。むかしはけっこうこれをやっていた。うえでも触れたように二〇一四年とか、電車のなかなどで手帳にメモしていた時期もながくあった。二〇一九年だったかは日記にやる気が出ず、というかちゃんとした文を書きたいという欲望とできるだけ記録したいという欲望のあいだで板挟みになり、スランプみたいな状態におちいって、下書き的なメモだけ取っておきながらも本文が書けずに投稿できない、という日がいくつもあったはず。またこういうやりかたをしてみてもよいかもしれない。きょうのこともこれからしたに、印象事だけ、超簡易的にざっとメモしておこうとおもう。


     *


 一四年の日記。だれかに会いたかったらしい。孤独の収奪。

 曇り。公園、運動会。部屋では聞こえず。幼児ら。ひとり演じている。なわとび。あと体操みたいな。

 (……)通りのまえ、バス停のあたり。人足ら。四人ほど。腰掛けていて、女性ひとり、なにか説明。男、踏切りで一時停止するみたいな、と。はなれて、道路の路肩にもっと年嵩の、白髪の高年。煙草を吸っている。軽トラ。みんな鈍い青の作業着。

 空き地、工事中の。旗ではないが、緑と白の縞の、筒状のもの。ゆるく揺れている。キャタピラで押された土の跡。端には草や枝、というか低木? 引っこ抜いた。

 病院、敷地内(院庭?)をゆくひと。ヒマワリ。

 (……)でトイレ。

 (……)通り。横断歩道。交通量すくない印象。すきま。

 (……)通り。みじかい横断歩道で、赤信号無視。まえから自転車の父子。父親が、とまれよ、と。赤じゃん、と。事実上こちらが非難されたようなものなので、すれちがうときにすみませんということでちょっとだけ会釈。そこから法について。

 自転車ぜんぜん乗りたいとおもわない。操作むずかしい。街では。人通りそこそこ。角まで来て駅ちかくなると。出庫の警備員。道路のほうをみている。階段で歩廊へ。正面駅併設のホテル。空、白。薄青さも混ざってうねりともいえない淡い起伏。液体同士をまぜたときの様相。ホテル、いかにも整然。かんぜんに平面。区切りも均一で、モダン。近代というのはやっぱりロゴスの、形態化の徹底なのかなと。

 コンコース。人波。緊張ないではない。どうにかなるだろうという感じではある。(……)。肩や首まわす。cero。背後、けっこうひと。意外と混むなと。乗ってもそう。扉際。緊張あり。横、親子連れ。

 目を閉じて静止。瞑目でじっとしているとおちついてくる。無動で。目を閉じないとそうはならない。目を閉じないでうごいているときは、むしろゆっくり吐く呼吸をしたほうがよいかもしれない。目を閉じてじっとしているとじきにまとまりが出てくる。音楽だけでは残念ながら電車内だということを心身がわすれることができない。まとまってからだがややなめらかになるというのは、蛙とかが陸にあがっても粘液を分泌して皮膚にまとわせているとおもうけれど、あれみたいなイメージで、なんかからだの輪郭にうっすらとしたバリアみたいなものが生まれる感じがある。そうするとけっこうおちつき、音楽に意識が向くようにもなる。ただ、緊張感覚というのは内側にあって内から来るものなので、それはのこりはする。外圧にたいする対抗力がちょっとついたような感じ。それでだいじょうぶだなとなる。

 ”Poly Life Multi Soul”がよい。ドラム。この曲や、れいの「かわわかれかれはだれ」を中心にして、この曲もしくはアルバムぜんたいで象徴体系のかたちをある程度まで読み解くもしくはでっちあげることができるような気がするのだが。要は自己と他者とか、自己の複数性(分身)というテーマで。across the riverとか言ってるし。対岸というのと、分枝というのがポイントのはず。その形象は微妙にちがうので、そこがどうなっているのか。

 ずっと立っていた。(……)、階段。老人。難儀そうな。もうひとり、男性、のろのろ下りていく。このひともからだが? とおもったが、そうではなく、したで犬を連れた婦人と合流。撮影していたらしい。

 線路沿い。駐輪場の屋根。空。線路上の電柱とそのわたし。むきだしの歯のような三角形のくみあわせ。あとこまかい電線。空を背景にするとなんでも風景になる。

 路地。中年ふたり。左のひとり、ジャンパー。青。左肩がさがっている。あたま、やや禿頭。すりへったボールみたいな。剝がれたみたいな。

 医者、けっこう混んでいる。声ほそく。角へ。こちらのあとからも二、三人。もうすこしはやく来てくださいと。七人。受けつけのふたり、ひそひそはなしをしている。ひさしぶりだね、遅くなるねみたいな。先生さっとやるかなあとか。やらないかな、と。診察室内の会話の調子を聞いている。こちらも聞こえる。神経痛らしき老女。先生、やや終わらせようと。そこにはなしが継がれる。老女、出るまぎわに、ちょっと涙声みたいになっていた。お礼。

 こちらが座ってさいしょに呼ばれた一組は高年の女性と少年もしくは青年。おばあさんと孫か? おばあさんがぜんぶ受け答え。診察も受付も。孫はずっと黙っている。出てきたときも、座っていたところが取られているので、どうしたらいいのかわからない具合にしばらく突っ立っていた。

 ニーチェ読んだ。診察はすぐ終わる。

 駅。端で立つ。微風。白けた大気のいろ。円型歩廊上のひと。緩慢。湿り気はそんなにかんじられない。どちらかというと乾いたような。寒さはない。

 扉際。またcero。かなりよい。やはりそこそこの混み。しかし音楽のなかの時間。電車内とはべつの時間の感。ひとが増えているの気づかず。

 北口。女児と父親。抱き起こし。抵抗。ひとびとの服装、冬めき。もこもこした上着や、ジャケットや、セーター、カーディガン。インナーとはおり。こちらは軽装。しかし寒くない。

 (……)。(……)。ガラス。疎外の想起。パニック障害全盛のころ。あれでやはりルートがずれたなと。けっこう疎外感があったんじゃないかと。みんながふつうに飯食ってるところで食えないというのは。いまもそうだが。

 図書館。ドイツの詩ちょっとみる。メーリケとかトラークルもある。

 歩廊、街路樹。手すり。苔みたいな汚れ。空、白、反映。歩道橋、テールライト。しかしまだまだ。ひかりというか赤い点。アクセント。車体のこっているし。時刻は一時半ごろ。

 リュック重い。息を吐きつつ。ホーム。さいしょまちがえて快速。おりて向かい。左の遠方。線路、カーブ。草。スプレーで淡く吹き付けたような。色の交雑。すべて淡い。緑、黄、オレンジっぽい色。錆というか。曇り空。

 席で瞑目。三分で変わるなと。一五日には五分といったが。

 帰路。空、ほころび。穴。そこに太陽。白光。ほかにも切れ目すこし。地の水色。巨岩塩が砕けて浮いている池のような。下部も。縁、白く。内側、べつの青さ。



 ここまででいまもういつの間にか八時四〇分に達していて、「印象事だけ、超簡易的に」などと書いたくせに、実質きょうのながれの記憶をこまかく追うかたちになってしまっており、メモでこれだから時間かかりすぎである。おもいだしたが、まえもそうだったのだ。うえにふれた二〇一九年だったかそのころのことだけれど、ちゃんと書きたいけどちゃんと書くには時間がかかるので、わすれないうちにまず下書き的にざっと書いておこうとやったらそもそもそれにだいぶ時間がかかっていとなみが破綻するという。こんなことでは駄目である。とにかく無理なく持続可能でないといけないので、メモはやはりやめて記憶にぜんぶまかせるか、それかもっと簡易的なとりかたにするかだ。おもったのだけれど、メモを取らなくともあたまのなかで記憶をひとつひとつこまかく追っていけば、それだけでもたしょうおぼえていることが固まって、わすれにくくなるものだから、メモというよりはゴロゴロしたり脚でも揉んだりしながらそれをやり、そのなかで、これはメモっておいたほうがいいなということだけちょっとことばにしておけばよいのではないか? ただ記憶を追うという、それはそれでけっこうめんどうくさいが。二〇一五年のころだったかは、毎晩寝床のなかで寝るまえにその一日のことを順番に、おもいだせるかぎりなるべくこまかくあたまのなかで追うということをやっていた。しかしねむけが混ざるから、記憶を追っているはずがそのうちになにかべつの思考とかイメージとかにそれるということが往々にしてあったものだ。それていることに気づくと、いやいやそうじゃないとおもいなおして、どこまで行ったっけというのをおもいだし、その地点にもどるのだけれど、いくらもすすまないうち、じきにまたそれるわけだ。意識というのは流動体ですからね。なかなか線的に型にはめることができない。


     *


 2014/3/16, Sun.でふれるのをわすれていたのだけれど、「意図せずして時間ができてしまったので誰かと会おうかと電話帳を眺めてみるが誘える人間が全然いない」とあって、このころはまだそういう人寂しさというか、なんかだれかに会いたいなみたいなきもちをいだくことがあったのだ。孤独に安息できずに他人の孤独を収奪することで自己の孤独をなぐさめるというメンタリティがまだいくらかのこっていたんだなとおもったが、それはただ「孤独の収奪」ということばを言いたかっただけだ。
 外出時のことへ。天気は曇りである。アパートを出て路地を南にあるいていると、道の先にある公園から拡声された声が響いてきて、どうやら運動会をやっているらしいなと判じられた。部屋にいるあいだにはぜんぜん聞こえなかったのだが。公園のまえまで来るとやはり運動会という看板があって、もしかするとアパートの向かいにあるそこだけではなく、ほかの保育園と合同だったのではないか。わからないが。ただいぜん、べつの園の保育士らしきひとがやってきて、入り口のところで公園の使用がどうとかはなしているのを、すがたは見ずに部屋内から聞いたことがある。公園のグラウンド周縁部には見物のおとなやときには中学生くらいのすがたがあつまって壁をつくるようにならんでおり、そのなかでいまは幼児がひとりだけなにかパフォーマンスをやっているところだった。ほかのこどものすがたがないなとおもいながら、なわとびをしているかれをみていると、幼児らは端のほうの一画にかたまっており、数がすくない気もしたが、ともあれなわとびを終えて拍手を受けたこどもはこんどは、体操選手がぶらさがって演技する鉄棒の超小型版みたいな、そういう器具をまえにして棒に手を伸ばし、べつのチャレンジをはじめるところ、そこでおもてに折れたのでその後は知らない。れいによって南の車道沿いまで行き、西へ一路あるいていく。(……)通りに当たるすこしまえ、バス停がある地点で、駐車場の縁の段に青い作業着姿の人足らが三、四人腰掛けており、なかにひとり、端で立ったヘルメットの女性が男らに向けてなにか説明していた。通り過ぎざま、踏切りで一時停止するみたいな、と男性のひとりがもらしていたのは、目のまえの道路を行く車のながれが停滞気味だったからだろう。その車道の路肩に軽トラが二、三台停まっていたその脇、若い衆とははなれた位置で、もっと年のいった白髪の高年が座りこんで煙草を吸っていた。ここの駐車場は(……)のもので、先ごろ植木の剪定業者がはいっているのを二度みかけたので、このひとたちもそうかなとおもったのだが、草木の調整はもう終わっているようだし、わからない。
 踏切りを越え、きのうも通った空き地前を行く。かんぜんに草っ原になっているところから区切られてなかに一画、工事中の敷地があり、バラックめいた小屋ももうけられていて、端には平面状の旗ではないけれど、年季のはいったような緑と白の縞模様で筒状になった、用途も意味も不明ななにかが竿のさきに掲げられてゆらゆらしている。小型のショベルカーが置かれており、縁を行きながらフェンスの内をのぞくと、土にはキャタピラで圧された痕跡が一部のこって、隅のほうにはもともとここに生えていただろう草や枝、枝のおおさからみて低木がいくらかあったのではないかとおもうが、それが始末を待つ死体のおもむきで積み上げられてかたまっている。病院の敷地内、院庭と呼ぶべきか、そこには草ぐさがあしらわれたなかに細い通路もとおっていて、いまそこをひとり男性がおだやかに歩いていくところだった。周囲にはヒマワリが配されて、おどろくことにまだ花をきちんと保って顔を上げているものがある。ヒマワリというのはこんな季節までつづいているものなのか?
 (……)に寄って、トイレで小便をした。からだがほぐれきっていない段階である程度歩くと、歩行の振動で下半身が刺激されて尿意をもよおすことが多くある。(……)通りはきのうと比べると交通量がすくなく、通る車のあいだにはさまる空間がひろかったのだが、これは時刻のためだろう。午前一〇時五〇分ごろだったはずだ。きょうはきのうと違って裏ではなく、(……)通りに接続する敷地の表側をずっと来たので、そのままそこを直進する。とちゅう、右手に口をひらいた細道にかかる短い横断歩道があって、信号も置かれているのだけれど、右からも対岸の裏からもあきらかに来るものはなく、前後につづく車道から曲がってくる気配もなかったので、赤信号を無視して渡ったところ、まえから自転車に乗った父子が走ってきて、先んじていた少年にむけて父親が、とまれよ、と声を放り、え? と少年は減速しつつ振り返っていたが、赤じゃん、と父親は注意する気色だった。事実上こちらが非難されたようなものなので、すれ違うさいにちょっとだけ会釈をしておく。こどもの模範にならずにすいませんということで。これはひじょうに些末な一場面だがそれを抽象化してかんがえることがもちろんできないわけではなく、つまり法についてということで、その後駅までの道行きでつらつらかんがえていたのだが、赤信号をまもらなくたってなんの問題も発生しないような状況はいくらだって現実にあるわけだ。車とかだとリスクが高いのでまずいかもしれないが、歩行者の次元なら道と状況によっては、赤でもなんの危険も迷惑もなく渡れるときはふつうにあるし、そのくらいの違反はおおくのにんげんがふつうにやっている。これはとうぜんのことで、法とは一般性を、というか普遍性をと言ったほうが良いのかもしれないが、それを志向するものだから、その関与領域で生ずる個別のケースにいちいち適合したものにはもちろんなっていない。ひろい範囲をカバーするためにおおまかな規定になっていて、個別の状況におけるその適用には、じっさいにはつねにその都度の判断や解釈が介在することになるわけだから、法にはかならずなんらかの抜け道がある、のかもしれない。ただ、「じっさいにはつねにその都度の判断や解釈が介在することになる」と書いて、事実そのようにおこなわれる法的領域もあるだろうけれど、たとえばこういう交通ルールみたいな生活に密着した日常的なことがらで、法に具体的な状況と照らし合わせた判断や解釈をやられては、法制定者のがわは困るわけだ。信号が赤だったらかならず止まるというふうに、民衆が例外なく規律を遵守しなければならない。なぜならそのほうが秩序をまもるコストがかからないからである。だからいわゆる忠実な遵法精神をもったにんげんは、その法の一般性に帰依しており、具体的な状況判断を捨象して、法が法であるがゆえにという同語反復にもとづいてじぶんの行動を規定する。なぜ信号が赤だったら止まらなければいけないのかと言えば、信号が赤だからであり、それがルールだから、というわけだ。そのときの状況は関係なく、だれになんの危険も迷惑も不利益も生じ得なかったとしても、あゆみをやめて立ち止まらなくてはならない。すなわち法をまもることの根拠が法それじたいになっているというか、外的根拠なしに法の存在だけでそれをまもれるようになっているということだけれど、統治のツールとしての法というものは、このような同語反復としての無根拠にまでいたらないと理想的には機能しないのだろうなとおもった。根拠を問うてはいけないというか、根拠を問う思考が被統治者のあたまのなかに浮かばないところまでいかなければならない、と。あるいはほんとうに理想的な法とは、それが法であることをだれも知らない、だれも気づかない、そもそもそこに法が存在していることを知られず認識されないというものなのかもしれないが、こういうはなしはたぶんフーコーとかルジャンドルとかラカンとかデリダとかが、めちゃくちゃ精緻かつ鋭利に語りまくっているのだろう。ところであの父親の判断について言えば、歩行者とはちがって自転車だと裏道をのぞいて確認するのもしづらいし、こどもがあのままのスピードで突っ切っていたらそれはたしかに危なかっただろうから、赤信号をまもれという息子に向けられたあの注意はただしかったとおもう。
 自転車に乗って走りたいという欲求はまったく感じない。サイクリングコースのような場所ならべつかもしれないが、ひとの多いまちなかでは操作が面倒くさそうだし、歩行にくらべてわずらわしそうだ。(……)通りを行くあいだから人通りはそこそこあるが、角まで来て折れれば駅はまっすぐ先というあたりでは、横断歩道を渡ってくるひとびとの数がいや増している。ビルの地下駐車場前で出庫を管理している警備員は、車が出てくる気配がないから暇らしく、道路のほうをながめている。こういうおなじ位置に立ちっぱなしのしごとのひとも、その時間をどういうふうにとらえ感じ、また周囲をどういうふうに見ているのだろう。階段から駅前の高架歩廊にのぼった。正面には駅に併設されたホテルがあらわれ、白い空は薄青さを混ぜながらうねりともいえないくらいの淡い起伏で、ミルクとコーヒーのように液体同士をあわせたときの溶け合いかたをみせており、そのまえでホテルはいかにも整然とした、まるで平面にしかみえないファサードを提示して、模様の区切り方も均一にととのって反復されており、これがモダンというものなのだろう。近代というのはやっぱりロゴスが行き着いた時代、すくなくともそれを目指した、明晰な形態化の徹底なのかなとおもった。
 コンコースでひとのながれにかこまれれば、きのうとおなじく緊張がないわけではない。しかしやはり、どうにかなるだろうという程度におさまっている。改札をくぐると(……)に下り、電車が来るまでリュックサックを下ろし、肩や首をまわしてからスマートフォンceroをながした。『POLY LIFE MULTI SOUL』。目を閉じてちょっとからだを揺らしたりしていたが、そのうちに背後をみればけっこうひとがいて、昼前だが土曜日だからか意外と混むなとおもわれて、こちらにとっては都合が悪いが、来たものに乗ってからもそうで、いちばん端の一画で北側の扉際についたけれど、周囲はそれなりにひとが立っており、すぐ横には赤子の乗ったベビーカーとこどもひとりを連れた夫婦がいた。こどもが扉に寄って、なにやらにぎやかにしているようだ。とはいえ音楽を耳に詰めているのでたいして聞こえず、うるさくは感じない。目を閉じて静止に身をまかせ、そうして無動でいるとしだいにからだにまとまりが出て落ち着いてくる。残念ながら瞑目と音楽の組み合わせだけではいま電車内にいるという状況の事実を心身がわすれることができないのだ。目を閉じてじっとしているうちにからだの内外が、とくに輪郭というか皮膚感覚がなめらかになってきて、それは一種の蛙なんかが陸にあがっても粘液を分泌して身にまとわせているとおもうけれど、そんなようなイメージであり、からだの輪郭表面にごくごく薄いバリアみたいなものがだんだんつくられていくような感じ。それができるとまあだいじょうぶだなとなるが、緊張が内からかんぜんに消え去るわけではない。ただ音楽が耳にはいるようになり、周囲のことをわりとわすれることができるようにはなる。
 ceroはやはりタイトル曲の"Poly Life Multi Soul"がよくて、この曲に出てくる「かわわかれかれはだれ」というフレーズを中心にしつつ、またこのアルバムに通底している川や水のテーマを追いかけて整理し、ある程度まで象徴体系を読み解き、もしくはでっちあげることができるような気はしないでもない。川が分かれるとか、across the riverとか、あと「かれはだれ」とかいっているのは、自己と他者とか、自己の複数性(分身)とかいうテーマに相同的なはず。形象としては対岸というものがひとつあり、もうひとつ「かわわかれ」ということで分枝があるのだけれど、そのふたつはからみあう余地がありながらも微妙にちがうので、そのへんがどうなっているのか。まあ、"Poly Life Multi Soul"がいいなあとおもうのはそういう意味の面ではあまりなくて、とにかくドラムいいなあということなのだが。アルバム全体としても、もちろん演奏がいいからいいのであって、意味はまあべつにというか、あえてこまかく調べて分析しなくてもいいかなという感じではある。くりかえし聞いているうちになにか見えてくるものがあれば。
 (……)につくまでずっと車両の端の角に立って、手すりをつかみ目を閉じて音楽のなかにいた。降りてあがり、改札を抜ける。左へ。通路をすすんでいくと正面と左に口が分かれるが、そこでも左の階段をえらぶ。前方からはからだをうごかすのが難儀そうな老人がひとり、階段脇の手すりを支えにしながらゆっくりのぼってきて、そのひととすれ違ったあとはもうひとり、こちらは下りていくほうの、三十路か四十路とみえる男性が、やたらのろのろして腰を落としたようなうごきだったので、このひともからだがわるいのか? とおもったところが、階段を下りきったさきにはちいさな犬をともなってしゃがんだ茶髪の婦人がおり、連れ合いらしく、スマートフォンをかまえたかのじょが夫が犬にむかって反応をみながらゆっくり下りていくのを撮影していたらしい。合流すると犬に声をかけてあやしていた。にんげんの赤子にたいするのとおなじ態度。
 きのうは駅前から路地にはいったのできょうは線路沿いを行こうとぷらぷらあるく。道沿いには駐輪場がつづいており、やや低めの屋根はトタンではないだろうがそんなような感じの、こまかい波打ちを帯びた微曲線で、それがいくつもつらなって、さらに向こう、線路のうえには電柱が立ったあいだを渡しが走り、二本の直線のなかに跳ね返るような斜線が引かれて、要は三角形がくみあわさって上下むき出しのギザギザ歯みたいなかたちを描いており、その周囲にこまかな電線がいくつも張られて伸びているのが、その一画だけ横からみるとつながりの両端をみいだせない、無秩序ではないが無規則な数本の軌跡となっている。空を背景にすればなんでも風景になるなとおもった。この日は曇天である。
 医者へ。あがっていってはいるとけっこう混んでいる。受付をして、室の角、診察室につづく扉のすぐ脇へ。受付カウンター側のソファの端にあたる。こちらのあとからも二、三人来ていて、そのうちのひとりが、すでに一二時を過ぎていたからだろう、もうすこしはやく来てくださいと苦言を呈されていた。この(……)にはふたりの受付職員がおり、どちらも女性で、ひとりはたいして愛想はなく、いつも仏頂面みたいなぶっきらぼうな感じのひとで、声はきゃんきゃん高いではなく中域くらいだろうが物言いがけっこう遠慮のないひとで、さきほど注意をしていたのはこのひとである。もう五〇代か六〇歳くらいか? もうひとりはそれより若く、眼鏡をかけたひとで、態度は比較的慇懃で声色もまるく、さきのひととくらべればたしょうは親身さややさしさが感じられないではない。このふたりは医師が診察していて患者を呼ぶ用などもないあいだ、カウンターの向こうでしごとをしながらよくひそひそはなしをしていて、おそらくはだいたい前者のひとから後者にもちかけているのだとおもうが、このときは、七人、とまず聞こえた。つまりこのあとまだ七人のこっているということで、((土曜日のこの時間に?)これだけいるのは)ひさしぶりだね、遅くなるね、というわけで、先生さっとやるかなあ、などと診察室の会話をおそらく漏れ聞きながら言い(こちらの位置からもすこしだけ聞こえる)、なかではなしが終わりかかったところにまだつづくのに、やらないかな、と付け足していた。そのときなかにはいっていたのはたしか老女だったとおもうのだが、はなしの調子からすると神経痛かなにかで来ているらしく、先生としてはひとまずおなじ処方でつづけてみてほしいというところに老婆がなかなか承知しきらず、医師もあとにまだ多くいることを把握しているのだろう、なんとか終わらせにかかっている雰囲気だった。それで終わるのだが、老女は出るまぎわにちょっと涙声みたいな調子でなんとかかんとかで、ともらしており、それは神経痛の痛みをうったえたようにも聞こえたし、あるいはほんとうによく見てもらって、みたいなことを言ったようにも聞こえて、どちらかわからなかったのだけれど、いずれにしてもそのあとさらに礼がなされて退出してきた。ところでこちらが席に座ってからさいしょに呼ばれた一組は、こちらの左隣にすわっていたふたりで、高年の女性と少年もしくは青年くらいの男子であり、祖母と孫の関係かと見えたが、どうも少年のほうがなにか問題や病をかかえていて、女性は付き添いで来ていたようだ。しかし受付で名を呼ばれたさいも、会計のさいも、それから診察室内のやりとりを漏れ聞いた感じでも、孫はずっと黙っていて、受け答えはすべて祖母がやっているようにおもわれた(さすがに診察のときにはいくらかは喋っていたかもしれないが、こちらには聞き取れなかった)。終えて出てきたときも、さきほど座っていたあたりにもっと左にいた男性がひとり移動してきたので、もともとの場所が空いていないのに立ち迷って、老婆が移動しはじめても少年のほうは、どうしたらいいのかわからないようにしばらくその場に突っ立ったままでいた。
 待っているあいだはニーチェを読んでいた。診察。どうですかと聞かれるのに、一歩後退という感じですかねとこたえて、先月末から調子がわるくなって、電車に乗っても動悸が爆発するし、今月いっぱい休みをもらっているということを説明。しかし先週くらいからだいぶよくなってきたというわけなので、上向いているのだったら、いまのままいちにち二錠のペースでつづけてみるのが良いのではないかと。そういうわけではなしはさっと終わる。礼を言って立ち上がり、扉のまえで退出するさいにもういちど礼を言ってそとへ。会計。
 メモは取ったものの、もう書くのがめんどうくさい。その後は駅にもどって(……)に移動し、きのう返したけれど書抜きがまだ終わっていない二冊を借り直すために図書館へ。(……)のまえというか横をとおるときに、なかの(……)でひとびとが薄暗い照明のもとテーブルをはさんで肉厚そうな椅子に腰掛け、会話しているのをみて、パニック障害と疎外についてかんがえたのだったが、こまかなことをわすれてしまった。図書館では二冊のほかに、ハイネ詩集とパウル・ツェラン全詩集の一巻目も借りてしまう。読めるかわからんなとおもいながらもとりあえず借りておいたのだけれど、二七日現在、ハイネ詩集をそこそこのペースですすめられている。ドイツの詩だとメーリケとかトラークルもあった。
 その後のことは省こうかな。(……)駅からアパートに帰るあいだの空の感じとかけっこう良かったのだけれど。


 ただあとあれだ、いちにちいちまいの写真をやべえわすれていたとおもって、夜にギターでも撮っておくかと撮影した。しかしこのこころみも、三日坊主は越えたものの、この日をさいごに二七日現在まで頓挫してしまっているわけでやばい。わすれてしまう。きのう(二六日)もスーパーに行ったけれど、ふつうに携帯持たなかったし、携帯を持って出てもそとにいるときに、そうだ写真撮るんだったという観念があたまのなかに生じてこない。向いてないんじゃないか?

20221022, Sat., 234629


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  • 「ことば」: 11 - 15
  • 「読みかえし2」: 251 - 253, 254 - 260
  • 日記読み: 2021/10/22, Fri. / 2014/3/16, Sun.


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Samantha Lock, Martin Belam and Guardian staff, “Russia-Ukraine war latest: what we know on day 240 of the invasion”(2022/10/21, Fri.)(https://www.theguardian.com/world/2022/oct/21/russia-ukraine-war-latest-what-we-know-on-day-240-of-the-invasion(https://www.theguardian.com/world/2022/oct/21/russia-ukraine-war-latest-what-we-know-on-day-240-of-the-invasion))

Ukraine’s president Volodymyr Zelenskiy has accused Russia of planning to destroy a hydroelectric dam in the eastern Kherson region, where Ukrainian soldiers have been steadily advancing and Moscow-installed authorities have begun what they call ‘evacuations’ of civilians. Late on Thursday Zelenskiy accused Moscow of planting mines at a the dam in the Russian-occupied region, posing a threat to a 400km Soviet-built long canal network. A Russian-appointed official in occupied Kherson has denied the allegations. Andriy Yermak, head of the Ukrainian president’s office, claimed that Russia has resorted to the tactic because “nuclear blackmail did not work. They won’t break us. We will hit back even harder.”

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Russia has hit at least half of Ukraine’s thermal generation capacity since 10 October, but not all stricken power units have stopped working completely, Ukraine’s energy minister said on Friday. Herman Halushchenko said that 30-40% of overall national power infrastructure had been hit in attacks intended to destroy Ukraine’s energy system – a goal he said had not been achieved.

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The UK Ministry of Defence has claimed Russia orchestrated a distraction campaign by announcing that 70,000 Belarusian troops would be involved in a new Russian-Belarussian group of forces. It is unlikely that Russia has actually deployed a significant number of extra troops into Belarus and the announcement is likely an attempt to convince Ukraine to divert forces to guard the northern border, according to British intelligence.

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Iran deepened its involvement in Russia’s invasion of Ukraine by providing technical support for Russian pilots flying Iranian-made drones to bomb civilian targets, the White House confirmed. The US national security council’s John Kirby said on Thursday that it was the US’s understanding that the Iranian advisers were in Crimea to provide training and maintenance – but not to actually pilot the drones – after Russian forces experienced difficulties in operating the unmanned flying bombs.

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Ukraine began restricting electricity supplies across the country starting from 7am on Thursday in response to Russia’s strikes against its energy infrastructure. A barrage of more than 300 attacks have destroyed a third of all power plants across the country, President Zelenskiy said. Ukrainians will now need to prepare for “rolling blackouts” and people will have to conserve energy, the deputy head of the president’s office, Kyrylo Tymoshenko, warned.

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A Russian aircraft released a missile near a British plane patrolling in international airspace over the Black Sea on 29 September, the UK defence secretary, Ben Wallace, revealed. He told the House of Commons that the Russians blamed the incident on a “technical malfunction”.


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Dorian Lynskey, “Víctor Jara: The folk singer murdered for his music”(2020/8/13)(https://www.bbc.com/culture/article/20200812-vctor-jara-the-folk-singer-murdered-for-his-music(https://www.bbc.com/culture/article/20200812-vctor-jara-the-folk-singer-murdered-for-his-music))

Víctor Jara named his last song after the place where he spent his final days: Estadio Chile, an indoor sports complex in Santiago. He wrote it on 16 September 1973, five days after a military coup led by General Augusto Pinochet brought down the socialist government of Chile’s president Salvador Allende. Jara had been arrested the day after the coup and held in the stadium that had become an ad hoc detention centre for around 5,000 supporters of Allende’s Popular Unity alliance.

There are many conflicting accounts of Jara’s last days but the 2019 Netflix documentary Massacre at the Stadium pieces together a convincing narrative. As a famous musician and prominent supporter of Allende, Jara was swiftly recognised on his way into the stadium. An army officer threw a lit cigarette on the ground, made Jara crawl for it, then stamped on his wrists. Jara was first separated from the other detainees, then beaten and tortured in the bowels of the stadium. At one point, he defiantly sang Venceremos (We Will Win), Allende’s 1970 election anthem, through split lips. On the morning of the 16th, according to a fellow detainee, Jara asked for a pen and notebook and scribbled the lyrics to Estadio Chile, which were later smuggled out of the stadium: “How hard it is to sing when I must sing of horror/ Horror which I am living, horror which I am dying.” Two hours later, he was shot dead, then his body was riddled with machine-gun bullets and dumped in the street. He was 40.

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Bradfield [James Dean Bradfield of the Manic Street Preachers] wonders if Jara’s counterintuitive blend of radicalism and sensitivity stemmed in part from the crucial influence of three women in his life. While his father was an illiterate farmer, his mother was a well-read musician who performed at local weddings, baptisms and funerals. After considering the priesthood, Jara studied theatre, which took him to Russia, Cuba, Britain and the US and introduced him to Joan, an English dance teacher living in Chile. At the same time, he pursued songwriting under the wing of the folklorist Violeta Parra, the mother of the Nueva Canción Chilena (New Chilean Song) movement. Groups such as Inti-Illimani and Quilapayún combined traditional Chilean folk music with topical political messages. Music replaced theatre as Jara’s vocation. At the first Nueva Canción Chilena festival in 1969, held in the same stadium where he would later die, he won first prize.